織斑一夏という少年がマギアルカに拾われてヴァンフリーク商会本部にやってきて、今日で三日が過ぎた。
当の一夏はマギアルカに連れて来られて、すぐに医務室へ叩き込まれた。マギアルカは商会の伝手で引っ張って来られるだけの名医を呼び集めて、総がかりで一夏の治療に当たらせた。
治療の結果、彼の傷は思ったよりも酷いものだったらしく、あと少し遅ければ命はなかったそうだ。
名医たちの尽力と
しかし傷は治ったのはいいものの、体力の方がまだ戻らないということで、この三日間一夏はずっと昏睡状態なのである。
そして、一夏をここに連れてきたマギアルカと言えば、今日も今日とて、ヴァンフリーク商会総帥として仕事に忙殺されていた……ということはなく。
総帥の権限が必要な仕事以外は全て有能な部下たちに任せ、本人は自室で、真昼間から酒など呷っていた。
「織斑一夏君の体力は順調に回復しているそうで、早ければ今日中にでも目が覚めるだろうとのことです」
「そうかそうか、どうなることかと思ったが、それはよかった」
自室にやって来た秘書の一人の報告を聞いて、マギアルカは嬉しそうに頬を緩めた。
その秘書は、まだ二十代に手が届くかどうかという年頃の、縁の細い眼鏡をかけた美少年だった。主人の様子に頬を綻ばせながら、秘書は報告を続ける。
「次に、マギアルカ様が捕えられたという、例の彼らのことについてですが」
「うむ。何か分かったか?」
「ええ、まあ……。色々訊いてみたところ、大体は、理解できたと思います」
マギアルカが秘書に依頼していたのは一夏のことだけではなく、マギアルカが殴り飛ばし捕獲した男たちについての情報収集だった。
特にあの女は、
……それがなくとも、少なくとも新たな商売の種にはなるだろう。そんな思惑もあって、彼らの所属する国家や組織、機体の正体を尋問して聞き出すように頼んでおいたのだが。
歯切れの悪い秘書の言葉に、マギアルカは訝しげな表情を見せて、
「どうした? 何やら妙な顔をしておるが」
「はい、その……私には、彼らの言っていることが、どうも信じられず……」
「ふむ? それは、あやつらがお主に嘘を吐いている……というわけではなさそうじゃな。お主であれば、嘘を吐かれても即座に見破って全て吐かせるじゃろうからな」
「信頼していただき、ありがとうございます。……ええ、まさにその通りでして。嘘を吐いている様子はないんですが、その、彼らの話は、あまりに荒唐無稽なもので……お話ししていいものか」
「構わぬ。お主がそこまで言うほどのことじゃ。よほどのものであろう。わしも興味が湧いて来たぞ」
「では――」
期待と好奇心に瞳を爛々と輝かせるマギアルカだったが、秘書が本人も半信半疑の口調で紡ぐ報告に、徐々に徐々に驚愕に目を見開いて行った。
曰く――『彼らは我々の住むこの世界とは違う、全く別の世界からやって来た』。
なるほど、秘書が自分でも信じられないのが納得だった。
「確かか?」
「いえ、何分、裏付けも取れませんので、信憑性についてはお答えしかねます。後、あの機体の件ですが、アレは
「科学者か……
「はい。そして、どうやらあれは、女性にしか扱えないらしいのです。これは男性が使わせてもらえないということではなく、純粋に男性では起動させることすら出来ないんです。実際に私も試してみましたが、出来ませんでした」
「ふむ……ならば女は? 試してみたのか?」
「はい。丁度同席していた女性職員に試させたところ、時間はかかりましたが、何とか全員展開を成功させていました。もっとも、マギアルカ様が叩きのめした時のままで、ボロボロでしたが」
「なるほどのぅ……」
女にしか扱えない絶対の兵器。
数十年ものの高級ワインを注いだグラスを手の中で弄びながら、マギアルカは思索を巡らせた。
――あの女は、男を『ISの使えない社会のクズ』と言っていた。
そして恐らくだが、あの女のような考え方をしているのは、彼らの世界では少なくない、それどころか多数派なのだろう。
自分の言っていることは間違っていない、皆そう思っている。あの女の態度には優越感や男性への侮蔑以外に、そんな安心感が見え隠れしていた。
