「ちょ、ちょちょちょっと!? 誰っ、 何っ!?」
背後を振り向く間も無く、何者かが首元にしがみつくような形で抱きついてきた。
背中越しに伝わる柔らかい感触が、やけに艶かしい吐息が、女性に免疫のない真司に、激しい狼狽と緊張からの硬直をもたらす。
「ようやく、捕まえました。………兄さん」
「……うん? その声は……?」
だが、耳元で囁かれた声によって、自分にしがみついている人物を辛うじて看破することができた。
安心したように平静を取り戻した真司は、無駄のない動作で背後の拘束をやんわりと引き剥がした。
「あっ……」
切なげに彼女の喉から漏れた声は聞こえないふりをして素早く振り返る。よく似た声の別人であるかもしれないからだ。
「やっぱり、桜ちゃんか。いきなり抱きついてくるからびっくりしたよ」
「………………」
真司の予想を裏切らず、そこには桜が立っていた。しかし、どこか普段と様子が違う。
真司が知る限りでの桜は、まさに花も恥じらう乙女なのだ。目の前に居る桜は、自分の中の語彙では言い表せないぐらいに異質だった。
「さ、桜ちゃん?」
特に目を引くのは、こちらを見つめる瞳である。赤く塗り潰された夢の世界の中で、桜の瞳の中の虹彩は、唯一異なった色彩を放っていた。
「………思っていたよりも、意識を強く保っていますね。………ですが、もう逃げられませんよ」
その宝石のような瞳に見惚れていると、桜がゆったりとした足取りで歩み寄ってきた。唇の隙間に舌を滑り込ませながら。
思わず、後退りをして桜から離れようとする。第六感が告げていた。今の桜に近寄られるのは危険だと。
しかし、真司の脚は、その意思に反して微動だにしなかった。
「—————っ」
否、脚だけではない。身体中が石膏像にでもなったかのように自由が利かない。
心臓が萎縮して血液の流動を停止した。脊髄が凍結して神経の伝達を忘却した。
そう錯覚する程に、真司の身体の全てが、桜の瞳に魅入られてしまった。
桜の両手が伸びてくる。成す術もなく、絡みつく抱擁を受け入れると、真司はベッドに押し倒された。
「ぁ、ぁぁ……」
真司はどうにか言葉を紡ごうと口を開く。だが、喉から発することができたのは掠れた声だけだった。
「ふふっ………兄さん、私が怖いんですか? でも、大丈夫ですよ。最初はちょっと痛いかもしれませんが、きっとすぐに気持ちよくなれますから」
ねっとりと、蕩けた言葉が耳朶を打つ。細くしなやかな指先が、一つ一つ丁寧な手つきでシャツのボタンを外していく。
やがて、露わになった真司の首筋に、垂れ下がった髪と熱のこもった吐息がかかった。
「いただきます……」
これから、自分が彼女に何をされるのかは、想像を及ばせることしかできない。口ぶりや行動からして、吸血鬼のような感じで血を吸ってくるのだろうか。
一体全体、何を思えばこのような夢を見てしまうのか。自分で自分の頭の中を覗いて見たいものだと、比較的冷静に自嘲する。
「ぅ、うぅ………」
どちらにせよ、痛いのは嫌だから、夢ならば早く覚めてくれ。真司は諦めるように、祈るように目を閉じる。
桜の唇が首筋に触れる寸前だった。どんな目覚ましよりも覚醒できる耳鳴りが、頭の中を劈いたのは。
「ぐ、ぐおおぉ……。起きたぁ! もう起きたからやめてくれ!」
掛けられていた布団を引き剥がして、真司は起き上がった。そして、窓ガラスに映るドラグレッダーに、手のひらを突き出して制止を指示する。
すると、ドラグレッダーは、指示された役目は終えたと言わんばかりに、早々に去って行った。
「う〜〜〜っ。………手加減無しかよ、あいつ」
未だ、耳鳴りの余韻が消えないこめかみを押さえながらも、真司は凝った身体をほぐすために、大きく伸びをした。
続けて、肩を回しつつ、改めて窓ガラスを見やる。空は既に明るくなり始めていた。
