Fate/Advent Hero   作:絹ごし

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第43話〘Mirror Image〙

 足裏の接触と共に生じる微かな床鳴り。板の間の廊下を進み、突き当たりを右に曲がる。そうして、大きな隙間が開いた襖の前に差し掛かった。

 ここはかつて、切嗣の部屋だった場所だ。士郎はやや遠慮がちな歩幅で部屋に入ってゆく。

 

「雪、止んだみたいだぞ」

 

「……そう」

 

 そして、部屋の真ん中で座り込んだまま、動こうとしないイリヤに声をかけた。

 背後からの接近に振り向きもされず、空返事だけが返ってくる。少女の視線の先には、年季が入り始めた仏壇と遺影が有った。

 士郎にとっての義理の父であり、イリヤにとっての実の父。兄弟という関係を結び付けた人物の遺影を、二人一緒になって眺める。

 

「………………」

 

 一方的ではあるものの、命のやり取りをした少女。士郎はなし崩しでイリヤを抱きかかえて森から逃れ、なし崩しで家まで連れ帰ってしまったのだ。

 同盟相手である凛と合流した際、彼女からの反発は凄まじいものであった。更なる戦いが勃発してしまいかねない程に。

 遅れてやってきたアーチャーが凛を宥めなければ、間違いなく同盟は打ち切られていただろう。

 

「さてと、老けたキリツグの顔も見飽きてきたし、そろそろお暇しようかしら。……思ってたより居心地よくって、長居しちゃった」

 

 これまでの経緯を振り返り、これからの行動を考えようとした折。小さな背中が徐に動き出す。

 士郎は仏壇を見やった後に、イリヤの後を追った。隣を歩きつつ、それとなく引き留めようとする。

 

「大丈夫なのか。もう夜遅い……のは関係ないとしても、イリヤさえ良ければ……」

 

「……とっても魅力的な提案ね。でも、そこまでお世話にはなれないわ。アイツに勝つまでは」

 

「イリヤ……」

 

 しかし、イリヤは立ち止まろうとしない。遠回しな誘いに微笑を浮かべながらも、その赤い瞳には暗い感情が見え隠れしていた。

 直ぐ傍に居る士郎に対してではなく、何処に居るかも分からない桜に対して、この少女は燻らせている。身に余る敵愾心を。

 

「取り敢えず、見送ってくからな」

 

 聖杯戦争の成り立ちに関しては、士郎もある程度の把握を済ませた。

 しかし、イリヤが桜を率先して仕留めようとする真意を悟れず。

 何か、自分の知らない大きな秘密が有るのではないか。士郎はそう思いながらも、踏み込む事を厭う。

 迂闊に踏み込めば容赦はされないのだと、イリヤの言動から読み取っていたからだ。

 やがて、二人の足は玄関に至る。立て掛けられた上着に袖を通して靴を履き、外に出た。

 

「わぁ……シロウの言ってたとおりね。冬木でも雪が降るのは知らなかった……」

 

「積もるぐらいに降ったのは相当久しぶりなんだけどな。今の時期でもあっという間に溶けると思うから、雪かきはしなくて済むのが幸いか」

 

 玄関の引き戸を開いた先には、銀の世界へと変貌した庭が広がっていた。雪は靴のつま先が埋まる程度にまで積もっている。

 屋根にはどの程度積もったのか。足元から頭上に視線を上げて確認した後に、士郎は再び歩き出して門へと手をかける。

 

「……イリヤは、今から戦いに行くつもりなのか。その、桜と」

 

「……そうしたいのは山々だけど、少しだけ様子を見てからにするわ。リンの言ってた話が本当かどうかも、出来るなら確かめておきたいし」

 

「……そうか」

 

 そんな問答を交わしながら長屋門を通り抜け、道路に出る。アスファルトを覆い隠す雪道が、何処までも続いていた。

 そこに、バーサーカーが虚空より姿を現わす。イリヤの意に従い、片膝をついて跪いたまま。

 

「よい、しょっと……それじゃあまたね、シロウ」

 

「……ああ、他のサーヴァントが来ないとは限らないんだから、気をつけて帰るんだぞ」

 

 イリヤという小柄な少女が、バーサーカーという巌の巨人の肩に乗る。不思議と釣り合いの取れた光景だった。

 手短な挨拶を終えると、バーサーカーが歩き出す。巨体に違わぬ歩幅で遠のいて行く。完全に見えなくなった頃合いで、士郎は踵を返した。

 

「……龍騎の正体が、慎二かもしれない、か」

 

