まず初めに感じるのは冷気だった。そして次に感じたのは強烈な臭いだ。永久に閉ざされているはずだったヌルメンガードの最上階は獣の巣の中に入ったのかと思うほどに生々しい気配で満ち溢れている。
「閉じるぞ」
BDが鉄門を閉め、また元通りに鍵をかける。彼は鍵を開けるのも閉めるのも得意で、後に開けることを考慮しない施錠に関しては歴史上の誰よりも上手かった。
BDは扉前に待機する。僕は特別製ナイフをルーカスの持ってた箱にしまい、二人して廊下の先に続く階段を登った。
S字結腸から大腸へ逆流してる糞のような気分だ。気配はますます濃厚になっていく。ルーカスは目に見えてビビっていた。なまじ魔法が使えるとグリンデルバルドの発する妖気にも似た魔力のおぞましさが判るんだろう。僕はさっぱりわからない。
「いるのか、本当に」
ルーカスが僕に尋ねた。
「当たり前だろ」
雨だれで削れた石壁、建築されて1世紀たとうとしているくせに全くすり減ってない階段。時間が止まり、彼の孤独が濃縮されたような空気を肺いっぱいに吸い込むと脈拍が上がった。
ヌルメンガードの最上階へ続く階段は四角い外壁に沿って階段が巡らされて、明かりはなく、窓から湿気った風が入ってくるせいで空気がひどく篭っている。そのせいで僕たちは尚更生き物の体の中にずっぷりと這入り込んでるような気持ちになる。
「本当に行くのか?」
そのために来たんだろ。
「辞めとかないか?」
下に行っても捕まるだけだ。
「これはヤバすぎる。わかるだろ?」
わからんね。
ルーカスはさっきまでの威勢がどこへ行ったのか不思議なぐらい縮み上がっている。みっともない男だな、と不快感がこみ上げてくる。自分が何をしようとしているのか両足突っ込んでようやくわかったらしい。
グリンデルバルドを野に放つというのは、手負いのドラゴンをマグルの街に解き放つようなものだ。または、僕が今のうのうと息をしているのと同じことだ。
だがそれがなんだっていうんだ?
「落ち着けよ、ルーカス。お前は魔法族だろう。グリンデルバルドは少なくとも魔法族をゲットーに放り込んだりしなかった」
「ここがそうだったんだ!」
ルーカスはしゅーっと歯の隙間から喋った。しかし恐怖のせいでどんどん前を行く僕から離れられない。今慌てて例の扉から飛び出しても(BDがそんなことするとは思えないが)捕まるだけだ。
そうこうしているうちに階段が終わった。
最上階は古代の王の眠る玄室のようだった。最上階のはずなのに地の底に居るような重々しい静寂と闇。その押しつぶしてきそうな闇の向こうにボロ布の山のような何かが壁にもたれていた。そこだけ妙に暗いような気がする。床は糞尿のせいか汚れていて、周辺には苔が生えている。その奇妙な緑と黄色と灰色の配色の中心にいるのが彼だ。
僕はそちらとこちらを隔てる鉄格子に近づき、僕はそれに向かって声をかけた。
「ご機嫌よう」
言葉と入れ替えで生臭い空気が肺に満ちる。胸の奥から腐ってきそうだ。身体がすぐに空気を押し返そうとするのを堪え、言葉を続けた。
「生きてますか」
「…誰だ、お前は」
声は思ってたより小さく、嗄れていた。久しく人と話してないせいか酷くガサついている。その弱々しさに僕は不安になる。
「ほんとに…ほんとに、ぐ、グリンデルバルド…生きてた…」
ルーカスが僕に囁く。わかっているから縮こまった陰嚢みたいに僕にまとわりつくのをやめてくれ。
ゲラート・グリンデルバルド。歴史にその名を刻む最悪の魔法使いが死にかけの老人みたいな声で返事をしている。老いと衰弱は如何なる賢者も悪人も避けられない。彼も例外ではなかった。
「僕はウラジーミル・ノヴォヴィッチ・プロップ。後ろにいるのはルーカス・ビャーグセン」
「やめろよ…名乗るなよ…!」
「私が誰だか知ってて来たのか?」
グリンデルバルドの声には嘲笑が含まれていた。闇の奥で何かが微かに動いた。僕らが思っていたほど、彼は生者の来訪に感動してくれていないようだった。
