私がそれに気づいたのは、事務所に向かう途中。
大通りに出てすぐのことでした。
だって、そうでしょう?
道行く人が余さず全て、小指に赤い糸を付けていたのですから。
何故私が、どうして今、視えるようになったのか。
私だけ糸が結ばれていないのか。
そんなことは、どうでもいいことでした。
私は少しだけ駆け足になって、事務所へと向かいました。
人だかりをするりと抜けて、建物の中に入ります。
おはようございます、と言おうとして、でもやっぱりやめました。
プロデューサーさんもちひろさんも、とても忙しそうに。
受話器の向こうと話していましたから。
給湯室の方で、小梅ちゃんが手招きしていました。
おはようございます。なんだか、忙しそうですね。
私の言葉に、小梅ちゃんは首を傾げました。
「まゆさん、なんだか……嬉しそう、です……ね?」
そうでした。
聞いてください小梅ちゃん、とっても嬉しいことがあったんです。
一通り説明すると、小梅ちゃんは「糸を見るだけなら邪魔にはならないし良いんじゃないか」と教えてくれました。
言われてみればその通りです。
お仕事の邪魔にならないように、遠くからプロデューサーさんの小指を見つめました。
そこには確かに赤い糸がありました。
まゆと反対の方向に向かう糸が。
まゆは糸をなぞるように歩き始めました。
プロデューサーさんの、運命の人。
その顔を見てみたかったのかもしれません。
憎まれ口のひとつでも言ってやりたいのかもしれません。
実のところ、どうして歩いているのか、自分でもよく分かっていませんでした。
ただ、歩かなきゃいけなくて。
ただ、見つめなきゃいけなくて。
ただ、この足が止まったら。
きっと私は、泣いてしまうのでしょう。
きっとまゆは、崩れ落ちてしまうのでしょう。
それだけは、自信を持って言えるのです。
そこは、緑が綺麗な霊園でした。
よく手入れされていて、更には太陽も照らしてくれているので、怖さはありませんでした。
糸は霊園の奥へと、静かに伸びていました。
私は赤に導かれ、ある一角に辿り着きました。
糸は墓石に繋がっていました。
その目の前に立ち、刻まれた文字を読みました。
『佐久間家之墓』
墓の前で立ち尽くしていると、やがて小梅ちゃんがやってきました。
私の様子を心配して、後をついてきてくれたそうです。
何を言うよりも、きっと見た方が納得してくれるからと。
確かにその通りで、自分が死んだということを、私は受け入れるしかありませんでした。
動揺も、十二分にしましたけれど。
色々なことを教えてもらいました。
佐久間まゆは2ヶ月ほど前、帰宅途中でファンに刺され死亡したこと。
霊体を探したけれど、今日になるまで現れなかったこと。
赤い糸が視えるのは、恐らく幽霊になったからということ。
私の小指に糸が無いのは、私が生きていないからということ。
プロデューサーさんが私を愛していたということ。
トップアイドルになった日に告白するつもりでいたこと。
小梅ちゃんたちに時折恋愛相談をしていたこと。
私が死んだ原因は自分だと思っていること。
きちんと見送りをしていれば、もっと早く告白していれば、夜遅くまで仕事を入れなければ、と。
毎日欠かさず此処に来て、只々謝り続けていること。
事務所の仕事は一時的に全てストップしていること。
それでもまだ対応に追われていて、休まる暇がないこと。
後追い自殺をしないかと、本気で心配になるくらいだということ。
みんなで見張ることにして、今日が小梅ちゃんの番だったということ。
小梅ちゃんが帰った後。
考えた末、ここに一晩、留まることにしました。
幽霊になった今、何処に行けばいいか分からなかった、というのもあります。
幽霊の居場所は自分の墓のような気がした、というのもあります。
でも、一番の理由は、プロデューサーさんの様子を、この目で見たかったからでした。
夜の霊園はとても静かで、意識せずとも足音が聞き取れます。
ライトも持たず、月明かりだけを頼りに、まっすぐこちらに来る人影。
その足取りは重く、それでも迷わず向かって来られるのは、それだけ同じことを繰り返したからなのでしょう。
「ごめんな、まゆ。」
いいんですよ、プロデューサーさん。
プロデューサーさんの様子は酷いものでした。
それはもう、ひどいものでした。
肉は落ち。
背は曲がり。
生気は無く。
目には隈。
小梅ちゃんが言う通り、いつ自殺してもおかしくないような有様でした。
こんな状態になっても足を運んでくれること。
それを嬉しく思う自分が、心底嫌いに思えるほどに。
プロデューサーさんは、只々謝っていました。
小梅ちゃんの言う通り、本当に謝り続けていました。
まゆが幾ら許しても、声は届きませんでした。
涙に指を沿わせても、すり抜けてしまいました。
まゆは只々聞き続けました。
聞くことしか、できませんでした。
それから私は、ずっと自分の墓石の上に座り続けることにしました。
プロデューサーさんの此処に来る時間がまちまちで、朝早くだったり夜遅くだったりしたからです。
聞くことしかできなくても、せめて聞くことだけは続けようと思ったからです。
プロデューサーさんが、それを分かっていなくても。
たまに小梅ちゃんが1人で来たり、芳乃さんを連れてくることもありました。
小梅ちゃんは赤い糸のことが気にかかり、この類のものは芳乃さんの方が詳しいのだそうです。
私自身はそんなに興味がなかったのですが、プロデューサーさんを待つ間はとても暇で、特に断る理由も無いので、調査に付き合いました。
