というわけで更新します。6話です。
今回でようやくオリヒロが出るんですが、シリアス多めです。
楽しんでいただけると幸いです。
レースのカーテンを貫いて射し込む光が、薄暗い部屋の中を柔らかに照らし出す。
開け放たれた窓から流れ込んだひんやりとした風が、麗らかな朝の陽気を伴って、大きなベッドで眠る二人の男女の剥き出しの肌を撫でる。
少し汗ばんだ、まるで彫像のように鍛え抜かれ引き締まった体を刺激する冷気に、ぐっすりと眠り込んでいた整った顔立ちの少年は呻き声を上げた。
太陽が持って行き忘れた夜の闇のような黒髪を、優しげな風がそよそよと揺らす。
「ぅ……」
その少年――異世界からの来訪者である十五歳の少年、織斑一夏は、まどろみの中でゆっくりと体を起こした。
一糸纏わぬ姿のまま、ベッドの上で眠気を追い払うようにふるふると首を振る。
徐々に覚醒していく意識の中で、照りつける朝日に目を眇める。
「ああ……もう、朝か」
呟き、今度は自分の傍らに目をやった。……同じベッドでぐっすりと惰眠を貪るオレンジ色の髪の少女――一夏の師匠でもある、マギアルカ・ゼン・ヴァンフリークに。
当然ながらマギアルカもまた、一夏と同じく衣服を纏っていない。意外なほどに起伏に富んだ女性らしく美しい肢体を薄いシーツ一枚で隠して、規則正しい寝息を立てている。
裸の男女が同じベッドで朝を迎える……この状況から類推される昨夜の二人の行動など、一つしかあるまい。
それを裏付けるように、つい先程までは、濃厚な男女の交わいの匂いが室内に蟠っていた。
欠伸を一つ。心地よい疲労を感じる体を億劫そうにベッドから引き上げて、一夏は立ち上がった。
ベッド脇に置いてあった衣服を、眠りこけるマギアルカを起こさないように音を立てずに、素早く着込んで行く。
自身の所属する部隊『銀影旅団』の制服を纏った一夏は、最後に一夏の駆る神装機竜、《黄龍》の
そして、無邪気な寝顔を見せる愛しい女性の頬をそっと撫でて、
「行ってくるよ、マギアルカ」
と言った、その瞬間。
確かに寝ていたはずのマギアルカが突然跳ね起きて、反応を許さずに一夏の首に手を回し、その唇を奪った。
「んむぐっ!?」
驚きに目を白黒させる一夏に構わず、マギアルカは思う存分一夏の唇を貪る。
そろそろ息が続かなくなってきた、という頃、ようやくマギアルカは唇を離した。
「マギアルカ……起きてたのか」
「今起きたところじゃ。それよりも一夏よ、お主弟子のくせに師匠を起こすこともせずに出て行こうとは、一体何事じゃ?」
「いや、気持ち良さそうに寝てたからさ。もうちょっと寝させてやろうかな、と。もう目が覚めたのか?」
「んー……もう少し、というところじゃなぁ」
そう言って悪戯っぽく笑ったマギアルカは、一夏の首に絡めたままだった腕をくいっと引いて、更に密着してきた。
隠すもののないマギアルカの割と豊満な胸が、一夏の胸板の上で形を変える。
彼女の纏う艶やかな雰囲気も相俟って、思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまう。
(……あ、ヤバい。反応してしまう)
「……ん? これは……」
「ぁ……」
「……ほほぉ? 朝から元気なことじゃなぁ、一夏?」
「誰のせいだと思ってるんだよ……」
意地悪くからかってくるマギアルカに、一夏は額に手を当てて天井を仰いだ。
初体験からそれなりに何日か経ったが、やはり思春期。こう言うのには中々慣れない。けど慣れなければ、これからもからかわれ続ける……それは嫌だ。
煩悶としながらも、結局一夏は物凄く楽しそうなマギアルカに延々からかわれ続けたのだった。
……いつか、絶対こっちからからかってやる。そんなことを心に誓いながら、織斑一夏は今日も朝を迎えた。
§
「一夏さん!」
「……はぁっ! ……ん?」
王都防衛戦から一週間が経った日の午後。高く照りつける日が少しばかり傾き始めた頃。
俺が隊長を務める小隊の隊員と共に、商会本部の訓練場で
何やら慌てた様子の秘書に、訓練を一時中断して話を聞くことにする。
「訓練の途中に……、申し訳、ありません……」
「いえ、大丈夫です。それより何かあった……何があったんですか?」
何かあったのは見れば分かる。だから俺は、端的に事態の説明を求めた。
しかし苦しそうに肩で息をする秘書は、俺の問いに直接答えることはなくマギアルカの執務室がある方向を指差した。
