人間が人間を拳で殴るとき、一方的に相手を傷をつけることは不可能だ。拳の皮膚は思いの外薄い。そして表皮には痛覚が集中している。相手に与えた傷に比例して拳に小さな擦り傷がたくさんでき、ファイト後も自分が誰かを殴りつけたという事実を感じさせる。その些細な痛みが自分が暴力を振るったという事実を、相手を一方的に叩きのめしたと実感させる。そう、杖を振るだけじゃ感じられない痛みだ。肉と骨。君達は魔法使いである前にみんな物質だ。
魂。魔法は、肉体と薄皮隔てた概念だ。けれどもあくまで肉は肉。殺せば死ぬ。魔法使いだからといってマグルの毒ガスで死なないとは限らないし、鉛の弾が頭蓋骨の中で跳ねまわって脳味噌をシェイクしたらやっぱり死ぬ。問題は魔法使いにどうやって鉛弾をぶちこむか。
「ドラコ。怪我の具合は?」
「……最悪だ。父上に手紙を書くからな。後で覚えておけよ」
「おいおいおい。僕のせいだっていうのか?」
「あんたが指示したんだ」
「僕がしなくてもどうせ君はこうなってたよ」
ドラコの無残な殴打痕はマダム・ポンフリーの素晴らしき医術で跡形もなくなっていた。残念だ。傷跡がなければその痛みをいつか忘れてしまう。彼のサイドテーブルには見舞いの菓子が山積みになっていた。思いの外寮内では人気らしい。女の子の手作りと思しき包もあった。羨ましい限りだ。
「それに、あんなキレ方するなんて予想できると思う?僕は初めて見たよ、あんなにキレる子どもは」
「…僕も想定外だった。でもあんたが助けなかったのも事実だろ」
「魔法使いじゃない僕があの場を杖無しで乗り切れると思うか?」
「この出来損ない」
「どうもね。…でもまあ、君のお父さんには手紙を書いてくれ。ポッターにボコボコにのされたってね。絶対だよ」
「書くに決まってるさ。あんたのことも書くからな」
「構わないよ」
僕は差し入れとして日刊予言者新聞をやったが、ドラコはもう見たくもないと言いたげにそれを隅へ追いやった。
ハリー・ポッターは減点50点、罰則一ヶ月、クィディッチの無期限禁止という重いものとなった。ドラコのあの血だらけの顔を思えばそれも妥当だと思えた。
殴られた直後、彼の眼窩には鼻血が流れ溜まっていた。口から流れた唾液混じりの血はポッターの拳とまだ繋がっていた。ポッターはその拳をまた振り上げ、ドラコの唇とキスをする。あの光景は目撃する価値がある。カメラ好きのコリン・クリービーはその場にいたにも関わらずカメラを構えシャッターを切ることを忘れた。レンズ越しに見てはならない。
暴力の行使者であるポッターは酷く落ち込んでいた。親友のウィーズリーとの会話すら拒み、いつもは怒る周りのひそひそ話さえ聞こえてないかのようだった。陰鬱な雰囲気をまとい始めたポッターのまわりは見えない結界でもあるように人が疎らだった。
たしかに、あの殴打はやり過ぎだった。魔法使いはああいう傷には慣れてない。単なる喧嘩の小突きあいならまだしも、あれはまるでKGBの拷問だった。案の定ポッターは授業中もほとんど何も手がつかず、提出されたレポートも白紙だった。
「ポッター。いいかい。放課後」
「放課後は罰則があります」
「僕が一筆書くよ。成績に関する話ならマクゴナガル先生もわかってくれるだろう」
「…わかりました」
と、まあすっかり意気消沈したポッターはあんな記事を書かせた魔法省の手先の僕にさえ反抗的態度を取らなかった。あの事件以降牙を抜かれた、いや、彼にもとから牙があったか定かではないか。
近代魔法界における教育の質と意義 第五回
近代魔法界の教育について、世間で起きている様々な噂やスキャンダル、事件について交えながら魔法省次官にして初の高官魔女としてキャリアを積み上げるドローレス・アンブリッジさんと共に切り込んでいくシリーズです。
リウェイン:第五回ということで、私達すっかり打ち解けましたね。さて、今までのテーマを振り返ってみましょうか。第一回は「ホグワーツ魔法魔術学校の抱える問題点」第二回は「教員資格認定試験を導入すべき5つの理由」第三回は「デミヒューマンの危険性、巨人と人狼」第四回は「魔法使いの情操教育」でした。振り返ってみるとなんと濃密なシリーズなんでしょうか。私、ここ最近急に自分が賢くなった気がしますわ。(笑い)
