Fate/Advent Hero   作:絹ごし

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第42話〔Notice Sorrow〕

【STRIKE VENT】

 

 カードを切り、召喚した籠手でレイドラグーンの影を全力で殴り付ける。水風船を割るように、首から上が弾け飛んだ。

 背後からの攻撃を屈んで回避し、振り向きざまに左手の青龍刀を振るう。バターを切るように、首から下が寸断された。

 

「──────」

 

 得物を手にした個体が五体。空中で翅を振動させながら、連携して突進を繰り出してきた。

 躱し、往なし、受け流し、弾き、凌ぎ。切っ先を一切掠める事無く、一か所に固める。

 一瞥もせずに右手の籠手を突き出す。龍の(あぎと)を抉じ開け、後方の集団へと熱塊を放つ。

 周囲を飛び交う羽虫を数多く巻き込んで、爆炎が炸裂した。水面が波打ち、足裏を揺らす。

 

「──────」

 

 仮面の奥の双眸を間断なく動かし、矢継ぎ早に迫り来る鉤爪の軌跡を見極める。

 足を間合いに踏み込ませながら、次にとるべき行動の最適解を弾き出してゆく。

 殴り抜かれ、叩き切られ、蹴り飛ばされ、焼き尽くされ。圧倒的に数で優っている筈の群れは、徐々に数を減らしていった。

 

「──────」

 

 優位が覆され、討伐の回転率が上昇する。戦いの体を成した駆除は収束へと向かい、加速する。

 やがて、コールタールのように黒ずんだ怪物たちの体液が、水面に幾つもの流れを作った。

 その流れは重なり合って黒い河川となる。そして、その河川は黒い龍となり、鏡面の中へと、黒い仮面の騎士の元へと飛び去って行った。

 

 

 

●●●

 

 

 

 耳障りな吃音と羽音を垂れ流す邪魔者は、目につく限り全て排除した。後は帰るだけ。

 痛みと疲労が蓄積した身体を、それ以上に衰弱した精神を奮い立たせ、龍騎は歩き出す。

 

「はぁっ……はあ……っ」

 

 息を吸って吐く。そんな当たり前の行為が、何よりも困難だった。酷使された呼吸器は、その役割を果たす度に喘鳴を漏らす。

 真っ直ぐ前を進む。そんな当たり前の行為が、何よりも困難だった。酷使された両足は、一歩一歩を踏み締める度に縺れる。

 

「あの子は、こんな、程度じゃ……なかったんだ……っ」

 

 あの子は、もっと辛い思いをしてたんだ。だから、こんな所で止まっちゃいけないんだ。

 龍騎は己にそう言い聞かせ、水面が広がる世界を彷徨い続ける。

 転び、立ち上がり、また転ぶ。立ち上がる体力が無ければ、体力が戻るまで這いつくばって前進した。

 

「っ……っ、……っっ」

 

 一日経っただろうか、一週間経っただろうか。或いは、一年経っただろうか。

 現実世界への帰還という一点にのみ注がれた思考は、龍騎から時間の概念を忘失させる。

 進めど進めど、一向に地表を晒さぬ水面。やがて、覚束ない足取りは、つま先の位置にあった小石によって躓く。

 

「───!」

 

 掌と膝を反射的に突いた瞬間。水面に生じた大きな渦が、龍騎を巻き込んでゆく。

 三度目となる世界の変異を認識したのは、再び立ち上がってからだった。

 

「此処、は……」

 

 仄暗い曇天の空から一転、真っ暗な岩の天蓋が空を覆う大空洞。共通点は、太陽が遮断されている事だけ。

 龍騎が居た場所は大空洞の最奥部、祭壇を想起させる切り立った丘だった。

 空気の循環が堰き止められ、淀みに満ちた空間。その淀みが、呪詛となって地下世界に反響する。

 だが、頭蓋を揺らす呪詛でさえ、今の龍騎にとっては単なる景色の一部に過ぎなかった。

 