「総帥からの、緊急任務です。詳細は、総帥に訊いて、ください。私も詳しくは、知りません、から……!」
「分かりました。ありがとうございます」
それだけ聞ければ十分だった。
小隊のメンバーに戦闘準備を整えて待機しておくように言ってから、俺は急いでマギアルカの執務室へ向かった。
もう何度も通った道だ。いちいち思い出す必要もなく、ほとんど無意識のままに歩みを進め、約一分後。俺は目的の部屋の前に居た。
ノックではなく声で入室の許可を求め、やや乱暴に扉を開け放つ。
相変わらずだだっ広い部屋に配置された豪奢な革張りの椅子に腰かけたマギアルカは、執務机の上に腕を組んでいつになく深刻そうな表情をしていた。
「……来たか、一夏よ」
「……ああ」
入室した俺にマギアルカが向けた視線には、今朝の甘やかな雰囲気など欠片もなかった。
彼女は俺が用件を聞くよりも先に、前置きもなく用件を話し始めた。
「つい先程、商会が以前から懇意にしておった、ドラクロワ財閥から緊急の救援要請があった。……ドラクロワ財閥の本部が、
「……っ!」
ドラクロワ財閥という名は、俺も知っている。現当主夫妻にも何度も会ったことがあった。
まだヴァンフリーク商会が存在しなかった頃、マギアルカが一介の商人でしかなかった頃からの付き合いらしく、様々な面で何かと助けてもらっていたらしい。
財閥の規模は、フィルフィのところのアイングラム財閥とほぼ同規模。つまり相当にデカイ。多くの企業や技術者を傘下として抱えており、そこで生産・加工された様々な商品を売り捌くのを基本的なやり方としていた。
現当主夫妻も本当に感じのいい人たちで、俺たちにご馳走を振る舞ってくれたりしていた。
職業柄賊に襲撃されることはよくあると言っていたが……
「機竜を用いた襲撃……まさか、『竜匪賊』か?」
「まだ分からぬ。が、その可能性が高いと睨んでおる。……現在は本部に駐留しておった
淡々と言葉を紡ぐマギアルカだったが、握り締めた拳や眉間に寄った皺などから、彼女の焦燥は簡単に見て取れた。
ドラクロワ財閥の人たちは、マギアルカにとっても恩人だ。本当なら今すぐにでも自分で助けに行きたいはずだ。
だが出来ない。ヴァンフリーク商会総帥という肩書を持つ彼女は、そう簡単にここを離れることが出来ない。
しかし……何故『竜匪賊』がドラクロワ財閥を狙う?
ドラクロワ財閥が取り扱う商品に、
あの財閥を『竜匪賊』が狙うような理由はないはず……
「ドラクロワ財閥がどこの国を拠点にしているか、知っておるな?」
「それは……ヴァンハイム公国の……そうか! 財閥は、ヴァンハイム公国内の物流の中心になっている……つまり、財閥を潰せばヴァンハイム公国の国力は格段に落ちる」
「そうじゃ。もっともヴァンハイム公国もれっきとした国家。
「そういうことか……なら、俺たちの任務は……」
「うむ。――織斑一夏、並びにお主の率いる『金狼騎団』に命ずる。ドラクロワ財閥からの救援要請に従い、わしの名代としてヴァンハイム公国に赴き、賊を殲滅、財閥の者を救出せよ!」
力強く俺たちに命じるマギアルカに、俺は姿勢を正して一つ頷くことで了承の意を示した。どうせ俺たち商会は軍隊ではない。細かい礼儀作法などは不要だ。
命令を下した後で、マギアルカは、「最悪の場合、現当主夫妻とその一人娘さえ救えればよい」と付け足した。
非情な言葉と思えるかもしれないが、最優先すべきはドラクロワ財閥という組織の存続だ。
例え商売をする場所がなくなったとしても、そのノウハウを知っている者さえ残っていれば、何度でもやり直すことが出来る。公国も財閥の影響力を無視することは出来ない。やりようはいくらでもある。
その時はヴァンフリーク商会が援助すればいい。マギアルカからしてみればそれは十分な恩返しになるだろうから、出し惜しみをすることもない。
けど、一人娘か……娘さんが居るっていうのは聞いてたけど、会ったことはなかったな。確か、俺の二つ下、フィルフィよりも年下だったはずだ。物凄く可愛い子だ、と夫妻が良く自慢していたのを思い出す。
もっとも、親って言うのはどうしても自分の子供に身内贔屓というバイアスをかけてしまうので、あまり信用ならないのだが。
頭の中に浮かんでくるのは、豪快に大笑する気前のいい当主と、それを見て柔らかく微笑む優しい夫人、それぞれの笑顔。
