僕は母の乳で育てられたが母性については懐疑的だ。多くの人間は自分が産道を経てこの世に生まれたことを忘れがちだが、生まれてきた以上、へその緒を経た関係性は避けて通れない。
へその緒から始まる他者との関係性は通常成長するにつれ多種多様になってくるわけだが、僕は17までそういった機会に恵まれず、成熟しつつあるからだと未成熟の体の中間を未だ母の腐った羊水の中をプカプカ浮いているような気持ちで過ごしていた。
それからもう14年経った。僕はまだ、自分が母とへその緒で繋がってる気がしてならない。母親の腐った死骸をぶら下げた胎児。悪夢のような醜さだ。
母親は妹のナージャに愛のすべてを注いでいた。というのも愛するには僕は出来損ないで、兄はできすぎていたからだ。兄は早々に母の庇護を必要としなくなり、父同様に家を飯と寝床のある場所としか見なくなっていた。僕は母親に愛されるほど素直ではなくなっていたし、何よりも家から出たがっていた。
母親は愛情でナージャに依存していた。だからナージャの死と連鎖して母親が死んだのは当然で、母親が死んだら胎児も死ぬのと同じことだった。愛に関しては母と子の立場は一変する。
母は見窄らしく死んでいった。死へ至るまでの人生の早回しはグロテスクで、僕が尋問によりおった傷なんかよりよっぽど周りを不快にさせた。
愛を失った母を支える者はいなかった。父も兄も僕も自分の尻を拭くことで精一杯で、僕は物理的に尻を拭くことが困難だった。
妹を死に至らしめた男は純血の家系の中でも最も血が濃い一族の三男坊だった。(血が濃いということはすなわち遺伝的欠陥が表出しやすいという意味で、僕はこれを褒め言葉に使ったことはない。)そいつは一族の手厚い保護で隠されていたスクイブであり、僕より高貴なくせして魔力はゼロで、知性も同様にゼロだった。
ソヴィエトの魔法界がマグルの政治と密接に絡みついていることから考えれば妹の死の意味が拭い去られたことは想像に固くないだろう。
妹と犯人の男は別々の場所で事故死したことになった。それなのに妹が辱められたという事実だけが幽霊のように人々の噂話に現れた。
そして僕らは純血の面汚しを始末してやったのに、純血の血を流したからという理由で追放された。理不尽だが珍しくもないつまらない話だ。
とっくに抜け落ちていた穴が覆いを失っただけだ。
少なくとも、僕にはそうだった。
……
グリモールド・プレイスにはどんよりした空気が始終漂っていた。家主のシリウスがハリーの行方不明に怒り狂った後、それでも外に出てはならないことをダンブルドアに諭された結果、葬式よりも酷い雰囲気に包まれた。
昨年は夏の間滞在していたウィーズリー家もハーマイオニーもそれを取りやめ、騎士団の用事でもない限り屋敷はシリウスとヒッポグリフ、そしてクリーチャーだけだった。
クリーチャーにとっては喜ばしいことだった。館を無遠慮に踏み荒らす子どもたちや、混血のくせに図々しい魔女。穢れた血の小娘が現れないばかりか、主人のシリウスはすっかり意気消沈して自分に文句をつける余裕すらなかった。
屋敷の古道具にまみれて婦人の肖像画とともに過ごす穏やかな時間がもどってきた。さらに、もう一人のブラックの血を継ぐ素晴らしい女主人に貢献できている。
ハリー・ポッターが屋敷の暖炉から顔を出したとき、万が一のときにくだされていた命令を即座に実行できたことはクリーチャーの惨めな人生の中で数少ない誇らしい出来事になった。僅かな慰みを毛布の中で何度も何度も反芻した。
そうして微睡んでいると大きな物音が聞こえた。シリウスがまた暴れているのだ。館の貴重な品々を手当たり次第に壊すせいで、マンダンガスがどんどん手グセの悪さを発揮している。あのこそ泥に盗みをやめさせるように命じられれば、簡単にできる。だがシリウスはこんな屋敷は消え去ってしまえと思っているので放置している。
なぜシリウスにはブラック家の価値がわからないのだろうか?クリーチャーにはさっぱりわからなかった。わからないし、わかろうとも思わなかった。傷つき嘆く姿をいくら見ても気持ちは動かなかった。
ひとしきり暴れ終わった頃、来客を告げる鐘がなった。階段を降りてくる音がして、話し声が聞こえてきた。
「シリウス」
「ダンブルドア。ハリーは…」
「とりあえず座ってもよいかの」
話し声が近づいてきた。荒々しく椅子を引く音がして、シリウスの不安と焦りで揺れた声が大きくなる。
「ハリーの、行方は」
「結論から言うとまだわからん。…が、やはりプロップが関与している可能性が高い」
「なぜそれがわかっていてやつを放置するんです?」
「彼にはアリバイがある。我々にとっては霞のように頼りないが、調べるべき機関にとっては鉛のような盾じゃ」
