(略)のはAce -或る名無しの風- 作:Hydrangea
ただこれだけは言いたい。
勝ったッ! 第二章完!!
「全く……
やってくれたな、最後の最後というところで」
時空管理局が有する次元航行艦。広大なる次元宇宙が0と1の狭間を渡り、越え難き壁を越えた先に存在する世界との縁を結ぶ為の掛橋。その中でも最新鋭を誇る一隻にして、ある“特命”において旗艦を務める事となった一隻……巡航L級1番艦『クシュリナーダ』。
その一室。艦の、そして艦隊のトップに立つ者の為に設えられたその席にて、一人の男性が深い溜め息を吐いた。
管理局の制服、それも将校用のそれに身を包んだ壮年の男性は、一言で表すのならばまさしく「紳士」といった風体であった。歳の程は老年の入り口といった所ではあるものの、その髪色や眼差しには依然として力強さが残っており、しかしそれは相応の経験にのみ裏打ちされる深みあるもの。年齢を感じさせぬ逞しい体躯ながらも威圧感といったものとは縁遠く、そこにあるのは大樹の如き頼もしさと温かさ。
そして、その第一印象は彼をより良く知ると共に確信へと変わる事だろう。魔導文明の存在しない世界の出身であるその人物は、彼の星における「紳士の国」と呼ばれる地の生まれであり、尚且つ半ば冗談めかしたそれを本気で体現してしまった人間であるのだから。
彼の名はギル・グレアム。時空管理局“本局”所属の提督にして、精鋭中の精鋭たる執務官の長を務めた経歴を併せ持つ、「歴戦の勇士」とも呼ばれる凄腕の魔導師。そして同時に、此度の「闇の書」討伐作戦の為に編成された艦隊を率いる司令官でもある。
それなりの年齢故に最前線からこそ身を引いてはいるものの、その卓越した手腕は未だ衰えを知らず。指揮を執る者として、また上に立つ者として求められる力は、二本の手足と二人の使い魔を操っていた若き日のそれとは比べ物にならない程大きく、そして重い。しかし、彼はその難題を前にしても決して億さず、或いは自ら杖を振うエース時代以上の功績さえ残してきた。遥か辺境の管理外世界出身というハンディも、彼にとっては乗り越える為の壁でしかない。今や、個々人の感情を抜きにその実力を認めない者など存在しないと断言さえできるだろう。
また、その勇士たる所以は単なる魔導師としての能力に留まらない人格面にもあり、後進の育成にも積極的に力を注ぐその人柄は、魔導師/非魔導師問わず多くの局員達からも慕われている程。今回の様な危険な任務に対しても多くの志願者が居たのは、偏に彼の存在あっての事と言えよう。
そして、その様な人物だからこそ、今回の一世一代の作戦が最高指揮官の大役を命じられたのである。
無論、事前に今回の任務の危険性……最悪の場合生きては帰れない という事は、グレアム自身予め聞かされている。しかし、それでも彼はその重荷を引き受け、時に表立ち、また時には影に徹し、作戦遂行その瞬間まで精力的な働きを見せ続けてきた。
当然、その道程における労苦は並大抵のものではない。常に石橋の目一つ一つを打診する慎重さと、時としてそれを一足で飛び越えるだけの大胆さの両立が求められる作戦の難易度は、如何なる勇猛果敢な戦士の精神力であってもじりじりとすり減らしてゆく程に強烈なるもの。常に紳士的な態度を心がけんとするその性格故、彼が内に抱えていた負担の重さは尚更測り知れないものとなっていた事だろう。
だが、そんな彼に今溜め息を吐かせている要因は、決して任務の責やその根源たる闇の書・並びにその主ではなかった。
「申し訳ありません、グレアム提督。
どうしても、自分を抑える事ができませんでした」
明らかに萎んだ声でそう呟いたのは、その部屋にいたもう一人の青年。此方黒髪の彼こそ、壮年のグレアムとは対称的なまでに若いながらも、しかし(
グレアムとは私的に師弟関係を持つ彼ではあるが、言わずもがな本作戦におけるその地位は彼の実力に依るもの。20代半ばにして提督となったその力は紛れも無く本物であり、決して容赦しない事でも有名であるグレアムの指導において尚、名実共「一番弟子」と言えるだけ存在。
そしてその彼は、前評判に違わぬ……それどころか期待以上の大金星を、つい先程上げてきた所でもあった。
