地面に成り代わり、辺り一面に広がる水面。そこに生じた鏡面には、黒い仮面の騎士が映り込んでいる。
抑揚のない静寂に満ちた空間を見渡した後に、鏡像は歩き出した。地平線とも水平線とも呼べる場所を目指し、黒い龍を伴って。
変化が感じられぬ景色を横目に、これまでの戦いの記憶を手繰り寄せてゆく。仮面ライダーではなく、サーヴァントとの戦いの記憶を。
「──────」
鋭角な軌道を描き、この身を突き穿とうとする紅い穂先。こちらの目に見えぬ刀身を振るい、この身を切り裂こうとする両刃の剣。
馬鹿げた巨体と膂力を以って、この身を挽き潰さんとする巨岩の斧剣。蛇を模した動作で迫り、この身を絞殺せんとする鎖と短剣。
数に物を言わせた人海戦術を用い、この身に襲い来る髑髏の軍団。得物や間合いを自在に切り替え、この身を射抜かんとする洋弓、陰陽の双剣。
夜の闇に紛れて虎視眈々と隙を窺い、この身を切り刻まんとする漆黒の投擲剣。
「──────」
得物や担い手の脅威を比べ、思考する。如何にして仕留めるか、最適解を試行する。
足枷とも呼ぶべき躊躇いをかなぐり捨て、殺し合いを志向する。
積もりに積もり重なって、背負いきれなくなった欲望を清算するために。
「──────」
やがて、とある地点に差し掛かった時点で、鏡像は足を止めて真上を見上げた。
その中心には、指も通せぬ程の小さな孔があった。周囲の分厚い雲を巻き込んで、渦が巻く。
鏡像はそのままの姿勢で制止し、緩慢と仮面の下の双眸を細めてゆく。そして、瞼を完全に閉じ切った。
今はまだ、表に出て行くべきではない。現身が現実を受け入れる瞬間を、鏡像は今か今かと待ち続ける。
「──────!」
洗面器に取り付けられた蛇口から、冷えた水が勢いよく流れて行く。白陶の器の底にある排水溝へと、小さな渦を巻きながら吸い込まれてゆく。
眠気を覚ますために顔を洗いに来たというのに、立ったまま眠りかけてしまうとは。本末転倒だと思いながら、真司はタオルを手に取って水滴を拭う。
「………………」
頬にある剥がれかけた絆創膏をごみ箱に放り投げ、視線を上げて対面の鏡を見据える。
真っ先に目に入るものは、洗濯機と傍に置かれた空っぽの洗濯籠。依然として、鏡は真司の存在を認めてはいない。
だが、真司は知っている。ポケットの中にしまわれたカードデッキは、鏡に映らぬ者でさえも戦える者として認めているのだと。
未だ、ドラグレッダーが襲いに来ないという事実が動かぬ証拠だった。蛇口を捻って水を止め、洗面所を後にしようとする。
「───シンジ」
唐突に、抑揚のない声が意識の外から発せられた。天井から降り注ぎ、人の形を成してゆく粒子。悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい。
真司は素早く身を翻し、正面に見据える。姿を現した不届き者に向けてカードデッキを突き翳そうとする。
「あ、あんたは……」
だが、現れた相手がライダーである事に気付き、その手は途中で止まった。唯一、彼女はマスターが明らかでないサーヴァントだったが故に。
ランサーのマスターはあの神父。セイバーとアーチャーのマスターは士郎と凛。
バーサーカーのマスターはイリヤ。キャスターのマスターは宗一郎。アサシンのマスターは臓硯。
そして、ライダーのマスターこそが桜だったのだろう。得心と同時に警戒を解き、真司は洗面器の縁にもたれかかった。
「きゅ、急に出てくるなよ。心臓に悪いっつーの」
「貴方に言われたくはありません。それも、私が苦手とする鏡を使って……」
真司が恐々と文句を言うと、ライダーも淡々と文句を言い返してきた。釈然としないが、不毛なやり取りだと考え直し、一旦言葉による矛を収める。
一体、どんな要件を持ってきたのか。それとなく、会話の間を使って相手の反応を窺う。やがて、ライダーはおずおずと話を始めた。
「……貴方がサクラの味方であり続ける事に関しては、最早何の疑いもありません」
何の疑いもない。彼女のその声音には、真司に対する全幅の信頼が含まれていた。
昨晩のやり取りや、これまでの龍騎としての行動を鑑みた結果なのだろうか。若干のむず痒さを覚えながらも、真司は話の続きを待つ。
「……ですが、彼女を救う手立てが、貴方にはあるのですか?」
すると、ライダーは一つの問い掛けを投げてくる。信頼はしてくれたものの、今後の行動については疑念が残っているらしい。
