超常現象プロダクションとは何の関係もありません。
登場人物の死亡を含みます。ご注意ください。
双葉杏と夏の果て
「それならさ。もう、逃げてしまおうか。」
八月最後の日。
ボクの弱音に、彼女は夕焼けに染まりながら。
なんでもないことのように、そう呟いた。
「何処だっていいさ。此処に居るのが嫌なんでしょ?」
でも、いったい何処に?
ボクの言葉に、彼女は簡単なことのように答えた。
「何処に行きたい?」
彼女がゆらゆらと歩く、その影の隣を付いていく。
交差点の真ん中で、彼女は立ち止まり、振り返った。
「何処だっていいよ。好きな方を選べばいい。」
二車線の十字路。その中心で少女は問う。
信号は全て青を示していた。
ボク達の他に、人も車も居なかった。
ボクは──
【「東に行きたい。」】
三つのランプが赤に変化する。
彼女は静かに微笑んで、残った青へと歩き出した。
選んだ理由を聞くこともせずに。
「いいじゃん、空気が美味しそうだ。」
きっと何を選んでも、彼女は否定しないんだろう。
何かを許された気がして、ボクはほんの少しだけ視線を上げた。
最寄駅まで歩いたら普通列車に乗り、当駅始発と当駅止まりを繰り返す。
駅員も乗客も、誰も居ない電車。
ボク達は真ん中の車両の、真ん中の席に、隣り合って座っていた。
向かい側の窓から見える色が、少しずつ黒に染まっていく。
少しずつ、杏色ではなくなっていく。
普通列車なはずなのに、途中停車を一度もすることはなかった。
終電になるまでに、ボク達をできるだけ遠くに運んでくれていた。
停車駅を飛ばせても、終電になったら動けない。
誰だって、時間には逆らえない。
終電で降りた駅は、紅葉が綺麗な山道に繋がっていた。
空はすっかり黒く染まり、満月だけが彼女に色を与えていた。
彼女はまた、ゆらゆらと歩き始めた。
その先にあるものを、きっと彼女だけが理解していた。
「八月三十一日、二十四時。」
唐突に彼女が口を開く。
ボクは携帯を取り出して、画面を見つめた。
9月1日、0時。
「ここが、夏の果て。」
山の中腹。大きな岩々に囲まれた、崖の手前。
その下は現実味を失わせるほど遠くて、木々の紅葉が山の表面を彩っていた。
まんまるの月が空に浮かんで、彼女はそれに背を向けた。
いつの間にか裸足になっていた少女は、ふわりと宙に浮いてこちらを見ていた。
彼女の全身は崖の外にあって、ボクはまだ岩の上に立っていた。
「これ以上進めば、もう戻れない。」
いつの間にか髪を解いていた少女は、こちらに手を伸ばす。
ボクは靴を脱いで、崖のギリギリに立った。
「どうする?」
ボクは彼女の手を握り──
【此方へ引き寄せた。】
「……幸子?」
ボクが掴んだ手は、ビクともしなかった。
彼女はただ困惑していて、だからきっと、力なんて入れていない。
だというのに。空間に固定されているように。
世界がそれを許していないかのように。
「ダメだよ。」
紅葉の波が風に乗って、ボクへと押し寄せる。
ボクを遠ざけているかのようだった。
「それは、できない。」
押した波が、再び引いていく。
彼女を飲み込もうと。
彼女を攫おうと。
「……やっちゃいけない。」
紅葉たちが渦を巻いて、彼女を覆い隠す。
「私は、もう──」
夏の果てに居る彼女の影は、黒のような赤だった。
──彼女が、居ない。
虫の音だけが世界を包む。
貴方の声が聞こえない。
紅葉だけが世界を彩る。
貴方の色が何処にも無い。
貴方は居なかった。
最初から、居なかった。
始発の普通列車に1人で乗った。
列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。
冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。
十字路を1人で歩いた。
ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。
行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。
自室の机の上に、手紙があった。
“幸子へ”
封を開け、中を見た。
“俺が悪かった、双葉杏の全てを話す。
だから直ぐに事務所に来い。馬鹿なことを考えるな。
──プロデューサー”
【END11】貴方が悲しむだろうけど
_______________________
【彼方へ歩み寄った。】
「……うん、分かった。」
ボクが少女の前に立つと、彼女はまた微笑んでくれた。
月に背を向けた今、表情は見えないけれど。
きっと、微笑んでくれている。
「夏の果てを越えに行こう。」
風に乗って、紅葉が静かに流れていく。
ボク達を招いているかのようだった。
「人が時間に逆らえる、唯一の手段をとろう。」
風は少しずつ、勢いを増して押し寄せる。
ボク達を飲み込もうと。
ボク達を誘おうと。
「苦しいのは、これで最後。」