「出口、何処だろ……」

 

 斜面を転がり落ちて、祭壇から降りる。碌に像を結ばない視界を頼りに、此処から抜け出せる出口を探す。

 すると、張り巡らされた岩壁から、真っ黒に空いた空洞を見つけた。誘われるように、龍騎は洞穴へと入り込んで行く。

 

「………………」

 

 天井には氷柱状に垂れ下がった鍾乳石。地面には筍状に突き出た石筍。

 洞穴を潜ると、そこは鍾乳洞だった。龍の牙のように生え揃った通路を闇雲に進む。

 心臓から動脈へ、動脈から末端へ。血管を思わせる細い通路や、胃を思わせる広場を抜けてゆく。

 

「………………!」

 

 そして、食道のような急勾配の坂道に至った直後。冷たい向かい風が身体を通り過ぎた。

 外から吹き込んで来た風。そう理解すると同時に、四つ這いになって坂を上る。

 巨大な生物の体内を模した大空洞。そんな錯覚は頭の片隅に押しやられた。

 

「外、戻ってこれたんだ……」

 

 そして、龍騎は遂に異界めいた洞窟からの脱出を果たす。正真正銘、元居た現実の世界だ。

 月明りが覗く夜空。そこから点々と降り注ぐ牡丹雪が、その確信を抱かせた。

 安堵の念から弛緩しそうになる四肢に力を込め、獣道を掻き分けて行く。今度は、坂を下って道路を目指した。

 

「……大体、柳洞寺の辺り、かな」

 

 自身が発する呼吸の音と声が、数少ない音源となった静寂。誰の足跡も見当たらぬ、無傷の新雪。

 路面の隅々にまで降り積もったそれは、街一帯の音を吸い込んでいるかのようだった。

 龍騎は晩冬の雪景色に目を剥きながら、一歩目を踏み出す。独特な音が足裏から発せられた。

 

「………………」

 

 根拠は何一つとして無いが、家に帰れば桜に出会える気がした。龍騎の足の向き先が、自然と間桐の家に向けられる。

 荒々しく、口から漏れる白い呼気。白い静謐を踏みしめる、荒々しい跫音。半身が黒い返り血で染められた後姿。

 それは、現世に迷い込んだ幽鬼が如く。なだらかな雪の上に不規則な足跡を、見苦しい傷跡をありありと刻んでいった。

 

 

 

●●●

 

 

 

 瞼を開けた瞬間、記憶の世界から解放された瞬間。桜は反射的に身体を起こす。

 辺りを見渡すと、そこは見慣れた自宅のリビングだった。照明は灯っておらず、夜闇を含んだ静寂が辺りを浸している。

 何故、自分は此処に居るのか。こめかみを抑えながら、一連の経緯を思い出そうとした。

 しかし、断続的な頭痛が、その行為を阻む。今日一日何をしていたかさえも、桜には回想できない。

 

「───目を覚ましましたか。サクラ」

 

「……ライ、ダー?」

 

 だが、少しだけ距離を置いた対面に、霊体化を解いたライダーが姿を現す。

 普段の淡々とした調子とは違う声音。外庭へと繋がるガラス戸を背にした立ち位置。

 彼女が自身に対して警戒心を抱いている事は、眼帯越しからでも把握できた。

 

「私、どうして…………っ」

 

 このような夜更けに至るまで、何があったのか。そう尋ねるのが恐ろしかった。

 桜は後に続く言葉が発せられず、喉を震わせて上着の胸元を握りしめる。

 地に足を付けているというのに、泥沼に沈んでいくかのような感覚。止め処なく胸の奥から湧き出る恐怖が、桜を酷く苛んだ。

 

「貴方が自我を取り戻せたのは幸いです。……シンジが攫われたと知った時から、貴方は我を忘れてましたから」

 

 桜の様子を見遣ったライダーは、慎重に言葉を選んで教えてくれる。

 この日、どのような出来事があったのかを。どのような事態が起こされたのかを。

 