はたして、受け入れてもらえるかどうか。真司は頭の中で固めていた案を彼女に対して口にする。
「一つだけあるよ。……それも、絶対助けられるって言いきれる方法じゃないのが悔しいけど」
一昨日の夜、離れ離れとなってしまった協力者。キャスターに助けを求めるのだ。それこそが、真司が絞り出した手立てだった。
柳洞寺にて、彼女は半死半生となった宗一郎の命を救ってみせた。ならば、桜の心臓にある異物を取り除くなど容易いだろう。
そして、桜には聖杯戦争が終わるまで町の外に避難させればいいのだと、ライダーに対して返答した。
「桜を救うためだとしても、戦いには反対と……。シンジは仰るのですね」
眼帯越しから垣間見えた難色。頑なに戦いを避け続ける、苦し紛れな案である事。それは、真司も重々承知している。
手を貸してくれるか、助けられるかも分からない。何処にいるか、生きているかすらも把握していないのだから。だとしても、これが真司にとっての精一杯だった。
「…………うん。あんただって分かってるんだろ。俺には、どうやっても誰かの命を奪えないって───」
「───それが、聖杯によって呼び寄せられた仮初めの命であったとしても、そう言えますか」
ライダーは言い訳を途中で遮り、その精一杯を容易く覆す。サーヴァントという存在が、尋常なる生命ではないという事を語る。
途方もない遥か過去を生き、死後に信仰を集め伝説となった英霊。サーヴァントとは、その英霊の因子を使って作られた分身のようなものだという。
真司が魔術に関しては門外漢である事を配慮して、噛み砕いて為された説明。死を経たという一点に限れば、彼女らは真司の同類だったのだ。
「……ある意味で、私たちは自然の摂理に逆らって存在する兵器だ。……貴方が龍騎としての力を振るう理由は、それで十分ではありませんか」
「………………!」
戦いへと焚きつけられている。己の力を振るう理由を、ライダーはありありと提示している。彼女の言葉を切っ掛けに、ある光景が真司の脳裏をよぎった。
空高く立ち昇った眩い光。その光を目掛けて飛んで行く赤い龍。ドラグレッダーが他のモンスターの力を吸収する光景だ。
「………………」
桜の記憶を見た際に、真司は朧げながらも把握している。聖杯とは、敗れ去ったサーヴァントたちの魂を贄として、初めて形を成す代物なのだと。
ならば、ドラグレッダーを利用し、その魂を横から掠め取れば良いのだ。
桜が聖杯となってしまわぬように、全てのサーヴァントをこの手で仕留めれば良いのだ。
「……多分、俺には出来ないと思う。結局、途中で迷って返り討ちに遭うと思うんだ。……兵器だとしても、心を持ってる相手なら」
「シンジ……」
しかし、真司は首を横に振る。降って湧いた最適解を頭の片隅へ追いやった。
大なり小なり、関わりを持った者達に対して殺意を向けるなど。持ち合わせた良心が許さなかった。
期待には応えられないと、ライダーに対して厭戦という意思を示す。
すると、ライダーはこちらの名前を呟いた。薄く吐き出された呼気に伴ったものは、落胆だろうか。
「……分かりました。サクラの容態次第ではありますが、今は貴方の案に賛成しましょう」
だが、彼女はあっさりと自らの意見を取り下げ、戦いを極力避けるという案を受け入れた。
予想外、拍子抜け。そんな表情を浮かべながら、ライダーの上半分が覆われた顔色を窺う。
「嫌がっておいてなんだけど、案外簡単に引き下がるんだな。あんただって叶えたい願いが有るから呼ばれて来たんだろ?」
「……ええ、私にも願いは有ります。しかし、それは必ずしも聖杯を要するものではありません」
「聖杯が要らない……?」
真司がそう聞き返すと、ライダーは小さく頷く。続けて、サーヴァントとして召喚に応じた理由を語り始めた。
怪物となる運命にあった桜の命を守る。それこそがライダーの願いだった。先日の校庭でのやり取りを思い出し、納得する。
「その、なんていうか……慎ましいっていうか、無欲なんだな。あんた……じゃなくてライダーさんって」
それと同時に、真司は感謝する。桜を助ける為だけに、ライダーは召喚に応じてくれたのだと。
今ひとつ心の機微が読み取れぬ女性だが、誰かを助けたいという思いは自分と似通うものだ。
真司はライダーに対する評価を大きく上方修正した。あんた呼ばわりは失礼だと気づき、敬称を添える。
「ふふ、そのような敬称も印象も相応しくありません。私にもそれなりの欲はあります」