視界を覆い尽くす紅葉が、目の前に現れる。
「手を、離さないで。」
夏の果てを越えた先は、黒のような赤だった。
凄まじい勢いで攫われ、どちらが上なのかも分からない。
瞬間的にパニックに陥り、訳も分からず空気を吐き出した。
何かを叫ぼうと発したそれは、落下速度に追いつけず空中に霧散した。
何もかもが不確かな中、彼女の手の感触だけが、確かに感じられた。
ボクは、自分の命が──
【今になって惜しく思えた。】
その直前になって、ボクは今更、恐怖に支配された。
この苦痛を乗り越えさえすれば楽になれると分かっていても、逃げ出したくて仕方がなかった。
ボクには到底耐え切れるものではなかった。
いや、誰一人として耐え切れた人間など居ないのだろう。
ただ、手遅れだったというだけだ。今のボクのように。
背中を虫が這い上がるような不快を伴った浮遊感から逃れようと、ボクは彼女の手を強く握りしめた。
ボクよりも華奢なそれが、折れてしまうくらいに強く。
すると、彼女に手を引かれたような気がした。
かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。
東に行くと決めた時のように、優しく微笑んでいた。
彼女はボクへと顔を近づけていき──
──手を離し、思い切り突き飛ばした。
彼女に押し上げられ、ボクは空中に浮かぶ。
纏わりついていた虫が剥がれ落ちる。
渇望していた停滞に身体が歓喜する。
マトモな思考が漸く可能になる。
今、彼女は、何をした。。
ボクを浮遊させた彼女は、反作用で簡単に落ちていく。
空に取り残されたボクは、周囲が明るくなっていくのを感じた。
赤だった木々は、杏色に染まっていた。
黒だった景色は、杏色を取り戻していた。
握っていた手の感触が、紅葉に流され消えていた。
始発の普通列車に1人で乗った。
列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。
冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。
十字路を1人で歩いた。
ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。
行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。
自室の机の上に、手紙があった。
“9月1日の輿水幸子へ”
封を開け、中を見た。
“前を見て、息をして。それだけでいいよ。
それに飽きたら、やっと歩いてみればいい。
──八月三十一日の双葉杏”
【END10】貴方を救えませんでした
_______________________
【早く消えてしまえと願った。】
消えてしまえ。無くなってしまえ。
無味乾燥な余生なんて。アナタが居ない人生なんて。
この苦痛さえ耐え切れば、この苦しみから逃げ出せる。
ボクは彼女の手を握り続けた。
決して離してしまわないように。彼女に付いていけるように。
この苦痛に身を任せて、強く握り過ぎないように。
すると彼女は、もう片方の手で、ボクの頬に触れた。
かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。
その表情は優しくて。それでもどこか悲しそうで。
ボクがその表情をさせていることに気付いて。
それを少し、嬉しいと思ってしまう。
「……これで、よかったのかな? 幸子。」
彼女が何かを呟くけれど、言葉はボクまで届かない。
風に掻き消され、もう届かない空の方へ。
ボク達が逆さまになっているのだと、それを見て初めて知った。
「ありがとうございます。我が儘に付き合ってくれて。」
ボクは彼女と同じように、空気を吐き出した。
きっと伝わらないことが、分かっていたから。
足場を失ったボク達は、嘘みたいに簡単に落ちていく。
支えを失ったボク達は、やっと苦痛が和らいでいく。
■■を失ったボク達は、もう苦しまなくていい。
ふたりでいきましょう。
ふたりで、いっしょに。
【END6】貴方と一緒でいたかった
_______________________
【「西に行きたい。」】
三つのランプが赤に変化する。
彼女は静かに微笑んで、残った青へと歩き出した。
選んだ理由を聞くこともせずに。
「……ありがとう。」
きっと選んで欲しかったのは、これなんだと思ったから。
何かを許された気がして、ボクはほんの少しだけ視線を上げた。
最寄駅まで歩いたら普通列車に乗り、当駅始発と当駅止まりを繰り返す。
駅員も乗客も、誰も居ない電車。
ボク達は真ん中の車両の、真ん中の席に、隣り合って座っていた。
向かい側の窓から見える色が、少しずつ黒に染まっていく。
少しずつ、杏色ではなくなっていく。
普通列車なはずなのに、途中停車を一度もすることはなかった。
終電になるまでに、ボク達をできるだけ遠くに運んでくれていた。