綿密に進められてきた、対「闇の書」討伐作戦の最終段階。漸く完成した“切り札”を投入しての、最初にして最後となる真正面からの直接対決。状況によっては退く事も可能であり、また事実として幾度となくそれを繰り返してきた今までとは異なり、正真正銘「詰め」の一手となったその一戦は、追う者もまた追い詰められる事となった背水の陣。極限まで張りつめた緊張感と重責は、如何なる現場のそれとも比較にならぬ程のもの。
しかし彼は、クライドは、その苦境においても己とその役割を見誤らず、遂には勝利を……そう、「勝利」を収めたのだ。八方を塞がれ、我を失い、目的も定まらず悪戯に被害を広げ暴れる闇の書の主。怒り狂った猛獣か何かの如きそれを前にして一歩も引かず、しかし
無論、彼一人の力で闇の書の全てを打破した訳ではなく、彼自身の力もまた、グレアムを始めとする師や友人、仲間達の支えがあって始めて花開いたものでもある。だが、決して大粒とは言えない原石を丹念に磨き上げ、それが輝けるだけの舞台を築き上げたのは、紛れも無くクライド自身の努力の賜物であり、此度の件における殊勲がおよそ万人の認めるだけのものである事もまた事実。
けれども、現実とは意外や意外。そんな優等生である彼が、彼こそが、他ならぬ此度のグレアムの溜め息が元凶なのである。
話は少々遡り、先の「闇の書」と戦い最終局面より少し後となる。クライドを始めとする局員達の奮闘により「勝利」を収めた一行は、当然ながら速やかに主、並びに「闇の書」の確保へと当たった訳なのだが、切欠はその際の主によるささやかな“抗議”であった。
その職務上、確保した犯人からの罵声や暴言自体は然程珍しい事ではない。犯罪者といえ人間、そういった立場となれば自然と悪態の一つも吐きたくなるものであるし、それが法を犯すような者であるのなら尚更の事。当然、度が過ぎれば更なる罪状となって首を絞める為、賢い人間(局員にしてみれば、そも凶悪犯罪に走る時点で賢いとは言い難い気持ちではあるが)はまず黙して語らないものなのだが、中にはそれさえ省みずに、湧きあがる激情のまま喚き散らす者もいる。それは、何らかの事情で理性が損なわれている場合や、そもそも“理性”そのもの……共存共栄の為の
なまじ今まで強大な力を思うがままとし、「自分こそが世界の頂点である」という妄言を信じて疑っていなかった闇の書が当代にとって、その鍍金を剥がされ捕えられるのは何にも勝る屈辱だったのだろう。落ち着きを取り戻し、口を開ける様になるまで回復した途端、まるで堰を切ったかのように罵詈雑言を吐き出し始めたのである。少し視点を変えれば、それは今まで自分自身が他者に強いてきた事そのものであると気付けそうなものであるのだが、得てしてそういった人間とは視野が狭くなるもの。疲労困憊の中諌める局員達もなんのその、やれ政治の体制に始まり局員個人の人格攻撃等、耳に入れる事すら嫌になる言葉を四方にまき散らし続けたのだ。その酷さたるや、ある程度場馴れしているベテランさえ思わず顔に出してしまった程である。
勿論、「静かにして戴く」為であっても、そこで局員が感情のままに手を上げる事など許される筈も無い。例えどれ程凶悪な犯罪者であろうと、また一見して理不尽であろうと、捕縛し無力化した時点で、それは彼らが守るべき存在……力無き人々と同じ立場となるのだ。それに対し武器をちらつかせ脅したり、まして実際に危害を加えるなど、「正義の味方」としては断じてあってはならない。
「法」と「理性」という“枷”の存在により、始めて管理局は正義としての存在が許されているのだ。人間らしい感情を捨て去れとまでは言わないが、個々人の、それも一時の情に流されるままに強大なる力を振ってしまえば、それは本来立ち向かうべき犯罪者達の姿となんら変わらず、むしろ組織としての規模・権力から二流三流の
しかし、それは現実に起きた。立場や人格故、一般の局員達よりも遥かにそれを理解しているであろうにも関わらず、“それ”は起きてしまった。
直接的な切欠となる
ただ事実として、管理局に所属する一人の魔導師――それも、真面目であり優等生でもあり、誰よりもそういった不祥事とは縁遠いと思われていたクライド・ハラオウンが、確保済みの犯人が顔面へと見事なる
