ハリーは暗くなってきた空と7分遅れた腕時計を交互に見て、足早に廊下を通り抜けていく。廊下で屯う生徒はいない。パーシーの取り締まりにより公共の場所で時間を無駄に過ごす者は一掃された。
生徒達はそれを恨みつつも、監視の目の行き届かない談話室で楽しくやるほうが合理的だと気付いたので、なんでもない日の宵の口に廊下を歩いているのはハリーくらいだった。日は伸びたものの、まだまだ夜は暗く、長い。
ヌルメンガード崩落によりダンブルドアはホグワーツにいない。しかし不思議と不安はなかった。というのも、この一年ダンブルドアはハリーと目すら合わせていなかったからだ。秋から冬にかけて、そのことが大きなストレスになっていたが今は違う。
プロップのあのドライな授業ははじめ感じた大きな反感に反しハリーの不安を和らげた。と、いうよりも未知からくる恐怖やバッシングによる怒りを冷ました。彼の冷たい無関心は何でもムカついていたハリーにとって新鮮だった。同時に、その無関心から関心を引いていくのはなんだか楽しかった。
普通、ハリーと初めてあった人間は「君があのハリー・ポッター?」と言って目を見開き、ニヤニヤと笑いながら頭からつま先をじっと眺める。そのどこか脂っこい視線に耐えたあと、またしても脂っこい握手を求める。(それか最近だと「嘘つき野郎」とツバを吐きかける)基本的に全員がハリーを知りたがり、ざっとハリーがどんな人間かわかったらとたんに興味を失い普通の付き合いを始める。ハリーが思ったよりも平凡だったことに安心するか、失望するか。プロップはどちらでもない。
『ハリー・ポッターがいようといまいとどうだっていい。ヴォルデモートに殺されかけた?へえ。大変だね。』
ハリーだから慈しむ人、嫌う人。ハリーだけど平等に扱う人。沢山いる。でもハリーである事を問わない魔法使いは初めてだった。
「ハリー?」
ハリーが寮にもどると早速ハーマイオニーが棘のある声で呼び止めてきた。うんざりしながら、そしてうんざりする自分にも苛立ちながらハリーは振り向く。ハーマイオニーは校則違反を注意するときと同じ顔で口を開いた。
「プロップのところ?」
「うん。まあ…」
「ねえ、あなたはうんざりしてるだろうけど…」
よく分かってるじゃないか。
「あいつを信用しすぎよ。去年の事を思い出して」
「ダンブルドアも同じ轍を踏まないよ。少なくともプロップは妙な液体を一時間おきに飲んだりしてない」
「そうじゃないわ!今は騎士団の人間以外に過度な信頼を置くべきじゃない」
「僕を信じてくれてる人を疑えって?」
「プロップは確かに、はじめ思っていたような人じゃなかったわ。でもそれはファッジ側じゃないってだけでしょう?もしかしたら死喰い人との仲間かも」
「あいつの左腕には趣味の悪いタトゥーはないよ」
「揚げ足取りをしたいんじゃないの!ねえ、どうしてそんなにイライラしているの?」
「さあ、わかんないけど…君こそどうしてそんなにプロップを毛嫌いするんだ?イライラしているのは君じゃないか!」
ハーマイオニーは一度熱をさますように深呼吸し、目を瞑った。
「彼の言葉は…耳障りが良すぎる。私達が聞きたい言葉を喋ってるだけで、感情が全く伴ってない。根拠がないのは承知よ。でも、あまりにも不自然だわ」
「へえ。君がプロップを嫌うのは女の勘ってやつ?」
「そんな言い方よして」
二人の間に一気に険悪な空気が漂った。まるでそれを察知してきたかのように、パーシーの罰則から帰ってきたロンが噛みあとだらけの手をひらひらさせて寄ってきた。
「信じられるか?!教室中にばらまかれた噛み噛みキャンディを素手で回収するなんて、これほとんど虐待だよ!」