 本当ならば、今すぐにでも飛び出してゆきたい。町中を駆けずり回ってでも、龍騎の安否と正体の真偽を確かめたい。たとえ、徒労に終わったとしても。

 しかし、セイバーやアーチャーは日中の戦闘を経て大きく消耗していた。ある程度戦いに食らい付けるようになったとはいえ、一人で行くのは無謀過ぎる。

 

「………………」

 

 門戸を閉め終え、玄関の軒先へと戻ろうとした直前。イリヤが描いたものと思しき落書きが、士郎の目に止まった。

 龍騎の腰にある、特徴的なバックルの紋章を模した物か。雪の表面に指先を用いて描いたが故に、所々が歪んでいる。

 奇妙な胸騒ぎを覚え、士郎は思わずその落書きを足で踏み消してしまう。そして、今度こそ家へと戻っていった。

 

 

 

 

●●●

 

 

 

 血の飛沫が付着した龍のエンブレム。リビングテーブルの上に置かれたカードデッキを見下ろしながら、真司は包帯を巻かれた手足の動作を確認する。

 きつすぎず、緩すぎず。丁度良い具合の締め付けだった。確認を終え、シャツを頭から被って着用。そして、手当てをしてくれた感謝を述べようと、桜の方を振り向く。

 

「包帯、こんなに沢山……。私が、知らない間に……」

 

 しかし、呆然とした面持ちで発せられた桜の呟きが、咄嗟に真司の口を噤ませる。

 彼女の視線の先には、血や汗で汚れて駄目になった包帯の丘陵。それと、すっかり幅を狭めてしまった包帯の円柱。

 きっと、身体の半分ぐらいはミイラ男になっているに違いない。真司は頬に張られた四角い絆創膏を撫でつつ、そんな事を思う。

 

「う、うーん。誰が相手でも、怪我なんかしないくらい。そのぐらい俺が強かったら、こんなに無駄遣いする事も無かったんだけどな」

 

「………………」

 

 どうにか意識を逸らせないかと口にした言葉の効果は、いまひとつ。桜は瞳に悲しみを滲ませたまま、何も言わずに俯いた。

 気まずい沈黙に居た堪れなくなり、真司はカードデッキを拾い上げる。続けて、包帯の切れ端を用いて汚れを拭き取っていく。

 すれ違いの一因であるのも否定できないが、もう一度死ぬまで世話になる代物だ。自分の血で汚れたままでは気分が悪い。

 

「……それを使って、真司さんは変身してるんですよね。……仮面ライダーに」

 

「うん? まあ、そうなんだけど……」

 

 血を綺麗に拭き終え、輝きを取り戻した龍の紋章。複雑な眼差しでそれを眺めていると、桜が遠慮がちに話しかけてくる。

 きっと、これに興味があるに違いない。真司の予想をなぞるかのように、桜はとある要求を言ってきた。

 

「……ちょっと、貸してもらってもいいですか?」

 

「壊したりとかしたら、俺が大変な事になるから絶対やめてよ?」

 

 少しでも憂鬱とした気分が紛れるのならば。真司は若干躊躇いながらも、頷きを返した桜へとカードデッキを手渡す。

 ガラス細工に触れるかのような手付きで受け取り、桜はデッキから一枚のカードをゆっくりと慎重に引き抜いた。

 契約を交わした証書とも呼べるアドベントのカード。赤い龍が描かれたそれを、桜の双眸は一点に注視している。

 

「私が、この子を選んだんです」

 

「………………?」

 

 この子を選んだとは、どういう意味なのか。間を置いて紡がれた不可解な言葉に、真司は首をかしげる。

 すると、何か言いたげな視線を汲み取って、桜はいつの間にか持って来ていたスケッチブックを取り出す。そして、徐に表紙のページをめくった。

 

「これ、ドラグレッダーじゃないか……! それに、ダークウィングも……!」

 

 机の上に広げられ、露わとなった不恰好なクレヨン画。モンスターたちの絵が目に入った途端。

 真司は反射的にスケッチブックを手元に引き寄せた。一つ一つ、食い入るように見つめ、ページを次々とめくってゆく。

 かつて、真司が対峙し、退治してきたミラーモンスターたち。その姿形は、子どもの絵となっても依然変わりない。

 

「この絵、桜ちゃんが描いたってわけじゃないんだよね? もしかして───」

 

「───優衣ちゃんです。……優衣ちゃんはこれを宝物だって言って、私に譲ってくれました」

 

