どちらが左右で、どちらが上下なのかも分からない闇の深海。その中で、龍騎の身体は未だ沈降を続ける。
意識の再点灯と共に、閉じていた瞼を見開く。朧げな視界が真っ先に捉えたものは、暗闇を仄かに照らす巨大な輪だった。
「……あれ、出口かな」
龍騎は周囲に視線を巡らせるが、青白い光を放つそれ以外に明確な指標は存在しない。
以前に放り込まれた黄金の宝物庫とは打って変わり、殺風景な空間がどこまでも広がっていた。
どうか、出口であってくれ。そう思いながら、龍騎は輪の中心を目指そうと体勢を立て直す。
平泳ぎの要領で、水とも呼べぬ何かを掻き分けて進む。意外にも、龍騎と巨大な輪を隔てる距離は然程ではなかった。
「あと……ちょっと……!」
今度こそしくじらない。戦いを、あの少女の暴走を止めてみせる。
たとえ、自らの正体を露見され、今まで通りの関係に戻れなくとも。
龍騎は手足を動かして懸命に泳いだ。そして、目的としていた場所に辿り着く。
───お前は、こっちだ。
かに思えた瞬間、何者かの声が進行を阻んだ。反応を返す間もなく足首を掴まれ、凄まじい力で引きずり降ろされる。
冗談じゃない。龍騎は自由の利く片足を振り上げ、邪魔者を蹴落とそうとした。
「……なっ!?」
その踵は何も無い虚空を蹴った。目に見えぬ不可解な存在は、目を白黒させている龍騎を勢いよく投げ飛ばす。
深淵のような暗い水底ではなく、巨大な鏡のような水面に向けて。
しかし、突如として出現した水面は、龍騎を飲み込む事無く。地面に似た硬さを保ったまま受け止める。相応の衝撃が全身に染み渡った。
「っ……な、なんつー景色だ」
起き上がった先に待ち受けていた光景を眺めながら、龍騎は呆けた声音で呟く。
頭上の空を覆い隠す分厚い曇天。周囲に立ち並ぶありふれた街並み。そして、それら全てを足元から反射する水面。
ミラーワールド。ある意味で、龍騎がよく知る鏡の世界と呼称できる世界だった。
「………………」
此処が何処であろうと、一先ずは動くべきだ。そう判断し、節々の痛む身体に鞭打って立ち上がる。
やがて、龍騎は路地の坂道を下り、住宅街と思しき場所を通りすがってゆく。
アパートやマンションのベランダに干され、風にたなびく洗濯物は人々の生活を匂わせた。
「でも、当たり前だけど誰も居ないんだよな……」
だが、そこに生活をしている者は居ない。道すがら、龍騎とすれ違った者も居ない。
ミラーワールドと同様に、景色だけが正確無比な様相で現実世界を模倣するのみ。
「なんか、俺でも分かりやすい手掛かりはないのかなっと!」
龍騎は手持ち無沙汰な現状を変えようと、路上にあったカーブミラーの支柱を手折った。意味もわからぬ異界だからこそ、許される行為である。
鏡を使って、現実世界に戻るための試行を開始。すると、触れた指先が鏡面に波紋を生じさせた。
手応えあり。力づくで鏡の向こう側へ腕を透過させようと、更に指先に力を込めてゆく。
「───うおおっ!?」
だが、不可視の力が働き、強引な進行を阻んだ。同じ極の磁石が反発し合うかのように、手からカーブミラーが弾き飛ばされた。
閑静な道に響き渡る高音の破砕音。粉々に割り砕かれた鏡面を見下ろし、選択肢が一つ潰えた事実に沈黙。
龍騎は僅かに痺れた指先を開閉しながら、鏡からの脱出に見切りを付けて歩き出す。
「………………!」
やがて、龍騎のあてどない散策は、六車線程度の大きな交差点に差し掛かった時点で急停止した。
道を隔てた向こう側の歩道に人影が現れたのだ。文字通り、人の形を成した虚ろな影が。
「神、崎……?」
その虚ろな影の姿形に、龍騎は東京で望まぬ再会をしたある男の存在を想起する。神崎士郎という、かつての自分を知る唯一の男を。
一台も車が通っていないというのに、虚ろな影は律儀に赤く点灯した信号機の横で立ち止まっていた。
かっこうの音響と共に信号が青になり、身構える龍騎へと歩み寄ってくる。
「お、おい───!」
だが、虚ろな影は龍騎に目もくれずに過ぎ去った。泡を食って後ろから肩を掴もうとするが、その手は敢え無くすり抜ける。
遠のく背中を呆然と見つめる。すると、かっこうの鳴き声が呼び寄せたかのように、人の影が続々と現れた。
携帯を弄りながら歩くうら若い女性。杖を突く鈍間な老人。ランドセルを背負うすばしっこい子ども。様々な容姿の人影が、思い思いに交差点を行き交う。
