「ここまでにしましょう、紂王様。」
殷の都の宮殿にある中庭で二人の男が手合わせをしていた。
その二人とは紂王と聞仲である。
聞仲は紂王の幼少時から厳しく武芸を教えた師であったが、紂王はその幼少時の経験からどこか聞仲に苦手意識を持っていた。
だが滅びの運命を受け入れた紂王は、積極的に聞仲に武芸の教えを乞う様になっていた。
「うむ。聞仲よ、余は少しは腕を上げたか?」
「並みの武人ならば紂王様の前に膝をつくことになるでしょう。あるいは黄飛虎にも勝ちを得られるやもしれませぬ。」
「そうか、黄将軍にも勝ちを得られるか。」
笑みを浮かべた紂王は侍女が持ってきた桶に入った水に手拭いを潜らせて顔の汗を拭く。
(あの日から紂王様は見違える程に変わった…。昼夜を問わずに酒に酔っていた紂王様は、今ではたしなむ程度にしか酒を飲まず、健やかな身体へと変わっている。)
酒色に溺れ、政を疎かにしていた愚王の姿はどこにも無い。
そこには王として政に励み、一人の男として武に励む紂王の姿があった。
今の紂王の姿を見たならば、中華の者は誰もが紂王を賢王と讃えただろう。
それを誰よりも理解する聞仲は拳を握り締めた。
(滅ぼさせぬ…。たとえ殷が滅びても紂王様と一族の方々は…っ!?)
聞仲は自身の思考に驚いた。
(…いつからだ?私はいつから、人を見ていなかった?)
全ては殷の為。
この言葉を聞仲は何よりも優先してきた。
だが、ここに至って聞仲は気が付いた。
自分が守りたかったのは国そのものではなく、国と共に在る者達であった事を。
(そうか…殷が滅ぶのは…私のせいか…。)
数百年もの時を超えて殷に仕え続けてきた聞仲の行動、発言は殷の政に大きな影響を及ぼす。
殷の為にと多くの者を切り捨て、滅ぼしてきた。
その聞仲の行動が誰よりも殷を蔑ろにしてきたことに、聞仲は気が付いてしまった。
(こんな私が殷の大師だと?笑わせるな、聞仲!)
血が滴り落ちる程に手を強く握り締めた聞仲に、紂王が濯いだ手拭いを差し出す。
「聞仲よ、その様な手で戻れば文官が驚くぞ。」
「紂王様…。」
俯いた聞仲の肩を紂王が軽く叩く。
「自裁など許さぬぞ、聞仲。」
「紂王様…。」
「余は幼き頃より聞仲と生きてきたからな。顔色を見ればある程度は察する事が出来る。」
そう言って紂王が笑うが、聞仲は顔を上げる事が出来なかった。
そんな聞仲を見て肩を竦めた紂王は、雰囲気を変えようと話題を変える。
「姫昌が逃げてから四年程が経ったが、まだ国を興さぬな。」
「…はい。」
大師として責務を果たさねばと息を吐いてから聞仲が顔を上げると、紂王は笑みを浮かべた。
「それで、聞仲は後どれ程で姫昌が国を興すと思う?」
「姫昌の政の手腕ならば、周囲の属国への根回しは終えているでしょう。ですが、如何に黄飛虎が名将でも、戦が出来る軍を一朝一夕には作れませぬ。」
そこまで話した聞仲は一息間を入れてから続きを話す。
「今の西岐が殷と渡り合うには後十年は掛かります。」
「十年か、長いな。」
「はい。ですが、ある事が起これば、五、六年程で国を興すでしょう。」
「ほう?それは?」
「優秀な大師が姫昌に仕えることです。一人の英雄が先頭を駆けるだけでは戦術的な勝利しかもたらしません。軍を指揮する大師こそが、戦略、戦術で軍に勝利をもたらします。だからこそ、姫昌の元に優秀な大師がおらねば姫昌は動かぬでしょう。」
聞仲の言葉を聞いた紂王は、その優秀な大師の資質を持つ人物に思い当たる。
「たとえば妲己のような、か?」
「…その通りです。」
不満気に答えた聞仲の姿に、紂王は大声を上げて笑う。
そんな紂王に聞仲はジト目を向けた。
「はっはっはっ!すまぬすまぬ。聞仲の調子が戻ったのでついな、はっはっはっ!」
涙を浮かべて笑う紂王を見て、聞仲は諦めた様にため息を吐いた。
「西岐と存分に戦い、せいぜい華麗に滅びて千年は名を残したいものだ…だが。」
不敵に笑みを浮かべた紂王が踵を返して歩き出すと、聞仲がその後に続く。
「物足りぬ相手ならば逆に滅ぼす…そうであろう、聞仲?」
「御意。」
覚悟を決めた紂王の背中は、過去の英雄達にも劣らぬ堂々たるものだった。
そんな紂王の背中に聞仲は久しく感じていなかった心の滾りを感じたのだった。
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