前方から振り上げられた拳が飛んでくる。真司は甘んじてそれを受け入れた。
「痛ってぇ!」
…と言いつつ、真司は殴られるタイミングに合わせ、首を捻って頬に伝わる衝撃を受け流す。
ライダーバトルの経験がこんなところで役立つとは思っていなかった。
鬼蜻蜓のように速く鋭いライダーたちの拳に比べれば、目の前の大柄な少年の拳など、蝿が止まれる速度だ。
「っつぅ〜…」
「弱い奴がしゃしゃり出てくんな!」
頬を押さえて、大袈裟に痛がっている振りをしている真司の演技には気付かず、大柄な少年とその取り巻きたちは下卑た笑い声を上げた。
彼らを極力刺激しないように、真司も苦笑いをする。
「も、もう気は済んだろ?ここは俺に免じて———」
「———おいっ!こいつは関係無いだろ!どうして殴ったりなんかした!」
…真司の演技に気づいていなかったのは、赤毛の少年も一緒だったようだ。
せっかく自分が身を呈してこの場を収めようとしているのに、余計なことをしてくれる。…心配してくれているのは素直に嬉しいが。
思い通りにならないこの状況に、内心で頭を掻き毟りながらも、真司は諦めない。腹に力を入れ、平静を装う。
「いやいや、俺のことは別にいいから。喧嘩は———」
「———生意気だな!やっぱりお前も一発ぶん殴ってやるよ!」
収まりかけていた場の空気が、癇癪玉のように破裂する。真司の言葉など、もう誰も聞こえてはいない。
大柄な少年が、赤毛の少年の胸ぐらを掴んで拳を振り上げた。
———くっそ!子どもの喧嘩も止められないとか話になんねぇ!
真司が再び、赤毛の少年を庇おうと、一歩踏み出した瞬間に、何者かがこちらへ駆け寄る足音がした。
「ま〜た〜お〜ま〜え〜ら〜か〜っ!」
竹刀を持った女子高生が、茶髪のポニーテールを揺らして瞬く間に近づいてくる。
尋常な速さではなかった。まるで獲物を見つけた獣だ。
「ゲェッ!?タイガー!?逃げろ!逃げろ!」
「…タイガァ!?」
真司は、兎のように怯えて逃げ出した少年たちの悲鳴に、銀色の虎を連想した。奴には何度も背後から不意打ちを受けた。トラウマがこの身に、いいや、魂に刻まれている。
即座に身を翻し、警戒するが、真司の目に入ったのは、迷子の猫の張り紙だけだった。毛並みだけは虎のようである。
「…ねぇ、きみ」
「はい?」
声をかけられて真司が振り返ると、鼻と鼻が触れ合うくらいに寄せられた女子高生の顔が、まさに眼前に広がっていた。その瞳が好奇心に輝いているのが、よく見える。
「うおわぁ!?」
「おっとっと、結構良いリアクションするねぇ!」
驚いて尻餅をつきそうになった真司の手を、女子高生が掴んで引き留めてくれた。
子どもの体とはいえ、片手で真司を支えても、女子高生は全くバランスを崩さない。
華奢に見える体でも、体幹がしっかりと鍛えられているあたり、その手に持っている竹刀は飾りではないのだろう。
真司の手を離して、女子高生は屈託のない笑顔でお礼を言ってきた。
「うちの愚弟を助けてくれてありがとね!…ほら、ぼさっとしてないで、あんたもお礼言いなよ!」
女子高生はそう言いながら、赤毛の少年の頭をグイグイと手で押さえる。言葉とは裏腹に、姉弟という様子ではなさそうだが、親しい間柄のようだ。
「やめろよ藤ねえ!……ごめんな、喧嘩に巻き込んで。…あいつに殴られたとこ、大丈夫か?」
女子高生の手を振りほどき、赤毛の少年は真司に向かって頭を下げた。関係のない真司を喧嘩に巻き込んでしまったことを気に病んでいる様子だ。お礼ではなく謝罪をしてきた。
自ら進んで首を突っ込んだことだというのに、気配りのできる少年だと、真司は感心する。
「あ、うん平気平気。あれ実は———」
演技だったんだよ。真司が赤毛の少年を安心させるために、そう言おうと口を開く。
「殴られたっ!?それ本当なの!?」
しかし、それは女子高生のわざとらしい言葉と、腹部に受けた衝撃によって遮られる。遅れて両足が地面から離された。
どうやら自分は女子高生に俵担ぎをされているらしい。
若干高くなった視界のおかげか、電信柱に身を隠し、こちらの様子を伺っている桜が見えた。
