全力で手足を動かし続けた甲斐あって、ようやく粘液の拘束が緩んできた。もう少し時間をかければ抜け出せるかもしれない。
「——————」
そこまでの時間が与えられるとは到底思えないが。それを指し示すように、黒い影がゆっくりと龍騎に詰り寄って来る。
先ほどの暗殺者に胸を抉り取られるか。現在進行形で迫る黒い影に全身丸ごと呑み込まれるか。
どちらの方が苦しくて、どちらの方が痛いか。龍騎には考えもつかない。
「どっちみちやられるんなら……どっちも嫌だっつうの!」
再三再四もがいていた四肢のうち、唯一右手だけが蜘蛛の糸を引き千切り自由となる。
しかし、その火事場の馬鹿力は十数秒ほど発揮するのが遅かった。
黒い影の触腕は龍騎を射程圏内に収めている。最早、躱せる距離でも逃げられる距離でもない。
「くっ、来るな、あっち行ってろって!」
「———」
言葉を解さずとも、ジェスチャーならば通じるかもしれない。苦し紛れな発想を思いついた。
そのまま、龍騎はしっしと追い払うような動作を行う。その行為の効果は、取りつく島が無いという事だけが分かるだけだった。
「っ……」
目と鼻の先にまで執念深い追跡者が迫る。龍騎が動けないのをいい事に、黒塗りの無貌を仮面の間際まで寄せてきた。
鼻先が触れ合う程の至近距離。必然的に、真っ黒な影が視界の端から端まで広がる。
瞠目しているというのに、瞑目しているのかと勘違いする矛盾した状況だ。
「——————」
数秒か、数分か、数時間か。視線と視線が捩れて絡まり合い、時の流れを曖昧にさせる。
黒い影は何をするわけでも無く、龍騎の仮面の隙間から覗く双眸を凝視したまま微動だにしない。何か、気になる事があるらしい。
「っっ…………」
いっそのこと変身を解除して、この意味不明な存在に接吻でもしてやろうか。何処に口があるかは知らないが。
まな板の上の鯉のような極限環境に晒され続け、自暴自棄になった龍騎はカードデッキに手をかける。
「目を覚ましてください」
しかし、横合いから発せられた呼び掛けが、龍騎の手をすんでの所で引き止めた。
その言葉通りに目を覚ました龍騎は、咄嗟に首を捩ってそちらを見やる。
「お、お前は……!」
虚空から湧き出た粒子が多方向から集まり、一個の群れとなって輪郭を成してゆく。そうして顕在化したのは、ライダーのサーヴァントだった。
「その夢は貴女自身を蝕む、貴女に取り返しのつかない事を強いる危険なものです」
この黒い影という存在はサーヴァント達にとって、例外なく天敵ではないのか。
龍騎の認識を覆すかのように、ライダーは無防備な状態のまま黒い影へと歩み寄る。
「———」
「余程固執しているのですね。昨夜から外に出て行ってしまっていたのは、彼の後を追う為でしょうか」
一体彼女は何を言っているのだ。困惑する龍騎をよそにして、両目を覆い隠す眼帯を徐に解き始めた。
そして、相手を冷たい石に変貌させる恐ろしい眼が、黒い影を視野に捉える。
事は無かった。目を固く閉ざしたままのライダーは、手にした眼帯を下手投げで放る。
「———仕方がありません。自力で覚められないのであれば、もっと別の良い夢を見せましょう」
そんな言葉と同時に、宙へと投げ出された眼帯が形を無くして幽微な光を放つ。
間違っても直視してはならない。嫌な予感と妙な既視感を覚えた龍騎は、慌てた手つきで顔の上半分を覆った。
「……いつまでそうしているのですか。あの子は既に去りましたよ」
「えっ———うおわぁ!?」
板間が大きく軋む音を発した途端。龍騎はライダーの怪力によって壁から勢い良く引き剥がされた。
そのまま廊下を前転で転がってゆき、つきあたりの手摺りに背中を打ち付ける。
「痛てて…………あれっ、本当だ。どこにも居ないや」
でんぐり返った姿勢から動かずに、龍騎は上下逆さまの視界を巡らせる。
ライダーの言う通り、夜闇に希釈化され混ざったかのように。黒い影は忽然と消え去っていた。
「ぞんざいな扱いをした私が言うのも憚れますが。仮にも敵を前にして、そのような体勢のままでいるのは感心しませんね」
「……あ。そうだ! ライダーっ。く、来るなら来い!」
「はぁ……」
その指摘に対して、龍騎は弾かれるように身体を起こした。拳を前に構えて抗戦の意思を示す。