「貴方を止められなかったのは、私の落ち度です。……それ以前に、シンジから目を離していた事も」

 

 先ず、隣の部屋で寝ている筈の兄が、忽然と姿を消した事に桜は気付いた。

 夜が明けるまで家の中や周囲を捜索するものの、結局は見つからず。やがて、アインツベルンからの手紙が届く。

 その手紙には、桜の焦燥をこれ以上なく刺激する文章がしたためられていた。必然的に、己の感情を抑えきれずに暴走したのだ。

 そして、兄を見つける事すらままならず意識を失い、今に至る。

 

「……私は魔力の回復に努めます。何かあれば直ぐに呼んでください」

 

 そこまで言い終えると、ライダーはリビングから姿を消した。きっと、現界を厭わせる程に消耗させてしまったのだろう。

 なだらかな静寂を取り戻した空間。時計の秒針の音が、淡々と時間が進むことを示す。記憶の手掛かりを求め、桜は左手の甲を見下ろした。

 

「私、令呪、使っちゃったんだ……。何にも、考えないで───」

 

 かつて、三弁の花びらを模していた紋章。三回限りの切り札である令呪は、たったの一画だけ。

 赤い痣。視覚に指し示された色彩が引き金となる。網膜に焼き付いた光景を再生させる。

 怪物と呼んで差し支えのない蛮行を振り撒いた黒い影。その蛮行を一身に引き受けた仮面の騎士。

 

 ───真司。

 

 そして、龍騎という名の仮面を持った青年の、正義など無い戦いの日々。桜は何もかもを思い出した。

 彼はライダーバトルの中で命を落とし、何らかの因果によって聖杯戦争に介入していた。一貫して、戦いを止めて人を守る為だけに。

 

「あ、ああ……、あぁぁ……」

 

 二度目の戦いに臨む彼を黒い泥沼の底へと沈めたのは、他ならぬ自分自身だ。

 かつて、桜自身が蟲蔵へと突き落とされた瞬間を再現するかのように。

 命の恩人である彼を、もう一度殺したのだ。尊ぶべき行動原理を諸共にして。

 呻き声を漏らしながら、桜は己の顔を手で覆い隠す。それでも、瞼の裏には彼の仮面が映っていた。

 

「──────」

 

 だが、罪悪感が心を軋ませる最中。別の何かが軋むような音が外から響き渡り、桜の意識を無理やり切り替えさせる。

 間桐邸を取り囲む煉瓦の塀。敷地と道路を仕切る門が開かれたのだと気づくまでに、数秒の時間を要した。

 

「兄、さん……!」

 

 一向に作動しない結界。それは、門を開いた者が侵入者では無い事を示していた。

 間桐邸の一帯に張り巡らされた結界が受け入れる者。それは、桜やライダー以外にはたった一人しか居なかった。

 桜は背もたれに掛けられていたコートを掴み取り、袖を通しながら玄関へと駆けてゆく。

 罪悪感から目を背けられるだけの安心感が欲しい。卑しく浅ましい感情が全身を突き動かし、外に出た。

 

「───な、なんで」

 

 扉を開き、門を見やる。たったそれだけの動作で、桜が胸に抱えていた一切合切は打ち砕かれた。

 しんしんと降り積もり、外庭を銀世界に染め上げた雪。その上を赤と黒が混じった人影が歩いている。

 求めていた人物の姿は何処にも無い。桜の希望的観測と対極に位置する存在が、其処には有った。

 

「なんで……っ」

 

 死んだ筈の貴方が、此処に居るの。受け入れられない光景を前に、思わず桜は言葉を漏らした。

 黒い液体に染め上げられた半身。そして、月夜の中で異彩を放つ赤い視線が、桜へと注がれる。

 

「……っ、……っっ」

 