少しずつ、色んなことが分かってきました。
まず、この糸で結ばれていることの意味。
それは「もしも2人が出会ったらその時は他の誰に対するそれよりも強い情緒的結びつきを感じる」というものでした。
まさしく運命の赤い糸です。
そんなものが生きている人全員に付いているなんて、とても素敵です。
私が幽霊として此処に居る理由。
それも、赤い糸が関係しているようでした。
まゆとプロデューサーさんを結ぶ糸。
これが、私の魂を現世に留める役割を果たしているのだそうです。
プロデューサーさんと結ばれなかったという未練が、赤い糸に何らかの作用を及ぼしたのではないか、と言っていました。
そして、これが一番驚いたのですが、私は赤い糸に触れるみたいです。
感触は毛糸とよく似ていました。
誰かの糸を切って、他の誰かと結び直すことで、恋愛感情を操作することも可能……なのかもしれません。
実際に試してはいないので、あくまで推測です。
だって、そんなの、怖いじゃないですか。
プロデューサーさんは、毎日必ず来てくれました。
雷雨の中でも、午前3時でも、徹夜明けの早朝でも。
そして懺悔を聞く度に。
大好きなプロデューサーさんの、大好きな顔が。
もうこれ以上酷くなることは、無いだろうと思ったそれは。
私の想像なんて軽々と超え、もっともっと、酷くなっていきました。
止まってくれないのです。
口から漏れる懺悔の声も。
やつれていく肉体も。
こちらへ向かう足さえも。
どれだけ許しても。
どれだけ諭しても。
どれだけ願っても。
止まっては、くれないのです。
プロデューサーさんが愛してくれていたことを、嬉しいと思っていたまゆは。
欠かさず来てくれることに、幸せを感じていた私は。
いつからでしょうか。
もう此処に来ないことを、望み始めました。
私のことなんて忘れてくれればいい。
まゆのことなんて、愛してくれなくていい。
そう、思い始めました。
だって、だって。
貴方は何処までひどくなるのですか。
貴方は何時まで泣き続けるのですか。
その原因はまゆですか。
貴方は何を如何したら、幸せになってくれるのですか。
そればかり考えるようになった、ある日。
私が望んだ終末は、貴方と共に現れました。
まゆが願ったのとは、真逆の方向で。
「ごめんな、まゆ。」
何時もと同じその言葉は、何時もと違う響きでした。
「逃げちゃいけないって分かってる。
逃げるべきじゃないって分かってる。
逃げる資格がないって、分かってる。」
「でも、駄目なんだ。駄目なんだよ。
まゆから逃げたくて仕方ないんだ。
目を背けたくてたまらない。」
「やっと逃げようとしたって、仕事にすら君が居る。
夢の中も。事務所の中も。この街の何処にでも。
まゆの笑顔が染み付いて離れない。」
仕事用の鞄から、彼は何かを取り出します。
それは月明かりを反射して、鈍く銀色に輝きました。
「もう、これしか、思いつかないんだ。」
プロデューサーさんが、何をしようとしているのか。
悲しいくらいに分かってしまうから、まゆは止めなければなりませんでした。
プロデューサーさんは、なんにも分かっていません。
まゆがして欲しいのは、貴方が幸せでいること。
幸せに、生きていること。
それだけです。
ただ、それだけなんです。
まゆが貴方にできること。
私が干渉できるもの。
運命の赤い糸。
軽く触れるだけだった糸を、私は初めて、しっかりと握りました。
その時私は、赤い糸を理解しました。
気付いたとか、知ったではなく。
林檎を手から離せば落ちるように。
息を止めれば苦しくなるように。
この糸を切ったら、どうなるのかを。
ただ、理解したのです。
小梅ちゃんと芳乃さんは、これが私を現世に留めていると言っていました。
それは全て正しくて、同時に間違いでもありました。
この糸は、確かに私が此処に居る原因でした。
何故なら、この糸は。
佐久間まゆ、そのものだからです。
この糸を切れば、プロデューサーさんは私を愛さないでしょう。
この糸を切れば、プロデューサーさんは私を忘れるでしょう。
この糸を切れば、プロデューサーさんは生きていけるでしょう。
この糸を切るのは、自分の身体を引き千切ることと同義でしょう。
この糸を切るためには、力は必要ないでしょう。
まゆが、プロデューサーさんを、諦めればいいのです。
佐久間まゆは。
ぷつん。
──何かが、悲しかった気がする。
目を開けると、俺は見知らぬ墓地……いや、霊園だろうか。
ひとつの墓の前で、膝を折っていた。
『佐久間家之墓』。
目の前の墓には、そう刻まれている。
佐久間?
そんな名字の知人、居ただろうか。
……どうして俺は、こんな所に居るんだ?
分からない。分からないが、何か。
この墓を見ていると、何かを思い出しそうな気がする。
何かを、思い出さなければいけない気がする。
何かを、失ってしまった気がする。
「……プロデューサー……さん!」
聞き慣れた声。
振り向くと、担当アイドルの白坂小梅が、こちらに駆け寄ってきていた。
「どうしたんだ、こんな所に。」
もし1人で肝試しでもしていたのなら、あまりに危険だ。
しっかり注意をしなければ。
そう思っていたが、返答は全くの予想外なものだった。
「まゆさんは、どこ⁉︎」
まゆ。
人の名前だろうか。
聞いたことの無い名前だ。
……無い、よな?
うん。そのはずだ。そのはずなのに。
「……佐久間、まゆ?」
どうしてこんなにも、心地良く響くのだろう。