殷の王宮の敷地内に一つの小さな家がある。
とある人物を王宮に幽閉する為に作られた家だ。
その家の住人が木格子を付けられた木戸を開け、部屋に朝日を取り入れる。
「今日は良い天気になりそうだ。妻達や子供達も西岐で同じ空を見上げているだろうか?」
朝日に眩しそうに目を細めながら豊かな顎髭を撫でるこの人物は姫昌という男である。
姫昌は西伯侯と呼ばれ、彼が治める西岐の地において民からの信頼が厚く、非常に優秀な為政者である。
更にこの男は為政者としてだけでなく、男としても非常に優秀である。
なんと妻が二十六人おり、子供は養子も含めて百人もいるのだ。
そんな男が何故に殷の王宮で幽閉されているのかというと、それは彼が優秀で民に人気があり過ぎたからである。
人狩りに始まり、贅沢三昧の日々を送る紂王は愚王と噂され民の心が離れていってしまっている。
そんな紂王に諫言をするべく姫昌は西岐から殷の都にやって来たのだが、そこで姫昌は聞仲により幽閉されてしまった。
殷に忠誠を誓って三百年、聞仲は殷の為にならぬと判断した者達を幾人も排除してきた。
だが、そんな聞仲でも軽々に排除出来ない者達がいる。
その者達とは妲己と姫昌である。
妲己は紂王のお気に入りである事に加え、妲己自身の実力も聞仲に勝るとも劣らぬので中々排除する事が出来ない。
対して姫昌は、現状では排除する方が殷の為にならないからである。
もし今、姫昌を排除すると西岐が蜂起する可能性が高い。
現在の殷は悪政で民を苦しめているので大義名分も成り立ってしまい、西岐に続いて他の属国までもが蜂起するだろうと聞仲は考えている。
だが、それは現在の状況においてである。
この状況を変え、姫昌を排除出来る様にする為に聞仲は色々と動こうとしているのだが、その度に妲己があれこれと動くため、聞仲は自由に動くことが出来ない。
殷を滅ぼす為に中華を乱す妲己と、殷を守る為に中華を乱す聞仲。
この二人が争っているからこそ、姫昌は今も生きているのである。
そして中華の政に精通している姫昌はこういった事情を漠然とだが察していた。
(私は…なんと無力なのだろうか…。)
己が生きていようが死のうが中華は乱れる。
この事が数年間の幽閉生活による体力低下と共に、姫昌に大きな無力感を与えていた。
そんな姫昌は嘆く様に大きくため息を吐くと、水を飲もうかと思い立って踵を返す。
すると、姫昌は驚いて目を見開いた。
木格子に囲われて余人が入れぬ筈の住処に、一人の男が音も気配も無く入り込んでいたからだ。
「初めまして、俺は楊ゼン。君が姫昌でいいのかな?」
姫昌は男の名乗りで更に驚く。
そして、言葉を返す事が出来ずに男の全身を確かめてしまった。
(腰まで伸びた青い髪に額の赤い紋様、そして楊ゼンの名…間違いない、このお方は二郎真君様!)
姫昌は先程までの鬱屈とした気分が吹き飛ぶのを自覚した。
「これはご無礼を…私は姫昌です。して、このような場所に幽閉されている男に何用ですかな?」
高揚する心を抑え、努めて平静を装った姫昌は二郎に包拳礼をする。
「何用かぁ…。君と会って一杯飲んでみたかった…これじゃダメかな?」
「それは嬉しいお誘いですな。なにせ幽閉されてから酒は一口も口にしていなかったもので。」
姫昌は二郎を何とか歓待しようと周囲に目を向けるが、幽閉されている身の上では何も出来ない。
「そう気を回さなくてもいいよ、姫昌。」
そう言うと二郎は床に腰を下ろし、腰に括っていた竹の水筒を手に取った。
「さぁ、飲もうか。まだ朝だけど、たまにはこんな日があってもいい。」
二郎が手に持った竹の水筒を掲げて姫昌を誘うと、姫昌は心からの笑みを浮かべた。
(なんという自然な振る舞い…。己が心のままに生きる姿がこれ程に晴れやかな気持ちにさせてくれるとは思わなんだ。)
二郎の誘いのままに床に腰を下ろした姫昌は、久方ぶりの酒に舌鼓を打つのだった。
◆
封神演義の一節にはこう綴られている。
『姫昌が幽閉されてから久しいある日に、彼の元に二郎真君が訪ねて来た。』
『二郎真君が姫昌に酒を振る舞うと、姫昌は涙を流して喜びを表した。』
西伯侯と呼ばれる姫昌は為政者としてだけでなく、その人徳の高さでも現在に名を残している。
その人徳の高さは武神である二郎真君に酒を振る舞われる程であった事がわかるエピソードである。
これで本日の投稿は終わりです。
また来週お会いしましょう。