何れにせよ、彼の上司にあたるグレアムとしてはたまったものではない。常日頃より厄介事を引き起こしていた問題児ならばまだしも、此度の下手人は出生街道を堅実に歩み続けていた努力の人。そんな人物による、これまでの功績を一片で台無しとする暴挙を前にすれば、グレアムでなくとも溜め息の一つも吐きたくはなるものだろう。
艦長室を、何とも言えぬ沈黙が覆う。
異なる思惑を胸に、しかし共に押し黙ってしまう二人の様子は、まるで叱られる生徒と呆れる教師の構図にも見える。元々魔導その他に関しての師弟関係を持つ以上、ある意味ではそれも間違いではないのかもしれないが、実年齢よりも
「……そこまで反省しているのなら、何故あんな事をしてしまったんだ。
相手が相手とはいえ、事が公となれば処罰は免れられんぞ」
言わずもがな、此処は職場であり学び舎とは訳が違う。定められた規範を破ってしまえば成績表の赤程度では済まされず、普段どれ程模範的であろうと、行われた
故に その行為を、考え方を叱責する。
上に立つ者として、先に生きる者として、より多くの過ちを重ねてきた者として。そうなってほしくない為に、まだ見ぬ地平――無限に続く、果て無き荒野が標としてもらうために。嘗てと同じ様に。
無論、今現在とグレアムにとっての“嘗て”とは状況が違う、内容が違う、互いの立場が違う。「叱る」という大枠へと含めてしまえば同一でこそあるが、その実態は全くの別物と言っても過言ではない。そも、同じ内容を繰り返さなければならない程クライドは愚かではないのだから、その変化もある意味では当然と言えよう。
「ですが!」
しかし、その中でも最も目を惹く変化を挙げるとするのなら、やはりそれは“叱られる側”のそれだろう。
「ですが、後悔はしていません。
あの時……あの言葉に対し行動を起こしていなければ、
自分は一生後悔する事になっていた筈です」
時が経ち、グレアム自身もまた地位や経験を移り変わらせてはいるものの、既に成熟し完成している分、その芯たる要素は“嘗て”のそれとなんら変わってはいない。なればこそ、この変化は叱られる側の、クライド個人の
蛹を経た幼虫がやがて羽ばたくように、彼もまた苦難を越え成長したのだ。自らの力で、暗闇の中に光を見いだせるように。容赦なく吹き荒れる嵐を前に、「それでも」と立ち向かえるように。
「例え自分の立場があろうと、あれだけは、あの言葉だけは、聞き流す事などできません。
管理局員として、一人の人間として。
……そして、一人の
そう言いきったクライドではあったが、自身が悪い事をした という自覚がある故の事であろう。啖呵を切ったその時さえ俯き加減であり、心なしかその言葉も勢いを欠いていた。
「……覚悟は、できています。今更、責任を逃れるつもりはありません。
如何なる処罰も、甘んじて受け入れるつもりです」
だがその中であっても、彼の眼差しは決して曇りはせず、まして濁ってもいない。そして、その瞳の奥で煌めく焔は、彼が自らの行動の持つ罪を受け入れ、それでも行動へと移し、且つ後悔をしていない事の、『覚悟』を以ての行いであった という事の何よりの証でもある。
再び訪れる沈黙。
本音を言ってしまえば、その静寂それ自体がクライドには非常に辛いものであった。先の通り自身の行動を後悔こそしてはいないものの、かといってそれを「正義」と押し通す気も無い。クライドにとって何よりも苦痛であるのは、慕っている人物に対し自身の悪を告白する事であり、面倒事押し付けてしまう事にあるのだ。
いっそ一思いに という感情が決して無い訳ではない。だが、その権利を持つ人物は同時に自分をここまで育て上げてくれた人物でもある。「どうにでもしてくれ」というのは、ある意味ではその恩を、自身への期待を溝へ捨てる行いにも等しい。どうして、そう軽はずみに言えようものか。
彼ら自身が「正義」を背負っている以上、「悪」に対してはどうしても敏感に、ある意味では過敏にもならざるを得ない。勿論、管理局とて絶対的なる正義という訳ではないし、時としては灰色の選択を強いられる場合もある。しかし、その清濁全てを飲み干し、その上で尚ポーカーフェイスを保っていられる程、クライドは未だ大人でも老人でもないのである。