「パーシー・ウィーズリー一人の証言ではい無罪、だと?あのハリーが行方不明になってるんだぞ」
「残念ながら、魔法省にとってはハリーの失踪は好都合のようじゃ。ホグワーツへの干渉はいよいよもって強くなった。ついにわしは人事権を失った」
「なんだって?」
「わしの肩書は事実上飾りになったということじゃ。教師陣は現行のものは勤続。昨年度尋問官に目をつけられたものは解雇。魔法省の息のかかったものが任命される」
「なんてことだ。じゃあハグリッドは…」
「彼はひどく嘆いておった。プロップは死喰い人ではないが、それはクラップかテリアかくらいの差でしかない。…最悪の場合、校内に死喰い人が紛れ込むこともあり得る」
代々ブラック家に伝わる家具がまた一つ壊れる音がした。クリーチャーは体を起こし、壊れた家具が何か見ようと慎重にダイニングへ近づいた。
「あんたは一体何をしてるんだ!」
「シリウス、君の怒りはようわかる。ハリーを最優先で探しだすべきだと、ほとんどの人間がそう思っておる。グリンデルバルドなどという老いぼれは放っておいてな」
シリウスが黙った。クリーチャーは絵画に空いた小さな穴から様子をのぞき見た。部屋の中は、やはり汚い。床に散らばってるのはもうとっくに動かなくなっていた時計だった。奥様が購入したものだが、たしかあれは針の進む音が気に入らなくて居間に置いたものだった。
「…グリンデルバルドは、今ハリーが置かれている危険よりも重大なのか?」
「わからない。じゃが」
ダンブルドアは一度言葉を切った。壊れた時計のガラス片を手で弄び、おもむろに魔法をかけて直した。
「奴はこの国にいる」
「…確証は?」
「いいや、勘じゃ。じゃが知っての通りわしの勘はよく当たる。そしてハリーの失踪に関わっている可能性が高い」
「なぜそんなことが言える」
「ハリー・ポッターを失踪状態にして得する人物を考えると自ずとそうなる」
「あいつが殺す時期を見計らってるに違いない」
「ヴォルデモートはそのようなリスクはとらん。手中に落ちたらすぐに殺すはずじゃ。やつは予言を奪ったのだから」
「だったら魔法省だ。ハリーが消えて一番好き放題してるのはいまややつらだ」
「魔法省は確かに悪い方向へとひた走っている。しかし暴走しているのは頭とその周りの一部でしかない。大勢の役人はヴォルデモートの復活を確信し、各々対策をとっている」
「…それで、あなたの答がグリンデルバルドと?」
「ああ。グリンデルバルドならばハリーを生かして使うじゃろう。このわしとの因縁を解消するためにな」
「……ならば、プロップは…」
「プロップこそがグリンデルバルドの脱獄を手引きしたのだと睨んでおる」
「魔法も使えないやつが?」
「そうじゃ。彼は奇術師のごとく成し遂げたのじゃ」
ダンブルドアが直した時計は奥様のお嫌いな音を立てて時を刻み始めた。それを止めるべきか、止めないべきか。クリーチャーは悩んだ。しかし結局奥様は自分が持っていかない限りこの音をお聞きになることはない。ならば、自分だけで奥様の名残を堪能しよう。
「…あいつを捕まえよう」
「おそらくそれをもっとも警戒しておるじゃろう。彼は今年、教壇には戻らん。わしの手を完全に離れてしまった」
「じゃあどうしようもないって?!ふざけるな!」
シリウスはテーブルを叩き割りそうな勢いで怒る。ダンブルドアは不気味なほどに冷静な目でそれを見ている。
「時が来れば、わしのもとにかならず使いが来る。必ず、近いうちに。それまでは…」
「そんな事ができると思うのか?!ハリーはわたしのたった一人の家族なんだ」
「シリウス。大脱獄の主犯扱いされてるお主に何ができる?今ここで不用意に動き、捕まったら今度こそ確実に奴らはお主を殺すじゃろう。そうすれば戻ってきたハリーはどうなる」
「ただ待てと?このホコリとガラクタまみれの屋敷で、死体のように待てというのか?もうたくさんだ」
シリウスの足音が遠ざかる。
「シリウス」
ダンブルドアの鋭い声が追いかけるが、それも虚しく屋敷に反響するだけだった。ダンブルドアは深いため息をついてから席をたった。そして屋敷にはまた一人と一匹と、クリーチャーだけになった。
誰もいないダイニングでは時計の音だけがした。
………
僕は久々にハリー・ポッターを見た。かつて僕が妹殺しの犯人殺しをしたときに受けた拘留よりも長い期間閉じ込められていたにも関わらず、まだ元気そうだった。
頬はこけ、髪は伸び、垢と一緒に汚らしく絡まっている。目隠しはズレて跡になるからと外した代わりに目には接着呪文がかけられていて僕の姿は見えないし、耳にも絶対取れない栓がはいってる。口輪も目隠しと同じようには済ましてやればいいのに、それはそのままだった。