「欲……。それこそ、ライダーさんには程遠いような……」
「好きになった者を守りたい。それも立派な欲でしょう。私は、サクラの事が好きですから」
「た、確かに……。で、でもな、俺の方が桜ちゃんの事好きなんだからな」
好きという言葉に含まれた意味深長なアクセント。何とも言えぬ奇妙な危機感。
ライダーのやや吊り上がった口角にそのような感覚を覚え、真司は半ば反射的に対抗の意を表明する。
しかし、彼女は微笑を更に深くしてこちらを見やってきた。眼帯に覆われているというのに、幻視してしまう。
怪しい光を帯びた双眸を。先日の戦いにて、大いに苦しめられた魔眼を。
「それはそれは……是非本人に仰っていただきたい。……ですが、私が好きになった者の中には貴方も入っているのですよ?」
「えっ……いや……え?」
歯に衣着せぬ好意をぶつけられ、真司は狼狽えた。素っ頓狂な返事をして、タオルの湿った部分で口元を覆う。
互いに寸前で踏み留まったとはいえ、命のやり取りをした相手だ。多少の軋轢ならば想定内だったというのに。
「あ、あの、その……」
その顔だけは、好みから大きく外れていますが。しどろもどろとなっている間に、遅れて付け加えられた補足を受けて若干肩を落とす。
浮ついた話をしている場合ではない。タオルの乾いた部分でもう一度顔を拭き直し、咳払いで気を取り直した。
「……私情を抜きにしても、貴方に死なれては困るのです。私ではサクラの命を守れたとしても、サクラの心までは守れない」
命を失う他にも、もう一つだけ終わりがある。それは、心を失くすことだ。実感が籠った声色で、ライダーは真司に言い含めた。
蛇口の管に残っていた水滴が滴り落ち、鼓膜を極僅かに揺らす。ここに至って、真司は一対一となる状況でライダーが現れた意図を理解した。
戦いに向けた意思の有無を、彼女は確かめたかったのだ。意思が有るのならば、共に肩を並べる協力者として。意思が無いのならば、背を向けて守る庇護者として。
これまでの会話から察するに、ライダーは後者に重きを置こうとしているらしい。だが、真司からすれば、どちらも必要と呼べぬものだった。
「心配してくれてるのは嬉しいよ。だけど俺、桜ちゃんを助けた後は今まで通り戦いを止めに戻るつもりなんだ」
「……昨日の出来事を、もう忘れたというのですか。貴方が居なくなれば、サクラの何もかもが成り立たなくなる」
つい昨日の出来事。彼女の問い掛けが、真司の記憶に焼き付いた光景を蘇らせる。
赤く染まった左目。皮膚を伝う歪な呪印。そして、ありとあらゆる物質を侵食して迫り来る黒い影。
誰に対しても敵意と殺意を振り撒いたあの桜の姿は、忘れたくても忘れられない。
「っ……あれは、桜ちゃんの所為じゃないんだろ。……あの子はとっても強い子なんだ。原因さえどうにかできたら、俺なんか居なくなっても平気だってば」
だとしても、真司は付き纏う罪悪感も払拭できない。自らに課した義務を全うするために戦いを止めたいのだ。死んだ者として、これ以上死んだ者を増やさぬように。
言葉を詰まらせかけたものの、捻り出すようにして反論を返す。すると、ライダーは深い溜め息をつき、眼帯の上から目元を揉んだ。
「シンジ、覚えておいてください。……優先するものを増やせば、欲張れば、全てを失う可能性も等しく高まるのだと」
決断しなければならない瞬間は、必ず訪れる。ライダーは自身にもそう言い聞かせ、粒子へと還っていった。
静けさを取り戻した空間。緩やかに過ぎて行く時間が、真司を思考の海に沈めてゆく。
争い合う引き金となる存在を、サーヴァントを全て倒し尽くせ。最適解が頭の片隅を浸たす。
「……誰も倒さずに助けるなんて、戦いを止めるなんて、無理があるのは分かってるさ。……だからって、諦めていい理由にはならないだろ」
首を横に振りながら手にしたタオル洗濯籠へ放り投げ、真司は今度こそ洗面所を後にする。
現在時刻は、目が覚めた時点で夕方。溜まりに溜まった疲労の皺寄せに、多大な時間の浪費をもたらした。
せめて、完全に暗くなる前に行動を起こすべきだろう。真司の足は、一階へと向かってゆく。
「………………?」
通りすがった廊下の壁に掛けられた鏡。不意に、その鏡面に小さな渦が映り込んだ気がした。咄嗟に目をこすって二度見をする。
疲れが引き起こした、目の錯覚か何かだったか。そう思い直し、真司は歩みを再開して階段を下りて行った。