「うっわ、もう四時過ぎ……。どんだけ寝てたんだ、俺。……つーか桜ちゃん、起こしてくれてもいいじゃないか」
もしかすると、桜は起こそうとしてくれていたが、自分は頑なに目を覚まさなかったという可能性の方が高い。
足元に落ちている布団がその仮説の信憑性に拍車をかけていた。拾い上げ、綺麗に畳んで置いておく。
眠りが深過ぎるという自らの性分に呆れながら、真司は洗面所に向かい顔を洗う。冷たい刺激が、僅かにこびりついた眠気ごと洗い流してくれた。
ついでにシャワーを浴びて、汗も流したい気分になったが、自己主張の激しい腹鳴を鎮めるために、真司はかなり早めの朝食を済ませることにした。
何を作ろうか、今ある食材を吟味するために冷蔵庫を開ける。綺麗に整頓された冷蔵庫の中にはなぜか鍋があった。
なんとなく気になったので、真司は冷蔵庫から鍋を取り出す。
「おっ、カレーかあ」
鍋の蓋を開けてみると、昨晩の夕食の余りと見受けられるカレーが入っていた。
丁度いいので、これを朝食にすることに決める。それに、一晩寝かせたカレーは何故か美味しく感じるのだ。
そうと決まれば話は早い。真司は手早く準備を進め始めた。
「ふう……。ごちそうさまでした」
真司はカレーを残すことなく完食し、程良く満たされた腹をさすった。そして、今日の朝刊を取りに行こうとリビングを出て行く。
結局のところ、昨夜に予定していた巡回はできなかったのだ。自分が眠りこけている間に、聖杯戦争による被害者が出ていないか、少しでも早く確認したかった。
「一応、大丈夫だったって感じか…」
郵便受けから朝刊を取り出し、大まかに目を通しつつリビングへ戻る。その内容には、昏睡、殺人などの物騒な二文字は見られなかった。幸い、昨日は何事も無かったらしい。
安堵の溜息をつこうと息を吸う。だが、それは即座に息を呑むものに変わった。条件反射で眼前の視覚情報を新聞紙によって塞ぐ。
「ふあぁ〜〜。…………えっ、あっ、……お、おはようございます、兄さん」
「……………おはよう」
桜が眠たげな欠伸をしながら階段をゆっくりと降りてきた。微かに驚いたような声色で挨拶をしてくる。
表情は見えないが、欠伸を聞かれたのが恥ずかしいのだろうか。
「……………」
「…兄さん。あの、具合でも悪いんですか?」
真司の様子に気がついた桜の声色は、心配と怪訝が入り混じったものになっていく。大きく新聞紙を広げて、顔を覆い隠していることが気になるらしい。
桜の気配を察知すると同時に、真司は思い出したのだ。先ほどまで自分を苛んでいた奇妙な夢を。
あれは夢だったのだと分かってはいるが、どうにも桜の瞳を見るのが憚れた。真司は桜の質問には答えず、逆にあることを尋ねる。
「…………コンタクト」
「え?」
「桜ちゃん、今コンタクト、してる?」
「い、いえ。元々目は悪くないですし、コンタクトって少し怖いから……。したことなんてありませんけど……」
我ながら意味不明な問いかけに、桜は戸惑いつつも返答してくれた。それを聞いた真司は半信半疑といった動作で、新聞紙に二箇所の穴を開ける。
そして、その穴から限界まで細めた目で桜の瞳を見つめた。問題ない。いつも通りの優しげな紫色だ。
「は、はあぁぁ、良かったぁ。………やっぱり夢は夢だよな」
今度こそ、真司は張りつめた胸から、魂まで洩れ出るような深い溜息を吐き出し、新聞紙を下ろした。
そもそも、この目が現在映している視界は、赤いものではないのだ。自らのそそかっしさに思わず苦笑いしてしまう。
「………夢。どんな夢を、見たんですか?」
「それがさあ〜、聞いてよ〜。俺、今日初めて明晰夢ってやつを見たんだけどね」
夢、という言葉に反応した桜がその内容を聞いてきた。特に隠す理由もないので、真司は廊下を歩きながら、赤裸々に夢での出来事を話し始めた。