ロンは笑い半分怒り半分で言いながら軟膏を塗り始める。ハリーとハーマイオニーはお互いから顔を背けて一息つく。ロンは左手に軟膏を塗り終わってようやくいつもと違う二人の空気に気付き、おや?という顔をした。
「喧嘩?」
「…違うわ」
「またプロップのこと?」
黙り込む二人にロンは呆れた顔をする。
「そんなに気になる?」
「そりゃ、なるわよ。目立つもの」
「放っておけばいいじゃん」
「ハリーが…」
ハーマイオニーがハリーを横目で見る。ハリーはムッとした顔をして目を逸らす。そんな二人を見てロンは更に困った顔をする。
「私達じゃなくてプロップに相談してるのは、前に私が夢の事を強く追求したせいよね。わかってるわ。ごめんなさい。私はただ、あなたを心配して…」
「…心配してくれるのはありがたいよ」
「プロップと話していてなにか新しいことはわかった?」
三人は近くのソファに座り、暖炉の火を眺めながらボソボソと話し始めた。パーシーが実権を握ってから、暖炉を使ったシリウスとのやり取りはできなくなった。全ての暖炉は不通になり、城に来るフクロウ便はすべて検閲されている。
ダンブルドアとは会えないし、シリウスとも話せない。ハーマイオニーとロンに夢の話はし辛い。ハリーは限りなく孤独だった。今まで話そうとしてこなかった夢の話を二人にするのは気まずかったが、安心も少しある。
「プロップは、扉は間違いなく神秘部に実在するものだって言ってた。神秘部の中に何があるのかは断片的にしか知らないって」
「何があるのかわからないのに扉はわかるの?」
「うん。似たような意匠の扉がいくつかあるらしい」
当然ハーマイオニーはそれだけの情報じゃ満足行かない。
「…他には?」
「あとは、このヴィジョンが恣意的に見せられているのか偶然見てしまっているのかについて。プロップはそれはたいした問題ではない、って」
「そんなことないでしょう?!」
「いや、どちらにせよ扉の向こうにあるものは『あいつにとって重要なものである』って。僕もそう思う。単に罠を仕掛けるならわざわざ神秘部になんて誘き出す必要はないよね」
「確かに。マルフォイの館とかでもいいよな」
「…でも、魔法省が死喰い人に乗っ取られる可能性もあるわ」
「そう、プロップもそう言っていた。だから、扉の中のものがなんにせよ、そこに置いておくべきではないとも」
ハーマイオニーもロンも黙った。
「…だとしたら、ハリー。貴方がすべきなのはプロップに話すことじゃなくて、騎士団に話すことよ。騎士団に話して、それで…」
「騎士団に任す?あっちは僕たちに何も教えてくれないのに」
「ハリー!騎士団はあなたの味方なのよ!なんで全部一人で背負い込もうとするの?!」
ハーマイオニーの怒声に、談話室でだらだらしていた七年生たちがぎょっとしてこちらを見ていた。ハーマイオニーは咳払いをし、小さくごめんなさいと呟いた。そんなハーマイオニーを見てロンがめずらしく畏まった口調で言った。
「そうだぜ、ハリー。忘れちゃってるかもしれないけど、僕らはプロップよりずっと前から君の味方だ。僕らに相談してくれてもいいんじゃないの?」
ハリーはさっきまで取り憑かれていた異様な熱が嘘みたいに冷めていくのを感じる。孤独な闘争。陰謀についての複雑な事象ではなく友情というシンプルで重要な感情が心の中に溢れ出てくるのがわかった。
「そうだね…ごめん。僕、なんか熱くなってた。ロンとハーマイオニーの言うとおりだ」
ハリーの言葉にハーマイオニーの笑顔がちょっとだけ戻った。
「私もプロップについて過敏になってたわ。私、あの人があなたを支配しようとしてるんじゃないかと思ってたの。ごめんなさい」