つい先ほどまで黒い影と対峙していた状況とは真反対な態度に、ライダーは呆れた溜め息をつく。
自らの得物も携えず、己の眼で龍騎を石にしようともしない。今の彼女には戦う意思が皆無だった。
「あんた、戦うつもり無いのか」
「ええ、貴方には借りが一つありましたから。私としてはたった今、返したつもりですが」
「借りって何だよ。俺、そんなもの押し付けるような事したっけか……」
ライダーの肯首や言動に嘘は含まれていないと見て取った龍騎は、渋々と構えた拳を下げた。
知らぬ間に生じた貸し借り。鵜呑みには出来ないが、いずれにせよ無為な争いは避けたい。
「気付いてなかったのならば、寧ろ僥倖かもしれませんね」
これまでにも何度か言葉を交わしているが、彼女は塒を巻いた蛇のように掴み所の無い女性だ。
故に、気を引き締めて会話に臨む。一番重要で、一番気になる事が龍騎にはあった。
「……取り敢えず、色々と聞きたい話はあるけど。先ずは一つだけ教えてくれ。あいつの事、殺したりとかしてないんだよな?」
「———!」
龍騎が黒い影の安否について尋ねる。すると、ライダーは思い掛けぬ言葉に対して、驚きを示すように閉じていた瞼を見開いた。
「う、うおおっ……なんで急にこっち見るんだよっ……。き、聞いちゃ駄目な話だったのか……!?」
妖異な煌めきを放つ双眸の重圧が、瞬く間に龍騎の身体を縛り付けてくる。
急く意思とは相反する鈍間な両手。それをライダーへ突き伸ばした龍騎は、大慌てでその危険な目を逸らせと乞う。
「———失礼しました。あまりにも貴方が突飛な物言いをするものですから、つい驚いてしまいまして」
「ふ、ふはあ〜〜っ。驚いたのはこっちの方だっての。…………で、どうなんだよ?」
謝罪と共に、こちらを射抜く視線が途切れる。龍騎は解放された安堵から大きく息を吐いた。
そうして深呼吸を終え、ライダーに改めて問い掛ける。あの謎の存在は、無事なのかと。
「……断じて殺していません。あの子は今、私の宝具で眠りに就いているだけ。……しかし、何故貴方があの子を案じるのですか」
人の形すら持たないあれは、貴方の目から見ても悍ましい物の怪だろう。
ライダーはそう言いながら、龍騎に対して切実な声音で疑問を投げ返した。
「確かにとっても怖い見た目してるし、どこにでも出てくる意味不明な奴だけどさ。あいつ、俺を追い掛けるだけで、攻撃とか一切してこなかったんだ。……さっきのでかい蜘蛛は、バラバラにしてたくせに」
「それだけ、でしょうか。それだけで、碌に反撃もしなかったと?」
「…………ああ、そうだよ。そりゃあ、やったらやり返すけど。あの状況でこっちから先に手を出すのは違うし」
本当はそれだけではないが、錯覚の可能性が拭えぬ以上、軽々しく伝えるものでもない。
ともすると、あの黒い影は何かを求めているのか。自分にも目的がある故に、やすやすと捕まるわけにはいかないのだが。
龍騎の返答を受けたライダーは、それきり口を結んで黙り込んでしまった。
頬に添えられた手の指先が、逡巡を表すように一定の間隔でこめかみをつついている。
「もしかすれば、貴方もあの子の———。いえ、私の一存で決めてしまうのは早計ですね」
「……言いたい事あるんならちゃんと言ってくれよ。もしかしたら大事な事かもしれないし」
「問題ありません。私自身の取るに足らない感傷ですから。では、これで」
しかし、ライダーは半ばまで出かかった言葉を噤んだ。追及を躱しながら龍騎に背を向ける。
そして、現れた瞬間を逆再生するかのような速度で身体を虚空に霧散させて去って行く。
有りもしない希望に縋ってはならない。去り際に垣間見えた彼女の横顔には、そんな戒めの念が見受けられた。
「………………」
一先ずは、宗一郎や呪い師だけでなく、巻き込まれた筈の住職たちの様子も見に行こう。龍騎は急ぎ足で来た道を戻って行く。
あの子。ライダーが黒い影を指すその響きには、奇妙な親しみを龍騎に覚えさせる。
夜風に揺られる雑木林の葉が、胸の内の疑惑を刺激するように掠れ合ってさざめいた。
「どっこらせっと……ふう」
右腕と左腕。片腕ずつで俵担ぎにしていた二人を畳の上にゆっくりと降ろし、龍騎はようやく一息つく。