つまり女尊男卑。まだ彼らの世界を見たことはないが、その事実だけを取ってもマギアルカには好きになれそうにはなかった。
マギアルカとて女だが、そんな世界には行きたくない。
そもそも女性が完全に優位で男性を不当に虐げる。そのような歪んだ風潮が出回っているようであれば、そんな社会は長続きするはずもない。
何故なら、男性は社会を回す上で必要不可欠だからだ。
建築業や工業などは言うに及ばず、農業や漁業などありとあらゆる産業において男性の力は必要なものだ。
男性は社会のために、そして自分のため、家族のために汗水垂らして働き、それによって人々は安心して暮らせるようになり、そうして社会は回って行く。
マギアルカとしては、そんなことも分からないような向こうの世界の女性たちは、単なる阿呆としか思えなかった。
しかしこちらの世界にも、同じような理念で動いていた国が存在していた。
一年前のクーデターで滅んだ、アーカディア旧帝国だ。
彼の国が掲げたのは、女尊男卑の逆、男尊女卑。
女性は全て道具、男に従って当然という帝国の伝統文化。貴族の男が欲望の捌け口や労働力として市民や貧民層の少女を攫っていく、などという光景は珍しくなかった。
軍部では人体実験に年端もいかない少女を使うという、おぞましい出来事もあった。
全く度し難い話だった。
女尊男卑も男尊女卑も、どちらも等しく愚かしい。
男性と女性、どちらかが優れていて、どちらかが劣っている、なんてことはあり得ない。
どちらも社会を回す上で不可欠な存在であり、互いに互いが居なければ成り立たないものなのである。
それを、下らない理由で排除しようとするなど、愚の骨頂。
(……もしかしたら、一夏もまた、そんな世界の被害者なのかもしれんのぅ)
ふと、今も眠り続けている少年のことを思うマギアルカに、秘書が遠慮がちに声をかけた。
「それで、マギアルカ様。彼らの処遇をどうなさるおつもりですか? もし本当に、違う世界から来たというのであれば、我々にはどうしようもありません」
「そうじゃのぅ……。わしらとしては生かしておく理由もないが……何かに使えるかもしれぬ。一応生かしておけ。自殺させたりなどするなよ」
「承りました」
ゾッとするようなことを平然と言うマギアルカだったが、秘書の少年も動じた様子はない。
マギアルカ・ゼン・ヴァンフリークは、何も純粋な商才だけで成り上がって来たのではない。時には人に言えないような卑劣な手段を使ったし、競争していた他の商会の者を蹴落としたりもした。
そうしてマギアルカは、一国の軍事に関する全権を掌握し、世界を裏から牛耳る今の立場を手に入れたのだ。
人間が手に入れることの出来る栄光は、必ずそこに至るまでの道に無数の屍が転がっている、というのがマギアルカの持論だった。
秘書の少年が深々と頭を下げて退室していった……と思ったら、間髪入れずに新しい客人がマギアルカの部屋のドアをノックした。
『マギアルカ様。例の少年の件で来ました、失礼してもよろしいでしょうか』
「うむ、よいぞ」
入ってきた女性の顔を見て少ししてから、マギアルカは彼女が一夏の治療に当たっていた医師の内の一人だと気が付いた。
「それで? あの少年の容体に何か異変でもあったのか?」
「あ、いえ、そうではありません。むしろ喜ばしいことです。つい先程、彼が目を覚ましました」
「おお、そうか!」
軽く微笑みながらの報告に、マギアルカは腰かけていた革張りのソファーから立ち上がった。
手に持っていたグラスをローテーブルに置いてから、
「一夏の様子はどうじゃ? 何か変わりはないか?」
「一夏……ああ、あの少年のことですね。いえ、記憶障害もありませんし、精神の異常も見受けられません。いたって健康です。それで……本人が、マギアルカ様に会いたいと言っているのですが、いかがしますか?」
「いかがも何も、元々あやつが目覚めたらわしも会いに行くつもりじゃったからのぅ。案内せい!」
「承りました」
早速近くに置いてあった上着を羽織り、マギアルカは女性医師の先導で、一夏の眠る部屋へ向かった。
流石は世界最大の商会の本部と言うべきか、廊下に並べられている調度品でさえ超一級品だ。
