およそ三十日に渡りシッダールタに幻術を掛け続けたマーラは満足したのか、雄々しく虚空を突き破って高笑いをしながら去っていった。
そしてマーラが去ってから更に十日程が過ぎた頃、ついにシッダールタは『解脱』の境地へと至ったのだった。
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額に毛が生え、さらに頭髪が螺髪へと変化したシッダールタを見た二郎は首を傾げている。
「『解脱』の境地に至るとそうなるのかな?」
「さて…私にはわかりかねます。気になるのでしたら、ゼン様も『解脱』なさってはいかがですか?」
「俺は『解脱』するつもりはないよ。生に苦しみを感じていないからね。」
「そうですか。それは残念です。」
『解脱』の境地へと至ったシッダールタの物腰は、至極自然に柔らかいものになっていた。
その変化にも二郎は興味を抱く。
「それで、『解脱』の境地に至ったシッダールタはこの後どうするんだい?」
「以前の私と同じく生の苦しみに悩む者達に教えを施し、救いに導きたいと思います。」
そう言って両手を合わせたシッダールタは、柔らかく微笑んだのだった。
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『解脱』の境地へと至ったシッダールタの元に、先ず教えを乞いに来たのは小動物達だった。
菩提樹の下で瞑想をするシッダールタの元に種族を問わずに、小動物達が次々に集まってくる。
捕食者たる肉食獣に狙われ続ける日々の苦しみから、シッダールタに教えを乞いに来たのだ。
シッダールタは小動物に対して分け隔てなく教えを説いていく。
教えを乞う小動物の数は日に日に増えていき、その様子は噂となって近隣の苦行者達の耳に入る様になった。
苦行者達はそんなシッダールタを笑った。
あいつは苦行に耐えきれずに狂ったと腹を抱えて笑いものにした。
ああなりたくなければ己に教えを乞えと、シッダールタを利用していった。
そんな苦行者の弟子の中に邪な考えを持つ者がいた。
シッダールタが小動物達にしている話を笑いの種にしてやろうと。
だがシッダールタの教えを聞いたその弟子は、翌日に苦行者の師に暇乞いをした。
驚いた苦行者が理由を問うと、弟子だった者はシッダールタを師として仰ぐと答えた。
苦行者は弟子を奪われた事に激怒した。
俺が奴の嘘を暴いてやると息巻いた苦行者は、肩を怒らせてシッダールタの元に向かう。
しかしその苦行者も次の日にはシッダールタの弟子になっていた。
そして一人、また一人とシッダールタの弟子になっていく者が次々に増えていく。
中には頑なにシッダールタの教えを否定し命すら狙う者がいたが、その者は後に最も熱心なシッダールタの弟子となった。
そうして弟子達が増えていくと、シッダールタは幾人かを選抜して自身に代わって菩提樹の下で教えを説く役割を任せ、自身は幾人かの身の回りの世話をする弟子達と共に旅に出た。
シッダールタは旅先でも教えを説いていき、多くの人々の心に救いをもたらしていく。
その救われた者の中には王族もおり、シッダールタの教えを国教とする者もいた。
旅を終えて菩提樹の元に戻る頃には、シッダールタは人類の歴史が始まってから人として最も信仰を集めた者となっていた。
そしてシッダールタが『解脱』の境地へと至ってから数十年程の月日が流れる。
『解脱』の境地へと至ったシッダールタも老いと病には勝てず、身体を横たえながら教えを説く日々が増えていったのだった。
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