停車駅を飛ばせても、終電になったら動けない。
誰だって、時間には逆らえない。
終電で降りた駅は、森のような場所だった。
少し細く、とても長い木が、何本も生えている場所。
辺りはすっかり黒く染まり、木々から漏れる満月だけが彼女に色を与えていた。
彼女はまた、ゆらゆらと歩き始めた。
その先にあるものを、きっと彼女だけが理解していた。
「八月三十一日、二十四時。」
唐突に彼女が口を開く。
ボクは携帯を取り出して、画面を見つめた。
9月1日、0時。
「ここが、夏の果て。」
かろうじて道と呼べる土の跡が、目の前で途切れている。
そこから先はあまりに暗くて、彼女の姿が不安定になる。
いつの間にか裸足になっていた少女は、緑の上に足を乗せていた。
「これ以上進めば、もう戻れない。」
いつの間にか髪を解いていた少女は、こちらに手を伸ばす。
ボクは靴を脱いで、獣道のギリギリに立った。
「どうする?」
ボクは彼女の手を握り──
【此方へ引き寄せた。】
「……幸子?」
ボクが掴んだ手は、ビクともしなかった。
彼女はただ困惑していて、だからきっと、力なんて入れていない。
だというのに。空間に固定されているように。
世界がそれを許していないかのように。
「ダメだよ。」
木々が異様にざわめき出す。
ボクを遠ざけているかのようだった。
「それは、できない。」
緑は月を遮って、その影を増やしていく。
彼女を飲み込もうと。
彼女を攫おうと。
「……やっちゃいけない。」
視界を覆い尽くす影が、目の前に現れる。
「私は、もう──」
夏の果てに居る彼女の影は、黒のような緑だった。
──彼女が、居ない。
木々の音だけが世界を包む。
貴方の声が聞こえない。
月の光だけが世界を照らす。
貴方の色が何処にも無い。
貴方は居なかった。
最初から、居なかった。
始発の普通列車に1人で乗った。
列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。
冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。
十字路を1人で歩いた。
ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。
行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。
自室の机の上に、手紙があった。
“幸子ちゃんへ”
封を開け、中を見た。
“事務所の手紙を読んだ。
携帯が繋がらないから、書置きを残しておく。
これを見たらすぐに連絡をしてほしい。
お願いだ。そんなこと、しないでくれ。
──星 輝子”
【END1】貴方は時間に逆らった
_______________________
【彼方へ歩み寄った。】
「……うん、分かった。」
ボクが少女の隣に立つと、彼女は微笑んでくれた。
「付いて来て。見て欲しいものがあるんだ。」
彼女はそう言って、また歩き出す。
ボクは彼女の影を辿っていく。
周囲はどんどん暗くなっていく。
少女はどんどん黒くなっていく。
彼女はどんどん見えなくなっていく。
ついにボクは彼女を見失う。
それでもボクは歩き続けた。
この先にあるものを、やっとボクは理解したから。
「……そう。そこだよ。」
何処からか声がする。
目の前に緑が立ち塞がっていた。
声に従って、ボクは草木を掻き分ける。
木々から光が一本漏れて、ある一点を照らしていた。
大樹の幹に身体を預け、静かに瞳を閉じていた。
日の光に照らされて、彼女は眠ったままだった。
夏の果てに居る彼女の寝顔は、嘘のように綺麗だった。
「死因、聞かされなかったんだよね。」
後ろから声。
振り返ると、目の前で眠る少女と同じ姿。
「……私は、自分で望んだんだ。」
しかしその身体は、うっすらと透けていた。
「だから、幸子まで来ることはないよ。
何も同情することなんてない。
幸子は、ちゃんと幸子の──」
彼女は静かに笑っていた。
申し訳なさそうに。安心させるように。まるで何かを隠すように。
でも。
「──同情?」
聞き逃してはいけない言葉だった。
「アナタは、ボクが同情でこんなことをすると思ってるんですか?」
何かが食い違っていることに、やっと気付いたのだろう。
ボクの声を聞いて、彼女は目に見えて狼狽え始めた。
「え……だって、ほかに、何が……、」
同情。
死んだ人間に同情。
嗚呼。彼女にはまだ未来があったはずなのに。
何故。彼女にはまだ希望があったはずなのに。
予期せずして奪われた彼女が居るのに。
自分はのうのうと、それらを享受するのか。
そんな薄っぺらい感情で、後追いなんてするものか。
「杏さん、ボクは。ボクが死にたいのは。
そんなどうでもいいことのためじゃないんですよ。」
ボクは彼女の肩を掴み、思い切り力を入れる。
苦痛に歪む表情を無視して、言葉を吐き続けた。