「勿論。貴方を助けに来ました。ゲラート・グリンデルバルド」
「助けだと?ハッ」
グリンデルバルドの声は確かにか細く、今にも切れてしまいそうな糸のようだった。だが吐き出す言葉はどれも挑戦的で好戦的で、皮肉っぽい含みがあった。彼のいまだ燃え尽きぬ敵意を向けられて僕は少し安心した。彼がすっかり気が狂っている場合も考えていたからだ。
「そんな冗談を言うやつと会うのは半世紀ぶりだ」
「冗談ではありませんよ」
グリンデルバルドはこちらを見向きもしてないようだった。部屋の隅の影から全く動こうとしない。
「確かに、今のヌルメンガードは脱獄しようとすれば前より楽だ。だがこの牢からは出られん」
「解錠に関しては問題ありません」
「錠の問題では無い。ここには必ず誰かが入ってなければいけない。そうしないとこのヌルメンガード全体が崩れる」
「おやまあ。斬新な設計ですね」
「ダンブルドアだよ。あの聡明な男は私の作った全てを否定したいのだろう。私の人生、すべてをな」
グリンデルバルドの“偉業”の象徴、ヌルメンガード。今や彼の遺構は歴史の教科書のページとこの塔だけである。彼を崇拝する者は概ね死ぬか、辞めるか、新しい闇の魔法使いのスター、ヴォルデモートに夢中になっている。彼の幽閉後に生まれた多くの若者は彼をお伽噺の悪役として怖がってるか、大昔の災害程度にしか思ってない。
彼の理想ー国際魔法使い機密保持法の撤廃と、その先。ダンブルドアにより愚かな夢として葬られた言葉たち。彼が一体何に従い突き進んできたかを本当の意味で理解している人間はもうダンブルドアしかいない。
そのダンブルドアはグリンデルバルドからすべてを奪うために二重規範を強いたのだ。
自分の成し遂げたものを否定するのか、そのまま死ぬか。
「十年前にあのいけすかない女が勝手にここを使い始めてから、脱獄しようとすればできた。だが…私は一人で戦うには些か年を取りすぎた。もう少し早ければまだ棄てる覚悟はできた。だが今は死を待つのみだ」
グリンデルバルドは咳き込む。長い間使ってなかった声帯を震わせたせいで吐血したようだった。どうやら敵意は尽きねども、燃え尽きてしまったようだ。
この牢獄に満ちる空気の何割かは彼の諦念なのだろう。諦念ならまだなんとかなる。インドの牛みたいに悟りきってしまったらそれこそおじゃんだった。
彼は脱獄は容易いというが、あの扉の錠をBDの特別製ナイフなしの素手で突破する方法なんて思い付かなかった。
「確かに。誰もあなたを助けなかった。こんなに簡単に入ることができるのに、誰もね。それはつまり貴方はもう舞台に上がることを望まれてないと言うことでしょう」
「その通りだ。お前はわざわざそれを言いに来たのか?」
「まさか。僕は貴方のお伽噺を聞いて育ったんだ。悪魔がいなけりゃ話はまわらない。僕はヴォルデモートじゃ力不足だと思ってる」
「ふん。ヴォルデモート卿、か」
その名前は彼の興味を引いたらしい。そうだ、いいぞ。もっとこの調子で彼の好奇心を煽らなければ。いくらBDが施錠が得意でも、警備員たちも手立てを講じてで僕らを捕まえにくるかもしれない。急がねば。
「僕はいろいろあってヴォルデモートに協力するよう強いられている。だが彼に従っても僕に未来はない。殺されるだけだ。僕は杖が使えないからね」
ルーカスが息を呑むのがわかった。そして、グリンデルバルドがようやく体を起こして僕の方を見た。視線を感じる。闇に目を凝らせば、彼の黒と灰の瞳が闇に浮かび上がったかもしれない。
「ノーマジ?いや、スクイブか…」
「話の肝はそこじゃない。ようするに、僕は殺されるくらいなら殺す。そのためには矛がいる」
「私が協力すると思うか?」
「思わないが、あなたは知略家だ。魔法省のあばずれよりは僕を使いこなせるはずだ」
「お前は私に隷属するために私に会いにきたのか?」
「その通り。僕は出来損ないだ。自ら上に立とうなんて思えないが、腐ったものにぶら下がり続けるつもりもない。よりよい住処を求めるのは生き物として当然だろ」
