もし僕が完璧な魔法使いで、杖を振れば当たり前のように水が満ち火が灯り風が吹いたとしたら、僕はあの古いだけの隙間風だらけの狭い世間で居心地のいい人生を歩めたのだろうか。僕は時折そういう空想に耽る。歩めたとしたら幸せだったのだろうか?なんにせよもし、ならばという言葉ほど虚しいものはない。とりわけ年老いたものにとっては。足りない事こそ僕なのだから。
キツネノテブクロとよばれる花がある。その花はよく手や指に例えられているが、その手は魔女や悪人の手だ。毒々しい模様が花弁の内側にあって嫌でもあばたを連想するから僕は嫌いだった。実際キツネノテブクロには見た目にふさわしい毒性が備わっている。しかし、母はその花を愛していた。
キツネノテブクロ、英名ジギタリス。イギリスではジギタリスを使った強心剤の論文が掲載されていたし、ひょっとしたらイギリス人のほうがこの花に馴染みがあるかもしれない。かの有名なルイス・キャロルは不思議の国のアリスにおいてジギタリスの花を挿絵に描いた。彼もまたこの花の愛好者だった。彼がただ見て楽しむためにその花を世話していたのか、実用していたのかは藪の中だが。
魔法を使えない僕だけれども魔法薬は煎じることができた。家の些末な庭にはたくさんの薬草が植えられていて、母は体の弱い妹のためにせっせと水をやっていた。その中にジギタリスもあった。魔法薬を煎じる際、多くは異臭を放つ蒸気をあげる。その煙に燻され続けたせいか母からはいつも変な匂いがした。だから僕はあの青臭く湿った、煮凝りのような匂いを嗅ぐたびに嫌でも母を思い出す。
魔法薬学教授のセブルス・スネイプと会った際に真っ先に思い浮かべたのが力なく床に伏す母だった。
「なにか」
「いえ」
彼もまた母同様ひどい憂鬱病を抱えているようだった。髪は他の色を混ぜたように冴えない黒で、土気色の顔とよく合っている。鷲鼻は萎れた花弁のようでその下にある唇は言葉を発するとき以外はきゅっと固く結ばれている。彼は私より5つか6つ年上のはずだが、死体よりも沈んだ表情のせいでずっと老けて見える。
「ここが研究室で、その扉の向こうが個室」
彼は僕に城を案内してくれている。一年ごとに主の変わる闇の魔術に対する防衛術の教室は年月を経るごとに増えていく埃や匂いがなかった。がらんどうの部屋。壁のやけ方を見るについこの間までさまざまな表や絵が張りっぱなしになっていたようだが、前任者の不祥事(と言って適切か)により全て押収されたのだろう。とても古いはずの部屋なのに相応しい雰囲気はなかった。
「教室も含めて基本的に好きに装飾していいが、我輩はあまりおすすめしない」
彼は皮肉混じりにいった。僕は皮肉が通じないふりをしてやあいい壁だ床だ机だと言わんばかりに部屋を見回した。もとより飾るつもりはない。
彼は少しやきもきしているようだった。確かにもう職員はテーブルについている時間だった。
「ありがとう。ではもう行きましょうか」
僕はこの人とうまくやっていける気がしない。ルシウス氏はスネイプをよく言っていたが、彼のどこに好かれる要素があるのかわからなかった。多分干物とかと同じでじっくり付き合えば良さがわかるタイプの人なのかもしれないが、僕にその時間があるかどうか。
ホグワーツは雄大な自然に囲まれた城だった。僕が思う学校というイメージとはずいぶん違う。まるでここが一つの独立した世界であるかのように浮き世離れしていたし、実際マグルたちのいる世界とは切り離されているのだろう。柱一つからして歴史を感じる。壁にかかる絵も燭台もなにもかもが降り積もり年月に覆われている。
教員テーブルにつくと大広間が一望できる。たくさんの目が新参者の僕に向けられているのがわかった。ヒッチコックのワンシーンのように群衆が僕を見つめ値踏みする。きっと僕はつまらない男に見えるだろう。平凡でどこかの受付にシフト制で座ってそうな男に見えるはずだ。