 暗い静寂を揺らす呻き声は、果たしてどちらが発したものだったのか。

 それは、垂れ下がっていた右手を真っ直ぐに伸ばし、覚束ない足取りで歩み寄って来る。

 桜の双眸に映るそれは、慚愧の念を携えて彷徨う亡霊にしか見えなかった。

 彼の半生を垣間見てきたからこそ、多くの人々に害を及ぼす怪物を討ち果たしに来たのだとしか思えなかった。

 信じるもの。最期に見出したそれを履行する為だけに、舞い戻って来たのだと。

 

「こ、来ないで……!」

 

 徐々に縮まってゆく彼我の距離。あの手に触れてしまえば、彼が斃してきた怪物の一員に加えられてしまう。

 怖いものは追い払ってしまえばいい。怖気に駆られた桜の思考は、逃避にも似た答案を弾き出す。

 そして、威嚇射撃の意を込めた影の弾丸を、桜は迫り来る相手に……龍騎に放った。

 

 

 

●●●

 

 

 

 右腕に駆け巡った熱い感触が、朦朧としていた意識を叩き起こす。後ろへ崩れそうになった姿勢を、数歩後退る事によって支える。

 降雪に混じって細かく飛び散った自らの血。それが切っ掛けとなり、龍騎の視覚は像を結び始めた。

 

「………………?」

 

 真っ先に目に入った桜を見やり、龍騎は疑問に思う。何に対してそんなに怯えているのかと。

 大丈夫だと示すように、緩慢と歩み寄る。しかし、桜は相貌を恐怖に引き攣らせ、己の影を展開させた。

 影法師が攻撃的な形を成してゆく。それにつれて、桜の肌を赤黒い呪印が伝ってゆく。

 

「やだ……っ! 私は、まだ死にたくない! とっくの昔に死んでる筈の人が、最初から居ない筈の人が、未練がましく私の邪魔をしないでよ!」

 

「………………!」

 

「私には、守りたい人が居るの。どれだけ嘘を重ねても、悪い事をしても……。一緒に幸せになりたいって、一緒に生きていたいって思えた人が居るの……っ!」

 

 上ずった声で叩きつけられた生存の意思。その言葉を受けた龍騎は、怯むように立ち止まった。

 龍騎が桜の過去を知ってしまったように、桜も龍騎の過去を最後まで知ったのだろう。

 面持ちに浮かべられた恐怖は必然だった。だが、龍騎はこの場を立ち去ろうとはしなかった。

 黒い影が、桜の背丈を超えて間合いに捉える。茨にも似た尖鋭が一斉に襲い掛かろうとする。

 

「───嘘、重ねても、悪い事、しても……か。俺、今の今まで、何やってたんだろ……。ずっと、君の事、見守ってるつもりになって、向き合ったつもりになって」

 

 本当は、何一つやれた事なんて無かったんだ。刺突が繰り出される寸前。碌に身動ぎもせずに掠れた声で発した。自らを戒める囁きを。

 やがて、龍騎は左手を腰のカードデッキへと伸ばす。一切の躊躇いも見せずに、後戻りができる退路を断つ。

 

「──────」

 

 ベルトから引き抜かれた龍のエンブレム。眩い光を放ちながら、身体から剥離する鏡の層。

 維持する力を失い、変身は解かれる。自ら龍騎の仮面を外した真司は生身を晒し、正体を明かした。

 寒空の下に吹き曝しとなった傷だらけの相貌に、希薄な微笑を張り付けて。

 

「……さっき、君が言ってた事さ、本当にその通りだって思った。とっくの昔に死んでるやつが、必死に生きようとしてる君を、邪魔してたなんて……」

 

「……兄……さん?」

 

 目の前の光景が信じられない。愕然とした表情と震えた声音が、それを示していた。

 慣れ親しんだ呼称に対して、真司は首を横に振る。嘘で塗りたくられた関係に終止符を告げるのだと。

 

「初めて会った時から、俺は君の、お兄さんじゃない。……俺、自己紹介の時点で、嘘ついてたんだ」

 