アンブリッジ:その感覚はきっと間違ってはございませんわ。少なくとも日刊予言者新聞を購読している魔法使いとそうでないものには、ほんのちょっとだけれども知識の差ができました。その小さな差が、より善い魔法界を実現する壁になっているのですわ。
リ:今回の第五回はこれまでの総まとめとなるわけですが、今まで取り上げてきた問題は教育だけでなく、魔法界全体に関わる問題だと感じました。
ア:私達はむしろ、教育が社会秩序の根幹を担っていると言う事を忘れています。ホグワーツの生徒が、つまり将来の魔法界を担う若者が問題まみれの環境で育つ事がどれだけ社会に影響をもたらすか。彼らの将来は無限大ですわ。けれども、ホグワーツでその将来への道が歪んでしまうということもありえます。クィッディッチ選手を目指す若者がヒッポグリフに足を噛みちぎられるかもしれません。闇祓いを志す若者が、うっかり人狼に噛まれるかもしれません。むしろ私は皆さんに問いかけます。「ホグワーツをこのままにしてもよいのですか?」と。……(以下略)
アンブリッジはご覧の通り絶好調だ。リウェイン・シャフィックとも馬があってて結構な事だ。リータは彼女が看板記者の座をすっかりモノにしたことにおかんむりだろう。リウェインはスターダムを駆け上がる。リータは何らかの事情で彼女は記者を廃業しているが、リウェインを引きずり落とし、再び返り咲くことを目論んでいるのは間違いなかった。
日刊予言者新聞はハリー・ポッターとダンブルドアへの中傷記事を相変わらず載せ続けている。内容は過激さを抑えてはあるが、巧妙に彼等を嘘つきに仕立て上げていってる。「嘘も1000回言えば真実になる」を実践している。
「ポッター、拳の傷はどう?」
「あ…はい。マートラップ触手液がよく効いたので」
ポッターは僕の入れた烏龍茶を飲んで、慣れない味にすこし顔をしかめた。
「毒じゃないよ。安心して。烏龍茶は飲んだことない?」
「烏龍茶、ああ。初めて飲みます」
「100年前は紅茶より高価な品だったんだよ」
今は両方共スーパー、雑貨店などでお買い求め頂けます。いい時代だ。ポッターは僕の雑談なんかじゃ笑顔を取り戻してくれない。
「気落ちしているね。あれだけマルフォイをボコボコにしたのに爽快感はなかった?」
「そりゃあ殴った瞬間はスカッとしたけど…僕、やりすぎました。あんな風に怒った事は無くて、すごく後味が悪い」
「それは君がまだ健全な証だよ」
僕は微笑む、ポッターは戸惑う。数回彼と話してて気づいたが、彼は不思議で意味深なことを言えば言うほどその人物を賢いと思ってしまう傾向があるようだった。彼が今までで会った賢く優しい人物はすぐに答えを与えず、考える間をよこしてくれる人達だったのだろう。
「君が心配でね」
僕の言葉に彼の瞳孔が開く。
「僕が心配しないと思った?魔法省の手先だから」
「い、いえ。そういうわけではないんですけど」
「はは。いいんだ。疑われてるのは知ってるし、事実アンブリッジには逆らえない」
「…アンブリッジって人の記事を読みました」
「ああ。僕も読んでる。はっきり言ってあの言い分は差別的すぎるし、言葉選びも恣意的だ。狡猾な人だよ」
「先生はアンブリッジの部下としてここに来ているんですよね」
「不本意ながらね。それにしても…」
僕は間を作り、顎に手を当てて考えるふりをした。
「偏向報道をしてまで個人を攻撃するような人間だとは思わなかったよ」
「………」
ポッターの顔色はまだ疑念が優勢だった。その疑いを咀嚼させる暇もなく、僕は言葉をつづける。
「ポッター、君は間違ってないよ」
僕は彼の目を真っ直ぐ見た。唐突な言葉にまたポッターの瞳がギクリと揺れるのがわかった。
「死者の尊厳は守られるべきだ。君は正しい反応をしただけだ」
