「すまねぇ!」
涙を流し続けている猛犬の主にセタンタは頭を下げる。
「詫びにもならねぇがゲッシュを誓わせてくれ。俺は二度と犬を食わねぇと!」
ゲッシュとは一言で言えば『星』や『世界』に誓う制約だ。
この制約を厳守する限り『星』や『世界』から多大な恩恵を得られるが、一度破れば禍が訪れるのである。
それを聞いた猛犬の主はやんわりと首を横に振る。
「それでは冬に飢えた時に犬を食べるしかなければ、光の御子様は飢えてしまいます。」
「構わねぇ。俺はそれだけの事をしちまったんだ。」
「少しいいかい?」
猛犬の主とセタンタが互いに譲らずにいると、突如虚空から一人の男が姿を現した。
驚きながらもその男に目を向けると、セタンタの総身に鳥肌が立った。
(なにもんだ…こいつ。)
極自然体で立っているだけなのに虚空から現れた男は圧倒的な強さを感じさせる。
セタンタのケルトの戦士としての本能が騒ぎだす。
この男と戦いたいと。
猛犬を殺してしまった後悔を忘れたわけではない。
だが、挑みの血の沸き立ちを抑える事が出来ないのだ。
「おい、てめぇ!俺と戦え!」
男はセタンタに興味なさげに振り向く。
「そこの猛犬の主と話があるから、その後でもいいかい?」
「血が沸き立ってしょうがねぇんだ!待ってられるか!」
問答無用とばかりにセタンタは男に殴り掛かる。
しかし話の成り行きを黙して見ていた猛犬の主が瞬きをすると、次の瞬間には地に倒れているセタンタの姿があったのだった。
「これで静かになったね。君がそこの犬の主でいいのかな?」
「は、はい。」
猛犬の主は驚きを隠せない。
殺さぬ様に猛犬が加減をしたとはいえ、セタンタは竜をも噛み殺した猛犬を殴り殺している。
そのセタンタを目の前の男は瞬きの間に倒してのけたのだ。
猛犬の主でなくとも、ケルトの者ならば皆が驚くだろう。
「さて話なんだけど、そこの犬を生き返らせてもいいかな?」
「…はい?」
「あぁ、心配はいらないよ。ちゃんと生前の魂を喚び戻すから。」
そうではないと言いたいが、猛犬の主は驚きすぎて声がでない。
「返事がないけど、生き返らせてもいいのかな?」
猛犬の主は了承を示す為に何度も首を縦に振る。
「よし、それじゃ手早く反魂の術をしてしまおうか。」
なにやら準備を始めた男を、猛犬の主はしばし呆然と見詰める。
ハッと気を取り戻した猛犬の主は男に声を掛けた。
「あ、あの…失礼ですが、貴方様は?」
猛犬の主の問い掛けに、男は振り向いて微笑む。
そして…。
「俺はゼン。ケルトでは放浪の神なんて呼ばれる事もあるね。」
男が名乗ると、猛犬の主は慌てて地に膝をついて頭を垂れたのだった。
◆
アルスター伝説の一節には次の様に綴られている。
『竜をも噛み殺した猛犬を殴り殺したセタンタだが、猛犬の主の嘆く姿を見て激しく後悔をした。』
『激しく後悔をしたセタンタは犬を食べないとゲッシュを誓おうとしたが、そこに放浪の神ゼンがぶらりと現れる。』
『放浪の神ゼンを見たセタンタはケルトの戦士として戦いを挑んだが、猛犬の主が瞬きをする間に気絶させられてしまう。』
『セタンタを気絶させた放浪の神ゼンは猛犬の忠義を称賛し、猛犬を生き返らせた。』
世界各地の伝承や神話に登場する放浪の神ゼンだが、その名はアルスター伝説にも残されている。
今回の一節で放浪の神ゼンは猛犬を生き返らせているのだが、放浪の神ゼンは犬の神獣に乗って世界を放浪していたという話もあるので、生き返らせた理由は単に犬好きだったからではという一説もある。
その一説の真偽は定かではないが、ケルト神話において犬は強さと忠義を併せ持つ存在として語られ、後の時代の騎士達に大切に扱われる様になるのだった。
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