関西将棋会館の棋士室で、俺は頭を抱えていた。
「ああああ……」
思わず呻き声が漏れてしまう。原因はもちろん、天衣だ。
あの後、恥ずかしくてお互いに目を合わせられなくなり、将棋すらまともにできなくなってしまったので、レッスンを早々に切り上げて連盟まで申請書を提出しに行ったんだけど……
別れ際、天衣は腕を組んであらぬ方向に視線を逸らしながら、こんなことを訊いてきた。
『こ、今度のレッスンが終わったあと、予定を空けておいてもらえるかしら?』
理由を訊ねると、天衣は顔を真っ赤にしてーー
『あ……あなたと一緒に初詣に行きたいの! 悪い!?』
こんなん……こんなんOKしないわけがないでしょうがあああああああああああああああああ!!
これってデートの誘いだよな? でも小学四年生とデートとか考えるだけで犯罪だよ!? いやそれ以前に「好き」って告白されて「わかった」って答えてお返しのチューまでしちゃったし、これまじで案件だよ!? どうすんの!?
「どないしました竜王サン。悩み事どすか?」
「あ……供御飯さん」
はんなりと笑みを浮かべながら話しかけてきたこの人は、『嬲り殺しの万智』の異名をとる供御飯万智山城桜花。上品な雰囲気とは裏腹に、自玉を穴熊に囲ったあと相手をじわじわといたぶって投了に追い込むという暴虐な棋風を誇る女流棋士だ。こわい。
「いやまあ、悩み事といってもそんな大したことないんですよ」
「そう言うわりにはずいぶん表情が冴えへんねぇ」
「ま、まあ……。いやでもほんとささいなことなんですよ?」
供御飯さんは記者の顔も持っている人だから、ここで正直に悩みをしゃべっちゃったりなんかすると、後でとんでもないことになる。そうでなくても、この人は最近隙あらば俺のロリコン疑惑を深めるような記事を発信してるからな。油断がならねえ。
「もしかして、男女の仲で悩んどるんやおざらんか?」
「でええっ!? そ、そんなことないでつよ!?」
「ふう~ん、あっちこっちで浮き名を流しとる竜王サンが悩んどるいうことは、そういうことなんかなあと思ったんやけど」
「や、やだなあ。く、く、供御飯さんもあてずっぽうでものを言わないでくださいよ、あははははは」
「……ふぅ~~ん…………」
伏見稲荷の狐みたいな妖しい笑顔を浮かべながら、俺を凝視する供御飯さん。やばい……心の中を見透かされてる気がする…………!!
「そ、そう言えば、今日は月夜見坂さんは来てないんですね!?」
何とか話題を逸らそうと、今更感のあふれる質問をしてみる。
「お燎は今日から実家に居る言うとったなあ」
「あー、年末は里帰りする人も多いですからねえ」
「せやねえ。ま、お燎はもともと関東所属やし。そんなにしょっちゅうこっちには来ておざらんよ」
そのわりには、月夜見坂さんとしょっちゅう顔を会わせてるような気がするんだけど……
「うちも、このあとすぐ東京に行かないといけないんよ」
「東京って……ああ、新年はまた皇居に行くんですか?」
「せや。年の始めはいつも宮中行事どす」
ちょっと憂鬱そうに溜め息をつく供御飯さんは、正真正銘貴族の一門なので、お正月には高貴な方々の集う儀式に参列される。貴い。
「肩が凝りそうですねえ」
「そうなんどす。こっちに戻ってきたら、気晴らしにドライブしよ思って、それを楽しみにーー」
そこまで言って、供御飯さんはぱっと目を見開くと、
「せや! 竜王サンも一緒にドライブ行かへん?」
予想外の提案をしてきた。
「俺ですか? 別にいいですけど……」
「じゃあ、決まりな。竜王サンの恋の悩みも、そのときにゆっくり聞かせてもらえそうやなあ」
俺の悩み事が恋愛関係だって確定してるのは何でなんすかね?
「楽しみやなあ~。二人だけでドライブするのは初めてやねえ」
「そうですね……って、二人だけなんですか!?」
「そうやけど……もしかして竜王サン、こなたと二人きりになるのは……イヤ?」
「イヤじゃないです! 全然イヤじゃないです!!」
「よかった~♪」
やべえ、上目遣いの供御飯さんに悩殺されかかった……
「この日は空いとります?」
供御飯さんはさっそく自分の手帳をめくって、候補日を提示する。
あ、でもその日はーー
「すいません、その日は天衣のレッスンで神戸まで行かなくちゃいけないんですよ」
「ほんなら、この日は? あと、この日でもええけど」
「あ、どっちもダメです。神戸に行かないと」
「竜王サンも忙しゅうおすなあ」
供御飯さんはしばらく手帳とにらめっこしていたが、「一月はちょっと無理そうどす」と言って首を振った。
「残念やなぁ。こなたが空いとる日とお弟子さんとのレッスンの日が同じやなんて」
「すいません。竜王戦の間はずっと中断してたんで、穴を開けるわけにいかないんですよ」
それに……
『あ……あなたと一緒に初詣に行きたいの! 悪い!?』
なんて言われちゃってるからなあ……
あのときの天衣の表情を見ちゃったらもうね、絶対二人で初詣行こうって思うもんね。なんなら年末年始も天衣と一緒にいてあげたいなあなんて思っちゃうもんね。いや俺はロリコンじゃないよ? 天衣が可愛すぎるだけなんだよ?
「……どないしたんどす?」
「へ?」
「急に黙りこくって、ニヤニヤしてはるけど」
「ニ、ニヤニヤなんてしてませんよ!?」
まずい、供御飯さんがそばにいるのを一瞬忘れてた!
なんとかしてごまかさないと!!
「あれですよ、天衣のことを話してたら、その、天衣の家はですね、えー、すごい豪邸で付き人もいるくらいで、えーと、その付き人の晶さんって人がですね、えーとですね、この間ですね、連盟の道場に来たときのことを、思い出したん、です、け、ど…………あの、どうかされました、か……ね……?」
気づくと、供御飯さんの顔からはんなりとした笑みが消え去り、道に迷っている兎を発見した狐みたいな表情になっていた。
「神戸のお弟子さんの話になったら、急に挙動不審にならはったなぁ……」
供御飯さんが目を細めてじっとこちらを見つめている! こ、こわい!!
「もしかしたら、竜王サンの悩み事いうのは、神戸のお弟子さんに関係しとるんかなぁ……?」
ひいいいいいいいいい!
「そ、そ、そんにゃことないでつよっ!?」
ビクビクしながらも懸命に否定する俺のようすをしばらく観察したあと、供御飯さんはニュ~ッと口の端をつり上げて、こう呟いたのだった。
「今度のお休み、神戸までドライブするいうのもええなぁ~。……あいちゃんと銀子ちゃんも誘って」
明くる年の天衣との初詣は、「いくら供御飯さんでも、まさか本気で神戸まで来ないだろう」という俺の読みが見事に外れて大惨事になるのだが、それはまた別の話だ。