「それでこの老いぼれを?ハッ。それだけじゃお前の動機すべてを聞けたとは思えんな」
「あいにくと時間が無い。続きは帰りの車の中ででもゆっくり話すさ」
僕はある種の確信を持ちながら、奥にいるグリンデルバルドを見つめた。空気が微かに動いた。そして泥のような気配を携え、何かが牢の方へ歩み寄ってきた。階段から漏れる僅かな光でそれが照らされた。ルーカスがひいっと悲鳴を上げて縮こまるのが見えた。
落ち窪んだ骸骨のような顔に、伸び切って絡まりあった白髪と髭。骨と皮だけの足がボロ布の下から枯れ木のように覗いていた。
50年。沈殿した時間が悪のカリスマをここまで変えてしまったのだ。落ち窪んだ眼窩からてらてらぬめる眼球が僕を睨んだ。
「いいだろう…もっとも、ここから私を出せたらの話だが」
「…それじゃあ一歩下がって。ルーカス」
「な、なんだよぉ」
「お前の仕事だよ。早くこっちへ」
「お、俺何もわからないよ。そんな仕組みになってたなんて…」
ルーカスは涙目でグリンデルバルドを見ないように俯きながら恐る恐る近づいてくる。僕は呆れ返って溜息を吐き、情けないルーカスが床しか見れない事を確認した。
「ルーカス。呪文の永続性について学校で習ったか?」
「え…なに?何だって?」
「複雑な呪文より単純な呪文ほど永く保つ。この監獄にかけられたダンブルドアの呪文は恐らく永続性の高いものだ」
ルーカスはおそるおそる僕の顔を見た。グリンデルバルドの発する臭気に鼻が曲がりそうになりながらその表情を失礼と捉えられないように必死に修正しているせいで、子供の作った粘土細工みたいな顔になっている。
「つまり…『“グリンデルバルド”がこの房から出たら建物が倒壊する』という呪いより『この房に誰かがいなければいけない』という呪いの方が薄れないんだ。因果関係が単純だからね。ダンブルドアはもう二度とここに来たくなかっただろうから、複雑さより永続性を選んだはずだ」
「だ、だからなんだよ」
「こういう事だよ」
ルーカスのあどけない顔。25歳の、一人っ子の、箱入り息子。欲しいものはすべて与えられて天まで高く伸び切った自意識は自分が捨て駒にされるなんて夢にも見なかっただろう。ああ、きっと僕たちはうまくすればルシウスみたいに仲良くなれたかもしれない。
僕だってこんな事はしたくなかった。
「な」
唐突だがレッスンだ。
レオン・レナオルド直伝の魔法使いから身を守る方法についてーあるいはとてもシンプルな殺害方法ー。魔法使いの息の根を止めるのはマグルを殺すのとなんら変わらない。問題は殺す前だ。
魔法を使うにはいくつか条件がある。①魔力があり②杖を持ち③集中し④呪文を唱える。
このうち最も重要なのは杖だ。まずこれを握られたら魔力のない僕らは太刀打ちできない。ので、この方法は相手に杖を持たせないことに全てがかかっている。奴らは杖を持ってない限り斧でだって殺せる。グリフィンドール寮のゴーストが身を以て示してくれている。
杖を持たせないための条件は①警戒されない。これにつきる。
そして②危機感を抱く前に迅速に指を折るか気絶させる。警戒心の薄い相手が杖を持とうと思う前に意識を奪うことだ。
最悪の場合は③即死させる。これは後始末もちゃんとできる場所でしかおすすめしない。例えば風呂場や誰もいないごみ捨て場。
魔法使いでない人間が全てのステップをこなすのは難しい。平時なら尚更のことだ。文明の利器…即ち銃をぶっぱなせば③即死させる。は容易な気がするが、早まるなかれ。
魔法使いをライフルで狙撃した馬鹿は僕の知る限り3人ほどいるが、誰も成功しなかった。どの三人もファッジ以前の魔法大臣 ミリセント・バグノールドを殺すべく、マグルのふりをして魔法省の目を欺こうとしたのだが、その試みはもはやお馬鹿な魔法つかいのイっちゃったジョークとして週刊誌を賑わせただけだった。
魔法使いに気付かれないよう1キロ離れて撃てば、引き金を引いた瞬間に奴らは魔法のような勘の冴えにより瞬時に盾の呪文を唱える。近すぎれば要人警護の私服闇祓いに捕まるし、遠く離れれば自衛される。