「次から次へと、意味わかんねえ……。けど、人が沢山歩いてってる方に行けば……!」
脱出への糸口が見つけられる可能性がある。目まぐるしい不可思議に困惑しつつも、龍騎は周囲を見回して目星を付けた。
衝突してしまう心配も無いので、閃きが趣くままに人の群れを無視して早足で駆けて行く。
そして、龍騎の足は様々な道行を経て、広葉樹の並木道に至った。元々は桜の木だったのか、木々の根元には桃色の花びらが散りばめられている。
「桜、いっぱい咲いてたのかな」
風に吹かれてやってきた桜の花弁。カードデッキに付着したそれを指でつまみ取る。
一刻も早く戻らなければ。この花と同じ名前を持つあの子が、誰かを傷つける前に。
水面に敷かれた花びらの絨毯を踏みしめながら、龍騎は人混みをなぞるように進んだ。
「…………うん?」
決意を新たにして出口を求めていると、何処からかすすり泣く声が聞こえてくる。
自分と同じように、この世界に放り込まれた者が居るのか。当然、放ってはおけずに耳を澄まして音の方向を探す。
やがて、龍騎の視線は並木道の片隅に置かれたベンチに、そこに座り込む黒髪の幼い少女に向けられた。
虚ろな影ではない、はぐれ者だからだろう。道行く人影は誰一人として泣きじゃくる少女を気にかけていない。
「ね、ねえ。君も迷子なの?」
「ひぐっ……ぐすっ……」
この厳つい恰好で怖がらせてしまわぬよう、龍騎は努めて優しい声色で話しかけた。
だが、当の本人は嗚咽を漏らして顔を覆ったまま、反応を返してはくれない。
「……分かる、分かるよ。こんな場所に一人ぼっちだったから怖いよね。……でも、今は俺が居るから───」
「───そうじゃ、ないの……っ」
励まそうとした言葉を途中で遮り、少女は目元をこすりながら顔を徐に上げてくる。
迷子でないのならば、なんなのか。龍騎はベンチの前にしゃがみ込みながら、言葉の続きを待つ。
「離れ離れになりたくないの……っ。捨てられたく、ないの……っ」
「え───?」
龍騎は目を見開いて驚愕した。少女の嘆願にではなく、さらけ出された少女の相貌に。
黒髪の隙間から覗く、涙に濡れそぼった碧眼。それは、よく知る凛の特徴だ。だというのに、目の前の少女は彼女と明らかに違う。
桜ちゃん。見間違えられる筈がない少女の名前を、龍騎の口は思わず漏らしてしまった。
「……この、通路は」
再度、唐突に切り替わった世界。日の明かりを拒むような石造りの通路の真ん中で、龍騎は立ち尽くしていた。既視感と忌避感を覚えながらも、前後を見回す。
正面には通路の奥へと続く仄暗い闇。背後には長い階段と鉄の扉があった。あの扉を開けば、間桐邸の廊下に繋がるのだろう。
「………………」
臆せず進むべきか、踵を返すべきか。未知と既知の二択に挟まれた龍騎は逡巡し、依然として立ち尽くす。
だが、通路の奥から発せられた悲鳴が、冷たい静寂を打ち消した。考える間も無く、止まっていた足は進む事を選ぶ。
突き当たりを曲がり、階段を下る。そんな行程を何度か繰り返し、龍騎は悲鳴の発生源へと到達した。
「───なんなんだよ、これ!」
濁音と水音が入り混じった喘鳴。ぬめりを帯びた気色の悪い蟲。様々な醜悪が壁一面に犇めき合うそこは、まさしく蟲の蔵だった。
喉の奥底から湧き出る吐き気を堪え、視線を下ろす。唯一、蟲たちに侵食されていない蔵の底へと。
尻餅をついて、動けずにいる桜に酷似した黒髪の少女へと。龍騎はすぐさま助け出そうと、下層を目掛けて飛び降りようとした。
「っ…………!?」
しかし、その行動は遂げられなかった。龍騎の意思に反して硬直する身体が、龍騎をその場に縫い止めたからだ。
ふざけるな。この身を縛り付ける理不尽を払い除ける為に、怯えた少女に逃げるという選択肢を選ばせる為に、声を上げようとする。
「───」
だが、何か言葉を発する行為さえも、今の龍騎にはままならなかった。
過去に起きた出来事は、その程度の意思では変えられないのだと言わんばかりに。
これから起こる地獄を、決して目を逸らさずに見届けろと言わんばかりに。
「──────」
壁に蠢いていた蟲の群が、一斉に雪崩れる。地面に落とされた角砂糖へ殺到する蟻の如く。絹を裂くような叫びが、龍騎の耳を劈いた。
