夏の甲子園が終わって2週間。天才ピッチャーの騒ぎは止まらないが、周子には関係がなかった。
彼が野球をできなくなったなら見る必要はない。
周子はそう思って、アイドルの仕事を続けた。何回か彼に連絡を取ろうと思ったが、何を言っていいかわからずに連絡は取れていない。連絡を取る勇気もなかった。
そんな夏の暑い日、周子は自身が所属するアイドルグループであるLiPPSのメンバーと一緒にテレビの街角アンケートをやっていた。基本的に自由人な一ノ瀬志希と宮本フレデリカ。その行動を煽る周子。止めるようで煽っている奏。そして全員を纏めるのに苦労している城ヶ崎美嘉。それらの掛け合いが面白いと評判になり、最近はこのメンバーでの仕事が増えていた。
「ん〜、何か向こうから面白そうな匂いがする!!」
会話の途中でぶった切って、走り始める志希。特に理由もなくはしゃいでついて行くフレデリカ。焦りながら走りさる美嘉。そして周子と奏がカメラを引き連れて追いかける。
全く持っていつも通りだ。
志希の暴走から続く流れも慣れたものだ、むしろ視聴者はこう言う展開を望んでいるのだろう。このメンバーで最初からまともなインタビューができるわけがないのだ。
だから周子も慣れた様子で奏と一緒に追いかける。今度はどんな一般人が被害を受けているのかをどこか楽しみにしながら。
そして周子は志希が飛びかかっている少年の姿を見て絶句する。
一番会いたくて、一番会えない相手。
志希に飛びかかられて困っている少年も、周子を見て驚いた表情になる。
「……周子?」
久しぶりに聞く彼の声が、どこか遠くで響いた気がした。
彼との突然の再会はあったが、周子はなんとか普段通りのキャラで彼を幼馴染だと言い、LiPPSのメンバーでいつも通りの掛け合いをして彼にインタビューをして別れる。
そして周子は仕事の途中であったが、彼宛にメールを送る。
内容は話したいことがあるから346プロダクションにあるカフェに来て欲しいと言う内容だ。住所も一緒に送っておく。
そのあとに仕事の合間で携帯を確認すると、彼から了承の返事が来ていた。プロデューサーに頼んで346カフェの店長に営業時間外に使わせて欲しいことを頼み、成功させた。
周子は仕事終わりに小走りに暗くなっている346プロダクション内を行く。そして346カフェに入ると、一箇所だけ電気が点いていて、その下に彼がコーヒーを置いて待っていた。
彼は周子に気づくと吊っていない左手をあげて挨拶してくる。彼の利き腕である右腕には包帯が巻かれ、首から吊っていた。
それが周子に現実を見せつける。
彼が野球をできなくなったと言う現実を見せつける。
どうにか周子は挨拶を返して彼の反対側に座る。
彼は相変わらず笑っていた。
だが、その笑顔は彼が小学生最後の年に見せた笑顔ではく、貼り付けられた仮面の笑顔だった。
しばらく沈黙の空間が広がる。
「アイドルになってたんだな。驚いたよ」
「…まあねぇん。実家で働いてたらスカウトされちゃってん。いやぁ、美人って罪やねぇ」
彼の言葉にいつも通りにおちゃらけて返す。
だが、それができていないことは周子本人がわかっている。顔がひきつり。今にも泣いてしまいそうだからだ。
彼は苦笑するだけで何も答えず、一口だけコーヒーを飲む。
「聞きたいことあるんだろ?」
彼の言葉に思わず彼を見る。彼の瞳は澄んでいて、すべての悩みもなくなってしまったような表情になっていた。
「……野球できなくなったのは本当なん?」
周子の質問に彼は少しだけ驚いた表情になった。
「よく知ってるな。俺の情報なんかほとんどないのに」
「いいから答えや。野球ができなくなったのなんて嘘やろ? リハビリしたら復帰できるんやろ!?」
周子は思わず立ち上がりながら怒鳴る。静かな346カフェに周子の怒声だけが響く。否定して欲しくて、彼がまたマウンドに立つ姿が見たくて。
だが、現実はどこまでも無情だ。
彼は周子の怒声にひるむこともなく、ただ淡々と口を開いた。
「できないよ。もう二度と俺はボールを投げられない」
彼の言葉に周子は力を失う。彼にあの情報はデタラメだと言って欲しかった。そして彼は淡々と言葉を続ける。
「腕を使った運動はおろか、肉体労働もできないってさ」
どこか遠くを見ながら他人事のように言葉を続ける。
「高校には一昨日退学届を出して来た。野球推薦で入ったのに野球ができない人間がいても仕方ないからな。監督とか理事長は卒業させてくれるって言っていたけど、甘えるわけにもいかないだろ」
彼は言葉を続ける。それは周子に教えているようで、自分に言い聞かせているようだった。
「それに俺は野球しかしてこなかったからさ、高校を卒業しても大学に行くほどの学力はないし、そんな金もない。体力だけが取り柄だったのに、この腕じゃ肉体労働もできない。ハハ、ないない尽くしだな」
彼は自嘲する。
「……京都のおばちゃんのところに戻るん?」
周子の言葉に彼の表情が初めて変わる。悲しそうで、泣き出しそうで、怒りもこもって。色々な感情が押し込められた表情になる。
「お母ちゃんな、死んだんよ」
「………え?」
