杏ちゃんが風邪を引いた。
私が治ったのと、ほぼ同時。
まるで病原菌が、そっくり移住したかのようだった。
杏ちゃんは身体が小さい。
それは先天的な体力と免疫力の欠落を意味していた。
一般的な風邪でさえ、彼女の身体には荷が重い。
彼女は数日前から高熱が続き、布団から起き上がれないままだった。
「……っ、ぅ……。」
杏ちゃんが、うめき声にもなっていない何かを発する。
私の呼吸音にすら掻き消されてしまいそうなそれを、聞き漏らすわけにはいかなかった。
「……杏ちゃん。起きた?」
彼女の眉間のシワが、一層深く刻まれる。
その表情が苦しさを増すのに比例して、目蓋がゆっくりと開いた。
「お水は飲めそう? おえってしちゃいそう?」
枕元のペットボトルを手に取り、キャップを外す。
杏ちゃんは目だけを動かして私を捉えると、荒々しい呼吸と共に言葉を吐き出した。
「……か……いま……るから……。」
「……杏ちゃん?」
彼女に顔を近付け、目を閉じ耳を澄ます。
掠れた声で、少女は再び呟いた。
「ぉかあ、さ、ごめ…………ぃま、ようい、……るから。」
お母さん、ごめんなさい、今、用意するから。
彼女はそう言っていた。
立ち上がることすら出来ない身体で。
焦点もはっきりしない目で。
何かに耐えるような表情で。
絶え絶えな息を吐きながら。
私を見て、他のものを映しながら。
その何かに、謝っていた。
「……杏ちゃん、いいの。いいのよ。」
彼女のぼやけた目は、私を母親と認識していた。
回らない頭は、昔の記憶を掘り出していた。
前に彼女は言っていた。
家族と暮らしていた頃は、何でも自分がやっていたと。
褒められるために、頑張っていたと。
それでも褒められなかったと。
愛してなんてくれなかったと。
「……でも……わた、し、っ……やらな、きゃ……。」
こちらに手を伸ばし、ボロボロになった彼女は起き上がろうとする。
その手を握って、私はできるだけ、大人びた優しい声を出した。
「ううん、いいの。
杏ちゃんはいつも、とっても頑張ってるから。
今日くらいは、ゆっくり休んで? 」
握った手が、少しずつ重くなっていく。
彼女から力が抜けていく。
目蓋がゆっくりと下がっていく。
疲弊しきった少女の眉間のシワが、ほんの少し薄くなった気がした。
「……ね。……か、さ。
おねが……しても……い?」
ね。お母さん。お願いしてもいい? ……だろうか。
「うん。何でも言って?」
タオルで彼女の額の汗を拭い、私は再び声を作った。
「……あの、ね。
……あたま……なでて……?」
その声が。震えていたのは。怯えていたのは。
気のせいでもなく。
風邪のせいでもなく。
他の何かが原因なんだろう。
彼女の記憶が原因なんだろう。
彼女の過去が原因なんだろう。
それは決して、無くなってはくれないんだろう。
彼女の言動が、そう確信させてしまうから。
私は精一杯優しく、彼女の頭に触れた。
「……ありが、と……。」
やっと安心したように、杏ちゃんは目を閉じた。
私はいつまでも、彼女の頭を撫で続けた。
その傷痕に触れるように。
癒えることを願うように。
何も出来ない自分を、悔やむように。
これが滑稽なごっこ遊びでも。
稚拙なお遊戯会だとしても。
彼女が欲しがっているものの、劣化したレプリカでもいい。
彼女の夢が醒めるまでは、この模造品は本物だ。
なら、せめて今だけは。
幸せな家族を、彼女にあげたい。
暖かな温もりを、感じさせてあげたい。
夢の中でくらい、望むものを与えたい。
素直に求めて、素直に与えられる。
そんな、彼女が貰えなかった幸せを。
だから私は、彼女を撫で続けた。
いつまでも。いつまでも。
いつまでも、ずっと。