瞬く間に手足を縛られ、衣服を破り捨てられ、露出した素肌を弄られ。穢れを知らぬ少女が、穢れきった有象無象に陵辱される。
嫌だ、嫌だ。拒絶の意を叫ぶ口すらも、数匹の蟲が自らの頭を捩じ込んで黙らせた。
「─────────」
微塵も動かぬ役立たずの四肢とは対照的に、冴え渡った視覚は蟲の群れを掻き分けて進む奇怪な蟲を発見する。
男性器。それを模した形状が持つ意味を理解した瞬間。その蟲は肢体の股座に滑り込み、幼い少女の純潔を食い破った。
───ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
助けを求めるように苦痛を垂れ流していた口は、いつの間にか謝罪へと切り替わっていた。
とうの昔に枯れ果て、擦り切れた喉を酷使し、少女は誰も居ない天井に向けて唯々謝る。
それでも、終わらない。言葉の意味を介さぬ白痴たちは、代わる代わる陵辱を続けた。
───最後まで、この家に来るのを嫌がってごめんなさい。勝手にこの家を抜けだしてごめんなさい。あの家に帰ろうとしてごめんなさい。
虐待と呼ぶのも烏滸がましい地獄が、太陽も届かぬ地下で繰り広げられていたとは。このような地獄の上で、のうのうと暮らしていたとは。
───ずっと、あの家に居られる姉さんを羨ましがってごめんなさい。
しんしんと、懺悔だけが蟲蔵の底に降り積もる。蟲の群れはその懺悔を踏みにじるように蠢く。
物心を得て数年も経っていない子どもが、拙い言葉を使って罪とも言えぬ罪を吐き出す光景。それは、重圧を伴って見えない何かを軋ませた。
───幸せになりたがってごめんなさい。悪い子でごめんなさい。
幸せで居て欲しいって思ってるんだから。いつかの日、涼風が吹き込む病室で何気なく宣った言葉。
悪い子なんかじゃない、誰かを思いやれる優しい子だよ。いつかの日、二人だけの公園で言い含めた言葉。
かつて、少女に向けたそれらが矛先を変え、見えない何かへ突き立てられる。
───生きていて、ごめんなさい。
そして、人としての尊厳を犯し尽くされた少女は、出涸らしとなった譫言を最後に囁く。軋み、突き立てられた見えない何かに、細かな亀裂が刻まれた。
「───」
やがて、満ち足りた蟲たちは壁に掘られた巣穴へと戻って行く。それと共に、龍騎の身体は解放される。
龍騎は弛緩した両足をどうにか動かし、底へと続く階段へと向かう。最早、一息に飛び降りる気力は無かった。
一段一段、噛み締めるように踏み締める。その度に、少女を取り巻く惨憺たる日々が頭の中に流れ込み、頭蓋を揺らす。
「──────」
少女は遠坂の家の次女だった。だが、魔術師の業は一子相伝の秘術であり、本来ならば魔術の事など知らずに生きてゆく筈だった。
しかし、少女の持つ稀有な才能は、ありふれた平穏を認めなかった。様々な者たちの都合と要因が重なって、少女は間桐の養子となる。
そうして、この悍ましい蟲蔵に突き落とされたのだ。右も左も、己の状況さえも分かっていない最中で。
「─────────」
少女が横たわる底へ近づくにつれ、頭蓋の揺れが痛みを伴って激しくなる。注がれる負の感情が濃く暗いものになる。
兄と呼び慕う何処かの誰かを、間桐の業から守るために。自らの人生を狂わせた魔術に向き合い、進んで学んだ事。
必死の努力に利用価値を見出され、聖杯戦争の駒に仕立て上げられた事。
そして、聖杯の欠片を心臓に埋め込まれ、娯楽を兼ねた実験台にさせられていた事。
「────────────」
戦いを拒絶し逃げ出せば、少女は何も知らぬ兄を守れない。戦いを受け入れ最後まで生き残れば、完遂された儀式が少女を聖杯にしてしまう。
少女の過去は、少女の今は、少女の未来は。どうしようもなく閉ざされていた。
「っ…………っっ…………」
緩慢とした足取りで階段を下り続ける。そして、長い時間をかけて蔵の底へ足を及ばせた。
咀嚼され尽くし、味のしなくなったガムのように吐き捨てられた少女へ、龍騎は覚束ない歩幅で歩み寄る。
本来の姉である凛によく似た黒髪と碧眼は、少女のどこを探そうと面影も無い。
「桜、ちゃん……」
石畳の床に広がった紫の髪。涙を湛えたまま、虚空を見据える紫の瞳。
初めて出会った頃から変わらぬ鮮やかな少女の特徴は、凄惨な体験を経たという証明だった。