通りすがる職員たちは、上機嫌なマギアルカを見て少し驚いた様子をしながら、恭しく頭を下げて彼女を見送る。その動作には確かな敬意が込められていた。
一介の商人からここまでのし上がってきたマギアルカのことを彼らは心の底から慕い、そしてマギアルカの下に付いて彼女を支えている自分自身に誇りを持っているのである。
この建物はヴァンフリーク商会に所属する職員たちの宿舎も兼ねているため、かなり広い。目的の場所に向かうだけでも一苦労だ。
十分程も建物の中を歩き回り、マギアルカ達はようやく目的の部屋に辿り着いた。
建物の主はマギアルカである。故にマギアルカは、ノックの一つもせずに目の前の扉を開け放って大股で部屋の中に入った。
高級感漂う石造りの壁に囲まれ、格調高い家具で埋め尽くされた豪勢な部屋の壁際。そこに設置された大きなベッドに、黒髪の少年が佇んでいた。
ベッドから上体を起こして、周囲に落ち着きなく視線を彷徨わせて、近くに居る白衣の大人たちをチラチラと窺っている――というようなことはなかった。
落ち着き払った、と言うよりも何も感じていないような無表情で、窓の外を眺めている。
やはり歳に似合わない態度に僅かに眉を顰めながら、マギアルカはその少年――織斑一夏の元に近付き、明るく声をかけた。
「元気そうじゃな、一夏よ」
「あ……マギアルカ、さん」
「マギアルカでよいと言ったであろう。一応医師から聞いてはおるが、体に問題はないか?」
「うん。全然大丈夫だよ。むしろ、あんな傷を負ったのによく死んでないな、って自分でも不思議に思ってる」
そう言って一夏は自分の手の甲を、茫洋とした眼で見つめた。やはりその瞳に宿る感情はどこか希薄だ。
一夏のその姿に自室で秘書の報告を聞いて考えたことを思い出しながら、マギアルカは医師たちに目配せをして部屋から退出させる。
二人きりになった部屋で、自分はベッド脇の椅子に腰かけてから、改めて一夏と向き合った。
「それで? わしに会いたいということじゃったが?」
「あ、いや、ただ、お礼が言いたくて……ありがとう、マギアルカ。俺みたいなヤツを、助けてくれて……」
「……ふむ。まあ、気にするでない。わしが勝手に連れてきただけじゃからな」
目元に暗い陰を作りながら紡がれる感謝の言葉。
一夏の自虐的な言葉が気になったが、とりあえずマギアルカは訊いておくべきことを優先した。
「さて……では一夏よ。お主、今の状況は理解出来ておるか?」
「……いや。正直なところ、よく分かっていない。そもそもここはどこなんだ? 医務室みたいだけど、点滴とかの器具もないし、さっきの医者の人たちも、聴診器すら使ってなかったし……」
混乱したように話す一夏の言葉には、いくつかマギアルカが知らないものがあった。
商人であるマギアルカは、かなり知識量が多い方だ。だというのに、それがどのようなものかすら分からないということは。
――やはり、この世界のものではないということだろうか。
「ふぅむ……のぅ、一夏よ。これからわしが話すことは、嘘のようじゃが本当のこと、のはずじゃ。途中で疑問も多かろうが、とりあえず先ずは全て話を聞いてから、その後で質問を受け付けよう。よいな?」
「あ、あぁ……分かった」
マギアルカが見せた真剣な表情に、一夏も背筋を伸ばして聞き入る姿勢を作る。
そんな一夏に、マギアルカはゆっくりと、噛んで含めるように、
「これは、お主と共にここに来たあやつらから聞いて分かったことなのじゃが……ここは、お主が生きていた世界ではない」
「え」
「お主の故郷だという『日本』という国は存在せぬし、ついでに言うとISとかいうものもない。この世界にあるのは
「え」
「さっきお主が言っておった、テンテキ、チョウシンキ、とかいうのは、お主の世界にしかないものじゃろう。……これらのことから、いまいち信じられぬが、どうやらお主は異世界に迷い込んでしまったようじゃなぁ」
「………………待って、理解が追い付かない」
予想していた通り、話の途中から目を回していた一夏は、弱々しく頭を振って思考を整理しようとしていた。
無理もない、と思う。死ぬような怪我を負って、目が覚めたら自分の世界とは全く違う異世界だ。何も分からず、家族とすら会えない。彼ほどの年齢の少年が、心細さや不安を感じないはずもない。
