「孟徳、劉備達はいないぞ。」
劉備が治めていた領地に兵を率いてきた曹操は、夏侯惇の言葉を聞いて目を細めた。
曹操がこれまで見てきた有力者の中で自ら成功を手放す様な者はほとんど…いや、皆無と言ってよかった。
そんな中で劉備は思惑と違って成功を手放し逃げ出したので、曹操は己の中で劉備の評価を上げると同時に警戒をする事にした。
(董卓軍との戦で諸侯が集まった折りに奴の事は気になっていたが、関羽や呂布に目を取られていた事で劉備の事を過小評価していたか…。)
謀が空振った曹操は次善の策を考える。
(領地はこのまま接収すればよいが…さて、劉備はどうしたものか?)
曹操は軍師である郭嘉に目を向ける。
「劉備達の逃げ先の候補は袁紹、袁術、劉表の三つですが、おそらくは袁紹の下に逃げたでしょう。劉備達を追うならば領地の抑えに一万を残し、残る二万を二つに分けて追うのがよろしいかと。」
打てば響くとばかりに己の求めを察した言葉を出した郭嘉に、曹操は笑みを浮かべる。
(郭嘉がいれば、俺の野望は必ず叶うだろう。)
郭嘉の進言を受け入れて曹操は指示を出す。
「惇よ、淵と共に一万の兵を率いて先に劉備達を追え。追いついたならば足止めに専念せよ。劉備の下には関羽と呂布がいる故に、無理をせぬ様にな。」
曹操は劉備達を追う先発の軍に、腹心の夏侯惇と彼の従弟の夏侯淵を選んだ。
夏侯淵は迅速な用兵を得意としているので、それ故に今回の追撃への抜擢だ。
包拳礼をした夏侯惇と夏侯淵だが、夏侯惇は一つ疑問を持ち曹操に問いを投げた。
「孟徳、劉備達に付いていった民はどうする?」
「帝への叛逆の疑いがある劉備に付いていったのだ。何を遠慮する必要がある?」
冷酷と呼べる言葉を出した曹操に、夏侯惇は目を細める。
(あの時から孟徳は変わった…。)
少し前なのだがとある男が諍いから曹操の叔父を殺してしまった。
曹操は叔父の仇である男を討つ為に、男を町一つごと滅ぼしてしまったのだ。
(覇者としての凄みは増したが…。)
味方には寛大だが敵には一切容赦をしなくなった曹操に、領地の民の一部は畏怖を持っている。
それが今後、曹操の足枷にならないかと夏侯惇は不安を感じているのだ。
(甘さで足下を掬われるよりは余程マシだが…。)
一軍を率いた夏侯惇は、夏侯淵と共に劉備達を追うのだった。
◆
「亮、俺は孫家に行く事にした。」
とある地にて、一人の男が弟に仕官の旨を伝える。
この男は姓を諸葛、名を瑾という男だ。
「兄上、どの様な心で孫家に仕官を決めたのですか?孫家は袁術の下におり、更に孫家の長である孫堅殿は亡くなったばかりで混乱していると思いますが?」
諸葛瑾に問いを投げたのは弟の諸葛亮という少年である。
まだ幼い諸葛亮だが、そうとは思えぬ聡明さを感じさせる目をしている。
「だからこそ、今孫家に仕官すれば重用される可能性も高いだろう?」
「代わりに袁術やその配下に警戒されると思いますが?」
弟の言い分に諸葛瑾は苦笑いをする。
「それに、楊ゼン様にいただいた金子もまだまだ残っています。無理に仕官する必要はありませんが?」
「わかっている。だが、いつまでも無役では家長としての面目がな…。」
少し前に諸葛一族が住んでいた町は曹操に滅ぼされてしまった。
その時に父親も殺されてしまい、長男の諸葛瑾が母と兄弟を連れて逃げたのだが、その時に運悪く賊に捕まってしまった。
身ぐるみを剥がされ殺されようとした時、気紛れで散歩をしていた二郎に助けられたのだ。
さらに、生活をしていくのに困らないだけの物も与えられた諸葛一族は二郎に大きな恩を感じているのだ。
「そうですか。ならば、これ以上は言いません。ですが、孫家にて何か楊ゼン様の事がわかれば教えてください。」
「もちろんだ。恩人である楊ゼン様には恩返ししなければならぬからな。亮、水鏡塾でよく学ぶのだぞ。」
笑みを浮かべた諸葛瑾は手荷物を持つと、護衛を従えて待っている商人の所に向かった。
兄を見送った諸葛亮は息を一つ吐く。
「水鏡塾で学べる事は多く、友と呼べる者も出来たのですが…楊ゼン様からいただいた兵法書の方が、水鏡先生から学ぶよりも得心する事が多いのですよね。」
そう言って肩を竦めた諸葛亮が手に持つ竹簡は、実は太公望が書いた兵法書である。
現在、中華にて流行っている兵法書は孫武が記した物なのだが、それとは違う内容の太公望の兵法書に諸葛亮は強く惹かれた。
孫武が残した兵法を一言で言えば戦う前の準備…戦略を重視したものである。
これはとても理に添ったものなのだが、諸葛亮にはそれを出来るだけの持てる者…つまり強者の兵法の様に思えてしまったのだ。
孫武の兵法の有用性は理解しながらも、まだ若い諸葛亮にとってはあまり面白くないものであった。
しかし太公望が記した兵法は違った。
奇策等を用いて相手の心理を誘導するそれに、諸葛亮は大いに好奇心を刺激された。
それ以来、諸葛亮は水鏡塾で一般的な兵法や教養等を学びながらも、家では太公望の兵法書を読み耽っているのだ。
「亮、ごはんが出来ましたよ。」
不意に母に呼ばれた諸葛亮は、笑みを浮かべながら家へと戻るのだった。
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