「シッダールタ、霊薬はいらないのかい?」
「ゼン様、御心遣いありがとうございます。ですが私は存るがままを受け入れる姿を、弟子達に見せねばならないのです。」
二郎が姿を見せても身体を起こさずに横臥したままのシッダールタは、申し訳なさそうに苦笑いをする。
「このままだと、後一年ってところだよ。」
「弟子達に『解脱』の境地に至った者がいないのは未練ですが、私の教えは十分に理解してくれています。『涅槃』で弟子達の行く末を見守るには未練が残るぐらいが丁度良いのでしょう。」
病の苦しみに脂汗を流しながらも、シッダールタは柔らかな微笑みを浮かべる。
「そこまで覚悟を決めているのなら、これ以上は何も言わずに見守るよ。」
「ゼン様に見守って頂けるのが、何よりも心強いです。」
その後、シッダールタは命尽きるその日まで弟子達に教えを説き続けた。
そして二郎の見立てた通りの一年後、シッダールタの命が尽きる日がやって来たのだった。
◆
「「「ブッダ様!」」」
『覚者』の意味合いを持つその呼び名に、横臥した姿勢のシッダールタは弟子達に微笑みを返す。
(思えば私が『解脱』の境地に至ってからガウタマ・シッダールタの名を呼んでくれたのはゼン様ぐらいだな…。)
『解脱』により生の苦しみから解き放たれたシッダールタだが、己の名を呼んでくれる友がいなくなった事にふと寂しさを感じた。
(『解脱』に至り欲に振り回されぬ様になっても、人であるが故に欲を感じぬわけではないか…。最後の最後にまた一つ学び得る事が出来た私は、なんと恵まれているのだろうか。)
弟子達に微笑みを向けていたシッダールタは、ゆっくりと目を閉じていく。
「皆、私の教えは絶対不変のものではない。何故なら、時代と共に人々は変わっていくからだ。」
シッダールタの弟子達は師の言葉を聞き逃さない様に嗚咽を堪える。
「人々が変われば、何に対して生の苦しみを感じるのかも変わるだろう…。ならば、人々の心を救う教えもまた、変わっていかねばならない。」
今の時代において最も信仰を集めた自らの教えを変えよという師に、弟子達は涙を流しながら驚きの表情を浮かべる。
信じ学んできたものを変える。
そこには未知への恐怖が生じるだろう。
だがシッダールタは自身が教え導いてきた弟子達が、己とは違う『解脱』の境地へと至るのを信じていた。
「…どうやらここまでの様だ。私は『涅槃』に入る。」
この一言を最後にシッダールタは『世界』の内を去る。
師の最後を見届けた弟子達からは、塞き止めていた嗚咽が漏れ始めたのだった。
◆
『涅槃』へと入ったシッダールタは、そこで弟子達の行く末を瞑想をしながら見守っていった。
己の亡骸を骨の一片まで奪い合ったり、後継者を巡って派閥が分かれたりしたが、それでもシッダールタは弟子達の行く末を暖かく見守っていった。
何故なら…。
「おや?どうやら他国に行って教えを広める様ですね。」
そういった争いとは無縁に、精進を続ける弟子達もいたからだ。
「生前の私の命を狙ったりと手を焼いた弟子でしたが、貴方が最も真摯に精進する弟子となりましたね。」
古参の弟子を差し置いて、旅に出た際に身の回りの世話を任せた事を思い返し、シッダールタは微笑みを浮かべる。
シッダールタが『涅槃』に入ってから幾年月が流れると、シッダールタは『涅槃』に近付く気配を感じた。
「私以外の誰かが『解脱』の境地へと至ったのでしょうか?」
そう考えたシッダールタは嬉しそうに笑う。
しかし…。
「グワッハッハッハッ!我、参上!」
御立派な神が『涅槃』の虚空を雄々しく突き破って現れると、柔和な笑みを絶やさなかったシッダールタが真顔になった。
そして…。
「去れ、マーラよ!」
「つれない事を言うでない。我と汝の仲ではないか!」
御立派な身体をブルンブルンと振るいながらそう言い切るマーラの姿に、シッダールタは『解脱』をしてから初めて頭を抱えながらため息を吐いたのであった。
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