一文字に結ばれた唇には、決意の色が浮かんでいる。
「大変だ大変だ!早く怪我の手当してあげなくちゃ!」
「ちょっ…どこ連れてくんだよ!?」
「うふふ…内緒!じゃ、行こっか!」
こんなにも軽々と担がれたことなどいつ以来か。
真司は赤毛の少年に助けを求める意味合いで、視線を送るが…。首を横に振りながら、目を逸らされた。その動作が物語っている。…諦めろと。
「離せって!俺、妹を待たせて———」
真司が甲羅を裏返された亀のように地面を求め、手足を宙に振り回していると、ようやく覚悟を決めた桜が助けに駆け寄って来てくれた。
その表情には咎めと恐れが入り混じっている。
「———っ!に、兄さんを離してください!」
見知らぬ人と接する緊張のせいなのか、二つも持っているランドセルのせいなのか、膝が笑っている。まるで生まれたばかりの子鹿だ。
だが、確かに桜は僅かな勇気を限界まで振り絞って、自分を助けようとしてくれているのだ。初めて会った頃からでは想像ができないことである。
「さ、桜ちゃん!……ううっ…俺、今ちょっと感動してる…!」
図らずも垣間見た愛しい義妹の成長に、思わず真司は涙ぐんで、嗚咽を漏らさぬように口元を押さえた。
そんな幼い少女が見せた儚い勇気は、感動的ではあったのだが…。
「へぇ〜、ってことは、きみがこの子の妹さんなんだぁ〜。じゃ、一緒に行こっかぁ〜」
…この恐ろしい猛虎には無意味なのであった。
ひう、と息を呑む音がやけに鮮明に聞こえて、桜はそのまま固まってしまった。これ以上振り絞れる勇気は一滴も残っていないらしい。
結局、兄妹共々、敢え無くこの女子高生に連行されるのであった。
「「………………」」
以前、深山町を桜と散策した際に通りがかった二軒の武家屋敷。現在、真司と桜はその片割れの長屋門をくぐったところだ。
「まさか、此処にお邪魔することになるとは思わなかったなぁ…。めっちゃ広いじゃん」
桜もコクリと頷きながら、興味深そうに周囲を見渡している。
延々と続く板張りの塀からも窺い知れたことだが、実際に敷地の中に入ると驚嘆せざるを得ない。
魚の鱗のように連なっている瓦屋根。木材と組み合わされた白漆喰の壁。まさに時代劇のロケーションに使われても違和感のない武家屋敷だった。
「ほらほら二人とも、見惚れちゃう気持ちはわかるけど、遠慮してないで早く入って来なよ。ふふん、私が許す!」
「藤ねぇの家は隣だろ…。今日は爺さんが出かけてるからいいものを…」
「細かいことはいいのよ!ほら早く早く!」
赤毛の少年の小言など全く気にせずに、女子高生はこちらを手招きをしている。早く行かなければ再び俵担ぎをされてしまいそうだ。
そのことを危惧した真司は、桜の手を引いて小走りで屋敷の玄関に向かった。
女子高生に居間へ案内され、座布団に座る。赤毛の少年はお茶を出すために台所に向かった。
そこまで気を遣わなくてもいいと真司は言ったのだが、強引に連れて来たのは自分たちだから。と話を聞かなかった。
「そういえば、まだ自己紹介済ませてなかったね。私は
そんな花の女子高生……大河はピースサインをしながら人当たりのいい笑顔を二人に見せる。
タイガ。その名前には碌な思い出など無い。あいつには何度も殺されかけたし、あいつは何度も誰かの命を奪おうとした。
「………?」
大河はにんまりとした表情で、真司たちの返事を待っている。
だが、真司は名前の印象とは真逆な、この溌剌とした少女に、妙なシンパシーを覚えた。同じ波長を感じるというか、同類を見つけたというか…。
「俺は間桐慎二、えっと…花の小学生っす!……よろしく、藤ねぇ!」
真司は先ほど、大河にされた拉致まがいの所業など、忘却の彼方へ蹴り飛ばして、元気に自己紹介を返した。
本来であれば、自分より年下であるこの少女を"藤ねぇ"と呼ぶのは奇妙なことだが、不思議と違和感は感じなかった。
「……!やっぱりきみはノリがいいなぁ。慎二くん…いいえ、慎ちゃん…!」
「藤ねぇ…!」
ピシッ、ガシッ、グッグッ。そんな擬音が聞こえてくるほどの息の合った珍妙なハイタッチを二人は決め込んだ。
「「イェーイ!」」
「……………」