君が怒りに任せてドラコの頭を掴み上げ、そばにある石柱の段差に頭蓋骨を叩きつけるような人じゃなくて残念だ。何百年もそこに在りすり減ってく石が彼の頭蓋骨を割って、髄膜を破り、とろとろした脳味噌をぶちまけてくれればいろんな手間が省けた。ルシウスへの復讐。君の投獄。僕のすべての任務が円滑に行くのに。
「そりゃあね、マルフォイの顔を岩塩みたいにしたのはいただけないが。ご両親はきっと草葉の陰で喜んでいるよ」
「そう…でしょうか」
「おかしいと思わないのか。ポッター、君はもっと怒っていいんだ。貶められて尚地面を舐める必要はない。君は君の自尊心を蔑ろにしているよ」
「でも、暴力に頼ることは許されません」
「誰かれ構わず殴ることが怒ることじゃないだろう」
僕は荒げた語調を弱め、ゆっくりと落ち着いたトーンに戻す。
「ポッター。君はとても強い。僕は立場上明言を避けていたが、ここでは本音をいうよ。僕はヴォルデモートの復活を、信じてる」
リトル・ハングルトンの墓地で回収され抹消された闇の魔法使いたちの痕跡リスト。
①なんらかの薬剤が入っていた瓶の破片
②埋め直されていた空の棺桶
③こぼれ落ちていた骨片
④複数名の足跡
⑤トム・リドル邸に残された指紋
全てアンブリッジの指示により僕が焼き捨てた。ヴォルデモートが復活した証拠だ。僕が何よりも、誰よりも君を信じている。本当だよ。
見開かれる瞳では疑いが涙で上書きされた。それが零れ落ちる前にポッターはすばやく瞬きして水気を飛ばす。
「そんなことを言って、大丈夫なんですか?」
「朝礼で言ったら間違いなくクビだろうね。パーシーに聞かれても」
「…言葉にしてくれて、ありがとうごさいます。そう言ってくれるのはロンとハーマイオニーと、先生くらいです」
「彼ら以外誰も君を信じてないのか?」
「わからない。その、マルフォイを殴ってから皆と話していないから」
「案外みんな大袈裟に怖がってるだけさ。君の眉間のシワが怖いのかもね。今の君の顔、ひどいもんだ」
僕は自分のぶんの烏龍茶を飲んで、彼の今日書いたレポートを出した。白紙のそれを彼の前に出し、羽ペンを添えて言う。
「君が今思ってる事を作文してごらん。そしたらレポートを白紙で出した罰則はチャラ」
「…わかりました。闇の魔術に関係なくてもいいんですか?」
「ああ。いいよ。なんだっていい」
ここですべてを曝け出し「死ね、ファッジ、殺す」とでも書いてくれれば僕も楽なのだが、流石にそこまで急に警戒を解いたりはするまい。これは全て前振りだ。僕は黙々と作文を書くポッターを尻目に、他の生徒のレポートを見るふりをした。心の中では過ぎ去りし栄光の事務職の有り難さについて詩を読んでみた。
紙束のあとは放蕩の日々
事務方の恵みは日々の糧
だめだ。僕は吟遊詩人になれそうにない。意味不明だ。僕は他人に伝えたいことなんて何一つないから、何を書いても何を言っても空っぽに聞こえる。もし君がアパートの壁を叩いてぼん、ぼん、という低い音がしたら、気をつけろ。盗聴器か、あるいは盗聴器に類する下世話なものが空洞の中に隠されている。ふくろう便で送った品物のリボンには、箱との境目にこっそり小さな線をつけておくといい。一度開けられたか開けられてないかを確かめられる。ふくろうを捕獲するのはスクイブだってできるんだから。
君が暖炉を使って誰かと話すとき、繋がれた通路は魔法省にある魔法運輸部の超大型会議室のボードで点滅する。そのボードにはイギリス中の暖炉が記されていて、アクティブになると緑色の光を点滅させる。回線が混む時間帯はアバダケタブラでも食らったみたいに閃光を放つ。だから君が本当に聞かれたくないことを話すなら、夕方四時か深夜0時に暖炉を使うことをオススメする。
もっとも暖炉がみはられている場合はその限りではないが。グリフィンドールの談話室の暖炉は、どうやら不正な回線に繋がった形式があるようだった。
「ホント…これ、イホウですからね。アンブリッジさんがいうからやってますけど…ワタシの名前、出さないでくださいね?」