あの人たちは、この商会に居る孤児である俺たちのことを、本当の子供のように扱ってくれた。
忘れもしない。頭を撫でてくれたあの手の感触も、振る舞ってくれたご馳走の暖かさも。全部、全部。
……絶対に、救ってみせる。マギアルカからの命令というだけじゃない、俺自身の意志で。
俺は未だに未熟な身だ。誰かを救おう、守ろうなんて分不相応な願いかもしれない。けれど、それでも願わなければ、望まなければ、希望は生まれない。
グッと拳を握り締める俺に、マギアルカが、絞り出すような声音で語りかけてきた。
「すまん、一夏……どうか、頼む」
「……任せてくれ。必ず、救ってみせるから」
「……うむ。よし――行ってこい!」
「――ああ!」
ようやく笑顔を見せてくれたマギアルカに、笑顔で返す。そして踵を返し、部隊の皆が待機している訓練場に向かおうとして、一つ疑問が浮上した。
「そう言えば、マギアルカ。さっき言ってた、『金狼騎団』って何だ?」
「ん? ああ、例の王都防衛戦でお主の小隊に付けられた、いわゆる異名じゃな。『金狼』の率いる腕利きの
「いや……むしろ、いい感じだ」
『金狼騎団』……カッコいいじゃないか。
その異名の響きに満足げに唇を吊り上げるが、今はそんなことをいつまでも気にしている場合じゃない。
マギアルカから受け取った任務の内容を俺の小隊……『金狼騎団』に伝え、ヴァンハイム公国に向かう準備を整えるために、俺は早足で訓練場へと向かった。
§
『金狼騎団』が商会から公国に向けて出発してから、一時間ほどした頃。
渦中の真っ只中に居るドラクロワ財閥本部は、まさしく絶体絶命の危機に瀕していた。
財閥本部はヴァンハイム公国の国内ではあっても、主要な都市部ではなく、むしろ郊外、田舎と言えるような場所に建てられていた。
各国に存在する傘下の企業や技術者が生産・加工した品を売り捌くという業務内容の関係上、交通の便などという意味でその方が都合がいいのである。
だが今回は、都市部から……すなわち、戦力を保持する街から離れた、その立地が完全に裏目に出ていた。
一体どれだけの費用をかけて建設したのか想像もつかないような豪邸。当主夫人御本人が管理する広大で美しい庭園。沢山の人々が忙しなく走り回る中庭。
それら全てが、今この時は、最悪の戦場となっていた。
巨大な木と煉瓦で組まれた建物は半分以上が倒壊し、特に高い塔は完全に破壊されている。庭園の色とりどりの花々を鮮烈な業火が一挙に呑み込み、黒煙を噴き上げている。その炎の赤に交じって、至る所に鮮やかな赤い液体が飛び散り人だったモノが転がっている。
財閥本部を襲撃してきた敵――『竜匪賊』の戦力は、
彼らは行動を開始するまで、敵に一切の動向を知らせずに不意を打つことで、ものの十分程で財閥本部の半分以上を地獄へと変えてしまった。
申し訳程度に配置されていた
それでも尚彼らは、守るべき主筋……ドラクロワ財閥の現当主親子を確実に逃がすために、必死に戦っていた。
その頃、当の現当主親子と言えば、有事の際建物の外にある林の中に逃げ込むために設けられていた、本部地下の狭い隠し通路を、数人の護衛と侍従を引き連れて駆け抜けていた。
装飾など望むべくもない剥き出しの壁面から、上から爆音が響いて衝撃が走るごとに、パラパラ……、と細かい粉塵が零れ落ちる。
最短且つ安全性に配慮してジグザグに編まれた隠し通路の中で、途切れることのない足音と荒い呼吸音が反響している。
一行の先頭を行くのは、ドラクロワ財閥現当主、マディウス・ドラクロワ。全身に纏った分厚い筋肉の鎧と、いかにも強面の彫りの深い顔立ちが特徴の、およそ商人とは思えない風貌をした偉丈夫だ。
彼、マディウスの腰には
マディウスは真剣な表情で前を睨むようにして走りながら、後をついてくる者たちに語りかけた。
「お前たち、まだ走れるか!?」
「はい! ご心配なく!」
「老いぼれには少々キツイものですが……まだ何とかなりますわい」
「しっかりしてくれよ! お前たちが今の我が財閥の要なんだからな!」
部下を叱咤して、次に家族に視線を向けるマディウス。
「エレノーラ! キツイだろうが、あと少しだ。頑張ってくれ!」
「……えぇ! 分かってますわ、あなた……!」
マディウスの気遣うような言葉に、彼の後ろを覚束ない足取りで走っていたのは、彼の妻である現当主夫人、エレノ―ラ・ドラクロワ。いかにもたおやかな淑女然とした美人で、ベランダで本を読んだり編み物をしているような光景が似合う女性だ。