彼の口調が周子と同じように訛り、そして彼に突きつけられた現実を周子は理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
子供の頃からの彼の夢である『母親に恩返しをする』と言うことを知っている人間として理解できなかった。
彼は感情を押し殺しながら言葉を続ける。
「俺が高校2年の時に癌が見つかってな、その時にはもう末期やった。医者からは2年は保つって言われとったけど、今年の夏。甲子園の決勝の第一試合の最中に死んだんやって。俺は試合の後に連絡が来たんやけどな」
そう言うことならば、彼が投げていた甲子園の決勝戦。彼は一番見ていて欲しかった人に見てもらえなかったということだ。
「甲子園球場は兵庫やったから、お母ちゃんが入院しとった京都の病院にはその日のうちに行けたんよ。癌のせいで痩せ細ってはおったけど、安らかな死に顔だったのが救いやね」
「……それで再試合も投げさせられたんか?」
たった一人の肉親を失ったばかりの少年に無理をさせたのか。そして彼の未来をも奪ったのか。
そんな怒りを込めた周子の言葉に、彼は苦笑しながら否定した。
「ちゃうよ。チームで唯一事情を知っとる監督は、当然俺に投げさせようとせんかった。俺が土下座して頼み込んだんよ。投げさせてくれって。もう一回不知火と勝負させてくれって」
「……でも不知火は……」
周子の言葉に彼は笑った。
「出てこんかったな。当然や。昔ならともかく、今はそんなに無理をさせる風潮は高校野球にはない。それに不知火は日本球界の宝やからな。連投なんかさせるわけがない。冷静になって考えればわかることや」
「……それでもあんたは投げ続けた」
「そうや。あの時は意地でももう一回引きずり出してやるって気持ちしかなかった。だから監督の言葉も聞かずにマウンドに立ち続けた。その結果がこれや」
彼はそう言って包帯に巻かれた右腕を机の上に置く。
「アホやったなぁ……せめてお母ちゃんに日本一の投手を相手に対等に戦った姿を見せたかっただけやのに、俺の人生がぜ〜んぶ吹っ飛んだわ」
彼は笑っていた。笑うことしかできないのだろう。生き甲斐(野球)も夢(プロ)も心の支え(母親)を全て一片に失くし、残ったのはサヨナラ暴投をしてしまったという心の傷だけ。
「……これからどないするん?」
周子がようやく絞り出せた言葉に、彼は全てを諦めた口調で答える。
「とりあえずお母ちゃんのことをどうにかしないとあかんよ。周子のおじちゃんとおばちゃんがやってくれとる部分もあるけど、残された子供として手続きしないとあかんこともあるしな」
「仕事はどうするんや? おとんとおかんに頼んでもええんやで?」
「そこまで迷惑はかけられへんよ。お母ちゃんの後始末頼んだだけでも心苦しいんやから」
彼の言葉に周子は何も言えなくなる。周子はアイドルになる時に両親と喧嘩して、それから連絡をとっていない。それでも彼のためだったら連絡をとるつもりだ。
「それだったら346プロダクションで雇ってもらえないか、頼んでもええで?」
「それこそアホ抜かせ。周子もデビューしたばっかりのペーペー。それに俺みたいな役立たずを346みたいな大企業が何のために雇うんや」
彼の言葉はもっともだろう。新人の周子の言葉に影響力なんかないし、事務も肉体労働もできない人材を346のような大企業が雇うはずがなかった。
「……そろそろ帰るか」
「……せやね」
彼の口調が標準語に戻り、立ち上がった。もう話すことはないということだろう。周子もそれを理解して立ち上がる。
周子は店長に言われていた通りに使っていたカップなどを洗い場のところに置いて、店の戸締りをして外に出る。
外では彼が夏の夜空を見上げていた。その瞳には何を映しているのか。どんな光景を見えているのか周子にはわからない。
周子のマンションまで送ってくれるという彼の言葉に甘え、二人で夜道を歩く。会話の中心はお互いの高校時代や子供の時の思い出話。
マンションの入り口に着き、彼と別れる。
彼は軽くヒラヒラと手を振りながら別れの挨拶をして、歩き去ろうとする。だが、何か思い出したかのように周子に振り返る。
「周子はこれから芸能界やな。テレビの前で応援しとるで」
その言葉は彼が高校入学時に別れる時に告げられた言葉に似ていて、しかし実際には彼が諦めてしまったことを知る言葉だった。
周子が声をかける前に彼は夏の夜道を歩き去る。急いでいるわけでもないのに、周子は呼びとめる事ができなかった。
周子は携帯を開いて1つの電話番号を出す。
東京に出てから1度も使うことのなかった電話番号。彼には断られたが、何か手助けをしてあげたかった。それが彼の夢を聞くだけで手伝うことをしなかった唯一の贖罪だと思ったから。
「あ〜、おとんか。待って待って、説教ならあとでいくらでも聞くし、何ならおとんとおかんのいう通りアイドルなんか辞めてもええ。だから一つだけお願いさせてや」
周子の願いは一つ。
「あいつを店で働かせて欲しいんよ」
周子の人生で初めて自分のしたいことと思えたのは、彼の手助けだった。