気がつけば、自分は新都の大通りで寝っ転がっていたこと。なぜか、視界が真っ赤になっていて、目を開けるのも辛かったこと。
自分以外に人の姿は見当たらず、何か起こる様子もなかったので、二度寝をするために家へと向かったことを饒舌な口ぶりで順番に語っていく。
「………た、確かに、不思議な夢ですね。………そ、その、道の途中には、誰か居たりはしなかったんですか?」
「うん? いいや、別に誰とも会わなかったなあ」
桜はなぜか動揺しながら、やけに具体的な質問をしてくるが、真司は特に気にせずに話を続けていく。これから先があの奇妙な夢の肝なのだから。
「でも、家に帰ってきてからが、これまた不思議でね。家中の部屋が全部桜ちゃんの部屋になっててさ」
「…………え?」
「でねでね。仕方がないから桜ちゃんの部屋のソファを借りて寝ようと思ったんだけど、なんか、突然後ろから桜ちゃんがさ———…………あれっ」
最後まで言い切る前に、横に居たはずの桜の姿は忽然と消えていた。慌ただしく階段を駆け上がる音だけが耳に入る。
トイレならば一階の方が近いだろうにと、首を傾げるが、考える必要もない疑問だろう。取り敢えず、新聞をもっと読み込むために、真司はリビングへと歩を進める。
「…………?」
だが、歩いている最中、廊下の窓から何かの気配を感じた。真司はそちらへ身を翻し窓の外を覗き込むが、庭の景色が広がっているだけで誰も居ない。
「ミラーワールドの方か……?」
だとしたら警戒しなければならない。まだ、未知のライダーやミラーモンスターが潜んでいる可能性も零ではないのだから。
折り畳みの手鏡が丁度よく棚の上に置いてあったので、それを用いて、真司は再び窓の外を覗き込んだ。
即座に変身できるように反対の手にはカードデッキを握りしめながら。
「うわぁ…………」
鏡の向こうの世界の庭では、我が相棒であるドラグレッダーがシアゴーストと見受けられる異形を頭から踊り食いしていた。
それはもう、バリバリと、煎餅のような小気味好(よ)い音を立てて。
「道理で餌の催促が来ないと思ったら……」
いつ頃からあの龍が此処に存在していたのかは、真司の知る所ではないが、ああやって今まで生き長らえていたことは推測できる。
ドラグレッダーは真司の視線に気づいたのか、僅かに一瞥をしてきた。だが、満足気な噯気を口から吐き出すと、地面に体を降ろし、塒を巻いて眠ってしまった。
間桐邸の庭は、ドラグレッダーの長い体が丸々収まるぐらいには広い庭なので、寝床には合っているのだろう。
「…………はぁ」
外敵ではないことに納得した真司は、これ以上ドラグレッダーの寝顔を拝むのも嫌なので、手鏡を畳んで元々の位置に戻しておいた。
自らの胸の内を代弁するかのような、乱れた足音が廊下に響き渡る。だが、そんなことに気を配る余裕すらない。
桜は自分の部屋へと雪崩れ込み、直帰した。そして、強く閉めた扉に倒れこむように寄りかかる。
「〜〜〜〜〜っ」
どうにか気を紛らわせようと、桜は手元にあったクッションに向かって叫ぶが、飛び跳ねる動悸が収まる気配は一向にない。
全ては、真司の恥ずかしがっている表情を見てみたい、という好奇心の趣くままに、彼が見たという夢について尋ねたのがいけなかった。
まさか、なんの臆面も無しに話してくるとは思わなかったのだ。
「………ライダー。出て来て」
深呼吸を幾度となく繰り返し、十分ほどの時間をかけて冷静さを取り戻した桜は、虚空に向かって呼び掛ける。
一拍の間を置いて、光が硝子を透過するように、天井から砂粒のような淡い粒が降り注いだ。やがて、その砂粒は人の姿を形成していく。
床に届くほどに長い桃色の髪。豊満な肢体を強調する黒衣。美貌の半面を覆い隠す眼帯。
座り込んだままの体勢で、桜は自らの呼び掛けによって現れた女性を…ライダーを見上げる。