「好きなんです。アナタのことが。」
「…………え、」
少女は目をまんまるにして、言葉すら失ってボクを見上げる。
ボクは構わずに、感情を連ね続けた。
「死んでほしくなかったんです。」
彼女の身体がどんどん透けていく。
「生きていてほしかったんです。」
どんどん此処から居なくなっていく。
「アナタが居ない人生なんて、苦痛な余生でしかない。」
それでも驚愕に目を見開いたままで。
「でもアナタは死んでしまった。」
きっと彼女は、考えたことすら無かったのだろう。
「だから。ボクは、死にたいんです。」
自分が誰かに好意を持たれているなんて。
「アナタと同じ場所に逝きたいんです。」
自分が死んで悲しむ人が、一人でも居たなんて。
「アナタと同じ方法で、逝きたいんです。」
……ざまあみろ。一人で勝手に死ぬからだ。
「……っ、ダメだ、幸子、それは──」
我に帰り、ボクに何かを言おうとするけれど。
それ以上言葉を発する前に、彼女は黒に溶けて消えた。
ボクは眠る彼女に向き直り、ゆっくりと歩み寄る。
大樹の幹に身体を委ね、彼女の肩に頭を預けた。
瞳を閉じ、ひとつ、ゆっくりと深呼吸。
「おやすみなさい、杏さん。」
【END8】貴方と同じいきかたを
_______________________
【「南に行きたい。」】
三つのランプが赤に変化する。
彼女は静かに微笑んで、残った青へと歩き出した。
選んだ理由を聞くこともせずに。
「いいじゃん、月がよく見えそうだ。」
きっと何を選んでも、彼女は否定しないんだろう。
何かを許された気がして、ボクはほんの少しだけ視線を上げた。
最寄駅まで歩いたら普通列車に乗り、当駅始発と当駅止まりを繰り返す。
駅員も乗客も、誰も居ない電車。
ボク達は真ん中の車両の、真ん中の席に、隣り合って座っていた。
向かい側の窓から見える色が、少しずつ黒に染まっていく。
少しずつ、杏色ではなくなっていく。
普通列車なはずなのに、途中停車を一度もすることはなかった。
終電になるまでに、ボク達をできるだけ遠くに運んでくれていた。
停車駅を飛ばせても、終電になったら動けない。
誰だって、時間には逆らえない。
終電で降りた駅は、これでもかと高層ビルが立ち並ぶ場所だった。
そのどれにも光は無く、きっとここには誰も居ないんだろう。
空はすっかり黒く染まり、淡く光る満月だけが彼女に色を与えていた。
彼女はまた、ゆらゆらと歩き始めた。
その先にあるものを、きっと彼女だけが理解していた。
「八月三十一日、二十四時。」
唐突に彼女が口を開く。
ボクは携帯を取り出して、画面を見つめた。
9月1日、0時。
「ここが、夏の果て。」
一番高いビルの、一番高い場所。月に最も近い場所。
いつの間にか裸足になっていた少女は、月に背を向けて此方を見ていた。
彼女の全身は青白く染められていて、ボクはまだ影に居た。
「これ以上進めば、もう戻れない。」
いつの間にか髪を解いていた少女は、こちらに手を伸ばす。
ボクは靴を脱いで、月が及ばないギリギリに立った。
「どうする?」
ボクは彼女の手を握り──
【此方へ引き寄せた。】
「……幸子?」
ボクが掴んだ手は、ビクともしなかった。
彼女はただ困惑していて、だからきっと、力なんて入れていない。
だというのに。空間に固定されているように。
世界がそれを許していないかのように。
「ダメだよ。」
月光が静かに引いていく。
ボクを遠ざけているかのようだった。
「それは、できない。」
引いた波が、再び押し寄せる。
彼女を飲み込もうと。
彼女を攫おうと。
「……やっちゃいけない。」
目を開けていられないほどの光が、彼女を覆い隠す。
「私は、もう──」
夏の果てに居る彼女の影は、黒のような白だった。
──彼女が、居ない。
風の音だけが世界を包む。
貴方の声が聞こえない。
月の光だけが世界を照らす。
貴方の色が何処にも無い。
貴方は居なかった。
最初から、居なかった。
始発の普通列車に1人で乗った。
列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。
冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。
十字路を1人で歩いた。
ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。
行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。
自室の机の上に、手紙があった。
“幸子ちゃんへ”
封を開け、中を見た。
“いろんな幽霊のお友達に話を聞いてみたよ。
確かに、それをすれば、杏さんは来てくれるかもしれない、って。
でも、もう杏さんは成仏したの。
あの子みたいに留まり続けることも、ましてや生き返ることなんて。
お願い幸子ちゃん。もう、やめにしよう?