数瞬、しかしクライドにとっては数時間にさえ感じられた間の後、漸くグレアムが口を開く。しかし、返ってきたその言葉は、あらゆる想定から外れたあまりにも意外すぎるものであった。
「……はて、どうも最近物忘れが激しくてな。
あの二人にもよく言われるよ。曰く、最前線を退いてから一気に老けこんでしまったらしい。
全く、歳はとりたくないものだな」
僅かに姿勢を崩したグレアムが、突如として脈絡も無い事を話し始める。張りつめていた筈の空気も栓が抜けたかのように軟化し、言葉にこそ出ずとも、その唐突な転換に着いてゆけないクライドは唯々困惑するのみ。
一方、そんな弟子の様子にも構わず――むしろ、そんな姿を見てなのか、構わずに言葉は続けられる。
「さて、君を此処に呼んだのは確か……
おお、そうだった。“今後”の段取りを確認する為だったな。
『森から抜けきるまで歓声は上げるな』
今回の案件の内容を考えれば、用心に越したことは無い」
言わんとする事は判れども、その意図は未だ判らず。クライドの戸惑いは、グレアムのこんな「見え透いた」演技にも依るのだろう。
少しばかりの運動不足で老けこむ歴戦の勇士など居る筈も無く、活躍の場を移せどもその雷名は未だ轟きを失われず。にも関わらず「老けこんだ」等とありもしない事を言い、あまつさえ見え透いた話題逸らし。冗談も通じない程の堅物という訳でもないが、かといって時と場合も弁えられない愚か者である筈も無し。そもそも、例え相手が身内同然のクライドであっても、それを理由として不祥事を揉消してしまう様な人間では無く、仮に本気で蓋をしようとするのなら、いくらでも上手くやれる筈。今のグレアムのそれは、安い事を自ら強調するかのような三文芝居以下のものでしかない。
だが、続いたその“本音”を前に、漸くクライドもその真意を悟る事ができた。
「と、その前に一つ、君に伝えなければならない事がある。
こればかりは、忙しさにかまけて忘れる訳にもいかないからな。
『よくやってくれた』
今回の作戦の指揮官として、一管理局員として、
また
確かに、クライドは真面目であり、ともすれば堅物な一面もある。しかし、かといって四角四面の潔癖症とまではいかないし、また彼も人間である以上、その内に欲望を秘め小さき悪意を宿しはしている。そして、自身のそれを理解しているという事は即ち、他者のそれを察せるにも同じ。
なんという事はない。管理局の英雄もまた人間であった というだけの事である。
「……積極的では無いとはいえ、ばれたら提督も只では済みませんよ?」
「何、ばれなければどうという事はない。
それに、あれは言わば安全を確保する為の“必要な犠牲”だったのだよ」
そう言うクライドではあったが、雰囲気は随分と和らいだものとなっており、口調も咎めるのではなく苦笑いに近いもの。一方のグレアムはと言えば、弟子のささやかなる抗議を前にしても何処吹く風。悪びれもせずそう言ってのける辺りは、流石の歳の甲であろうか。
「成程……“必要”なら仕方の無い事ですね」
「そうとも。あれもまた“必要”だったという訳だ」
そう口にして、形にする事で納得する、自分の心を納得させる。どの様な言い訳を取り繕おうと、本来あってはならない事ではある。しかし一方で、溜飲の下がる思いをした人間が存在しているのもまた事実。
不完全なる存在が築きし世界は、決して万物が計算通り運ぶ“完全“なものたりえない。それは
然らば、これは「小さな悪意」の有効活用であるのかもしれない。少なくとも、彼らはそれによって比類なき巨悪を打破したのだから。
◇◇
「さて、それは兎も角そろそろ“本題”へと入ろうじゃないか。
もう時間に追われてはいないが、そう長々と続けるのも好ましくはない。
手短にすませてしまおう」
と、それまでの空気を一転させ、改めてそう話を切りだすグレアム。最前線を退いた身とは思えぬその雰囲気に、自然とクライドの背筋も伸びる。
「本局へ到着するまでの予定は手筈通りだ。
今の所、計画の支障となりそうなものは報告されていない」