そんな彼女も、今は長い亜麻色の髪を振り乱して必死に走っている。
マディウスに続き、エレノ―ラの後ろからも少女の声で励ましの言葉が投げかけられた。
「頑張ってください、お母様! もうすぐです……!」
「分かってるわ、ソフィー。あなたも、大丈夫っ?」
「育ち盛りですから、まだまだ元気はあり余ってますよ」
心配げな母の視線に、ソフィーと呼ばれた少女は額に汗を浮かべながらも、強気な笑みを返した。
エレノーラと同じ亜麻色の髪を肩の辺りで切り揃え、黄色のカチューシャを付けたその少女は、名をソフィー・ドラクロワと言った。
今年で十三歳になる、現当主夫妻の一人娘である。
幼さを残しながらも整った顔立ちは、将来彼女が手にするであろう美貌を容易に想起させ、この年代の少女にしては発達して引き締まった肢体と、強い意志を秘めた菫色の瞳からは、彼女の持つ活発さと利発さをよく表していた。
マディウスが散々っぱら自慢していた通り、マディウスとエレノ―ラの美点を良いとこ取りしたかのような美少女と言っても差し支えのない可愛らしい少女だ。
それ以降は無言で、ただひたすら必死に走ること数分、彼らの眼前の空間に柔らかい光が差し込んできた。
「よし、出口が見えてきた、そろそろ……!」
「見つけたぞ! アイツらだ、やれ!」
「……ちぃっ、見つかったか!」
隠し通路の出口まであと数
数はおよそ十人ほど。
突然の敵の襲来に、エレノ―ラとソフィーの二人がビクリと肩を揺らし、怯えた表情を見せる。歯噛みしていたマディウスはそれを見て、覚悟を決めたように己の
マディウスは商人にしては珍しく自らも剣術に打ち込んでおり、深く腰を落とし正眼に剣を構えるその姿は実に堂に入ったものだった。
続いて彼らに追従していた護衛の者たちも剣を構えた。ここで迎え撃つ気だ。
「エレノーラ! ソフィー! お前たちは行け! ここは私たちで抑える!」
「あなた……!」
「そんな、お父様も一緒に……!」
「駄目だ! もはやそんなことは言っていられない……」
親子が悲痛な声と表情で言葉を交わしている間にも、戦端は開かれていた。
獲物を見つけて嬉々として襲いかかって来た『竜匪賊』に、財閥側の者も覚悟を決めた表情で応戦する。
そう広いわけでもない通路の中で、幾人もの男たちが互いの殺意と敵意をぶつけ合う。
削り合った鎬から火の粉が舞い、響き渡る剣戟が幾重にも反響し、喊声と雄叫びが混然一体となって通路の中を埋め尽くした。
切り裂かれた身体から血飛沫が舞い、別の者へと降りかかる。だがもはや、切り裂かれたのが誰で浴びたのが誰かすら分からなくなっていた。
斬りかかってきた敵の一人の斧をかわし、胴を横薙ぎにして吹き飛ばしたマディウスが、立ち竦む母娘を振り返って叫んだ。
「何をしている! 早く行け!」
「で、でも、お父様……!」
「くっ! 仕方、ないか……!」
焦燥の色を濃くしながら、打ち合っていた『竜匪賊』を蹴り飛ばして猶予を得たマディウスは後のことを配下に任せて、筋骨隆々の肉体からは想像も出来ないような素早さで二人の元に駆け寄り、そのまま二人を担ぎ上げ全速力で通路の出口へと向かった。
敵を倒すよりも、二人を確実に生かす道を選んだのだ。
「皆……すまん!」
絞り出すようなマディウスの言葉に対して、失望や憎悪を向ける者は居なかった。例外なく苦笑するか、朗らかに笑って、すぐさま目の前の敵へと視線を転じた。
数だけで言えば、今も尚続々と集結している『竜匪賊』の方が上だった。
しかし、この戦いに賭ける一人一人の覚悟は、財閥側の方が圧倒的に上だった。
無論、気合さえあれば何でも出来る、などという感情論ではない。
だがそれでも、死を覚悟して――自らの命を未来の礎にするために、その命を賭ける者が持つ気迫は、数の優位を笠に着るだけの者の心胆を冷やすには十分過ぎるものだった。
もし、これが剣と剣、槍と槍、斧と斧を打ち合わせるだけの、原始的な戦いであったのならば、このまま財閥側が勝利を手にすることが出来ただろう。
だが忘れてはならない。
この世界には、何百年と積み上げられてきた、それら戦いというものの既成概念をまとめて吹き飛ばした――絶対的な兵器が存在することを。
その兵器は、名を