もし君が魔法使いを銃で殺したいと思うなら、魔法使いの目と耳を予め潰しておくといい。それか冷水につけ続けるとか、とにかく奴らの意識を痛覚で占有するのがいい。少なくとも凡庸な魔法使いならば痛みを感じている間は(杖があったとしても)まともな抵抗ができないはずだ。そして至近距離でぶっぱなす。マグルと同じ組成のストロベリーパイが出来上がる。
さて、針を戻してルーカスだ。
レオン・レナオルドの殺しの法則。ルーカスの全神経は柵の向こうの老人に注がれていた。杖を持ってない僕のことを警戒する余裕はなかった。
なので僕が励ますように差し出した手に銃が握られてるなんて思いもしなかった。
火薬が爆ぜる音で僕とルーカスの鼓膜は破れる。耳鳴りの中、悲鳴を上げるルーカス。僕は彼の杖腕を銃で撃ち、そして反対の手で胸ポケットにしまった杖を取り出そうとする前に股間を蹴り上げ、牢の方へ蹴り倒した。厚い壁越しに聞く情事みたいだ。柵へ体が打ち付けられた途端、グリンデルバルドの撓んだ細い腕がルーカスの首に絡みついた。
ルーカスが魔力をうっかり暴発させる可能性は少ない。彼は純血の一人っ子だ。抑圧の強い環境で育てられたやつは
「息が合うな」
「どうも」
グリンデルバルドのお世辞に会釈し、僕はすぐにルーカスの脈を確かめた。幸い生きている。次は服を脱がせ、杖を奪い、止血する。
「あんたも脱げ。これを着て、これを飲め」
僕はむしり取った毛髪と爪の隙間に挟まったルーカスの肉片を持ってきたポリジュース薬に入れ、牢獄の隙間からグリンデルバルドに手渡した。
「文明の味だ」
「こいつが文明的とは思えない」
グリンデルバルドが脱いでよこした服にからみついた白髪をもう一瓶のポリジュース薬にいれ、ルーカスの喉に流し込まなければならない。僕はチューブを取り出し、それを彼の食道へ通してからポリジュース薬を流し込み、グリンデルバルドのきていた服というか布を着せた。芸術的手早さ。新記録だ。
「青臭い」
「鍵はなんとかなりそうだ」
僕はグリンデルバルドに変身しつつあるルーカスを蹴飛ばし、錠の部分を弄った。単なる閂に錠前がついてるだけの簡素すぎるものだった。けれどもグリンデルバルドはそこから出なかった。出られなかった。
「開いた」
心理的呪縛がこの闇の魔法使いに有効だというのは喜ばしくもあり、また残念でもあった。
ルーカスに変わりつつあるグリンデルバルドと柵無しで向き合う。改めて見ると、とても小さな老人だった。蓋を開けてみれば僕の恐怖の対象は残骸だった。未来を託す先としては余りにも醜いその男は、ルーカスと入れ替わり柵の外側に出てからようやくはじめて、僕が求めていた言葉を発した。
「聞かせろ。お前の事を。協力するかどうかはそれからだ」
「是非もない。でもそれよりも前に僕たちは少し茶番を演じなければならない」
僕はまだグリンデルバルドの形を残してる節くれ立った手をとって握りこぶしをつくらせた。
「僕を思いっきり殴ってくれ。僕らは規則を破りここに来た。その後ルーカスはグリンデルバルドを見て錯乱し、僕はルーカスを命からがら出口まで運ぶ。いいか、必ず狂ったふりをしてくれよ」
「問題は職員に拘束されたあとだ。いくら若造とはいえ錯乱した魔法使いをまともに扱うか?」
「この肥溜めから出れば、あんたはルーカスの杖で何でもできるだろ」
「忠誠心を得てない杖ではなんでもとはいかん」
「とにかく一時間でカタをつけてくれ。僕は森に標を残してきた。その先の車で集合だ。それまでは自由行動。いい社会復帰トレーニングだろ」
僕の言葉にルーカスになったグリンデルバルドは微笑った。
「ここまで来てうまく行かなかったらどうする?」
「あんたは逆戻り、僕らは行方をくらます。今までどおりの日々を送る」
「ごめんだね」
グリンデルバルドは拳を振り上げた。
「幸運を祈るよ。まずこのパンチで気絶しないことをな」