天衣と二人で和室に戻った。
夜叉神邸でレッスンするときに、いつも使っている部屋だ。さっきもここで対局をしていた。だから、天衣がやぶった申請書が散乱しているーーはずだったんだけど。
「……片付けてくれたのかな?」
紙は落ちていないし、ぐちゃぐちゃだった駒もきちんと並べられていた。晶さんか、他の使用人の誰かが、綺麗にしてくれたんだろう。
「ねえ、
「ん、なんだ?」
「お願いがあるんだけど……聞いてくれるかしら?」
「ああ、もちろんさ!」
力強く頷く。一途に俺のことを応援してくれた弟子のお願いなんて、よろこんで聞くに決まってる。
「あの……これ」
「?」
天衣がスカートのポケットから取り出したのは、小さく折り畳まれた紙だった。その紙を、天衣は無言で差し出している。
受け取って、ひろげてみるとーー
「これ……申請書……!?」
それは女流棋士の申請用紙だった。
「自分で用意してたのか、これ? いつからーー」
「マイナビの本戦で勝ったときに、連盟でもらってきたの……」
ということは……天衣は一か月、いや二か月近くの間ずっと、この申請用紙を持っていたことになる。もう一度用紙をよく見てみると、角のところがよれてぼろぼろになっていた。ずっと持ち歩いていたんだろうか。それとも、何度も広げたり折ったりを繰り返していたんだろうか。
「女流棋士になりたいの」
顔を上げて、天衣はきっぱりと言った。
「だから……私の師匠になって?」
「……!」
胸の奥がカッと熱くなった。
健気な弟子の体を引き寄せ、抱きしめる。
「ちょ、ちょっと……ッ!」
天衣が腕の中でもがくが、力を込めて離さないようにする。そして天衣の耳元で、答えを言った。
「もう絶対に独りにしない。これからもずっと
「……変態……後で通報するから……」
言葉とは裏腹に、天衣はもがくのをやめて俺の胸に額をくっつけ、体重をあずけた。
どれくらいそうしていただろうか。どちらからともなく体を離した俺と天衣は、静かに見つめ合う。
「……申請書、すぐに出そうな」
「……ええ、そうね」
「なんなら今日、書いて出そうか?」
「……そうね」
「……イヤなのか?」
「……そんなこと、ないけど……」
「…………」
「…………」
会話が途切れてしまった。
何となく気まずい感じがして、視線を横にそらす。あっちを見たりこっちを見たりして、また正面を向くとーー
天衣とばっちり目が合った。
天衣は無言で瞬き一つせず、俺の顔をじっと見つめている。
やばい、何だかドキドキするぞ……!?
「え、えーと、今日はまだ一局しか指してないし、もう一局どうだ?」
会話に困ったら、とりあえず将棋に話を持っていく。それが将棋指しである。コミュ障とか言わないでほしい。
「…………そうね。それじゃあ、お願いしようかしら」
「手番は?」
「あなたが先手を持ってちょうだい」
「よし、わかった」
二人で盤を挟む。しばらく呼吸を整えてーー
「「よろしくお願いします」」
同時に頭を下げ、対局開始。
俺が指した初手は、角道を開ける7六歩。
将棋の出だしとしては最もオーソドックスな一手だが、この時点で俺は一つの戦型を予想している。
その戦型は、『一手損角換わり』。開始からわずか数手で角交換が完了するという、天衣が最も得意とする戦い方だ。
ちなみにこの戦型、俺の十八番でもある。ついこの間の竜王戦最終局でも、俺は『一手損角換わり』を採用して、勝った。
天衣が後手番を希望したってことは、たぶんこれがやりたいんだろう。竜王戦の棋譜も並べてくれてるみたいだし……
そう考えて、まず自分の角道を開けた。先手が角道をふさいだまま飛車先の歩をどんどん前に進めちゃうと、絶対に『一手損角換わり』にはならないから。
『一手損角換わり、指そうぜ!』
たった一手だけど、その一手に俺はそんなメッセージをこめている。
舞踏会で、「私と踊っていただけませんか」って言いながら手を差し出しているような、そんな気分だ。緊張しちゃう。
『一手損角換わり』にするつもりなら、天衣はこの後同じように角道を開けるーーはずなんだけど……
天衣は角道を開けようとはしなかった。
それどころか、将棋盤に手を伸ばそうとすらしていなかった。
天衣は膝の上に両手をそろえたまま、じっと盤の上に視線を落として………………唐突に口を開いた。
「ごめんなさい」
天衣の口から出てきたのは、謝罪の言葉だった。
「師匠が用意した申請書を破くなんて、弟子として許されないことなのに……カッとなって、私……」
いつになく神妙な顔で天衣が謝るので、俺も慌ててフォローする。
「いやいや、さっきは俺のほうが悪かったよ。申請書も、天衣が持ってたから結果オーライってことでーー」
「私……やっぱり、あなたの弟子になる資格なんてないわ」
「そんなに引きずるなよ。さっきのことなら、もうーー」
「それだけじゃないの! 私、他にももっと、いけないところがあって……」
「いけないところ……?」
「私…………ずっと前から嫉妬してるのよ。私よりももっとあなたの近くにいる、他の人たちに対して」
「え……?」
驚いて天衣を見つめる。