「支配欲ならパーシーのほうがよっぽどさ」
二人がまた笑ってくれて、ハリーもホッとして笑みをこぼす。久々に対話をしたような気持ちになり妙な達成感があった。
しかしながら、その達成感も時間が立つに連れ薄れていくものだ。翌朝、ハグリッドの無期限停職を告知した張り紙がすべてを台無しにした。
「パーシーの××野郎!」
ロンが口癖となりつつある罵声を発した。ハーマイオニーは頭を抱えた。停職なのがまだ救いだ。追放だったとしたら森の中にいるグロウプの世話はハリーたちに回ってくる。それはごめんだった。
授業後、ハグリッドの小屋を訪れるとひどく傷心してはいたが、バックビークの処刑が決まったときよりはマシだった。
「追い出されねえだけマシだと、そう思う事にした」
しかしすぐにその認識は決定的な間違いだったと知る。ハグリッドはあの小屋と小さな畑より外に出ることを禁じられた。
ご丁寧に魔法生物規制管理委員会からの監視までついているおかげで、ハグリッドはグロウプに会いに行けなくなった。ハリーたちの訪問も規制委員会の人間はいい顔をせず、誰が何時に何分間ハグリッドと話したかをいちいち書類に書き留めているようだった。
そして次に、いよいよ一月後に迫ったふくろう試験のせいで5年生は次々と発狂していった。まさに束の間。あれだけ和やかな雰囲気を取り戻せたと思っていたが、ハーマイオニーはまたプロップの部屋に行くことについて目くじらを立てるようになった。とはいえ内容が「どうしてそばにいて答えを教えてくれないの?!」と変化したので一応進歩したと言える。
たが折角和解したにも関わらず結局夢の話をする機会は訪れなかった。そして、シリウスへの連絡手段も得られなかった。
「…おや」
例の夢をまた見て、朝からピリピリしているハーマイオニーをやり過ごし、なんとかずるを考えつこうと苦悶しているロンに流され、スネイプの嫌味を浴びたあと、現れるのはいつものようにプロップだった。
「悩み事かい?」
ニコリと笑う痩せこけ気味の頬。草臥れたような冴えない髪色をした男。
「…先生、あの。僕…どうしても、連絡を取りたい人がいて」
「ふうん。とりあえず話を聞こうか。研究室へおいでよ」
そしていつものように面談が始まる。
…
「アズカバンの脱獄が決行された。それとほぼ同時期にダンブルドアがノルウェーに旅立った。連日紙面で繰り返される在りし日の悪党共の犯行。世間は十年、五十年遅れで恐怖しとっくに土に還った犠牲者の冥福を祈る。
「時制も何もあったもんじゃないね。紙に滲むインクのシミ。そこに惨劇を描くのは筆者でも当事者でもなく今それを読んでる君で、君の想像力と経験に基づいたパラメーターの中でしか書かれていることを認識し得ないんだ。痛みから何まで経験したもの以外本当の意味でリアルなものなんてない。
「僕は魚を捌くとき魚の痛みについて全く想像がつかないし、屠畜場の牛の気持ちについても考えない。それと同じで群衆が記事を読んで感じてる憤りや悲しみや恐怖はすべてまやかしだよ。言いすぎかな?でも腹が立ったりしない?僕は、見ず知らずの誰かの冥福に価値があるとは思えない。
「僕の妹が死んだとき、潔癖ヅラした本家の連中はこぞって冥福を祈ったよ。けれどもみんな、本当に興味があるのは9歳の女の子がどういう手順で辱められて死んだのかって事だけさ。手順を聞いたところで妹の味わった苦しみを再現できるわけがないのに。そして僕たち兄弟が姦通していたかしつこく聞くのさ。嘘みたいだろ?けれどもよくある事さ。
「僕もやっていた。だからあれは報いだったのかもしれない。連れて行かれるバカな不穏分子!スパイの父に騙されて列車に積み込まれていくあの目。父が成果を上げると、僕らは必ずキャラメルを貰えた。他人の不幸は蜜の味だ。…笑いどころだよ。