 真司が追及するまでも無く、桜は肯定する。この沢山のクレヨン画は、優衣が描いた代物である事を。自分を守ってくれるようにと、優衣から託された代物である事を。

 当時の出来事を語って思い出したのか。桜は手元のカードと絵を見比べながら、ほんの一瞬だけ薄く微笑んだ。

 だが、それにも直ぐ影が差す。俯いて差し込んだ影には、後悔の念が色濃く滲んでいた。

 

「それで、私がこの子を選んだから、この子と契約していた真司さんに、きっと私が……」

 

 今後、最も身近となる人物に、自分の兄となる人物に成り代わってしまったのだ。途切れた言葉に、真司は内心でそう付け足す。

 ミラーワールドとの関連性を疑う余地は無かった。優衣が、あの世界の住人が、桜に手渡した物ならば。

 眉間に皺を寄せながらスケッチブックを閉じ、鏡の世界によって引き起こされた現象を振り返る。

 

「……不謹慎だって、分かってるんです。でも、どうしても思っちゃうんです。……真司さんが、兄さんとして、ここに来てくれて良かったって」

 

 時計の分針が極僅かにずれる。すると、今度は桜の方が沈黙に耐えられなくなった。自らの本音を吐露し、更に顔を下ろしてしまう。

 生きている桜の想いを尊重し、首を縦に振るべきか。死んだも同然の慎二を尊重し、首を横に振るべきか。脳裏に提示された二択は、真司に対して不利すぎるものだった。

 

「………………飯」

 

「………………?」

 

「飯食ってないから、そんなに悲観的になっちゃうんだよ。……俺も、今日一日は碌に飲まず食わずだったしさ」

 

「確かに、そうかもしれませんけど……」

 

 故に、真司は話題を逸らした。腹を摩って胃袋が空っぽだという事を、大げさに示して立ち上がる。

 どちらにせよ、腹を満たさなければ明日の戦いに支障をきたす。そんな理由を付け、キッチンへと向かう。

 

「あっ───」

 

 しかし、急な動作に身体が言うことを聞かない。一歩踏み出した足に後続の足が躓き、真司は前のめりに体勢を崩す。

 顔面を床に強打。怪我まみれの顔に、更に怪我を重ねる。かと思われた寸前で、桜が咄嗟に身を乗り出して支えとなってくれた。

 

「───危ないですから、急に動かないでください。晩御飯なら私が作りますから。……それに、そんな手で料理されたら、また包帯取り替えなきゃいけなくなるので」

 

「ご、ごもっともで……」

 

 結果的に目論見通りとなったが、まるで要介護者ではないか。甲斐甲斐しく元居たソファに座らされ、そのような感想を抱く。

 やがて、キッチンの奥から聞こえてくる料理の音。一切の介入を許さぬという意思が、小気味よい音の中に含まれている。

 空元気で動いた結果、見事に空回り。真司は所在なく天井を仰いで、魂まで抜け落ちるかのような溜息をついた。

 

 

 

●●●

 

 

 

「だ、大丈夫だって。さっきは、ちょっと張り切りすぎたというか……油断してただけなんだからさ」

 

「自分の足に躓くような人を、放っておけるわけないです」

 

 献身的な介護は続く。食欲の次にやってきた睡眠欲を解消しようと、真司は部屋に戻ろうとした。そこに、桜が割り込んできたのだ。

 ささやかな抵抗も虚しく、半ば無理矢理に肩を押し売り。一緒になって廊下を進んで階段を上る。一歩一歩、一段一段に配慮を感じながら。

 やがて、少々の時間をかけつつも真司たちは部屋の前に辿り着いた。桜が率先して扉を開き、室内へと誘導してくれる。

 

「なんか、変な感じがするな。一日だけ、居なかったってだけなのに」

 

「……そう、ですか?」

 

 扉を通り過ぎ、目を向けた瞬間。真司は長い間暮らし、見慣れた部屋の様相に奇妙な違和感を覚えた。

 欠けてはならない何かが欠けている。意識を隅々まで巡らせて、違和感の正体を探す。

 床に脱ぎ棄てられたジャンパー。机に散らばった筆記用具。家具や私物の些細なものに至るまで。

 そして、真司の視線は半端に開かれたカーテンの隙間を捉える。

 

「っ…………!」

 

 向こう側に広がる夜闇ではなく、窓ガラスが反射する鏡像。それを、真司は瞠目して見据えた。

 目の前にある異常を認知していないのか、桜の視線は窓ガラスとこちらの横顔を行き来している。

 