一夏に少しの同情の念を抱きながら、マギアルカは言葉を続けた。
「お主にも話を聞いてみたいが、その前にわしと、この世界についての話をしておこうかの。聞こえておるか?」
「あ、う、うん。大丈夫、教えて欲しい」
そして、マギアルカは語った。
この世界が
身振り手振りや軽い冗談などを交えて、なるべく明るくするように努めながら。
「……と、いうところじゃな。分かったか?」
「うん、大体分かったよ。……半分くらい、マギアルカの自慢話だった気がするけどさ」
「何か言ったか? ……とりあえず、今はこんなところじゃ。次はお主の話を聞こうか? 無論、言いたくなければそれでもよいが……」
「いや、いいよ。別に聞かれて困るようなことじゃないからさ」
表情に暗い影を落としながら、淡々とした声で一夏が語ったのはマギアルカが予想していたこととほとんど同じ、けれどそれよりも遥かに惨い内容だった。
優秀な姉と弟の間に板挟みになって、そんな二人に追い付こうと必死に努力して、けれどISの台頭によって歪んでしまった世界ではその努力は評価されることはなくて、けれど家族のために日々努力を繰り返して……最後には、その家族に裏切られた。
それらのことを感情を交えずに語って、一夏は一言付け加えた。
「だから……俺は、この世界に来れて、よかったのかもしれない。どうせあの場から生きて帰れたとしても、俺に居場所はない。家にも、学校にも、町にも、どこにもないんだ」
「帰れずともよいのか?」
「いいよ。帰れなくたっていい。俺は別に困らない。帰ったとしても、また延々暴力と罵声に晒される日々だ。そんなところにまた行くぐらいなら、身寄りがなくても違う世界で生きて行った方が、何倍もマシだ」
いつかも見た、虚無の色を浮かべて呟くように言う一夏に、マギアルカは真剣な表情で口を開いた。
「……それで、お主はこの世界で何をする気じゃ?」
「何、か……まだよく分からないけど、とりあえず何か働き口を見つける。俺みたいなガキを雇ってくれるところがあるかは分からないけど、雑用だっていいさ。まずは生計を立てるのが先決だ。それからは、まあどうにか平和に暮らせれば――」
固まり切らない未来予想図を独白する一夏に、言葉の刃で切り捨てるように、マギアルカは鋭く言った。
「……で、逃げるのか?」
「……え?」
「自らの過去からも、自分を否定した世界からも、自分を裏切った家族からも。その全てに背を向けて生きて行くつもりか、と言っておるのじゃ」
自分を睨みつけるようなマギアルカの視線と鋭い言葉に、一夏はわけもなく胸を衝かれたような気分になった。
やっとの気分で、喉の奥から言葉を絞り出す。
「逃げる、って……でも、帰れるかどうかは分からないって……」
「それは口実に過ぎん。今は分からぬと言うだけで、もしかすればこの先元の世界に帰れるようになる時が来るかもしれぬ。もしそんな時が実際に来たとしたら、お主はどうする? この世界に留まるか? そして、お主の世界に向き合うこともせずに逃げ続けるのか?」
「けど、帰ったって、俺は千冬姉の出来損ないで、無能だから……出来ることなんて……。そうだ、俺には、結局一人で出来ることなんて、何も……」
そこから先は言葉にならなかった。
ギュッと拳を握り締め、何かを堪えるように俯く。湧き上がる怒りと悔しさを必死に押さえつけるために。
――悔しさを持つということは、まだ諦めていない証拠だ。
苦悩する少年の姿を見て、ふとマギアルカは視線に宿らせていた棘を抜いて雰囲気を和らげた。
そっと手を伸ばし、俯く一夏の黒髪の上に手を置き、慈しむように撫でる。
やがて、ゆっくりと優しい口調で、マギアルカは語り始めた。
「わしはこう見えて孤児でのぅ。商売でしくじった両親は幼かったわしを捨てた。その後紆余曲折あって親戚の武術家であった叔父に拾われ技を教わった。このけったいな口調もそこから移ったものじゃ」
思わぬ告白に驚く一夏に目を細めて、在りし日を思い出すように、
「幸いにも才能があったんじゃろうな。わしは見る見るうちにその技術を吸い取り身に付けた。そして一端の腕と年齢に達すると、商売への憧れを止められなくなった」