 その言葉を皮切りに、真司は途切れ途切れながらも己の罪を紡いでゆく。赤錆によって濁った配管の水を、蛇口から吐き出すように。

 十年近くもの間を暮らしておきながら、間桐の真実に何一つとして気づけなかった事。

 今の今まで自らの正体を隠し、何も知らずに桜の邪魔をし続けていた事。

 そして、望んではいなかったとはいえ、間桐慎二という少年に成り代わった事。彼を装って生前の未練を清算しようとした事。

 

「死んだら、終わりだってのに……。インチキしてまで、しがみついて。殆ど、悪霊だよ……」

 

 何もかもを吐き出し終えると、胸の中に溜まっていた淀みが晴れて行く気がした。だが、その感覚を噛み切るように、真司は自らの唇を噛み締めた。

 一時凌ぎの感覚に、甘んじようとするな。そう言い聞かせ、晴れた空白に自責の念を埋め込む。

 

「……でも、このまま何もしないで消えるのは、嫌なんだ。……逃げるのは、どうしても嫌なんだ」

 

 真司は拒絶の意を呟き、桜が具現化させた影を見やった。桜の心理状態に左右される現象なのか、文字通り見る影も無く萎縮していた。

 動揺による戦意喪失。影が襲い掛かる気配は皆無。そう判断すると、絶句したままの桜に対して二の句を継ぐ。

 

「戦いを、止めたい。誰も、君も、死なせたくない。……だから、君には家で待っててほしい。全部、俺がなんとかしてみせるから」

 

「………………ぁ」

 

 伝えなければならない事は全て伝えた。他人行儀な言葉と同時に、真司は緩慢と踵を返す。桜に対して無防備な背中を晒す。

 そして、数秒の間を置いて攻撃が来ない事を確認し、不安定な歩みで立ち去った。

 戦いを止める手段に関しては、現時点ではどうにもならない。桜の心臓が聖杯の片割れなのだから、破壊は論外だ。

 

「………………」

 

 しかし、桜を救う手段に関して、真司には一つだけ心当たりがあった。戦いを止める手段も、それに連なるのだ。

 どちらにせよ、一刻を争う。急いた思いを反映するかのように、無意識に歩みが早まってゆく。

 敷地と道路を隔てる中途半端に開いた門が、悠然と真司を待ち構えている。

 

「───いっ、行かないで……」

 

 鉄格子に手を伸ばし、隙間を広げようとした寸前。桜が咄嗟に声を張り上げた。

 この期に及んで、彼女はこちらの身を案じてくれるのか。自らが置かれている現状も顧みずに。

 だが、真司は決して振り返らない。歩みを緩めずに左手を掛け、門戸を開く。通り道が広がり、蝶番が軋む音を立てる。

 

「………………」

 

 十分に通れるようになった門を正面に、雪を被せられた煉瓦の塀を横目に見やる。

 もう二度と、この境界線を越える事は無いだろう。そんな確信を携えながら、真司は前方の道路へとを意識を向けて足を踏み出し───。

 

「───行かないでっ!」

 

 意識を逸らしていた背後から、抱き締められた。唐突に加わった重みを、真司の両足は支えきれずに転倒しかける。

 だが、腰に回されていた桜の両腕が、それを未然に防いだ。回された腕に自然と力が加わり、重心が桜の方へと傾く。

 

「……危ないから、離してよ。急に気が変わって、俺が襲ってきたら、君はどうするのさ。散々、君に痛めつけられて……。結構、イライラしてるかもしれないし」

 

 絶対に有り得ない仮定を口にして、桜の恐怖心を煽った。しかし、桜は真司を離そうとはしない。

 寧ろ、より一層に力を強めて密着してくる。その動作に連動して、手先を伝っていた呪印が袖口へと逆行してゆく。

 それは、一切の害意を無くしたのだという証明だった。緊張に強張った抱擁が、真司を絆そうと拘束する。

 