「し、真司さん……?」

 

「…………うん、大丈夫。窓になんかすごい怪我した奴が映ってて、びっくりしただけ」

 

 数秒の間を要して、突き付けられた事実を飲み込む。桜に余計な心配事を増やしてはならないと、真司は笑顔を作って軽口を言う。

 

「それは、その……ごめんなさい。殆ど、私がやって……」

 

「ああいや、嫌味を言いたかったわけじゃなくて……! 全然気にしてないから! 寧ろ、手当てしてくれて感謝してるから!」

 

 言葉の受け止め方が重たすぎると思いながらも、身振り手振りでフォロー。

 その後に、真司は一息を吐こうとする。支えとなっていた肩からすり抜け、ベッドに座り込んだ。

 マットレスの柔らかな感触に脱力し、仰向けになる。桜に礼を言ってから寝る体勢に入る。

 

「………………」

 

「あー……。もう夜も遅いし、桜ちゃんも早く寝といた方がいいよ……?」

 

 その寸前。桜が微動だにせず佇んでいたので、それとなく部屋から退去して欲しいという意を仄めかした。

 しかし、真司の声無き声は桜に届かない。このやり取りに既視感を覚え、続けざまに折衷案を提示する。

 

「それか、俺の寝袋二号使う? 押入れの上の段に有ると思うけど……」

 

「………………」

 

 真司が押入れを指さすと、視線を誘導する事に成功した。したものの、桜は言うとおりに動こうとはしない。直ぐにこちらに向き直ってしまう。

 使い古しの寝袋が嫌ならば、一体どうすれば良いのだろうか。暫しの間、互いに何も言わず見つめ合う。

 

「……怖いんです。ちょっと目を離した隙に、居なくなっちゃわないか。今度こそ、帰って来なくなるんじゃないかって」

 

 すると、桜は小さな声音で鋭く図星を突いてきた。ある程度動けるまでに回復したならば、密かに家を抜け出すという計画。それは、早々に頓挫した。

 露骨に目を逸らしながら頭を掻き、苦笑する。そんな真司の様子を受け、桜の瞳は暗く淀む。そして、更に言葉を続けようとする。

 

「そうなるぐらいだったら、いっそのこと私が、居なくならないように───」

 

「───桜ちゃん」

 

 続けようとした声の端に、微かな害意を感じた。それを言わせてはならないと、言葉の終わりを遮るように名前を呼んだ。

 唇を浅く噛み締めて黙り込んだままの桜を見やり、真司は思う。やはり、聖杯の影響は精神にまで及んでいるのだと。桜の精神が屈すれば、全て終わりなのだと。

 彼女には、折れかけた精神を支える柱が必要だ。たとえ、それが偽りのものであっても。真司は人差し指を真っ直ぐ立てた。

 

「……ねえ桜ちゃん、ちょっと突然なんだけどさ。俺が一つだけ、桜ちゃんの願いを何でもを聞くとしたら、どうする?」

 

「…………え?」

 

「まあ……桜ちゃんにも交換条件として、俺の願いを聞いてもらう事になるんだけどね」

 

 一つずつ、互いに願いを言い合う。唐突な真司の提案に、桜は目を白黒とさせた。

 時間をかけて反芻を繰り返して理解が追いついたのか、おずおずと質問をしてくる。

 

「何でもって、本当に何でも、なんですか?」

 

「ま、まあ……今の俺が叶えられる範囲なのは当たり前だけど、出来る限り頑張るよ」

 

「出来る、限りで……」

 

 何でも願いを聞く。ある意味で確固たる相互理解が築かれていなければ、そうそうに言い出せないものだった。

 先ほどの桜の様子からして、言い出す事はある程度予想がつく。だからこそ、真司は一つだけという制約を設けたのだ。

 だが、桜は願いを直ぐには言い出さず、煩悶とした表情で黙りこくっていた。打算にまみれた思考の片隅に、極僅かな焦りと心配が生まれる。

 

「……なら、お願いです。真司さん、私を……」

 

「わ、私を……?」

 

 今晩何度目かもわからぬ沈黙を経て、もう間も無く告げられる桜の願い。

 真司は口の中に溜まった唾を飲み下し、オウム返しのように尋ねる。

 どうか、些細な願いであってくれ。溜めに溜められた間に戦々恐々としながら、そう思った。

 

「私を…………私と、昔みたいに隣で一緒に寝てくれませんか?」

 

「と、隣ってここで?」

 