組分けの儀式がはじまる。はじめは変わった風習だと感心していたが生徒の名前がLになるころには飽きてしまった。僕は根本的に他人への関心がかけているといつも兄が説教をしていたなと思い出し、アイルランドの荒涼とした草原で風に散った兄と、未だそこに原生していると言われる世界最小のドラゴンについて思いを馳せた。
「さて、それでは晩餐じゃ」
と、校長が言うと空っぽの食器に食べ物が溢れる。これらの魔法は主として屋敷しもべ妖精に一任されており、彼らはこの大広間からわずか10メートル離れた厨で畜生のようにせっせと働いているはずだ。自分たちの吐いた息がすぐまた肺に戻ってくるほど混み合った厨房で、自分たちが口にすることのない料理を作る。
奴隷の幸せについて考えてみたことがある。それは慎ましやかな肉体の喜び。甘受すべき労働の味わいは一度自由の味を知ってからでは味わえぬ。人は何かを得ることで何かを失う。しもべ妖精たちはまだ生涯何かを得ることはないだろうが、まだ何も失っていない。僕はたまに、彼らを羨ましく思う。
「どうです、美味いでしょう?ホグワーツにある畑からとっているの」
僕の横に座るポモーナ・スプラウトが如何にもお人好しそうな笑みを浮かべ僕に話しかけた。
「ええ。とても新鮮でおいしいです」
「採れたてなの。これから毎日食べられるよ」
「健康になってしまいますね」
「ああ、おかげで私は健康になりすぎた」
スプラウトは自分のやや肥満気味の頬を撫でて笑った。彼女はハッフルパフの寮監で、人懐っこい穴熊という感じだ。薬草学の教授をしているという彼女はかすかに土の匂いがする。この野菜も彼女が育てているのだろう。
僕の左隣にはスネイプが座っていて、旨い料理を不味そうに食べる才能を発揮していた。
「それにしてもこんなに若い先生が来るとはね。セブルスより若いのは久々だ。ねえセブルス?あっと、ルーピン先生がいたか。やっと後輩ができて嬉しいね」
スプラウトはスネイプの機嫌をあまり気にしてないらしく普通に話しかけている。
「後輩といえども甘くするつもりはありません。私が今までそうだったように」
「おや、私は優しかったろう?ミネルバはどうか知らないけどね」
「聞こえてますよポモーナ」
スプラウトの横に座っていたミネルバ・マクゴナガルがマナーの悪い子どもをたしなめるような口調で囁いた。スプラウトはいたずらっぽく笑い皿の上に残されたぶどうをぱくっと食べた。寮別で様々なことを競わせているようだったが寮監同士の仲は良さそうだ。
「どうかお手柔らかに」
とはいってみるが僕はあいにく魔法省の手先としてきているわけで、彼らもそれをわかっているはずだった。
さて、これ以上冗長な会話を追想したところで得るものは何もないだろう。ここで重要なのは僕はほとんど警戒されていないということだ。生徒から見ればおっさんだが彼らから見れば僕は若造だ。
「さて、本年度も新しい先生を迎えることとなった。本年度の闇の魔術に対する防衛術はウラジーミル・プロップ先生」
生徒たちから拍手が上がった。多くの人がここで一発噛ますことを期待しているだろうが僕はそんなことしない。僕の仕事は真綿で首を絞めるのと同じ。気道が次第に狭くなり、息苦しさは呼吸困難へ。居心地のいい緩やかな窒息。人間が窒息で死ぬのは脳に酸素がいかなくなるからだ。僕はみんなの脳を腐らせることに腐心しなければいけない。
僕は礼をして、軽く微笑み生徒たちを見回した。「つまらないやつが来たぞ」と言う声が聞こえた気がした。悪かったね。
「てっきり」
と、最初に話しかけてきた生徒はプラチナブロンドのデコっぱちだった。
「てっきり、もっと恐ろしい人が来るのかと思っていた」
就任してすぐ彼は僕の研究室を訪ねた。このホグワーツ城でただ一人僕の無能を知るのがこの父親そっくりの生意気な子どもだと思うと、僕は無性に柔らかいものを手のひらで握り潰したくなる。