寺の建物という建物を隅々まで駆けずり回り、被害者たちをこの本堂の広間に集め終えたのだ。
住職たちは皆一様に意識が途絶している。横たわる場所が布団の上ならば、寝ているだけに見えるだろう。命に別状はないと思われる。
「それにしても、会長も不運だよなぁ。学校だけじゃなくて、自分の家でも戦いに巻き込まれちゃうなんて」
最後に運び込んできた片割れの一成を見やりつつ、龍騎は畳の上で胡座をかく。
二日連続では無かっただけまだ良いのか。それ以前に、命を失わなかっただけで充分に幸運か。
「……葛木先生」
今もなお、命の危機に瀕している宗一郎の安否が、心の片隅を曇らせる。寺の棟を行き来する傍ら、龍騎はあの血塗れの部屋を覗いていた。
「………………」
絶対に死なせない。そう何度も呟きながら、小刻みに震える呪い師の背中。死にゆく命を懸命に繋ぎ止めようとする仄かな魔術の灯。
何度見ても慣れるものではなかった。生と死の境界線に立つ者を目の当たりにするのは。
忙しなく動き回っていた理由の一つには、その光景から思考と視線を逸らしていたかった事も含まれている。
「———っ」
板張りの床の軋む音が聞こえてきた。龍騎は胡座を解いて立ち上がり、近づいて来る音の方へと振り返る。
開いたままの襖、そこから呪い師が俯いたまま姿を現す。目深に被られたフードの所為で表情は分からない。
しかし、警戒を示すように携えた杖。それを握り締めた両手には、夥しい量の変色した血が付着していた。
「っ……なあ、あんた。葛木先せっ———あの男の人は無事なのか?」
「………………」
そう問わずにはいられなかった。龍騎の不安に満ちた声音に反応して、呪い師は緩慢と顔を上げてゆく。その動作に伴って、乾ききっていない涙の痕が目に映った。
「そ、そんなっ……」
黙して何も語らない呪い師の双眸から目を逸らし、龍騎は自らの仮面を手で覆う。
また駄目だった。これ以上、誰一人として死なせない。二度目の機会を与えられて尚、その望みは果たせなかった。
遣る瀬無い思いが胸の内から溢れ出し、呼吸を許さぬかの如き密度で喉を詰まらせる。
「———まだ、私は何も言っていないわよ。早とちりしないで頂戴。人一人の身体を繕うなど、私からすれば造作も無い事なんだから」
「……えっ。って事は」
「一命は取り留めたわ。…………貴方がアサシンを邪魔してくれたお陰で」
呪い師の肯定が聞こえた瞬間。はち切れんばかりの緊張が崩壊し、龍騎は身体をよろめかせて柱に背を預けた。
安堵のままに胸を撫で下ろしてから、一拍の間を置いて不満げに呪い師を見据える。様子を窺っていたのかと。
呪い師は龍騎の抗議的な視線を受け流し、携えた杖と手先を赤く染める血痕を消してしまう。ついでと言わんばかりに、涙の痕も拭い取って。
「……龍騎、だったかしら。何時ぞや言っていた事は冗談じゃなかったのね。誰も死なせたくないから、戦いを止めさせるだなんて」
「あの時の話、盗み見てたのかあんた。ついさっきといい、結構意地悪そうだな」
互いに面識が全く無い筈だというのに、呪い師は自分の名前と目的を言い当ててきた。あの暗殺者と同様に、搦め手で攻めるのが好みなのだろう。
セイバーとアーチャーの二騎を相手取っていたあの瞬間、虎視眈々と機会を待っていたのかもしれない。龍騎は呪い師と交代するように警戒を露わにする。
「私は貴方と違って頭を使っているだけよ。私の竜牙兵だけならまだしも、あのバーサーカーとも、三騎士の内の二騎ものサーヴァントとも、真っ向から張り合うような奴。そんなの相手に正々堂々となんてしていられないわ」
「…………昨日より前からずっと、見られてたのかよ」
呪い師の監視網は深山町から新都まで広くに及んでいた。不敵な微笑みがそれを物語っている。
下手をすれば、彼女は自分の正体を把握済みだ。苦々しい渋面を浮かべて、龍騎は正面を睨みつけた。
しかし、龍騎自身の分厚い仮面が顔を覆い隠しているため、幸か不幸か相手には何も伝わらない。
「まあいいや。これに懲りたらもう戦うだなんて思うなよな。やったらやり返されるなんて当たり前なんだからさ」
「………………」
龍騎はそう言って呪い師に背を向ける。何かを思案する面持ちに切り替わった事がやや気懸りだが。
