悪い夢を見た。
趣味が悪いし、気分も悪い。
とにかく、悪い夢だった。
「……っ、」
乱れた呼吸。へばりついた前髪。
乱雑に掻き上げる。
大きく深呼吸。周囲を見渡す。
事務所の一室。誰も居ない。
仕事から帰って、そのままソファで寝てしまったらしい。
身につけているものは、外行きの服のままだった。
息が苦しい。トップスを全て脱ぎ捨てる。
ゆっくりと息を吐く。
……うん。よし。
「やっちゃったなぁ……。」
着替えずに寝てしまった。
最近は仕事終わりに事務所に寄る用事もなかったし。
家に帰ってすぐ倒れても、きらりが着替えさせてくれたから。
それと同じ感覚で、つい横になってしまった。
首元の開いた服で寝ないと、私は決まって悪夢を見る。
あの日の夢。あの日の記憶。
お母さんに、殺される夢。
両手が首に纏わりついて。じわりじわりと締め上げて。
私の身体が壊れていって、それでも止めてくれなくて。
私が最期に、ごめんなさい、って。
そう呟いて、目を覚ます。
そんな夢を、必ず見る。
だから普段は、「働きたくない」と大きく書かれたTシャツを着て過ごす。
あれを私が着ていることに、誰も違和感を覚えない。
元々はよく分からないノリで部屋着に書き込んだものだったが。
これは私の普段着を誤魔化すのに大変有用だった。
書かれているものが、ニートアイドルのポリシーだというのなら。
毎日似たようなものを着ていても、怪しまれることはない。
似たようなものばかり持っていても、「まあニートだし」で済まされる。
私の要望と、ニートというキャラクターは、これ以上なく合致していた。
起きている状態であれば、別段気にすることはない。
チョーカーやネックレスだって付けていられる。
ただ、寝る時だけはダメなのだ。
首元の大きく開いた、ブカブカのTシャツでないと。
私は夢で殺される。
そもそも部屋着で寝ればいい話だ。
それはその通り。私だってそうしたい。
だが、アイドル活動というものは、どうも身体を酷使する。
喋らなきゃいけないし。動かなきゃいけないし。
モノによっては頭も使う。
ライブの日なんてそれが全部だ。
体格こそ小学4年生だが、体力もそうだと思わないでほしい。
何が言いたいかって、日中に寝なきゃ身が保たない。
だから私は、極力あのTシャツを着て過ごす。
睡魔に襲われても、そのまま寝てしまえるように。
仕事先の控え室等でその姿を目撃されても、スタッフに違和感を持たれないように。
ついでにその姿が、ニートアイドルのイメージを更に確固たるものにするように。
ただ今日は、あの服じゃダメな仕事だった。
だからきらりに選んでもらったし、前日はたっぷり寝た。15時間。
……それでも、ダメだった。
「おらにげんきをー……、」
胡座をかいたまま両手を掲げ、くだらない台詞を吐こうとする。
「…………。」
それがとんでもなくくだらないことに気付いて、ため息と共に手を下ろした。
「何を倒そうとしてるんですか、半裸で。」
とんでもなくくだらない台詞を聞かれていたことに気付いて、瞬間的に身体が硬直した。
「……幸子さんや、なんでここにいるんだい。」
ギ、ギ、ギ、と、軋んだ機械のように振り向く。
そこには当然、先程の声の主が。
輿水幸子が立っていた。
他事務所のアイドルである、白坂小梅と輿水幸子。
この2人は、以前依田芳乃と同じ仕事をしたことがきっかけで。
仕事でもプライベートでも、私達の事務所と密接に関係するようになった。
それこそ、ちょっとした友達感覚だ。
「アナタのプロデューサーさんに呼ばれたからですよ、杏さんや。」
幸子の言葉に、ようやく思い出す。
幸子ときらりの2人で新しくできたテーマパークのお化け屋敷に入る、という番組の企画。
その詳しい説明を近頃ここで行うと、プロデューサーが言っていたことを。
「きらりはまだ来てないよ。」
さて、友達感覚とは言ったが、ならば親密なのかと言われると、そうではない。
適当に遊んで、適当に話をして、適当に仲良くやっている。その程度。
その理由を問われたら、私は少し困ってしまう。
「みたいですね。1時間は早いですし。」
明文化できるほどハッキリとはしていないし、確信的な出来事があったわけでもない。
ただ、なんとなく。
ああ、きっと根本的なところで、この子とは決して交わらないんだろう。
互いを構成するものの、その土台。その前提。その当然が。
「真面目だねぇ。」
絶対に相容れないのだろう。
理解なんて、できやしないのだろう。
それを表に出してしまえば、きっと退けやしないのだろう。
きっと目の前の人物も、それを理解しているんだろう。
そう、思うのだ。
「……というか、大丈夫ですか? 汗、すごいですよ。」
だからこそ、この状況は好ましくない。
自分の精神が冷静な状態でないことを、私は自覚している。
だがそれを、この人物に触れさせてはいけない。
それを許せば、何か……自分でも予測できない何かが、崩れることになる。
「ああ、ちょっと、冷房が弱いから。」
何を言ってるんだ私は。
空調はさっきから、肌寒いほどに効いているじゃないか。
「暑がりにも程がありますよ。ほら、背中向けてください。」
幸子はいつの間にかハンカチを水で濡らしており、きっと背中を拭こうとしてくれているのだろう。
両の手のひらの上で数回、ぽんぽんと布を跳ねさせていた。
「……いや、いいよ。自分でやるから。」
「手が届かないでしょう。気にしなくていいですから、ほら──」
幸子は私を反転させようと、私の肩に触れる。
その時だった。
「──っ、」
彼女は、そこで静止した。
時間が止まってしまったかのように。
「……幸子?」
私の声に、彼女はハッとしたように手を引っ込めた。
「ああ、その、えーとですね、早めに来て自習をしようと思ってたんですが、筆記用具を忘れてしまいました。
ので、ちょっと取りに戻りますね。」
「え、いや、筆記用具くらい……、」
私が言い終わらないうちに、扉の閉まる音が響いた。
「…………。」
机の上に置かれた、ぬるい麦茶を手に取ろうとする。
私は再び、大きなため息をついた。
『もしもし、きらりさんですか?
今日の打ち合わせなんですが、少し早めに……というか、今から来れませんか。
杏さんが……、その、多分ですけど、アナタが必要です。
落ち着くまで、ボクは適当に外を歩いてますから。
はい。よろしくお願いします。では。』