エレノーラとソフィーを抱えたマディウスが通路の外へと飛び出した――その一瞬後、通路の中から、盛大な轟音と悲鳴が上がった。
財閥本部の裏手にある森の中へと繋がる隠し通路。エレノーラとソフィーを背に庇ったマディウスが睨みつけるその出口から飛び出して来たのは、三機の
《ワイバーン》が一機に《ワイアーム》が二機。各々の武器を構えてマディウスたちへ勝ち誇った視線を向けている。
事実、もう勝敗はほとんど決まったようなものだった。
引き連れていた護衛は全てこの男たちに倒され、通路からは生き残った敵が続々と這い出ている。
対してマディウスは一人。しかも生身であり、後ろには二人も守らねばならない者が居る。
もはや、勝利どころか、生存すら絶望的。
「へへっ、おいオッサン、そいつらを大人しく引き渡すってんなら、見逃してやってもいいんだぜ?」
「おっ、そりゃいいな。最近忙しくてよぉ、溜まってたんだよな」
「しかもどっちも随分と上玉だぜ? 俺はあっちのガキの方もらいな」
「おいおいお前ら、上からの命令は、コイツらの殺害だぞ? 楽しむのは良いが、ちゃんと殺さねぇと」
「ちっ、せっかくいいもん手に入れたと思ったのによぉ……」
下卑た笑みを浮かべ、怯える母娘を楽しそうに眺める外道たち。
……こんな奴等に、愛する妻と我が子を触れさせるわけにはいかない。
決意と覚悟を胸に、マディウスは腰の
「あん? んだよ、オッサン。死にたくなきゃ、余計なことすんじゃ――」
「来たれ、不死なる象徴の竜。連鎖する大地の牙と化せ。《エクス・ワイアーム》」
召喚されたのは、神装機竜には及ばないまでも汎用機竜とは一線を画する力を持った、強化型の陸戦機竜《エクス・ワイアーム》。
その機竜を身に纏い、通常のそれよりも長大な
「……貴様らは、生きては返さん」
直後、森の中に、暴風が吹き荒れた。
マディウスの駆る《エクス・ワイアーム》が、圧倒的な機動力を発揮して敵の《ワイアーム》の内の一機に接近、強烈な斬撃を浴びせて吹き飛ばしたのだ。
悲鳴を上げる間もなく吹き飛んで行く仲間を見て、ようやく構え直した男たちだったが、その時には既に二人目が攻撃を受けていた。
「く、くそっ! 舐めやがって……!」
「いくら
怯え混じりに吼えた男たちだったが、マディウスの放つ殺気に、自然と口を噤んだ。
そこから先の数分間は、男たちにとってまさに地獄の時間となった。
三人はマディウスの鬼気迫る攻撃によって完全に動きを封じられ、反撃に移るどころか離脱することも出来ず、ただ嵐が過ぎ去るのを待つことしか出来なかった。
だが――やはり、三対一という数の不利と先程までの決死の逃避行による体力と精神力の消耗は、マディウスの体を確実に蝕んでいた。
「ぐ、ぬぅ……!」
肩で息をするマディウスの呼吸に合わせて《エクス・ワイアーム》の装甲もガタガタと不気味に震え出す。
機竜の暴走、その兆候だ。
焦りを露わにするマディウスを見て、男たちは俄かに活気付いた。
続く連撃の中で見つけた決定的な隙に、三人がかりで《エクス・ワイアーム》へと攻撃を加えて行く。
ボロボロになっていた男たちの機竜だったが、数分もしない内にマディウスの《エクス・ワイアーム》もまた、それと同様にボロボロに半壊していた。
しかし、それでも尚、そこまで追い詰められても尚、マディウスは強者だった。
今までの苛烈なまでの攻撃をすることは出来なかったが、男たちの攻撃を見事な腕前で捌いて行く。
防御に徹してからは、有効打と言えるようなダメージは一切許さなかった。
だが、城塞のようなマディウスの防御も、膠着した戦況に焦った男の内の一人の行動に、あえなく崩れ去ることになった。
マディウスに敵わないと踏んだ男は、それ以外の者――つまり、へたり込んでいたエレノーラとソフィーを狙ったのだ。大斧を振り上げる《ワイバーン》。
眼前に迫った恐怖に、成す術なく抱き合いながらギュッと目を瞑る母娘――その間に、何者かの影が割り込んできた。
バキィィン、と金属が砕ける音と共に、肉を断つような鈍い音が同時に響いた。
恐る恐る目を開いた二人が目にしたのは……最も見たくなかった光景だった。
「あ、え……?」
「おとう、さま……?」
そこに居たのは……二人を庇うように彼女たちの眼前に立ち、大斧の直撃を受け、背中と口元から夥しい血を噴き出すマディウスの姿だった。
彼はエレノーラとソフィーを守るために、自ら犠牲になったのである。