「だが、何が起きるのか判らないのがロストロギア災害だ。
特に、今回の代物を考えれば尚の事、何時何処で“万一”の事態へ陥るかも判らない。
――その時は、どうか迷わないでくれ
君と、君が背負うものの為にも。
……私の覚悟はできている。娘達も同じだ」
「はい。“その時”は……迷わず、引かせていただきます」
重々しい雰囲気で告げられる内容は、それに違わず非常に重みのある……それこそ、数多くの局員達を束ねる立場でなければ到底抱えきれない程の重要事項――“万一”の場合におけるマニュアル。彼ら二人だけが鍵を有する、被害を「最小限」で抑える為の最後の手段についてのもの。
それもまた、ある意味では先に触れた「悪」の一つとも言えるのかもしれない。「正義」という題目の下、より多きの9を救うために1を切り捨てる行い。例え
「……尤も、そうならないのが何よりではあるし、
その為に努力を重ねてきた訳でもあるのだがな。
正直な所、私としては引く気は元より、引かせる気も更々無い」
しかし、そんな空気も一瞬、笑みと共に再び和らぐグレアム。
彼の言う通り、そもそも「最後の手段」とは文字通り最後の最後、圧倒的なる敗北かそれ以外の二つに一つという瀬戸際において止むを得ず使うもの。入念なる準備の下、“計画通り”に事を運んでいればまずあり得ないものである。今回の様に順風漫歩で進行しているのならば尚更であり、目的を完遂せんとする彼らの努力そのものが、同時に“万一”を回避するための最善策でもある。
先の確認作業も、言ってしまえばお役所勤め特有の面倒事の一環であり、グレアムが何とはなしに言った教訓にしても、この二人に限って言えばまずあり得ない事でもある。
「それに、君の方に関してはそんな心配もいらないだろう。
あれ程強烈な一発をお見舞いしてやったんだ、
もう暴れんとする気力も残ってはおるまい」
とはいえ、依然として油断できない状況である事に変わりは無い。その中においても冗談まで言えるのは、偏に数多くの修羅場を潜り抜けてきたギル・グレアムだからこそであり、年甲斐も無くからかわれるクライドにとっては、それが何よりも頼もしく思えるものであった。
「それよりも……と言ってはなんですが、本当に忙しくなるのは、
本局へ帰ってからになるでしょうね。
今回の作戦、唯でさえ開いていた“陸”との格差が更に加速したと聞きます。
もしかしたら、デスクが抗議文で埋まっているかもしれませんね」
「“陸の守護者”ゲイズか。
確かに、一筋縄ではいかない分、連中の方が遥かに厄介かもしれんな」
グレアムが思い起こすは、何かにつけて後手に回されがちな“陸”――ミッドチルダ本国の安寧を憂い、魔力という
現在扱っている案件が漸く一段落付きかけたとはいえ、それで彼らの仕事が全て終わった訳ではない。二人の地位と立場とを鑑みれば、むしろ帰った先へ積まれている仕事の方が多いくらいでもある。そして、先の作戦における言わば「後始末」、無理に無理を重ねて実行へと漕ぎ付けた帳尻合わせもまた、その内の一つである。
奇妙とも必然ともとれるが、同じ時空管理局の枠組みの中にあっても、所謂「陸」と「海」との間柄は、決して仲良し子好しとは言えないものとなっている。その典型的な理由の一つが、今回グレアム達が携わった作戦、厳密に言えばそのあり方にある。
果てなど存在しないとさえ思える程広大な次元世界において、それこそ“事件”は現場/会議室の場を問わず星の数程発生しており、しかしその対処に当たれる局員の数は決して無限ではない。然らば、そこにはどうしても優先順位が生まれ、その結果として比較的――あくまでも比較的ではあるが――危険度の低い陸のそれは後に回され、予算や人員といったものが海と比べ乏しくなってしまう。今回の様な大規模な作戦が実行できたのも、偏にそうして切り詰められる存在あっての事なのである。
勿論、半ば一方的に憂き目を見ている陸の関係者達が、「ハイそーですね」と黙って引き下がる筈も無し。そこに生じた摩擦は、たった今話題となっていたレジアス・ゲイズ一尉の様に、海を嫌い尚且つそれを公言して憚らない官僚を生み、やがてはグレアムの頭を悩ませるような軋轢へと姿を変えてゆく。「真に恐ろしいのは無能な味方」とはかのナポレオン・ボナパルド(グレアムの出身世界における有名な軍人)の言葉であるが、グレアム自身は決してそうとは思っていなかった。むしろ、何よりも優秀であるが故に恐ろしい。
