冷たい白波が曇天の下、黒い岩に叩きつけられて散っていた。“行き先”は見たことがある。トム・リドル少年が孤児院の自分のスペースに飾ってあった写真の場所だ。ダンブルドアは虚ろな口を開けた洞窟へドビーを伴い入っていく。
雨だれと風で削られた壁の中から入り口を見つけ出し、湖を船で渡り、中央にぽつんと浮かぶ小島へたどり着く。そこには台座と盃があった。台座のくぼみは液体で満たされており、その奥に金色のロケットが見えた。
ドビーは硝子玉のような瞳を潤ませ、怯えながら盃をとった。
『やめるなら今じゃ』
ダンブルドアの忠告にドビーは首を横に振る。
『ドビーはハリー・ポッターのためならどんな危険も顧みません』
そしてドビーは盃に液体を満たし、飲み込んだ……。
ダンブルドアにドビーのことを問い詰めると、ダンブルドアは自分の頭から記憶を取り出しハリーに見せた。渇きに苦しみ悶えるドビーと、ロケットを開けて出てきた手紙への落胆。ただの記憶なのに自分のことのように苦しく、そして悔しかった。
闇の帝王へ
あなたがこれを読むころには、私はとうに死んでいるでしょう。
しかし、私があなたの秘密を発見したことを知ってほしいのです。
本当の分霊箱は私が盗みました。できるだけ早く破壊するつもりです。
死に直面する私が望むのは、あなたが手ごわい相手に見えたその時に、もう一度死ぬべき存在となることです。
R・A・B
「誰なんです?このR・A・Bって…」
「今のところ不明じゃ。幸いなのはヴォルデモートが分霊箱をすり替えられたと気づいていないことじゃな」
「あいつは分霊箱の所在を感知できないんですか?」
「左様。古いものとなれば尚更じゃ。おそらくこの日記が破壊されたときも気づかなかったじゃろう。奴にはどの分霊箱も盗まれないという自信があるのじゃろうな」
「そんなものを僕一人で探せっていうんですね…」
「君には素晴らしき友人がいる。わしもできる限りは…」
ダンブルドアがなんと言おうとハリーはもうロンとハーマイオニーに助けを求める気はなかった。ロケットのために用意された残酷な罠を見てなおさら決意は固くなった。
「…今日は一つ、実践的な授業をしようと思っておる。ハリー、分霊箱の探し方と破壊の方法じゃ」
ハリーははっとしてダンブルドアの顔を見た。ダンブルドアは優しく微笑み、手を差し出した。
「姿くらましですか?学校では…」
「何事も特例というものがある。尤もあまり大声ではいえんがの」
姿現しした先はどこか見覚えのある場所だった。陰気な空模様のせいだけではない、土地全体がまるで葬式のような雰囲気だ。顔を上げるとすぐ大きな屋敷が見えた。その屋敷の形でハリーは自分がどこに来たかがわかった。
「この場所にあるものがなにかわかるかのう」
「ゴーントの家…あの指輪ですか…?」
「そのとおり」
ゴーントの家は巧妙に隠されていた。というよりかは管理するもののいなくなった隣家から生い茂る草花が侵食してきたといったほうが正しいかもしれない。言われてもそこに家があるとは思えないくらいの手付かずの土地。ハリーとダンブルドアはそこに立っていた。
すぐそばのリドル邸の墓場でセドリックが殺されたのがもう何年も前のことのように思える。ダンブルドアは杖をかざしながら藪に目を凝らした。ハリーも同じようにじっと茂みを見渡すと、おそらくは門だった木材の残骸があった。
「先生…」
「わかっておる」
下草を踏み分けて門らしきもののそばに行くと空気が急に澱んだ気がした。
「魔法の痕跡はないが…巣になっているようじゃ」
ダンブルドアは木材付近の地面をよく観察しながら呟いた。ハリーのために地面にいくつか残っている何かが這いずり回った跡を指差し、杖を振った。
「
すると行く手を阻む雑草がみるみるうちに退いていき、編み上がり、見事なアーチに形作られていった。入り口まで道が出来上がるとダンブルドアはずんずんと進んでいく。ハリーも杖先に光を灯して後をついていく。
魔法省の役人ボブ・オグデンの記憶で見たままの扉だった。蛇の死骸がドアに打ち付けてある。
「ハリー、君の出番じゃ」
ハリーはハッとしてその蛇の死骸を見た。そして蛇語で「開け」と囁くと蛇の死骸はぼとりと地面に落下し、木の軋む独特の嫌な音を出して扉が数センチほど開いた。