慌てて二人で彼の身体を支えるが、瞼を閉じるマディウスの呼吸はとても弱々しく、その身体にはほとんど力が入っていなかった。
「あなた、あなたお願い、目を開けて!」
「お父様、お父様! しっかり! しっかり、してください……!」
涙ながらに懇願する二人の声にも、不明瞭な呻き声を返すのみ。
一目で分かるほどの、命に関わる重傷。本来であれば、今すぐ医務室へ連れて行って治療を受けさせなければならないような状況なのだが、生憎と今の状況では不可能だった。
この場の一番の脅威が去ったことに安堵した様子の男たちが、再び下卑た笑みを浮かべてそれぞれの武器を手にゆっくりと歩み寄ってくる。
倒れ伏した夫の身体を抱き抱えて泣き叫ぶ母に唇を噛んだソフィーは、キッと顔を上げて男たちを睨みつけた。
彼女に出来る、精一杯の抵抗だった。
弱く何の力もない、真っ赤な目での威圧は、お世辞にも恐怖を誘うようなものではなかった。
むしろ彼女の見せた儚い抵抗は、男たちの嗜虐心を刺激してしまうだけだった。
ニヤニヤと笑いながら近付く男たちに、いよいよソフィーの心が恐怖と絶望に埋め尽くされそうになった、その時――
ゴッッッ!!!! と。
突如横合いから飛来した何かが、ソフィーに手をかけようとした男を薙ぎ倒した。
どうやらそれは、機竜を用いた強烈極まるドロップキックだったようだった。
それまで男が立っていた場所に降り立ったのは、全身から威圧感を振り撒く黄金の
木漏れ日を受け装甲をキラキラと輝かせる、黄金の神装機竜。
その機竜を駆る、黒いローブを羽織り同色の髪と瞳を持つ、整った顔立ちの少年。
ソフィー・ドラクロワは、突如現れた闖入者の威風堂々たる姿に、呆然と目と心を奪われていた。
黄金の神装機竜を駆る少年は一度こちらを振り向き、倒れ伏すマディウスを見て一度眉根をグッと寄せ、何かを堪えるように唇を噛み締めた。
そして再び前を向いた彼は、その黒い黒曜石のような瞳に炎を滾らせ、怒りの表情で『竜匪賊』の男たちを睨みつけた。
黄金の神装機竜――《黄龍》の拳を軽く打ち合わせ、少年――織斑一夏は、憤怒と殺意を声と瞳に乗せて、宣言した。
「覚悟しろ……お前たちは、肉片一つ残さない」
§
マルカファル王国・ヴァンハイム公国間の距離は、直線距離に直すとそれほどでもない。機竜を用いて空路を行けば、数時間足らずで到着する。
なので、マギアルカの指示を受けてドラクロワ財閥の救援に向かった俺たち『金狼騎団』もそのルートを取った。
今回はただ向かって救出するだけでなく、賊との戦闘も最初から予定されている。
最大限に急ぐために機動力に優れる《ワイバーン》を持つ隊員がそれ以外の隊員を抱えて、到着してすぐに戦闘行動に移れるように準備しておいた。
ドラクロワ財閥現当主夫妻、マディウスさんとエレノーラさんは俺だけでなく、隊員たちにとっても大切な人だ。
そんな彼らを自分たちの手で助けに行くと言うのだ。奮い立たないはずがない。
全員が心を同じくして全速力で急行した結果、当初予想されていた所要時間の半分と少しで、俺たちは現場に到着した。
俺たちが辿り着いた時には、もうほとんど戦闘は終わっていた。
もちろん、『竜匪賊』側の勝利という形でだ。財閥本部の屋敷は壊され燃やされ、炎に包まれる中庭にはいくつもの死体が積まれ、財閥側の
そこら中に転がる死体の中には、俺たちの顔見知りの人の死体もあった。
怒りのままに、敷地に侵入していた『竜匪賊』に襲いかかり、駆逐していく中で俺は、死体の中にマディウスさんとエレノーラさんが居ないことに気が付いた。
『
どうやら三対一で戦闘を繰り広げているらしいと聞いた俺は、マディウスさんが卓越した操縦技術を持つ
もしかしたら、まだ二人は生きているかもしれない――希望を見出した俺は、機動力に優れた『
騒ぐ心を宥めながら全速力で機竜を飛ばし、森へと向かった俺が目にしたのは――大量の血を流して倒れ伏すマディウスさんと彼に縋りついて泣くエレノーラさん。
そしてその二人を守るように決然と敵を睨みつける亜麻色の髪の少女と、下卑な笑みを浮かべて少女に手をかけようとする三体の機竜の姿だった。
その光景を見て、瞬時に頭に血が上った俺は、更に速度を上げて突進、勢いを乗せたドロップキックを男の内の一人にお見舞いした。
砕けた装甲を撒き散らして吹き飛ぶ機竜。男たちと少女の間に降り立った俺は、呆然とする男たちに向かって、告げた。