体は無事でも心は壊れてるかもしれない。そして心は体と違って修繕不可だ。
臭いそれを引きずり出しシーツの上に落とす。そのままシーツごとシャワールームに引っ張っていき、冷たいタイルの床に転がした。服を剥がし、手かせと足かせで引っかかった部分を切り裂き裸にしてからシャワーを浴びせる。
僕はサディストではないので温度は適温だが、ポッターは悲鳴のような声を上げて暴れだした。暴れ続けられたらめんどくさいなあと思ったが、垢が溜まった部分を入念に流してやるとこちらの善意も伝わったらしく、大人しく洗礼を受けた。水のせいでたまに酷くむせるが大声を出されては堪らないので無視した。
手かせは抵抗したときについた傷が積み重なって消えない痣ができていた。手かせの縁に付着した皮膚の断片と、その下にあるずっと癒えない赤い肉からくる痛みはきっと彼の抵抗心を思い出させる唯一の感覚なのだろう。だとしたら癒やしの呪文をかけてやりたいところだが、僕は魔法が使えなかった。
足も同様で、足首から下は血塗れだった。しみるのだろう。そこにお湯をかけるとよく呻く。
今彼が感じているのは痛みだろうか。体を清めるという原始的な快感だろうか。それとも僕に対する憎しみ?わからなかった。
ただ僕から彼に言えるのは(言っても聞こえないが)この苦しみはいずれ終わるという慰みだけだ。
時間の密度はあとからいくらでも変わるのだから、今君が感じている辛いこと全て、どうせ圧縮されて無となるのだから。それが救いになるとは思えないけど、かつての僕はそれが救いで、事実今救われている。僕はこうして無力になったハリー・ポッターを見ていると自分を重ねたくなるらしい。
感傷にひたっていてもいいが、全裸の少年を前にしてしみじみ過去を思うなんて変態臭い。乱暴に体を拭いてから病衣をかぶせ、ふたたびシーツに載せようとした。
激しい抵抗を予想したが彼はぐったりと体をされるがままにしていた。抵抗する気がない、というよりかは今はシャワーの余韻に浸りたいというような様子だった。
なるほどグリンデルバルドがペットのようだと言っていたが、こうして無力な人間を見てるとなんだか微笑ましくなるものだな。死体じゃなくても従順なんて新鮮だ。
僕は彼をしまってある箱の中に蹴落とす。鈍い音がして、悲鳴が上がる。
ここに閉まっておくのもそろそろ危険だ。ダイアゴン横丁で見かけない顔をよく見る。魔法使いに共通した特徴として、魔法無しで何かになりすますことがとても下手ということがあげられる。彼らは普通の買い物客のような振る舞いを心がけてはいたが、あれは捜索だ。
グリンデルバルドを?ハリー・ポッターを?それとも僕を?ひょっとして脱獄した死喰い人だろうか。なんだっていいが、世間はどんどんきな臭くなっていき、僕のやるべきことは増えてゆく。
加齢と同じだ。生きる上で本当に必要なこと以外がただただ降ってきて、積もってく。その堆積物は多くの場合今をより苦しくする要因でしかないというのに、僕はそれを処理せざるを得ない。
ああ、これならばハリー・ポッターの置かれている立場のほうがむしろ苦しみは少ない。体の苦しみが在るのは痛んでいるその瞬間だけなのだから。
ボージンの店を出て、僕はバーへ向かった。スクイブの店主が経営している、マグルの通りに面した店だった。
そこで待っていたのは魔法法執行部のアルバート・ランコーンともう一人。
「はじめまして」
「やあどうも。私はホラス・スラグホーン。お話できることがあればいいが…」
「そう構えずに、僕はあなたにお会いできただけでも幸運ですよ」
お世辞を聞くと、海象のような老人はこれまた利口な海象のように、頬をだらりとふるわせて笑った。
「聞いているよ、とても優秀だそうだね。是非とも君と仲良くなれたらと思うんだが」
「僕もそう思います」
僕がほしいのは敵の情報だった。ホラス・スラグホーンはヴォルデモートことトム・リドルのことも、ダンブルドアのことも、さらに言えば僕が付き合うべき死喰い人たちの多くを学び舎で見守った人物だ。こんなに大きな断片は他にない。
結果的にこの人選が奇跡のように適切だったことを知るのは、もっと後のことだった。
僕という人間が携える経歴と、これから手にする栄光に舌なめずりするように、スラグホーンは手をすり合わせた。
「では、何か一杯。ハチミツ酒があるといいのだが」
ランコーンがニコリと笑って返事した。
「当然、ございます。あなたの為に用意させました」
僕の人脈が広いように、彼の人脈は広い。僕がやることはそれをちょっとお借りできるようにするだけだ。これからやろうとしていることはこうした地味な作業と手順の繰り返しだ。
最終的に、そうまでしなければ僕が本当に叶えたい望みは叶わないのだ。
人生とは大概そういうものだ。