「……こんなに簡単でいいんですか?」
「少なくとも当時ゴーントがスリザリンの継承者であることを知る人間はトム・リドル一人じゃった。通常の魔法で錠を開けた場合どうなったかは…あまり想像したくないのう」
家はモーフィン・ゴーントの記憶の中よりも荒れ果て、廃墟とほとんど変わらない暗闇の中に半壊した家具と埃が積もっているだけだった。外と違って生き物の気配は一つもない。奥の暖炉らしきところから饐えた臭いがした。
「灰じゃ」
暖炉にはたっぷりと灰があった。ダンブルドアの口ぶりから、この中に指輪があるに違いなかった。だが雰囲気といい臭いといい、とてもじゃないが触りたくなかった。
そのことを思い出し、ハリーは杖を掴んだ。
「
灰は全く変わらなかった。風を起こして下にあるものを見ようとしても、全く飛んでいかない。どうやら直接触れるほかなさそうだった。杖をそっと灰に突き刺そうとすると、バチッと火花が散って弾き飛ばされた。手で掘れということらしい。
「…ふむ。ハリー、これはわしがやるべきことじゃ」
「え…でも僕が一人でできるようにならないと……」
「ゆくゆくは、じゃよ。今は見て学びなさい」
ダンブルドアはそっと屈み込み、灰の中に指を差し入れた。砂山のようになっていた灰が崩れ、ダンブルドアは手首まで突っ込んで灰を掻き出しはじめた。節くれだった細い指の隙間から灰がさらさらこぼれていく。
「う…」
ダンブルドアが小さく呻いた。ハリーは思わず杖を固く握りしめ、灰の山に向けた。
「心配はない、ハリー」
ダンブルドアはニコリと微笑むと、灰の山から椀の形にした手を抜き出した。ハリーはギョッとしてますます強く杖を握りしめた。その手首には骨が絡みついていた。くすんだ茶色の骨だ。
ダンブルドアはそのまま腕を高く上げ、骨は上腕部まで引き摺り出された。すると灰の山がゆっくりと隆起し、小さな頭蓋骨を形作り、顔に変わった。
女の子だった。金髪の、優しい瞳をした10歳かそこらの少女。肌は土気色で、髪には灰がまだ絡みついている。
「どぉ…て」
少女が小さく呟いた。
「ど…して」
ダンブルドアの表情が強張った。恐れを感じているように見え、ハリーは思わず声をかけそうになった。しかしその前にダンブルドアが制するように、半ば自分に言い聞かせるような堂々とした声で独りごちた。
「一年前のわしならば…ここで取り乱していたかもしれん」
ダンブルドアは灰でできた少女を無視してまた灰の山に手を突っ込んだ。そしてまた掻き分ける。何度も何度も。ハリーはそれをただ見つめる他なかった。掻き出した灰の山が小高くなってようやくダンブルドアは何かを見つけた。
「これが……」
ダンブルドアは灰まみれの手のひらからゴーントの指輪を摘み上げ、しげしげと眺めた。
「これが…蘇りの石……」
「蘇りの石?」
「そうじゃ。遠い昔の、お伽噺のお宝じゃよ。…ああ、なるほど確かに抗い難い誘惑じゃ。この罠のあとでは……」
「ど、どういうことですか?」
ハリーにはダンブルドアが言ってることがいまいちわからなかった。指輪は確かに怪しげな光を放っているが、誘惑なんて感じなかった。
「詳しくは帰ってから話そうとしよう。ここは長居する場ではない」
ダンブルドアは立ち上がり、灰を清めてすぐ外に出て姿くらましした。ハリーは何がなんだかわからないまま、ぐわんぐわんと揺れる校長室の椅子に座った。
「このゴーントの指輪に嵌っている石は“死の秘宝”と呼ばれるもののうちの一つじゃ。死者を蘇らせる秘石と伝えられている」
「死者を…?そんなことあり得るんですか?」
「あり得ない…と言い切れないのが“誘惑”といった所以なのじゃ。年を取ればその誘惑はより一層抗い難いものになる。…おそらくこの指輪を嵌めたら最後、強力な呪いをかけられる。すべての分霊箱にそのような罠があるはずじゃ」
ハリーは机に置かれた指輪をまじまじと見た。凝った意匠が施された指輪になにかの紋章が刻まれた黒い飾り石がついている。
蘇りの石と言ったか。ダンブルドアの口ぶりは自身に蘇らせたい人物の心当たりがあるようだった。