「覚悟しろ……お前たちは、肉片一つ残さない」
§
賊の男たちとの戦闘は、数分とかからずに終わった。数を頼みにするだけで、しかもマディウスさんとの戦闘で疲弊しているような奴らだ。造作もない。
男たちを宣言通り肉片一つ残さず
いざという時のために救急キットを持って来ていて正解だった。
……だが、マディウスさんの傷は、生半可なものなどではなかった。
「治療はどうだ!?」
「た、隊長……!」
《黄龍》の装甲を解除した俺は、すぐさまマディウスさんの元に駆け寄った。
治療に携わっていた『ライダー』分隊の一人、メイ・スタルヒンという女性隊員が、今にも泣き出しそうな声を上げた。
「き、傷が深すぎて……治療が間に合いません! 何とか止血するだけで精一杯です!」
「なら今すぐここから運んで……」
「駄目です! 空路だと、マディウスさんの体力が持ちません! そもそも、まだ意識があるのが、不思議なくらいで……」
「…………クソッ!」
どうにもならない状況に、噛み締めた奥歯が欠ける音が聞こえた。
どうする? どうすればいい? 何をすれば、マディウスさんを救うことが出来る――!?
メイの報告を受けて、エレノーラさんが息を呑み、大粒の涙を流して夫の身体に縋りついた。
亜麻色の髪にカチューシャを付けた、エレノーラさんによく似た可愛らしい少女も、何かを堪えるように唇を噛み締めている。
恐らくは、この娘がマディウスさんの一人娘。確か名前はソフィー・ドラクロワ。
マディウスさんが散々自慢していた通り、とても可愛い女の子だった。彼が溺愛していたのも頷ける……だからこそ、拳を握り締めずにはいられない。
「クソッ……何で、こんなことに……!」
その時、全身に包帯を巻いて、か細い息を吐いていたマディウスさんの瞼が、薄く開かれた。
「落ち着き、なさい……一夏、君……」
「っ、マディウスさん!?」
「あなた!」
「お父様!」
弱々しく、呟くように言葉を紡ぐマディウスさん。まだしゃべる余裕はあるらしいが、それが限界であることは、今にも再び閉じてしまいそうな瞼を見れば一目瞭然だった。
「あぁ……エレノーラ……すまない、な…………まだ、財閥も、これからだと……いう時に……」
「あなた、お願い、そんなことを言わないで!」
「本当に、すまない……愛していたよ……エレノーラ…………」
「……っ、あなたぁっ!」
マディウスさんは妻から視線を外すと、次に娘であるソフィーの方へ焦点の合わない視線を向けた。彼の手を握るソフィーの手に力がこもる。
そんな彼女に何かを言おうとして、しかし彼が吐き出したのは言葉ではなく、赤黒い血塊だった。
「ガフッ、ゲホッ……! くぅ……っ」
「お父様……もう、しゃべらないでください! このままだと……」
「いいんだ……どうせ、もう助かるまい…………私の命、は、ここで……終わる」
断言するようなマディウスさんの言葉に、ソフィーの肩が一際大きく震えた。
だがそれでも、彼女の瞳から涙が零れることはなく、視線を逸らすこともなく、もう彼の言葉を止めることもなかった。
「子より……親の方が、先に逝く、のは……当然のことだ…………ただ、それが少し……早まっただけだ……」
「……っ」
「なぁ……ソフィー…………どうか、笑って生きてくれ……私は、お前の笑顔を見るのが……何より好きなんだ…………」
「…………はい」
……きっと、辛くて、悲しくて、仕方がないだろうに。
だと言うのに、ソフィーは、目の前の少女は、今際の際の父親のために微笑んでみせた。
その笑顔は、思わず胸を衝かれるほどに、健気で儚い笑みだった。
「あぁ……やはり、お前は……私たちの、自慢の娘だよ…………」
相変わらず、マディウスさんは口を動かすのが精一杯で、他の表情筋は全くと言っていいほど動かなかったけれど。
それでも彼の声には、万感の想いが込められていた。
ゆっくりとながら規則正しく上下していた彼の胸板は、今ではもう数秒に一回程度しか動いていなかった。
分かってしまった。もう、どうしようもないことが。何も出来ないことが。
「……一夏君」
「……はい」
なら、せめて。せめて、彼の言葉を、聞き逃さないようにしよう。
本当の家族のように接してくれた、マディウスさんの……父親のように思っていた人の、最後の言葉を。