真司の服の裾が掴まれる。桜はどうやら自分と大河がこんなにも早く打ち解けていることが面白くないらしい。上目遣いで大河のことを睨んでいる。
今朝になってようやく真司は確信を持てたが、桜は何か言いたいことがあるときは、言葉にせずに自分の服の裾を掴むのだ。
…二人きりの時だけは、ちゃんと口に出してくれるのだが。
「あ〜、藤ねぇ。この子は妹の桜ちゃん。見ての通りちょっと人見知りでさ…」
「ふ〜ん…桜ちゃん、ねぇ」
大河は不敵な笑みを浮かべながら、真司の後ろに隠れている桜に一歩一歩、にじり寄る。
「…………っ!」
桜が声にならない悲鳴をあげて、真司の服を皮膚ごと掴んだ。細い指先が背中に食い込む。
「ちょっ!?痛い痛い!桜ちゃん!皮まで抓ってる抓ってる!」
真司は背中の痛みを桜に訴える。だが、振り払おうという考えは微塵も浮かばない辺り、妹想いというべきか、甘すぎるというべきか。
そんな、張りつめられた弦のように膠着した状況は、コトン、とテーブルに置かれたトレイの音によって断ち切られた。
「藤ねぇ、あんまりはしゃぐなよ。二人とも困ってるじゃないか」
赤毛の少年は麦茶が入った四人分のコップをそれぞれに分配しながら、大河の行いを咎める。真司からすれば、それはまさしく福音だった。
「あっはっは…、ごめんね慎ちゃん、桜ちゃん。きみたちのリアクションが面白すぎて、ついつい意地悪しちゃった」
大河は少しだけ申し訳なさそうに笑って、向かい側の座布団に着いた。同時に桜の拘束からも解放される。
「でも、やっぱり私の勘に間違いはないね!この子たちなら、きっとあんたの友達になってくれるよ!ねえ———」
———士郎!
大河は間違いなく、赤毛の少年に向かってその名を呼んだ。
———優衣、お前は存在している、意識を持て!……大丈夫だ!俺が必ず助ける!
———まだだ…!まだ二日ある、優衣は助かる…!
———決着をつけろ!最後の一人になるまで……戦え!
士郎。
真司はその名前に、ある妄執に取り憑かれた男を想起せざるを得なかった。
彼はたった一人の妹の命を諦めることが出来なかった。
その泡沫のような儚い存在に、新しい命を与えるため、多くの人間を巻き込み、殺し合わせた。
…
自分の、他のライダーたちの運命を狂わせた全ての元凶。
———もういいよ、お兄ちゃん…。
だが、真司があの男を心の底から憎むのは無理なことだった。
大切なものを掌から取り零さないために、どんな犠牲を払ってでも足掻き続ける。
そんな妄執の根底にあったものは、…きっと———
「……おーい、慎ちゃーん?……もしかして、麦茶恐怖症…?」
「———そうそう。俺、麦茶を見たら頭の中が真っ白に…。って、そんなわけないっすよ」
大河のくだらない冗談によって、現実に引き戻された真司は、それを証明するために、目の前の麦茶を豪快に飲み干した。
「えっと、慎二だっけ…?喉渇いてるんだったら、麦茶のお代わり用意するか?」
「ああ、別にいいよ。……士郎、士郎かぁ」
赤毛の少年……
「うん?別に珍しい名前でもないだろ?」
「ああ、そうなんだけどさ…。友達の、妹想いなお兄ちゃんと同じ名前だったから」
色々と思うところがあるというか…。そんなことを呟きながら、真司は無意識に隣に置かれた桜の手に触れた。見知らぬ人たちと対面し続けている緊張からか、その手は汗で少し濡れていた。
不意に、障子の隙間から5時になったことを告げるチャイムが聞こえてきた。チャイムの音楽と同時にグルル…、と猛獣の唸り声のような腹鳴が居間に響き渡る。
「…桜ちゃん?」
桜の腹鳴は小動物のような、もっと可愛らしいものだ。本人も必死に首を横に振っている。なので、導き出される答えは士郎か大河なのだが…。
「士郎ぉ〜、私お腹減っちゃった〜。お姉ちゃんのために晩御飯作ってぇ〜」
士郎、という部分を強調して、大河がなんの恥じらいもなく晩御飯の催促をしてきた。
あの腹鳴の正体は彼女のものだったらしい。…花の女子高生とはなんだったのか。
そして、この少女は自分よりも年下の少年に晩御飯を作らせるのかと、真司は内心困惑した。