「じゃが今は、幸いと言っていいのか…死者に思いを馳せる余裕がない。それに君もいてくれたから愚かな間違いを犯さずにすんだ。今すぐ処置をしよう」
そう言ってダンブルドアが取り出したのはグリフィンドールの剣だった。その切っ先を慎重に指輪に向け、ハリーに言った。
「よいか。分霊箱のような強い闇の魔法のかかった品は生半可な魔法では破壊できん。同じように強力な闇の魔法を使うか、伝説の生き物の毒や武器を使う他ない」
「グリフィンドールの剣は伝説の武器ってことですか?」
「いや、歴史的価値はあるが単なる剣じゃよ。しかしゴブリン製の剣にはある特殊な性質がある。これは斬ったものの特性を吸収するのじゃ。かつてこの剣はある凶悪な魔法生物を斬ったはずじゃったな」
「まさか…バジリスクの毒を?」
「そう。この剣は最強の毒を秘めているというわけじゃ。故に…」
ダンブルドアは切っ先を指輪に突き刺した。悲鳴とも金属音ともわからない、不気味な音が部屋中にこだまし、ハリーは思わず耳をふさいだ。足元からぞわぞわと恐怖が体を包み込むようだった。
「これで破壊は完了じゃ」
顔を上げると指輪は輪の部分に黒ずんだ焦げ跡と亀裂を残して歪み、石が取れかかっていた。
「…ヴォルデモートはこの石が特別なものだって知ってたんでしょうか?」
「ふむ。ペベレルの名前を辿ればいつかは秘宝に辿り着くじゃろうな。だが、奴にとってこの石は価値がなかった。だから罠に利用したのじゃろう」
ダンブルドアは指輪を魔法で浮かせ小箱に入れて厳重に封をした。なるべく目に入れたくないらしく、すぐに小箱も机の奥深くにしまってしまう。
「今日は…ご苦労じゃった。疲れたろう」
「いえ」
疲れなかったといえば嘘だが、それよりもこれから先待ち受けることに自分が立ち向かっていけるのかが不安だった。
バジリスクを前にしてグリフィンドールの剣が自分の前に現れたとき、体に勇気が漲るようだった。しかし今はとにかく鈍い。体と感覚に薄皮が張ってるみたいだった。プロップに閉じ込められてからずっと自分がこれまでの様に振る舞うことが不可能になっていると感じている。自分を包んでいた万能感や、特別感、優越感が根こそぎ剥ぎ取られたようだった。
それでも自分が生きるためにはヴォルデモートを殺し尽くすしかない。
次の約束はまた手紙で知らせると伝えられ、ハリーは校長室から寮へ帰った。結果だけ言うと、次は二度となかった。
僕は自分のことを感じやすい人間だと思っていた。人の苦しみや悩み、不安、不満がわかるし、どういうふうに誘導すればいいかすぐに思い浮かぶ。
煽てたり、褒めたり、怒らせたり、惚れさせたり。個性を掴めば特定の感情へ誘導するのは簡単で、更にそこから行動へ発展させることもできる。
だがグリンデルバルドからして見ればそれは感じやすいなんてもんじゃなく、むしろ何も感じてないと言えるらしい。
「普通の人間は他人との交流に痛みが伴う。自分のために他人を動かすなんて尚更だ。人は共感性という厄介な後天的能力を獲得している。社会に生まれたのならば育つ過程で無理やりつけさせられるものだ」
「僕はまともに育ってないと?」
「そうはいってない。お前のように共感性に著しく欠けるやつってのはそう生まれついてるのさ」
「なんだか気に入らない考え方だ」
「たとえばお前は散々人を利用して殺してきたわけだが罪悪感は湧くか?」
僕は、こんな時にアレクセイの顔をいつも思い出してしまう。
「あまり」
「俺もだ。時々懐かしんだりするくらいがせいぜいだ。だが普通はそこまでドライでいられない。悪夢を見たり警察に駆け込もうか悩んだりする。神に赦しを乞う場合もある」
「馬鹿みたいだな」
「その通り。だから革命のための最初の一撃は俺達のような不感症の悪党しかできないのさ。伴う痛みが大きすぎるからな」
全然わからない。わからないね。僕は自分の痛みしかわからない。
人は誰だってそうじゃないのか?握手もしてない相手の指先の感触を想像する?吐息の音を聞いて自分じゃない誰かの肉体を思い描くのか?心が頭か胸かどこに宿るのか大真面目に議論するのか?言葉なんて形の無いものに質量を感じる?目の前の相手の感情を自分に当てはめようとする?愛なんて幻を在るとするのか?