 真司が首を傾げてベッドのマットレスを軽く叩くと、桜はゆっくりと肯首した。

 私を、私と。そんな僅かな変化を怪訝に思いつつも、微笑ましさのあまり破顔してしまう。

 同じベッドで寝るなど、いつ以来だったか。別々の部屋で寝ようと言い始めたのは、桜が小学五年生の辺りだった覚えがある。

 

「うん、全然いいよ。ちょっと狭いかもしれないけど、端の方に寄れば……ってあれ? こっち来ないの?」

 

「あ、あの、寝る前にシャワーを浴びたり着替えたりしたくて……」 

 

「ああそっか。それじゃあ寝っ転がって待ってるから、俺の分までさっぱりしてきなよ」

 

「……は、はい。一応、電気消しておきますね」

 

 急かしたつもりは無かったのだが、桜はやや急ぎ気味の歩調で部屋から出てゆく。

 照明が消えて扉が完全に閉まるまで見送った後に、真司は今度こそベッドに倒れ伏す。

 シーツに皺を作りながら枕元へと這って進み、電気スタンドの紐を引っ張る。柔らかな光が、薄く部屋を照らした。

 続けて、伏せられた手鏡を掴み、真司は自らの姿を見ようとする。    

 

「………………っ」

 

 やはり何も映らない(・・・・・・・・・)。自分が誰なのか、どんな姿をしているのかさえも把握できない。

 まるで、鏡像が独りでに鏡の世界へと消えて行ったかのように、一人分の空間が虚しく空いていた。

 

 

 

●●●

 

 

 

 微かな明かりすらも消え、暗くなった室内。そこに、一人分の不規則な寝息の音が流れる。

 

 

「───?」

 

 だが、左半身に妙な違和感を覚え、真司は徐に瞼を開ける。真っ先に目に入ったのは、胸の上に乗った桜の頭髪だった。

 続けて、毛布の下にある膨らみと素肌の感触。それは、真司の腕を胸に抱き寄せて太腿に脚を絡ませ、これ以上にないほど密着している。

 

「……なんかさ、距離感、近すぎない?」

 

 焦点が合わさり、朧げな視界が鮮明になる。何度もまばたきを繰り返して確認した。夢や幻の類でない事を。

 パーソナルスペースという単語を知らないのだろうか。囁く程度の声音で、素朴な感想を呟く。

 すると、桜は小さく肩を震わせた後に、こちらを見上げてきた。暗い中でも判別が出来るほどに、頬を赤く染めて。

 

「………………嫌、でしたか?」

 

「いや、別にそうでもないんだけど。今着てる寝間着だって薄すぎる感じがするしさぁ……寒くない?」

 

「だって……こうした方が……。もしも、居なくなった時に分かるから……」

 

「あー……成程……」

 

 考えも無しに墓穴を掘ってしまった。意表を突いた切り返しに、真司は二の句が継げなくなる。

 少しでも動ける余地が有ったなら、独断専行で外へと抜け出す。そのような可能性を危惧されているのだろう。

 誤魔化すように、空いている右手で桜の頭に手を置く。わざとらしい欠伸をしてから、二度寝の体勢に入ろうとした。

 

「…………そういえば、真司さんが私に聞いてほしい願いって、何ですか?」

 

 しかし、桜からの声は途切れない。先ほどのやり取りに関して、おずおずと聞き返してきた。

 願い。その言葉を心の中で繰り返し呟く。そして、真司は言い出した時点で考えていた魂胆の通りに返答する。

 

「それは……沢山ありすぎて、まだ決められないから、一旦保留ってことで」

 

「た、沢山ですか……」

 

「……そんなに身構えなくても大丈夫だってば。桜ちゃんだって……まあ、程々に遠慮してくれたみたいだし」

 

「………………」

 

 桜の頭を何度か軽く叩き、真司は今度こそ二度寝を決め込んだ。桜も、真司に倣って黙り込む。

 手足でしがみつかれ、寝返りが打てないという窮屈感と密着感。それらの感覚に不思議な心地よさを覚えながら、深い眠りに就いた。

 




ミラーイメージな真司は何処へ……。って思われた方は40話の最後の部分をご参照ください。
正体バレに伴い、うじうじとした展開にも終わりが近づいてきました。吹っ切れて痛快な逆転劇まで、あとちょっと。

次回の更新も二週間開きます。遅筆で申し訳ない……。

感想、アドバイス、お待ちしております。

19/8/11 44話の更新、間に合いませんでした……。来週の日曜か、可能であれば平日以内に更新とさせていただきます。本当に申し訳ない。


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