「僕は無害な役人ですよ。ドラコ坊っちゃん」
「その呼び方はやめてくれ」
彼はホテルよりも殺風景な研究室を物珍しげに眺めた。
「父上から聞いている。あんたを全力でサポートしろって。……魔法が使えないって本当なのか?」
「使えますよ。ほんの少し。例えば羽を浮かすくらいなら」
「ハッ…聞いて呆れる!そんなので教職が務まるのか?僕は毎時間あんたの授業を受けるわけじゃない」
「勿論ここぞという時にしか使うつもりはありません。そうですね、合図を決めましょうか」
ドラコは父親から僕のことをなんて伝えられたんだろうか?不遜な物言いは純血のおぼっちゃまらしいと言えばらしい。しかし、彼の態度から一辺の恐怖や怯えは見られないし、かといってなにか誇りや信念があるようにも思えない。彼は父親が死喰い人として僕に仕事を頼んだとは知らないようだった。
さすがのルシウス氏も息子に「私は悪巧みをしています」とは言えないのだろうか。まあいい。魔法省から来たつまらない役人というのもまた事実だ。僕はみんなの良き脇役であり続けたくて今回わざわざこんな面倒を背負い込んだのだから。
「僕がこうして両手を祈るように組み合わせたら」
僕は彼に見えやすいように両手のひらを顔の前で合わせ、指と指を絡めた。
「僕は君に希っている訳です」
「露骨にわかりやすい」
「それくらいのほうが誤解がない」
「間違って神に祈るなよ。あんたのローブの端が燃えてしまうかも」
ドラコはさて面倒ごとを済ませたぞという顔をして寮へ帰っていった。僕は自室のベッドに寝っ転がり、ホグワーツ急行で読みかけだった本を読んだ。授業は明日から。まずは一年生なので気が楽だった。
寝る前、今日眺めたたくさんの顔の中のどれがハリー・ポッターなのかを思い出そうとした。ウンウン唸ってそれが無駄だとわかるまでの五分間で僕はすっかり睡魔に取り憑かれていた。
ハリー・ポッターについて、僕はもう一度きちんと考えるべきだろう。彼もまた死の縁に引きずり込まれずに生き残ったサバイバーだからだ。僕と彼、どちらが悲惨かといえば彼なのだろう。彼は物語の主役になってしまった。ヴォルデモート卿という物語のピリオドへ、そして始まりの一文「闇の帝王は復活したのだ、と彼は言う」。ああ、ちなみにヴォルデモート卿復活についてノーコメントというのは変わらない。僕は指示待ち人間だから。
ハリー・ポッターの孤立を煽る理由は簡単。正常な判断をさせないため。ハリー・ポッターを罠にはめたいルシウス氏の下拵え…僕はこのたぐいの仕事に慣れている。ルシウス氏が僕に仕事を頼んだのはおそらく慣れだけが理由じゃないはずだ。
彼は僕の経歴を調べ上げた。僕の以前の職場も、出先も、そこで消えた人々のことも。
僕の前職は(今回教師になったから前々職か)魔法運輸部の移動キー管理者の助手だ。移動キーは作るのは簡単だが管理するのは容易ではない。行方不明になった数々のガラクタに扮した危険なキーがマグルの幼児の口に入りどこかとんでもない絶海の孤島やら樹海の洞窟やらに飛ばされた日には目も当てられない騒ぎになる。魔法事故巻き戻し部の連中はいつもイライラしているので頭を下げるまえに罵声を飛ばす。
この仕事のいいところははっきり言ってない。何もない。喜び勇んでやるのは僕くらいだろう。行方不明の移動キーを探すためにイギリス国内を西へ東へ南へ北へ。移動、回収その繰り返し。それを一年中やり続けるのは拷問に等しいと前任者は語っていた。
だがその移動の多さゆえに勤怠の管理は厳密でなく、僕は好きな時間に起きて列車に乗りゆっくり本を読むことができたし、誰にも行き先を知られないまま仕事という名目で名前もない森の中へ用事を済ますことができた。
それと比べると教職員という職のなんと退屈なことか!
まあいい。自分の仕事をやるまでさ。