──白坂小梅”
【END12】貴方に再び逢えるなら
_______________________
【彼方へ歩み寄った。】
「……うん、分かった。」
ボクが少女の隣に立つと、彼女はまた微笑んでくれた。
月に背を向けた今、表情は見えないけれど。
きっと、微笑んでくれている。
「夏の果てを越えに行こう。」
ボクの手を握っているのとは反対の手で、彼女はボクに何かを手渡す。
小さな白の粒だった。
ボクに渡したのと同じものを、もうひとつ彼女は持っていた。
「人が時間に逆らえる、唯一の手段をとろう。」
ゆっくりと彼女は手のひらの白を口に含む。
ボクも同じように、舌の上にそれを乗せた。
「苦しいのは、これで最後。」
彼女と同時に、白を飲み込む。
「手を、離さないで。」
夏の果てを越えた先は、黒のような白だった。
心臓の脈動が加速度的に早まっていく。
瞳が機能しなくなって、光を無差別に搔き集める。
目を瞑っても眩しさが痛い。いくら吸っても酸素が足りない。
世界がぐにゃぐにゃに歪み出し、立つことすらままならなくなる。
何かを叫ぼうと息を吐いて、それを震わせることすらできなかった。
何もかもが不確かな中、彼女の手の感触だけが、確かに感じられた。
ボクは、自分の命が──
【今になって惜しく思えた。】
その直前になって、ボクは今更、恐怖に支配された。
この苦痛を乗り越えさえすれば楽になれると分かっていても、逃げ出したくて仕方がなかった。
ボクには到底耐え切れるものではなかった。
いや、誰一人として耐え切れた人間など居ないのだろう。
ただ、手遅れだったというだけだ。今のボクのように。
身体の全てがおかしくなっていく恐怖から逃れようと、ボクは彼女の手を強く握りしめた。
ボクよりも華奢なそれが、折れてしまうくらいに強く。
すると、彼女に手を引かれたような気がした。
かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。
南に行くと決めた時のように、優しく微笑んでいた。
彼女はボクへと顔を近づけていき──
──唇を重ね、何かをボクに押し込んだ。
警報で満たされていた身体が正常を取り戻す。
その奥深くにまで彼女が浸透していく。
マトモな思考が漸く可能になる。
今、彼女は、何をした。
彼女は驚愕に目を見開くボクの手を離す。
その場でくるりと振り返り、彼女は月と向き合った。
月は全てを見届けて、その輝きを増し始める。
閃光に包まれて、次の瞬間、彼女は何処にも居なかった。
視界を取り戻したボクは、頭上が明るくなっていくのを感じた。
白だった空は、杏色に染まっていた。
黒だった景色は、杏色を取り戻していた。
握っていた手の感触が、光に包まれ消えていた。
始発の普通列車に1人で乗った。
列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。
冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。
十字路を1人で歩いた。
ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。
行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。
自室の机の上に、手紙があった。
“八月三十一日の輿水幸子へ”
封を開け、中を見た。
“大丈夫。生きていけるさ。
そんなに優しい幸子なら。
──9月1日の双葉杏”
【END9】貴方のことが好きでした
_______________________
【早く消えてしまえと願った。】
消えてしまえ。無くなってしまえ。
無味乾燥な余生なんて。アナタが居ない人生なんて。
この苦痛さえ耐え切れば、この苦しみから逃げ出せる。
ボクは彼女の手を握り続けた。
決して離してしまわないように。彼女に付いていけるように。
この苦痛に身を任せて、強く握り過ぎないように。
すると彼女は、もう片方の手で、ボクの頬に触れた。
かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。
その表情は優しくて。それでもどこか悲しそうで。
ボクがその表情をさせていることに気付いて。
それを少し、嬉しいと思ってしまう。