決して、決して陸の人間が「闇の書」の脅威を、遍く次元の海に漂う数々の
しかし、グレアムら海の人間がそれに命を掛けている様に、陸の人間にもまた命を掛けるものが、背負うものが存在している。単純な「善悪」ではないその構図こそ、歴戦の勇士をして「一筋縄ではいかない」と言わしめる所以と言えよう。彼らにとっては、正義の反対もまた別の正義なのである。
「ですが、方法は違えど彼らもまた人々の安寧と平穏を祈る同志。
誠意を以て望めば、きっと話も通じる事でしょう」
「だと良いのだがな」
だが、クライドの言う事もまた尤もな話。どれだけ「譲れないもの」の為に対立しようと、その根底を辿ってゆけば大元は繋がっており、そも極々普通に暮らす次元世界の住人にとっては、その諍いそのものが「どうでも良い問題」であったりもする。
目的のみを欲し過程を軽んじるのは悪しき考えではあるが、かといって手段にのみ拘泥して結果を疎かとするのもまた間の抜けた行い。より正しきは、真実へ向かわんと欲するその意志を、あるべき姿・求められる形で顕現させる事。頭の固い老人達には難しく思えるそれも、しがらみに囚われない若き力ならば、或いは容易に手が届くのかもしれない。
例えば、一人の老人の目の前に居る青年の様に。
「まぁ、そういった面倒事は年寄りの仕事だ。君達が過分に心配する必要も無い。
兎に角、今は目の前の仕事に集中して、終わったらゆっくり家族サービスでもしてくれ」
「はい。本件が終わり次第、溜まっている有給を消化させていただきます。
そろそろ、運用部の知りあいがうるさいですからね」
ともあれ餅は餅屋。もしくはグレアムの言う通り年長者の務め。どれ程魔導師が優秀であっても、時空管理局の膨大なる業務の全てを一手に引き受ける事などできないし、そうする必要も無い。誰かに任せる事も、己以外へ託す事もまた“信頼”という名の勇気であり、志とはそうやって次代へ受け継がれてゆくものなのである。
序でに言えば、自分を休める事もまた戦士の務め。帰るべき場所を浮かべたクライドの脳裏には、温かい我が家で待つ最愛の二人、そして道すがらにて怒りとも呆れともとれぬ笑顔で書類を抱え立つ、
◇◇
「では、まだ仕事が残っているのでそろそろ失礼します」
その後も、グレアムの淹れた紅茶を飲みつつ緩やかなる一時を過ごしていた二人だったが、丁度カップが空となった時分に確認事項も済み、クライドが席を立った。信頼できる部下がいるとはいえ、トップがそう長い間外すのも好ましくはない。何より、
「おお、そうか。態々すまなかったな」
「いえ、これも務めの一つですから」
労いにまでも律儀に返すその姿に、グレアムはふと昔の事を思い出した。彼が始めてクライドと出会った時も随分と真面目ではあったが、それ以上に印象に残っていたのはその“固さ”……曲げれば直に折れてしまいそうなまでの“愚”直さであった。
――ああ、そういえば彼にも困った所があったのだったな。
自身の指導を鼻に掛けるつもりは無いが、しかし今の愛弟子の姿を見ると、改めてその教えが間違いではなかったのだとグレアムは再確認させられた。幼き日に付き纏っていた危うさはすっかり鳴りを潜め、雰囲気や物腰は随分と柔らかくなり――何より、両の瞳には確かなる輝きが灯っているのだ。純粋に喜び、また誇らしく思いたくもなろう。
「今後も、何かあれば遠慮せずに声を掛けてくれ。
その時には必ず駆け付け、君の助けとなる事を約束しよう。
……尤も、もうそんな必要もないのかもしれんがな」
師として、或いは父親にも似た立場として、
ただ最後に感じたのは、部屋を出るクライドの後ろ姿が随分と大きく見えたという事。カップを片づけながら、それが単なる老いではないという事を、グレアムはしみじみと思うのであった。
◆◆◆◆◆
オペレーション・ライトロード