「……両親の借金とか?」
「いいや。……自分を捨てたことに対する恨みがまるでなかったとは言えんがの。やはり未練もあったのじゃ。両親がまだ商売の世界で生きているのであれば、また会えるかという期待もあった。もっとも、期待でしかなかったがの」
「え……」
苦笑するように言うマギアルカ。
「お察しの通り。両親はすでに死んでおった。何でも商売敵に嵌められて偽の宝物を掴まされておったそうじゃ。幼かったわしを捨てたのはその借金のしがらみから遠ざけるためじゃったらしい。ま、後に犯人を突き止めて粛清はしたがのぅ。もちろんこっちの方でな」
ニヤリと笑ったマギアルカは、左手の親指と人差し指で輪を作った。お金を指すサイン、つまり『商売』の舞台で叩きのめしたのだろう。
「まあつまり何が言いたいかというとじゃな。……お主が無能かどうかなど、まだ分かるものではない、というかどうでもいい、ということじゃ」
「どうでも、いい……?」
「うむ。どれだけ物凄い才能を持っていたとしても、それを生かすことが出来なければただの宝の持ち腐れ。じゃが無能でも、自分の持てる全てを自分に最も合った舞台で発揮することが出来れば、天才と呼ばれる人種にだって打ち勝てる。才能に驕るだけの人間なんぞ、愚直に努力を続ける凡人の足元にも及ぶまい」
「…………」
「一夏。お主はまだ、自分が何を持っているのか、自分に何が合っているのか、そういったことを何も知らない。だというのにここで諦めてしまえば、お主は将来、必ず後悔する。あの時こうしていれば良かった、と後でどれだけ悔もうとも遅いのじゃ」
「こう、かい……」
「誰だって、そんな思いはしたくない。お主だってそうじゃろう? 何もせずに悔しさのみを抱えるなど、苦痛以外の何物でもないからなぁ」
呆然と自分を見つめる一夏の瞳が、少し潤んでいるのに気が付いて、マギアルカは優しい笑みを浮かべて立ち上がり、一夏を抱き寄せた。
暖かな温もりに包まれた一夏は、今の表情を悟られるのを嫌がるように、マギアルカの胸に顔を埋める。
その一夏の髪を優しく梳きながら、
「生まれや環境は自分の力ではどうすることも出来ん。じゃが……自分の運命は、自分の手で切り拓いて行くことが出来る。自分で選択することが出来るのじゃ」
「……出来るかな」
「ん?」
「……俺にも、出来るかな。俺の手で、俺の運命を、決められるかな」
「さてな。わしには分からぬよ。さっきも言ったが、何をするにしても結局実行するのはお主自身じゃ。お主が自分を信じずして、誰がお主を信じるというのじゃ」
突き放すような言い方だが、静かに肩を震わせる一夏を抱き締めるマギアルカの表情は、まるで慈母のように穏やかで慈しみ深いものだった。
マギアルカはふと悪戯っぽい表情を見せて、
「まあどうなるかなどわしには分からんがな。お主が元の世界に戻れるとは限らんし……とりあえず一夏よ」
「……何?」
「何でもいい。何か一つ、自分に出来ること、自分にしか出来ないことを見つけよ。そしてそれを極限まで突き詰めよ。そして見返してやれ。お主を否定した世界を、お主を見限った愚か者どもをな」
「……見返す」
「そのためのお膳立てはわしがしてやろう。わしがお主が見つけた目的を達成するための道を整えてやる。じゃからお主は……」
マギアルカがそこまで言ったところで、一夏は顔を上げた。
目の前の一夏が自分に向ける瞳に宿った輝きを見て、マギアルカは我知らず笑みを深めた。
彼の髪と同じ黒い瞳には、憎悪や絶望と言ったものも残っていたが、それ以外にも希望と、そして渇望の光があった。
「……やってやる」
織斑一夏は宣言した。
「やってやるよ、マギアルカ。俺は、俺に出来ることを全力でやり抜いてやる。もう逃げたりなんかしない。何があっても、全部正面からブッ壊して、俺の運命を切り拓いて見せる……!」
世界に全てを奪われた負け犬は、今、一匹の餓狼に姿を変えた。
貪欲なまでの渇望を胸に抱いて、前だけ見据えて進み続ける、愚かしく考えなしな、けれど気高く誇り高き獣へと。
その変貌を目の当たりにしたマギアルカもまた、彼の昂揚につられるように胸の内に強い興奮を覚えていた。
