神秘の時代より千年以上の時が流れ、フランスで起きた革命を機に人類の間には徐々に民主主義が拡がっていった。
だが中華はその流れに乗らず天子を頂点に置く王政を続けており、国教は道教と定めている。
そんな中華だが国内には少しずつ現代文明の利器が広まりつつあった。
その文明の利器の1つである蒸気機関車が中華の大地を走っている。
とある高名な一人の老人を乗せて…。
◆
「師父、今回の立ち合いはあっけなかったですね。」
青年の言葉に頷くこの老人は姓を李、名を書文、字を同臣という。
現代中華において数多存在する拳法の一流派である『八極拳』の達人だ。
先の言葉を発した青年は彼の愛弟子で、今回の旅において師の身の回りの世話をしているのだ。
「それにしても、まさかあれだけで相手が絶命するとは思いませんでした。」
今回の旅なのだがある一つの目的があって行われた。
それは現在の中華において屈指の拳法家である李書文と戦い、そして名を上げようという武術家に挑戦状を送り付けられたのだ。
そしてその挑戦を受けて立ち合った李書文なのだが、彼が相手の胸に牽制の拳を軽く当てただけで、相手は地に倒れて絶命してしまった。
ただ拳を胸に軽く当てただけで倒れてしまった事に相手の武術家の仲間達が混乱していると、李書文は色々な面倒を避けるべくこうして愛弟子と共にさっさと列車に乗って帰路についてしまったのだ。
「相手はそれなりに名が売れていると聞いていたので期待していたのだが…。近頃は紛い物が多すぎる。」
そう言ってため息を吐く李書文は『八極拳』の達人だが、『六合大槍』においても『神槍』と謳われる達人である。
されど近頃は槍を手にする事はなかった。
何故か?
それは…彼が強すぎたからである。
故に彼は求める。
強者との立ち合いを。
「今少し生まれる時代が早ければ、かの形意拳の達人と立ち合う事も出来たであろうに…。」
「見てみたい思いはありますが、もしそうなってしまえば私は師父に弟子入り出来ませんので困ります。」
「お前なら、八極拳でなくとも大成するであろう。」
「私は師父の拳を学びたいのです!」
愛弟子の言葉に李書文は笑ってしまう。
真摯に鍛錬に励む愛弟子はどこか若き日の己に似ていると思うからだ。
しばし笑い続けていると不意に声が詰まる。
笑う師に不貞腐れていた愛弟子だが、違和感を感じて師に目を向けた。
すると…顔一杯に脂汗を流す師の姿があった。
「師父!?」
「…どうやら列車に乗る前に民家に寄って飲んだ白湯に、毒が盛られていたようだ。」
「医者を探してきます!」
席を立って駆け出す愛弟子の背を見送ると、李書文は目を瞑る。
(…医者が来ても助かるまい。)
死毒であるのは己が身故によくわかる。
武の道を歩み、勝負を繰り返していけば、恨みを買うのは至極当然。
いずれはこうなるであろうと考えていたものの、いざそうなってみれば勝負の果てに終われぬのが口惜しい。
(もって十分といったところか…。)
今少し生きていれば、まだ見ぬ強者と立ち合えたやもしれぬ。
そう思うと死んでも死にきれない。
されど命の砂時計は一秒毎に減っていく。
(あぁ…残念だ…。)
李書文が諦めかけたその時。
「これが列車か…神秘が薄れた時代の人々が造り出した物としては上出来かな。」
「そうですね。のんびりと旅を楽しむのならば、これはこれで有りだと思います。」
そんな会話が耳に入ると、何故か李書文は気になった。
直感が告げている。
目を開けろと。
声の主を確認しろと。
本能に導かれるままに李書文は目を開けた。
そして声の主である青髪の青年と金髪の少女の姿を目にすると、彼の目から涙が溢れ出した。
二人を一見して強者とわかった。
それもただの強者ではない。
己が全てを尽くしても届くかわからぬ程の強者だ。
漸く出会えた。
しかし…遅かった。
武の神はなんと残酷な運命を与えるのだろうか。
そう嘆きつつも、李書文は二人から目を離せなかった。
「おや?どうして泣いているんだい?」
薄れつつある意識を何とか繋ぎ止めて答える。
「…お主達と立ち合えぬからだ。」
「あぁ、毒に侵されているみたいだね。その命が尽きるまで、三百を数えるぐらいかな?」
青年の読みは正しいと直感する。
せめて一合でもと思うが、既に身体は自由が利かない。
「アルトリア、彼と手合わせをしてみたいかい?」
「そうですね…二郎、お願い出来ますか?」
「うん、いいよ。」
二郎?
二人の会話に僅かに疑問を持った李書文だが、思考すら困難な状態に陥りつつあった。
「戦いを望むなら口を開けてくれるかい。」
青年の言葉が耳に届くと、李書文は反射的に口を開ける。
そして何かが流し込まれると、欠片も疑問を持たずに飲み下した。
「…これは!?」
李書文が驚くのも無理はない。
何故なら暖かな光に包まれると先程までの死に瀕した己はどこにもなく、全盛期かと思う程に身体が活力に満ちていたからだ。
李書文は改めて二人に目を向ける。
「…礼を言わせてもらう。」
「礼はいいよ。代わりに列車を下りたら彼女と手合わせをしてくれるかい?」
「わかった。それと一つ聞きたいが、お主とは手合わせ出来ぬのか?」
李書文の言葉に青年は微笑む。
「それは君次第かな。」
その答えに李書文は笑う。
彼が己を歯牙にもかけぬ程の強者とわかったからだ。
(列車よ、速く進め!我が武の研鑽は、今日この時の為にあったのだ!)
◆
近代武術史に名を残す八極拳の達人である李書文は晩年に次の様に言い残している。
『神槍と謳われ武を極めたと言われたが、儂の武はその頂の影すらも踏めていなかった。』
『何故かだと?敗れたからだ。手も足も出ずに。』
『誰かだと?さてな…名は聞かなかった。それでもわかった事が一つだけある。』
『それはな、あの者が武の神様と言われても不思議ではない程に強かったという事よ。』
家族と多くの弟子に看取られて眠った李書文の顔は満ち足りていたと残されている。
そんな彼が残した武人としての功績は、今もなお色褪せることなく輝き続けているのであった。
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