そのボードの点滅を僕の研究室でモニターできるようにした。羊皮紙上にある虫眼鏡でも見えないような点滅を暇さえあれば眺めている。気の利いたことに不正な回線があった場合はあとからログが見れるようになっているのでずっと見ている必要は無いのだが、まあピカピカチカチカするものはそれに意味がなくてもある程度刺激になる。
その点滅から目を引き剥がし、パーシーが上げてきた報告書を捲った。
几帳面なパーシーの綺麗な行書体で事細かに記された教師たちの罪状。とりわけ文量が多いのは案の定シビル・トレローニーだった。パーシーが占い学という学問自体がまず馬鹿らしいと思ってるのが文面から伝わってくる。確かにあの科目は魔法にしてはオカルトだった。とはいえ、オカルトー神秘的なものについては部署が設けられているほど『ありふれた』ものであり、研究する価値がある。実際ルシウスだってハリー・ポッターを神秘部に行かせ、予言なんかをとってこさせるのに必死だ。
予言、予言、予言。馬鹿らしい。僕にくだらない予言を吐いたやつがいたらその水晶玉で頭をかち割ってやる。
かち割られた男の頭蓋が僕の頭にカットインした。フラッシュバック。あの、妹の死んだ日、兄が男を殺した日のことを思い出すと、僕はいつも気分が悪くなる。
アンブリッジと出会った時もそうだった。僕は気分が悪くなり、しゃがみ込んだところを吸魂鬼に襲われかけた。
アズカバンの空は、いつでも大荒れだった。船頭のジョージ・ウェルズは荒波の中、あの小さな地獄に向けて船を漕ぐことだけに人生を費やした男だった。彼は僕の不法侵入について何も言わなかった。アズカバンへ向かうすべての人間を見てきた彼は船を漕いでる途中、まるで波に聞かせるように独白した。
「俺は長いこと、いや、きっと生涯船を漕ぐだろうよ。行きの櫂は、それはそれは重い。娑婆への未練が船から岸へ伸びてんだろうな。帰ってこれるやつなんてほとんどいやしない。すくなくとも、目を見りゃわかる。本当に罪を犯したやつってのは、無実の罪を着せられたやつとは違った恐怖を感じるらしい。罪って言っても法律なんかで決められた罪じゃねえぜ。あんたはどうかな」
僕は返事をしなかった。彼に金を払い、次の船の時間を知らされてから監獄へ登る急な石段を登った。アズカバンで生きてるやつは囚人しかいない。僕の用があるのは死人だった。アズカバンで死んだ死骸の引き取りてもないクズ共が棄てられた、ただの石が突っ立ってるだけの墓場だった。
監獄内を徘徊する吸魂鬼たちに気づかれないよう、僕は絶壁に必死に足をかけ、クライミングに使うピッケルを使いしがみつき、なんとか迂回して墓場へたどり着いた。
墓場は、そう言われなければ気付かないほどに粗末なものだった。申し訳程度の墓石がわずかと、ちょっとの盛り土。僕はこのただ埋まってるだけの骨の中から目的のものが見つけ出せるか不安になった。
急いで掘った。爪の中に土が挟まる。腐肉だか土だかわからない、茶色の不気味な泥の中で死骸の中を泳ぐ。兄を探して。
頭の中で脳髄が溢れる。ライトがつく。男が睨みつけ、僕の頬を叩く。次は拳で殴りつける。カンフル剤を注射し、朦朧とした僕に冷水をかける。
僕は今、まさに吸魂鬼に襲われていたのだった。心が凍りつきあの冬の日のことが鮮明に思い浮かぶ。「お前がこれを持て」兄が言う。僕は男の死体をスコップの先端でなんとか切ろうとするが、うまくいかない。何度も突き立てたスコップの尖端は血油がへばりついてしまい、その鋭利さを失った。なんとか骨を叩き割っても引きちぎるのは苦労した。
僕は兄が後頭部に突きつけた杖を意識しながら、泣いて懇願した。
「アリョーシャ!もうやだよ!魔法で片付けてくれよ!」
「魔法はだめだ。痕跡が残る」
「じゃあきみも、この左足を切断するのを手伝ってよ!」
「だめだ。指紋がついちまう」
兄が僕に罪を被せようとしているのは明白だった。
だから僕は同じ事を兄にした。
その最後のケリをつけるために来たアズカバンで、シリウス・ブラックの逃亡について調査に来ていたアンブリッジと出会った。