「………私が聞きたい事、わかってるよね?」
「………ええ」
昨夜、桜はライダーにある事を頼んでいた。だが、その結果は、思い描いていたものと大きく異なっていた。
何故、ああなったのか。それを問い詰めるために、桜は彼女を呼び出したのだ。桜の視線を感じ取り、質問の意図を理解したライダーは淡々と返答する。
「…シンジには、意中の女性は居ないようでしたから、彼と最も近しい女性が夢に現れました。それがサクラだった。ただ、それだけなのでしょう」
「——————?」
否、彼女は理解していなかった。互いの思考の食い違いに気づかぬまま、ライダーは真司に見せた夢の内容を、事細やかに主人へと報告していく。
「———しかし、シンジは相当に純粋な少年なのですね。義理の妹とはいえ、異性が抱きついてきたというのに、邪な考えを一切感じられませんでした。彼はサクラを本当に大切に想っているらしい」
「〜〜〜〜〜っっ!!」
とどめとばかりに、間髪入れずに紡がれたライダーの舌鋒が、桜の激しい動悸をぶり返させてしまった。喜べばいいのか、悲しめばいいのか、全くわからない。
結局、まともに話が出来るようになるまでに所要した時間は、先ほどの倍だった。
「結論から言いましょう。シンジへの吸精は失敗しました。…寸前のことです。彼の意識が唐突に、夢から覚醒したのは」
「…………やっぱり、か」
ライダーが淡々とした面持ちで告げる事実に、桜は俯く。本来ならば、真司は今も眠っている筈だった。ライダーの宝具の一つが創り出した夢の中で、生命力を吸い取るために。
そして、生命力の欠乏に伴う風邪をひかせ、しばらくの間、彼を学校に行かせない予定だったのだ。
だというのに、先ほど桜が見た真司は普段通りの元気そのものであった。ライダーの言葉を疑う余地はどこにも無い。
「学校に張った結界の魔法陣は、貴方のお陰で他の陣営に悟られた様子はまだありません。ですが、それも時間の問題でしょう。決断は早い方が良い」
「うん、分かってる。思い通りにいけば、私たちは聖杯にかなり近づける」
現在、学校には自分を抜いたとしても、おそらく、三人ものマスターが居る。しかも、日中の戦闘を恐れて牽制し合っているのか、サーヴァントをすぐ側には連れていない。
紛れもなく、一網打尽にするチャンスだ。そして、それは今日にでも実行できる。
しかし、紡いだ言葉に反して、桜の表情には暗い影が差し込んでいた。
「あの日、私は貴方に誓いました。無関係の人死には決して出さないと。それでも、シンジだけは巻き込めませんか?」
「……………」
ライダーの問いかけに対して、桜は俯いたまま返答をしない。頭では理解していても、恐ろしいのだ。一握りにも満たない、もしもの、万が一の可能性が。
「サクラ、躊躇ってしまえば、貴方は……」
最後まで言い切る事はせずに、ライダーは口を噤み、顔を逸らした。桜はその言葉の続きを、促すような真似はしない。そんなもの、解りきっているからだ。
不明瞭な輪郭のなにかが、自らの喉元に突きつけられたような気がした。口の中の唾液を、引き攣った喉で飲み込む。だが、潤うものは何一つ無い。
「………分かってる、………分かってる…から」
消え入りそうな声では、言葉を最後まで紡ぐことができない。強く握りしめた両手は、微かな震えを隠しきれずにいた。
「……………」
その様子を見たライダーは、何か言おうかと僅かに逡巡した後に口を開く。
しかし、口下手な自分では、この優しい少女に更なる陰りを与えるだけだと考え直し、何も言わずに体を霧散させて外へと去っていった。
姦しい雰囲気から一転、自らの死活問題。随分と落差のありすぎる主従の会話になってしまいました。
本編初登場のライダーさんは何気に鏡にも所縁のある人ですね。
感想、アドバイス、お待ちしております。