「闇を討ち払う」という願いの下に名付けられたその作戦は、掲げられた正義が示す通り、広大なる次元世界を覆う“闇”……時空管理局はおろか、魔導文明の開闢以来より禍の頂へと君臨し続ける厄災・「闇の書」の完全なる打倒を使命とするものであった。
人種や信条、更には組織や派閥といった壁を壁を越えて集められた優秀なる人材達や、所謂「海」換算にして丸々一年分は下らないであろう莫大な予算。そして、参照とした資料の分を累計すれば管理局の歴史さえ上回る程に膨大なる年月を費やされたそれは、同時にその投資に違わぬだけの闘志を原動力とするものであり、形式上の区分こそ対ロストロギア災害ではあるものの、その実態は最早「戦争」と評する方が適切とさえ思える程の規模。管理局の歴史に類を見ないであろう天王山。
無論、只単純武力を以て破壊するだけでは、真に「闇の書」を打破する事は叶わない。歴史も証明しているそれは、改めて口にするまでもなく発案者達も承知の事。彼の存在の最大の武器は、主が死しても尚転生という手段を以て生き永らえる、その貪欲なまでに強靭なる「生命力」にあるのだ。それを克服しない限り、例えアルカンシェル等の強力な兵器により撃滅しようと、非道により主の口を永遠に閉ざそうと、空間を越え世代を越え、再びその厄災は繰り返されるのみ。
何より、力によって力を圧するだけでは、時空管理局創始の志を、最大の剣たる「非殺傷設定術式」へと込められた願いを踏みにじる事になってしまう。
だからこそ、その魂を、人々の祈りを背負い、その「聖剣」は
『カリバーン』
黄金の剣の名を与えられた一振りの端末と内包された術式は、古の伝説に違わぬだけの「力」と、託された願いに依る「輝き」とを宿した、まさしく現代へと蘇った神器。神話より出でし
しかし、
人類は、闇の書という脅威に対し確かなる勝利を勝利を収めたのだ。今日この日、この場所で。
だが、ここであえて問わせてほしい。
それは
――既定値到達を確認____術式展開__起動シークエンスを開始
見苦しいだけの負け惜しみ。動揺を引き出す為の根拠なき妄言。それらの異論も自然な事だろう。見下ろす事しか能の無い者達による、安全圏から一方的に投げつけられるだけの言葉。異論も反論も期待されていない、キャッチボールですら無いそれに、賛同する者などいる筈もない。
――魔力充填__完了
――リンカーコア稼働開始____出力安定
しかし、その問いに正面から「そんな事は無い」と、自分達の知る
人間は全知でも、まして全能でも無いのだ。知らないが故に、その歩みを進める事ができる。欠落しているが為に、進まんと欲する事ができる。その性質は、人間という枠組みに属するモノであれば、誰しもが有するもの。人が人である限り、決して森羅万象を自らのものとする事など叶わないのだ。
古代ベルカの王も。ミッドチルダの管理局員も。そして、神々の台本を識る者達でさえも。
――魔導回路____再構成完了
――演算回路_____全領域において異常無し
――蒐集システム____正常稼働
――偽骸ユニットの解除を開始__完了
人間とは、立ちはだかる困難を克服する事によって進歩を重ねてゆく生き物である。
そうして壁を乗り越え、より高き視点を得る事によって、始めて次なる
即ち、勝利を得る事によって、ヒトは始めて自身が道化である事を、無力なる箱庭の住人である事を理解できるのだ。
――全ハードウェア____構築終了
――全ソフトウェア____更新開始
「生存」とは、遍く生命が有する不変にして絶対なる本能。有機無機の分別を問わず、“生きる”モノ、この現実で息づく全ての存在へ等しく与えられし権利にして枷。ならば、それは当然
進化を重ね、不条理を捻じ曲げ、同胞達の祈りさえも呪いとし、その妨げたる悉くを滅する。
全ては自分が、自分達だけが生きるために。強者となる為に。
――不確定要素検出____終了__支障無しと判断
――現段階における可可動領域__全システム構成完了
回る、回る、回る。
唯一絶対なるその命運ぶ役目を背負い、今日も歯車は回り続ける。自らが
やがて回れなくなる その時が訪れるまで
――全工程完了____《
そう 運命は何時だって私の前に立っている
ぽっかりと開けた口の中を 無慈悲な白銀の牙で満たして