「……ごめん。あんなこと、するんじゃなかったね。」
彼女が何かを呟くけれど、言葉はボクまで届かない。
朱になって、ポタポタと零れ落ちていく。
もう戻れないのだと、それを見て安堵した。
「アナタは何も、悪くなんかないです。」
ボクは彼女と同じように、残った朱を吐き出した。
きっと伝わらないことが、分かっていたから。
脈拍を失ったボク達は、嘘みたいに冷たくなっていく。
感覚を失ったボク達は、やっと苦痛が和らいでいく。
■■を失ったボク達は、もう苦しまなくていい。
ふたりでいきましょう。
ふたりで、いっしょに。
【END7】貴方と居られないのなら
_______________________
【「北に行きたい。」】
三つのランプが赤に変化する。
彼女は静かに微笑んで、残った青へと歩き出した。
選んだ理由を聞くこともせずに。
「いいじゃん、涼しそうだ。」
きっと何を選んでも、彼女は否定しないんだろう。
何かを許された気がして、ボクはほんの少しだけ視線を上げた。
最寄駅まで歩いたら普通列車に乗り、当駅始発と当駅止まりを繰り返す。
駅員も乗客も、誰も居ない電車。
ボク達は真ん中の車両の、真ん中の席に、隣り合って座っていた。
向かい側の窓から見える色が、少しずつ黒に染まっていく。
少しずつ、杏色ではなくなっていく。
普通列車なはずなのに、途中停車を一度もすることはなかった。
終電になるまでに、ボク達をできるだけ遠くに運んでくれていた。
停車駅を飛ばせても、終電になったら動けない。
誰だって、時間には逆らえない。
終電で降りた駅は、海のにおいで包まれていた。
空はすっかり黒く染まり、瓦斯灯と満月だけが彼女に色を与えていた。
彼女はまた、ゆらゆらと歩き始めた。
その先にあるものを、きっと彼女だけが理解していた。
「八月三十一日、二十四時。」
唐突に彼女が口を開く。
ボクは携帯を取り出して、画面を見つめた。
9月1日、0時。
「ここが、夏の果て。」
波の音だけが満たされた海辺。
いつの間にか裸足になっていた少女は、足首まで海に身体を委ねていた。
「これ以上進めば、もう戻れない。」
いつの間にか髪を解いていた少女は、こちらに手を伸ばす。
ボクは靴を脱いで、波が及ばないギリギリに立った。
「どうする?」
ボクは彼女の手を握り──
【此方へ引き寄せた。】
「……幸子?」
ボクが掴んだ手は、ビクともしなかった。
彼女はただ困惑していて、だからきっと、力なんて入れていない。
だというのに。空間に固定されているように。
世界がそれを許していないかのように。
「ダメだよ。」
波が静かに引いていく。
ボクを遠ざけているかのようだった。
「それは、できない。」
引いた波が、再び押し寄せる。
彼女を飲み込もうと。
彼女を攫おうと。
「……やっちゃいけない。」
身長の何倍もある高さの波が、目の前に現れる。
「私は、もう──」
夏の果てに居る彼女の影は、黒のような青だった。
──彼女が、居ない。
波の音だけが世界を包む。
貴方の声が聞こえない。
月の光だけが世界を照らす。
貴方の色が何処にも無い。
貴方は居なかった。
最初から、居なかった。
始発の普通列車に1人で乗った。
列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。
冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。
十字路を1人で歩いた。
ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。
行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。
自室の机の上に、手紙があった。
“輿水幸子 様”
封を開け、中を見た。
“謹啓 残暑の候 皆様におかれましては益々ご健勝のこととお慶び申し上げます
このたび亡娘 杏の一回忌にあたり左記のとおりささやかな法要を営みたいと存じます
つきましてはご多忙中まことに恐れ入りますがご参会賜りますようご案内申し上げます
【END2】貴方は此処に居なかった
_______________________
【彼方へ歩み寄った。】
「……うん、分かった。」
ボクが少女の隣に立つと、彼女はまた微笑んでくれた。
月に背を向けた今、表情は見えないけれど。