同時に、確信していた。
彼が手に入れた牙はまだ小さく、弱々しい。だがいずれその牙は、世界をも喰らい尽くす強固にして不屈の牙となろう。
それがいつのことなのかは分からない。けれど、けれどいつか、必ず。
マギアルカ・ゼン・ヴァンフリークは、織斑一夏に出会っていてよかったと、そう思える日が来る、と。
「……うむ! その意気じゃ、一夏よ!」
「……って、うわっ! ちょっ、待って!」
感極まった様子のマギアルカに強く抱き締められた一夏は、両手をバタバタさせながら必死にもがいた。
意外と大きなマギアルカの胸が一夏の呼吸を完全に阻害している息苦しさと、年上の女性の胸の中に居るという状況への気恥ずかしさがあった。
まだ思春期に入ったばかりのため、それが性的興奮などへ繋がることはないものの、一応男子のはしくれとしてこの年にもなって抱き締められるというのは羞恥心を刺激するものなのである。
同時に――家族からも長く感じたことのなかった、心の底から安らぐような温もりに、溺れてしまいそうでもあった。
一夏の必死の抗議を聞き入れてようやく一夏を放したマギアルカは、腕を組んで何事か考えている様子だったが、ふと一つ手を打つと、
「……うむ。よし、一夏よ。お主、わしの弟子になれ」
「……え?」
「じゃから、わしの弟子になれと言っておるのじゃ。このわしが直々に、お主に勉学だけでなく武術、更には商売のやり方まで教え込んでやろう。どうじゃ?」
「それは……けど、いいの?」
「わしが言っておるのじゃ。よくないことはないぞ。それに……わしも、お主の行く末に興味が湧いてきた。出来るだけのことで協力してやろうと思ってのぅ。何、心配いらぬ。わしがお主のように身寄りがない子供を引き取るのは、今に始まったことではないからな」
通信設備が整っていないこの世界では君主制、貴族制が基本であり、一夏が生きてきた世界と比べて上流階級と平民階級の貧富の差が大きい。
共和制を採用している国家や宗教国家ではそれほどでもないのだが、やはり金というものは一部の上流階級の元に集まり、平民が必死に働いてもその手に残る金は貴族たちのものと比べれば雀の涙ほどでしかない。
貧困問題だけでなく、この世界には
故に、必然的に、親を失った、もしくは親に捨てられる子供が出てくるのである。いわゆる孤児だ。
金が足りずに育てられなくなって捨てられたり、戦争で親を失ったことで身寄りを失ったり。孤児になる要因は様々だが、未だにその内の一つとして解決された試しはない。
街によっては教会が運営する孤児院も存在するが、無限に孤児を受け入れられるわけでもない。行くところがなく路頭に迷う子供も多いのだ。
マギアルカは時折そんな孤児たちを保護することがある。
フラッと一人で出かけては、貧民街などで拾った子供を抱えて帰ってくるなんてことは、もはや日常茶飯事だ。
本人も昔は孤児だったため、同じ境遇にある子供たちを放っておけないのである。
基本的に拾われた孤児たちは十分な手当てを受けた後は、ヴァンフリーク商会が選別した子供を望む家庭に預けられることになる。今ではそれが商会の通常業務の一つとなっている。
だが中には本人の意思で、もしくはマギアルカが見込んだ孤児は、そのままヴァンフリーク商会による教育を受けて、商会の一員として仲間入りすることがある。
そんなエピソードが人の口を伝って広まって行く内にどこかで歪められて、『マギアルカ・ゼン・ヴァンフリークは幼い少年好き』という噂へと姿を変えてしまっているのである。
マギアルカは、一夏をそんな孤児たちの内の一人にしようと言うのだ。しかも、ヴァンフリーク商会総帥直々の教育の元で。
それがどれほど貴重で幸運なことなのか、一夏には分からなかったが……それでも、目の前に居るこの女性の元で学ぶことが出来るというのは、とても胸の躍ることだった。
一夏は高鳴る鼓動を抑えて、頬を紅潮させながら叫んだ。
「は、はい! お願いします、えと……師匠!」
「うむ! 任せておけ!」
――そのような成り行きで、織斑一夏はマギアルカ・ゼン・ヴァンフリークの直弟子として、異世界に居場所を持つことになったのである。