暫くの間はマスターの療養に掛り切りなるに違いない。涙を流してまで助けようとした相手なのだから。
「うん……?」
だが、龍騎が本堂を出て行く為の出入り口は、床に沈殿する謎の気体によって封鎖された。続けて湧き出した骨の群れが、自らの骨格で壁を創り出す。
「こいつら、昨日の夕べに出てきた骨軍団か! ……おい、呪い師さん———」
この骨たちが消耗した呪い師や気絶した住職たちに襲い掛かれば、今までの苦労が水泡に帰す。
龍騎は瞬時にカードをバイザーに差し込んで、臨戦態勢に移りながら背後に気を配ろうとする。
「———龍騎、まだ帰らないで。貴方に話があるのよ」
「はあっ!? この状況で何言ってんだ、っての………?」
龍騎の喧しい反論は、どこまでも落ち着き払った呪い師の雰囲気を受けて尻すぼみになってゆく。
唐突に現れた骨の軍団は、帰り道を通せんぼしているだけだった。得物を構えている個体は先ず居ない。
肩透かし。否、勘違い。カタカタと揺れる骨の音が、静かな本堂の空間に小気味良く響く。
「…………こいつら、もしかしてあんたの手下だったのか」
桜の命を脅かした連中の親玉。何も思わない訳が無い。だが、下手にその真意を問いただして話を拗らせる意味も皆無だ。
龍騎は既の所で漏らしそうになった雑言を飲み下し、口の端を固く結んで我慢した。
「気付いてなかったのね。……想定外だったわ」
図らずも、自らの手の内を明かしてしまった。呪い師は眉間を揉んでから咳払いをして本題を口にする。
しかし、後に続いたその言葉は、今の龍騎にとって紛れもなく福音だった。たった十数秒前の我慢を、手放しで褒め称えたくなった程度には。
「———貴方、聖杯を探し出して破壊するつもりなんでしょう。……心当たりあるわよ、その聖杯の在処。力を貸してくれれば、教えてあげてもいいけれど」
「せ、聖杯の、在処……っ!?」
龍騎は仮面の奥の目を限界まで剥いた。山彦のように呪い師の言葉を反芻する。聞き間違いではないかと、確認の意を込めて。
力を貸してくれれば。意味ありげな声音には、何か大事な重荷を自ら投棄したかのような諦念が含まれていた。
「お、俺が聞くのもなんだけど、いいのか呪い師さん。あんたにだって叶えたい願いが有ったんじゃないの?」
「……失いかけて、初めて気付いたのよ。私の願いは、あの人と出会った時から、聖杯を手に入れるまでも無く叶っていて。あの人が居なくなれば、決して成り立たないものだと」
「………………」
二つに一つ。知らぬ間に生まれた新しい願いを守る為に、彼女は本来抱いていた古い願いを断念した。
先ほどまで流した涙は、小刻みに震えた背中は、抑えきれぬ葛藤を外に吐露していた。そんな意味も有ったのかもしれない。
「これ以上、私のマスターが危険に晒されない為にも、私自身が巻き込まれない為にも、色々と都合が良いの。こんな戦いを台無しにしてくれる存在は———」
「———そういう事なら、俺は幾らでもあんたの力になるよ。寧ろ、こっちからお願いしたいぐらいだし」
取り繕うように紡がれた呪い師の言葉に対して、龍騎は差し出した右手と共に食い気味な返答を投げかける。
盤上の駆け引きを、まさかの素通り。龍騎の無遠慮さに面食らった呪い師は、右手と仮面を見比べて逡巡した。
しかし、床に向いた手の先は少しずつ上向き、近づいてゆく。
「……一度あった事だもの。二度あったぐらいで驚いていても仕方がないわね。だけど………」
有り難う。呪い師は消え入るような声で感謝を呟いた。そして、遠慮気味な手つきで龍騎の握手に応じる。
身の周りに降りかかる戦いの火の粉を払う。その戦いの火の元を完全に始末する。
目に映る者の数は違えど、見据える目的は互いに一致していた。
暗中模索な真司の状況に光明を齎す存在、キャスターさん。
対して、ライダーさんはもう少し弱みを晒していれば、状況は変わっていたかもしれません。
それはそれとして、ようやく明確な指標を真司に与えられました。物語的には折り返し地点になるのでしょうか。
ジオウ出演といいスピンオフ発表といい、最近は龍騎関連が色々と熱い展開になっていますね。
この流れに乗って龍騎の良作二次が増えないかなと欲張っております。
感想、アドベント、お待ちしております。