「全ては確認作業に過ぎないのさ。自分より唾棄すべき存在がちゃんとある実感するための。偽物の実感を得るために、自分の足元を支えるものをより確かにするために、僕たちは歪んだ形に踏み固められてく。どこかで聞いた話だろう。君と同じだ。
「
「だけどね、僕は知っているよ。君はちゃんと経験しているんだから。緑の閃光、赤くぬらつく咥内と、セドリック・ディゴリーの青白い皮膚のコントラスト。君の恐怖は本物で、君の額に走る痛みは現実だ。君だけが真実を見ているのさ。
「さて君の夢、切実に感じる開けなくてはという衝動。それはどこから湧いてくるんだろうね。君の言うとおりその源泉は君のものではない。ヴォルデモートのものに違いないね。
「君とヴォルデモートの奇妙な関係についてはおいといて、彼はなぜ扉を開けたいのだろう。その扉の向こうに彼の欲するものが…例えば武器なんかが…あるのかもしれないね。
「魔法省内に出入りしている死喰い人疑惑者は凡そ7名。そのうち3名が現在局長クラスのポストについており、そいつらの指揮系統下にある部下まで数えると怪しい人物はネズミ算式に増えていくわけだが…それは置いておこう。
「派閥でいうと少数のファッジ派、死喰い人派、騎士団派、そしてその他多勢の4派閥がある。割合でいうと1:2:2:5といったところか。概算だけどね。死喰い人派もまだ自由に動き回れる状態ではない。故にヴォルデモートが欲するものが扉の向こうにあったとしても取り出すことはほとんど無理だろう。ましてや神秘部となれば、ね。
「このヴィジョンが偶然君に見えたのか恣意的に見せられたかが問題だ。だがどちらにしても言えることは『それはヴォルデモートにとって有益なものである』ということだ。ならばそのまま魔法省に置いておくべきである。それもまた真だね。
「しかしながら、またここで一つ問題がでてくる。そう、魔法省が掌握された場合、若しくは神秘部の協力者が現れた場合、扉なんてまるで意味がなくなるということだ。
「残念ながら僕は神秘部の協力者が現れるのは時間の問題だと思うね。魔法省内部の部署を渡り歩いた僕の個人的な意見だけれども、無言者たちというのは政には興味がない。そういう人間はあっさりくだるものさ。
「僕が昔付き合っていた無言者の魔女は、僕にタイムターナーの中にあるきらきらした砂粒をくれたよ。機密事項だろうが何だろうが彼女には関係なかったのさ。規則より興味優先の魔法使いは何人もいるよ。嘘じゃないって。その粒は出来損ないだと彼女は言っていたけれどね。一粒では意味がないのだとも。
「ああ、僕の話はどうでも良かったね。つまり何が言いたいかというと…危険物にはあるべき場所があるのさ。例えばダンブルドアの懐だとか、グリンゴッツだとかね。君もそう思わないか?
「ヴォルデモートにとっての実行の日は近いよ。夢の中で、君の手はもう扉にかかってるんだろ?もう君には時間がないんじゃないか?ハリー・ポッター。
「君たちは今、目の前にある学業のせいで大事な感覚…怒りだとか、直感だとか、危機感を…麻痺させられている。僕がなんのためにこの学校に来たのかわかるかい?それをするためさ。今はパーシーがやってくれているけどね。
「僕はホントは君たちのことなんて心底どうでも良かった。けれども自主連クラブだとかを見てたらどうにも情が湧いてきてね。というかアズカバンまで破られて、ヴォルデモートの復活を信じないふりをするのはもうほとんど不可能だろ。いい加減限界だった。いろんな理由が重なっての今なんだ。
「だからハリー、謝らせてほしい。