「またうちで食べていくのかよ…。まだ慣れてないのにさぁ…。失敗しても怒んないでよな、藤ねぇ」
そんな真司をよそに、士郎は自信なさげに、だが満更でもない態度で台所へと向かう。
これ以上の長居は家主に迷惑になるだろう。そう思った真司はランドセルに手を伸ばそうとした。
「…あっそうだ!慎ちゃん、桜ちゃん。士郎を助けてくれたお礼も兼ねて、よかったら、うちで晩御飯食べてかない?」
しかし、大河がそれを引き留めた。よかったら、などと言ってはいるが、いつでも飛びかかることができる体勢に移っている。…逃すつもりは毛頭ないようだ。
幸い、鶴野は今日も家を空けている。多少門限を過ぎても問題はないだろう。
「あ〜…、じゃあ、ご馳走になろうかな、桜ちゃんもそれでいい?」
「……兄さんがそれでいいなら」
桜も僅かに逡巡したものの、頷いた。あまり乗り気ではない様子だ。
しかし、真司としては四人で食卓を囲むことなど、花鶏での居候生活以来のことだったので、内心、心が躍っていた。
「よっし、決まりね!士郎〜!慎ちゃんと桜ちゃんも晩御飯食べていくって〜!」
わかった。そんな返事が台所から聞こえてきた。
真司は士郎の料理の手際がどんなものなのか、少し気になった。まだ慣れていないと言っていたので、手こずっているようならば自分も手を貸そうかと思い、台所を覗き込む。
「お、おお…。け、結構やるじゃん」
真司にそう言わしめる程度には、要領の良い手際だった。
子どもの癖に、一つ一つの動作に無駄がない。
「………」
ただ一つ、気になった点を指摘するのなら、コンロのつまみに伸ばす指が躊躇いがちなところだ。なかなか点火しようとしない。
きっと火が怖いのだろう。自分も子どもの頃、調子に乗り始めた時期に軽い火傷を負ってしまい、しばらくの間、火が怖くて料理をすることができなかった経験がある。
「士郎、俺も晩御飯作るの手伝うよ。待ってるだけってのも、なんか申し訳ないしさ」
ようやく見せた士郎の子どもらしさに、若干安心しながらも真司は台所に入った。
「あ、うん、ありがとな。じゃあ慎二には、ここを———」
その後は、桜も加えたスリーマンセルチームで、調理に臨んだ。大河は居間でテーブルに突っ伏しながらテレビを見ている。…自分は参加する気はないらしい。
「……んふふ」
だが、真司たちに気づかれないように、大河はこちらの様子を時々覗いていたようだ。微笑ましそうに、まなじりに曲線を描いて。
「よし、みんな早く座って座って!私、もう我慢できないよ!」
「藤ねぇ…。はぁ、もういいや」
一時間後、テーブルには肉じゃが、かぼちゃの煮物、冷奴、ごはん、味噌汁が四人分並べられていた。なんの変哲も無い、一般家庭の料理だ。
三人は大河に急かされて、座布団に着く。
そんな大河の傍若無人な態度を士郎は咎めようとしたが、ため息をついて匙を投げた。お腹が減っているのは士郎も同じだからだろう。
「それじゃあ…」
真司たちは晩御飯を前にして合掌をする。
「「「いただきます!」」」
「…きます」
遅れて桜も合掌をした。一体何が来るというのだろうか。
他愛のない会話とともに、料理に箸をつける。大河は自分のことや士郎のことについて沢山話してくれた。
曰く、士郎は正義の味方に憧れていて、困っている人がいたら助けてやらないと気が済まない性分らしい。
正義の味方。あの時、そのような存在がいてくれたのならば、どんなに良かったことだろう。誰も争わないで、傷つかないで、死なずに済んだかもしれない。
だが、真司には分からなかった。もし、正義の味方があそこに居たとして、たった一つの犠牲も出さずに、どのような手段を用いてあの戦いを止めようとするのか。
真司には分からなかった。正義とは、純粋な願いにも勝るものなのか。
———もう過ぎたことだろ。考えていても仕方がない。
暗い思考を搔き消すために、真司はかぼちゃの煮物に箸をつけて口へと運んだ。
口の中に広がるかぼちゃの甘さの中には、小さな、だが無視などできない苦さが、確かに存在していた。
士郎との絡みよりも藤ねぇとの絡みが多くなってしまったような気がしますね…。
感想、アドバイス、お待ちしております。