夜の到来を示すように、地平線へと沈みゆく太陽。そこから差し込む光は、新都の片隅に位置する教会を夕焼け色に染め上げていた。
二日前、龍騎とランサーが刃を交えた礼拝堂。激しい衝突による余波が齎した破壊痕は影も形も無く修繕され、神の家としての体裁を保っている。
長椅子と長椅子の間に設けられた通路を、金髪の男性が通り過ぎて行く。その足の向き先は、出口である両開きの扉だった。
「───行くのか、ギルガメッシュ」
扉に手をかけ、外に出て行こうとする寸前。男性の背中へと声が投げかけられた。
ギルガメッシュ。そう呼ばれた男性は徐に振り返り、背後から音も無く現れた神父に目を向ける。
「ああ、あのイレギュラーの査定は終わったからな。お前も、いい加減この停滞した状況に飽きただろう?」
「……飽きる飽きないの問題ではないのだがな。全てのサーヴァントが出揃って既に八日目だ。だというのに、未だ一騎の欠けも無い」
率先して戦いを仕掛ける陣営も居ない。微かな皺を眉間に寄せながら、神父はそう言う。
聖杯戦争を執り行うゲームマスターとして、戦いを滞らせる者の存在は悩みの種だったのだ。
教会を襲撃したキャスターも、手傷を負うや否や竜牙兵を囮に逃げおおせたのだから拍車をかけている。
「お前が始末をつけてくれるというのなら、願ったり叶ったりだが……どうするつもりだ」
鏡の中を自在に潜り抜け、全てのサーヴァントと互角に矛を交えられるだけの力。七騎全てのサーヴァントと交戦して尚、その全容は未だ計り知れない。
今後もあの仮面の騎士が戦いを止めに現れるのならば、それを確実に屠れるだけの力を持つ者に任せたかった。今、神父の眼前に居る者に。
「あれは、聖杯の汚泥を耐え抜いた。我としては生かすに値する強き命なのだがなぁ……。へばりついた出来損ないの片割れさえ無ければ」
「……マキリの小聖杯は確実に破壊するが、その者の処遇については保証しないと?」
生かすか殺すかは、直接対峙してから考える。男性の回答をそう解釈し、念のために確認を取ると首肯が返ってきた。
神父は浅い溜め息をつき、如何ともしがたい悪癖が出たのだと悟る。好きなようにしろと言わんばかりに、首を小さく横に振った。
「ふぅむ……随分と警戒している様子だが、それは何故だ? お前としても興味の対象に入るだろう?」
「……あの者が聖杯の中で何を見たのか。その一点に関しては興味があるさ。……しかし、あれを下手に追い詰めてしまえば、成り得るかもしれんぞ」
「ほう? 何になり得るというのだ」
「……お前の傲慢さに匹敵する程の、欲深き者に」
二者の間に生じた、ほんの数秒の間。それを経て、男性は口角を吊り上げて眦を緩めた。
細められた赤い双眸が、神父を射抜く。泰然とした面持ちの奥にある真意を見抜く。
突如として現れた赤い龍の騎士。それに対して、男性は興味を。神父は脅威を見出していたのだ。
「そうかそうか……。そうであるならば、尚更この目で見定めなければなるまい。悠長に構えていては、つまらぬ横槍が入りそうだ」
そうして、男性は神父から顔を背けて踵を返す。もう一度歩みを再開し、重厚な扉を開いた。
夕暮れである事を示す紅を帯びた光が、隙間を縫って礼拝堂へと入り込む。
やがて、一日の終わりを告げる黄昏へと、物語の終わりを告げる黄金の王は進んで行った。
「………………」
男性の背中を最後まで見送り、神父は扉を閉めて礼拝堂に向き直る。続けて、聖壇の奥にある偶像を見上げた。
自他共に認める最強のサーヴァントに対して、神父は思う。見下ろせば、見落とす物が有るのだと。
そして、その見落とした物に意表を突かれ、瞬く間に足元を掬われる。彼が敗北を喫する要素が有るとするならば、その一点のみなのだろう。
定められた終わりへと直進するか、新たな始まりへと屈曲するか。評決の時へと向かう秒読みは、今この瞬間を以ってして始まった。
予告通りの更新が出来ずに申し訳ありませんでした……。
時間かかった割に、前回に続き休憩回になってしまったのはアレですが……今回までです。
次回、次々回で展開が大きく動く予定であります。書きたい場面も沢山詰め込みます。
進捗次第で守れるかは分かりませんが、更新予定日は再来週。
また遅れそうな場合は、予め後書きとあらすじの方で予告します。
感想、アドバイス、お待ちしております。
9/1
前回同様間に合いませんでした。来週に先延ばしとさせていただきます……。
せめて、クオリティ維持を心掛けますので、もう少々お待ちください。