そんな考えが脳裏をよぎった瞬間。少女に、桜に触れる寸前で、龍騎の膝は脱力して折れた。
石畳の床へ膝を突くと同時に、周囲の景色が元居た並木道へと戻った。
ベンチに座っていた少女は花びらと共に掻き消え、盛んだった人影の往来も無い。
その代替として、蛹のような姿勢で蹲った人間大の黒い物体が、辺りに散らばっている。
だが、周囲の大きな変化にさえも意識を割けない程、龍騎は憔悴していた。
力なく項垂れたまま、一歩たりとも動こうとせずに水面を見つめる。
「……何が、あの子が誰かを傷つける前に、だよ。傷だらけだったのは、あの子の方じゃないか」
あの子を守るどころか、あの子に守られていたんじゃないか。心の底から溢れ出た慟哭が、静謐に満ちた世界に響き渡る。
「くそっ……くそっ……くそっ……」
たちの悪い幻覚だった。そう割り切れたならどれだけ良かっただろう。
黒い影に正気を削られ、呪いに侵された相貌。薄暗い地下室の底で、夥しい蟲に犯されるという地獄。
目の当たりにしたそれらが、点と点で繋がり合う。断じて、割り切る事など出来なかった。
「───くそっっ!!」
水面に映り込んだ自分自身の鏡像に向けて、龍騎は激情を抑えきれずに握り拳を振り下ろす。
しかし、広大な水面は鏡のようには砕け散らず。その怒りを、嘆きを、悔やみを。そして、憎しみを易々と受け止めた。
重なり合った拳を起点に波紋が生じ、大きな円となって広がってゆく。
深く息を吸い、浅く息を吐く。そんな呼吸の後に、龍騎は振り下ろした手を支えにして立ち上がった。
「戻らなきゃ……。絶対に、どんな事になっても」
そして、存在するかも定かではない出口を求めて動き出す。現実世界への帰還を果たす為に。
黒い影の力に溺れた少女を止めるのではなく、戦いの生け贄にされようとしている少女を助ける為に。
「───ヴ、ヴヴ……ヴ」
だが、龍騎の歩みを阻むように、周囲の蛹が一斉に羽化した。耳障りな吃音と羽音が辺り一面に発せられた。
目を向けるまでもなく、何体もの異形の影が蛹から這い出てくる。水面へと降り立ってくる。
先ほどまで居た虚ろな影と同様に、その姿形は不明瞭だ。それでも、影に覆われたその正体は手に取るように把握出来た。
「……どけよ」
何故、此処に居るのだ。限界まで磨り減った思考は、そんな疑問すらも考えられなかった。ただ、足を止めずに進み続ける。
レイドラグーン。忘れるはずもない、己の命を背中から奪い取った怨敵。
それを模した影たちが、最後の一日を再現するかの如く飛び交う。少女の元に戻ろうとする龍騎へと、群れを成して立ち塞がる。
「ヴヴ、ヴ───」
【───SWORD VENT】
庇う者が居ないのだから、同じ轍は踏まない。不意を打つ形で背後から仕掛けてきたレイドラグーンを、召喚した青龍刀で振り向きざまに切り裂く。
黒い返り血が飛び散り、龍騎の赤い身体を汚す。厭う素振りすらせずに、黒々と刃先に滴る水膜を血振りで払い捨てた。
「ヴェ、ヴ、……ヴヴ───」
龍騎は道を阻む怪物たちへと緩やかな動作で向き直る。先走った一匹に続く訳でもなく、レイドラグーンたちは淡々と包囲網を狭めていた。
もう一度、寄越せ。言葉を持たぬが故に、その行動が代替として欲望を差し向ける。まるで、蔵の底で蠢いていた蟲の群れと同じように。
「───どけって、言ってんだろうがぁぁああっっ!!」
鼓膜を揺らす吃音と羽音を掻き消さんと、龍騎は喉を張り上げて雄叫びを上げる。そして、不愉快な蟲の怪物の群れへと全力疾走で突貫した。
「──────」
波紋に揺蕩う水面。そこに映る黒い龍の騎士を、鏡像の存在を置き去りにしたまま。
仮面の隙間から覗き、紅く吊り上がった双眸。それは果てしない赫怒を滲ませている。
黒い影の中に生じた深淵の底の底。命なき者たちの、
(蟲蔵の描写自体は最初の方からやってたし、案外大丈夫か……?)
今回真司が迷い込んだ不可思議世界は、VITA版stay nightのHFルートのオープニング冒頭にて、桜が彷徨っていた場所を見て閃いたものです。
ミラーワールドの起源や虚数の設定が劇中で曖昧だったからこそ、無理矢理出来た所業。
そして、黒い影との初遭遇から感想欄で散見されたペルソナでオルタナティブでアルターエゴな奴。本格的な参戦は真司の願い次第であります。
感想、アドバイス、お待ちしております。