「分かって、るんです……っ。兄さんがあの人だったんだって知った途端、手のひらを返して、都合が良すぎるって。……でも───」

 

「───何回も、言わせないで。……君が、守りたいって思ってたお兄さんは、最初から居ないんだ。……もう居ない人となんて、幸せになれないだろ」

 

 だから、君の願いは絶対に叶わない。桜が必死に捻り出した言葉を阻み、突き放すように告げた。

 桜の動揺が、背中越しに伝わってくる。もう一押しで、この腕はほどける。真司はそう判断し、続けざまに言い放つ。

 

「だけど、君はまだ生きてる。生きてるって事はさ、どれだけちっぽけでも、幾らでも、新しい願いを見つけて。……叶えるために、頑張れる権利があるって事なんだと思う」

 

「………………!」

 

 だからこそ、死んだら終わりなのだ。終わった者は、後進に道を譲らなければならない義務があるのだ。

 乾いたスポンジが水を吸うように、自ら言い放った言葉が胸の奥に浸透する。

 此処までに至って初めて、真司は明確な言葉にできた気がした。自分が信じるものを。

 

「せめて、俺は、その権利を守りたい。たった一度与えられたチャンスが、簡単に失われるなんて、俺は許せない」

 

 己に課せられた義務を全うする為に、理不尽な死を振り撒く戦いを止める。兄を失った妹の命を救う。

 それこそが死に損なった贖いになるのだと、真司は思い始めていた。そして、ゆっくりとした手付きで桜の手を掴もうとする。

 

「だから、もう行かせて───」

 

「───っ……っ、っっ……真司、さん……っ!」

 

 だが、指先が触れた瞬間。桜がもう片方の手を重ねてきた。続けて、指と指を絡み合うように握ってくる。

 桜の口から発せられた呼称に、真司は訳も無く狼狽えた。偶然、この身体と一致していただけの名前を呼ばれただけで、心が揺さぶられた。

 

「お、俺の話、聞いて、なかったのかよ。結構、頭ひねって、考えてたのに」

 

「っ…………やだ」

 

「は、離せって。その、危ないから」

 

「やだ…………っ!」

 

 覚悟が鈍る。このままでは駄目だ。しがみつく桜を力づくで振りほどこうとするが、肝心の力が入らない。

 頑なに、背中から離れない彼女を言いくるめようとするが、肝心の言葉が出てこない。

 力では及ばず、言葉でも及ばず。見苦しく駄々をこねる少女に対して、抵抗らしい抵抗も出来ない。

 遅々とした流れで周囲を浸す零距離の沈黙。どちらかが譲らなければ、絶対に交わらない垂直な線と線。

 

「……どう、しても……?」

 

 真司は所在の無い声音で尋ねた。遅れて、縦に摩るような感触を背中が感じ取る。桜は顔をうずめたまま、静かに頷いていた。

 ふと空を見上げると、雪が止んでいる事に気がついた。それと同時に、押し殺された嗚咽が真司の耳朶を打つ。

 

「泣くほど嫌だったら、しょうが、ない、か…………」

 

 真司は細まった双眸を完全に閉じ、瞑目する。そして、桜の手を徐々に握り返した。

 視覚が遮断され、触覚がそれを補って鋭敏になる。掌が微かな熱を知覚する。

 決して、この熱を絶やしてはならない。そう思いながら、真司は桜に寄り掛かって身を委ねた。

 




三十万文字を目前にして、遂に正体バレであります。ここまで本当に長かった。

一応つけ足しておくと、小聖杯→虚数空間→大聖杯→脱出。という悪路で真司は帰ってきました。
鏡の中に居てもある程度耐えられるんだから、大聖杯でも一瞬だけ通り過ぎるぐらいへっちゃらでしょう。

それと、次回の更新は二週間後になります。早々に週刊更新が途絶えて申し訳ない。

感想、アドバイス、お待ちしております。
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