きっと、微笑んでくれている。
「夏の果てを越えに行こう。」
波が静かに引いていく。
ボク達を招いているかのようだった。
「人が時間に逆らえる、唯一の手段をとろう。」
引いた波が、再び押し寄せる。
ボク達を飲み込もうと。
ボク達を誘おうと。
「苦しいのは、これで最後。」
身長の何倍もある高さの波が、目の前に現れる。
「手を、離さないで。」
夏の果てを越えた先は、黒のような青だった。
凄まじい勢いで攫われ、どちらが上なのかも分からない。
瞬間的にパニックに陥り、訳も分からず空気を吐き出した。
何かを叫ぼうと発したそれは、気泡となって青に溶けた。
何もかもが不確かな中、彼女の手の感触だけが、確かに感じられた。
ボクは、自分の命が──
【今になって惜しく思えた。】
その直前になって、ボクは今更、恐怖に支配された。
この苦痛を乗り越えさえすれば楽になれると分かっていても、逃げ出したくて仕方がなかった。
ボクには到底耐え切れるものではなかった。
いや、誰一人として耐え切れた人間など居ないのだろう。
ただ、手遅れだったというだけだ。今のボクのように。
酸素を求めて身体が発するSOSの激痛から逃れようと、ボクは彼女の手を強く握りしめた。
ボクよりも華奢なそれが、折れてしまうくらいに強く。
すると、彼女に手を引かれたような気がした。
かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。
北に行くと決めた時のように、優しく微笑んでいた。
彼女はボクへと顔を近づけていき──
──唇を重ね、息を全て吐き出した。
全てを吐き出していた空っぽの肺が、彼女で満たされる。
渇望していた酸素に身体が歓喜する。
マトモな思考が漸く可能になる。
今、彼女は、何をした。
彼女は驚愕に目を見開くボクの手を離す。
その場で小さくなりながらくるりと半回転し、ボクに足を向ける。
そのままボクを、勢いよく蹴り飛ばした。
体内の空気を全て吐き出した彼女は、反作用で簡単に沈んでいく。
空気を手に入れて押し出されたボクは、頭上が明るくなっていくのを感じた。
青だった海は、杏色に染まっていた。
黒だった景色は、杏色を取り戻していた。
握っていた手の感触が、海に流され消えていた。
始発の普通列車に1人で乗った。
列車はもう、停車駅を飛ばしはしなかった。
冗長なほどにゆっくりと、ボクを9月に運んでいった。
十字路を1人で歩いた。
ゆらゆらと歩く影は、もう居なかった。
行き交う車と人の波に、せめて飲まれないように進んだ。
自室の机の上に、手紙があった。
“9月1日の輿水幸子へ”
封を開け、中を見た。
“本当にダメになったら、いつでも来なよ。
のんびり待ってるからさ。
──八月三十一日の双葉杏”
【END3】貴方は全て分かってた
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【早く消えてしまえと願った。】
消えてしまえ。無くなってしまえ。
無味乾燥な余生なんて。アナタが居ない人生なんて。
この苦痛さえ耐え切れば、この苦しみから逃げ出せる。
ボクは彼女の手を握り続けた。
決して離してしまわないように。彼女に付いていけるように。
この苦痛に身を任せて、強く握り過ぎないように。
すると彼女は、もう片方の手で、ボクの頬に触れた。
かたく閉じていた目を開けると、目の前に彼女が居た。
その表情は優しくて。それでもどこか悲しそうで。
ボクがその表情をさせていることに気付いて。
それを少し、嬉しいと思ってしまう。
「……ごめんね。本当に、ごめん。」
彼女が何かを呟くけれど、言葉はボクまで届かない。
泡になって、もう届かない空の方へ。
ボク達が逆さまになっているのだと、それを見て初めて知った。
「もう置いてっちゃ、嫌ですからね。」
ボクは彼女と同じように、残った僅かな空気を吐き出した。
きっと伝わらないことが、分かっていたから。
空気を失ったボク達は、嘘みたいに簡単に沈んでいく。
酸素を失ったボク達は、やっと苦痛が和らいでいく。
■■を失ったボク達は、もう苦しまなくていい。
ふたりでいきましょう。
ふたりで、いっしょに。
【END5】貴方と一緒に居たかった
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