天衣は泣きそうな顔になっていた。スカートを両手で握りしめ、呼吸を荒げ、肩を激しく上下させて……それでも、天衣は話すことを止めようとはしなかった。
「あなたには、同じ部屋で暮らしている内弟子がいる。同門の姉弟子もいるし、師匠の娘もいる。私にはあなたしかいないのに、あなたは私以外のたくさんの人とのつながりがあって……私はその中の一人。大勢の中の一人にしかすぎないのよ。そのことが、すごくイヤなの」
「天衣、そんなことーー」
「私があなたの一番になれないってことは、わかってるつもりだった。弟子入りするまでは会うことすらできなかったんだから、何日かおきにあなたと会えるだけで充分だって、自分に言い聞かせてたの」
「…………」
「タイトル防衛で会えなくなるのも、仕方ないって諦めたわ。でも、竜王戦の間、ずっとさびしくて……あなたと会えないことが辛くて……それでも、私とのレッスンが無くなることで、あなたが対局に集中できるようになるんだから、これでよかったんだって、ずっと満足してた。だけど……」
天衣は胸に手を押しあてて、苦しそうに言葉を継ぐ。
「他の人たちがあなたのそばに居てあなたを支えていたり、あなたに応援のメッセージを届けたりしてたんだって、あなたの口から聞いて……それで、どうしようもなくなってしまったの。だから私、あんなこと……」
「天衣……」
「こんなことを考える自分自身もイヤなの」
だんだん涙声になりながら、それでも天衣は話し続ける。自分の心のいちばん深いところを全部、俺に見せようとしてーー
「他の人たちに嫉妬するっていうことは、あなたを独占しようとしてるってことでしょう? 私はあなたの二番目の弟子にすぎなくて……私にそんなこと、できるわけないのに……! しちゃいけないのに……!! ……でも、どうしても嫉妬してしまって、イライラして……。そんな自分が許せなくて、ますますイラついて……その苛立ちを、全部あなたにぶつけて……本当に最低なことを……ごめんなさい……! 本当に、ごめんなさい……!」
俺は絶句する。
手がかからないと思っていた少女は、こんなにも複雑な感情を抱え、誰に相談することもなく一人で苦しみ続けてきたのだ。
それなのに……俺は天衣の気持ちを、何一つわかっていなかった……
「こんな私でもーー」
絞り出すように、天衣は言葉を口にする。
「こんな私でも、あなたは受けいれてくれる? これからもずっと、こういうふうに、私と将棋を指してくれる……?」
そんな質問……答えは決まってる。
「ああ、もちろんだ」
ノータイムで返事をした。
「俺はこれまで、天衣の気持ちをわかっていなかったけど……でもこれからは、天衣が何を感じて何を考えているのか、もっと聞きたい」
「……!!」
そうだ。俺は目の前にいる天の邪鬼な女の子の気持ちを、この子の本音をもっと聞きたい。そして、それに応えてあげたい。
気の利いた例えは思いつかなかった。だから、自分の気持ちをストレートにぶつける。
「天衣は確かに二番弟子だけど、二番目の存在なんかじゃない。俺にとって世界でただ一人の、かけがえのない
「…………ッ!」
天衣は両手で顔を隠し、パッと横を向いた。
泣き顔を見られたくないんだろう。横を向いたまま小刻みに体を震わせている天衣を見ていたら、俺の目からも涙があふれてきた。
しばらくしてから、天衣は顔を覆っていた手を膝の上にのせて、俺に向き直った。
二回も泣いたせいで、人形みたいに綺麗な顔は、ちょっと腫れていたけれど。
「…………ありがとう、安心したわ」
そう言った天衣は本当に嬉しそうで……その表情に目を奪われた。満ち足りた天衣の笑顔が、あまりにも可憐で、美しかったから。
「……話ばっかりで、ずっと駒を動かしてなかったわね」
「そういえば、そうだな」
顔を見合わせて、笑う。
今、俺と天衣の間をさえぎるものは何もない。
俺と天衣の間にあるのは、たった一つの将棋盤だけでーーそれは、勝敗を決めるゲームの道具であると同時に、向かい合った二人の心を結びつけてしまう、魔法の装置でもあるのだから。
天衣は深々と息をすって、ゆっくりと盤上に手を伸ばす。対局再開だ。
天衣は迷いのない手つきで自陣の歩を前に進め、角道を開けた。
たった二手で、お互いの角がまっすぐに向かい合う。
三手目、俺は飛車先の歩を突いた。このあと天衣が俺の角をとれば、『一手損角換わり』のスタートだ。
ところが天衣は、いつまでたっても俺の角をとろうとしない。
また、両手を膝の上に置いてじっと固まってしまった。
一分、二分……
さっきみたいに話をしようとするでもなく。次の指し手を考えているふうでもなく。それなのに、天衣の呼吸は浅く乱れていて、頬は微かに赤く染まっている。
(……天衣?)
どうしたんだ、と声をかけそうになったとき、天衣はやっと動いた。
細い指先で俺の角を持ち上げて、自分の駒台にそっと載せる。それから、自分の角をまっすぐ俺の陣地に成り込ませた。
ぱちん!
ちいさな駒音が響く。
そして、天衣はーー
駒から指を離す直前に、はっきりと告げたのだ。
「あなたのことが好きよ、