もし人がそれを考えずに生きられない生き物だとしたらそれと無縁な僕は世界一幸せだ。
僕は薄い紫の縞が入ったシャツを着て、赤のネクタイを締める。ネイビーのスーツを着てから魔法省謹製カフスボタンをつけ、いつもより念入りに髪型を整えひげを剃りこめかみを揉んでくまを少しでもマシに見せようとする。爪を切りそろえ、万が一手首の噛み傷が見えないよう念入りにファンデーションを塗りそこそこいい時計をつける。
こうしてウラジーミル・プロップという外装が出来上がる。テレビ映えする仮面だ。普段見かけについてそこまで気にしないが、今日ばかりは映りが良くないと困る。どこかの国の大統領が殺されたり、どこかのカルトが毒を巻いたり、どこかで虐殺が起きていたりする中でチャンネルを奪わなきゃいけない。テレビはとにかく派手でないと。
どれだけ目を引くか。目を引いた後、見苦しくないものだけがワイドショーで連日繰り返し流される。これまでもこれから永遠と続く時間のなかでたった30秒。今の僕は繰り返し繰り返しを耐え抜く仮面だ。
犬ははあはあと熱い息を吐いている。口枷からぼたぼたと獣臭い涎が落ちる。ジョン・ドゥがわざわざやってきて僕を叱咤激励した。目立つことはやめてくれ、と言うがあいつの行き先は最近ほとんどグリンゴッツだから、ダイアゴン横丁そばの倉庫によったって何ら不思議ではない。
グリンデルバルドもいつもより丁寧に変装する。マグルの標準ファッション、スーツと冴えない髪型に。雑踏に溶け込むファッションもこなせるとはさすが大魔法使い様だ。
「用意は万全だ」
「ああ。時間もちょうどいい。化粧のりもいいよ」
「ルシウスからも伝令だ。“時は満ちた”気取り屋だな」
「余裕があって羨ましいよ。僕は結構そわそわしてる」
「意外とミーハーなんだな」
「いや、そういう事じゃないだろう。うっかりあいつが死ななかったら僕は一貫の終わりだからね」
「そのために俺がいるんだろう?」
僕はグリンデルバルドを見つめる。冴えない一重のマグルのサラリーマンの格好をした最強の魔法使いを。
「あんたを信じてるよ、ゲラート」
「任せてくれ。…より大いなる善のために、ヴォーヴァ。行ってこい」
「秀逸なキャッチコピーだな。行ってくるよ」
そして僕はマグル連絡室室長としてしみったれた日々を送らざるを得なかったファッジと共にマグル首相との待ち合わせに向かう。
原稿を渡し、二、三質問に答えた後にファッジと合流してきたランコーンは関係者用にモニターの置かれた部屋へ、僕は記者として会場入りする。
死喰い人の大暴れに合理的説明をつけることに疲れきり、判断力を失いつつある哀れなマグルの首相がそわそわしながら満員の記者席を見て鎮静剤を飲む姿を見て、僕はほんの少しだけ罪悪感を持ってしまった。
ただこれから起こる混乱を目にしなくてもいいのは羨ましい。ありとあらゆるリスクを避けたいのならば、我々に許されるのは死ぬことだけだ。