「私の、夢は……いつか、ソフィーの婿となる、男と……酒を、飲み交わすことだった…………ついぞ、叶うことは、なかったが……ね……」
「……はい」
「私はな……君のことを……息子として、迎えたいと……ずっと、思っていたんだ……」
「…………はい」
「…………任せても、いいか?」
「……俺に、出来ることなら。何だって」
「……それで、十分さ……」
そこまで告げたところで、彼は再び血を吐き出してしまった。
既に彼の視線はどこも向いていない。焦点の定まらない視線を虚空に向けているだけだ。
肌は青白く染まり、力は抜け果て、眼窩は落ち窪み……一秒ごとに、生気が抜けて行くのが分かる。
俺には、彼に、彼が呼吸を止めてしまう前に、言っておかなければならないことがあった。
マディウスさんに……俺のことを、息子と呼んでくれた人に。
「……ありがとう、父さん。……さようなら」
§
そして、マディウス・ドラクロワは、眠るように息を引き取った。
最後の瞬間、確かに彼は、微笑んでいた。
§
ドラクロワ財閥本部への『竜匪賊』の襲撃は、『銀影旅団』からの増援とようやく到着した公国軍の手によって終結した。
『竜匪賊』は殲滅されたものの、被害は甚大だった。屋敷は完全に焼き払われ、重傷者多数、最終的な生存者はドラクロワ母娘を入れても数人程度しか居なかった。
何よりはドラクロワ財閥現当主、マディウス・ドラクロワの死による、財閥そのものの解体。
これは、財閥が流通の中心を担っていたヴァンハイム公国にとって大きな打撃となった。公国に混乱を与えるという『竜匪賊』の狙いは達成されたと言っていい。
マギアルカから命じられた救出任務に、俺たち『金狼騎団』は失敗したのだ。
それも、現当主であるマディウス・ドラクロワの死という、最悪の形で。
マディウスさんが亡くなったことでドラクロワ財閥の存続は不可能になった。失敗も失敗、大失敗だ。
商会に居る孤児に優しく接してくれていた彼の死を知った隊員は、悔しさに唇を噛み締めたり、無力感に打ちのめされたり、その場で泣き出してしまう者もいた。
もしかしたら俺たちは……『金狼騎団』などと呼ばれて、思い上がっていたのかもしれない。俺たちなら何でも出来ると。俺たちなら無敵だと。知らずの内に、そんな風に思っていたのかもしれない。
所詮、俺たちは子供に過ぎないのに。気付かない内に、驕ってしまっていた。
俺たちが戦っていたのは、世間の評価のためなんかじゃなかったはずなのに。
守りたいもののためだった、はずなのに。
沈んだ空気で、エレノーラさんとソフィー、そしてマディウスさんの亡骸を運んで帰還した俺たちを出迎えてくれたのは、マギアルカを筆頭にした商会の主立った幹部と、王国軍の知り合いの皆だった。
ソフィーとエレノーラさんは商会の人たちが休ませるために連れて行き、マディウスさんの亡骸も丁重に運んで行った。
隊を代表して失敗を報告した俺に、軍の人たちは励ましの言葉をかけてくれて、マギアルカは、強く抱き締めてくれた。
力なくされるがままの俺の耳元で、マギアルカは優しく、穏やかな声音で、ただ一言、
「……頑張ったのぅ」
もう、駄目だった。
ずっと我慢して、押さえつけていた感情が、決壊し、溢れ出た。
俺はそのまま、マギアルカの胸の中で泣いた。泣いた。泣き続けた。
どれだけ虐められても、罵声を浴びせられても、家族に捨てられても、泣かなかったのに。
俺は数年ぶりに、悲しくて泣いた。
§
マディウスさんの死から、一週間が経った。
あの日から俺たち『金狼騎団』は、これまで以上に厳しい訓練に励んでいた。
文字通り血の滲むような修練を、他のものには目もくれず、毎日毎日朝から夜まで、ずっと、ずっと。
自分たちだけでなく、『銀影旅団』の先輩方や、第一線で活躍する王国軍の人たちにも教えを乞うて。
消えない悲しみを、捨てられない悔しさを糧にして。苦しさや辛さすら踏み台にして。前だけを見据えて。
もっと強くなるために。守りたいものを守れるように。もう二度と、大切なものを、失わないために。
そんな中、俺はといえば、
「……ありがとう……ござい、ました……ッ!」
「うむ。しっかり汗を流して、しっかり休めよ」
再びマギアルカの……師匠の元で修行を始めていた。
俺は弱かった。『金狼』などと呼ばれていても、守りたいもの一つ満足に守れなかった。
無力感を抱え、少しでも強くなりたいと思った俺は、マギアルカに頭を下げて頼み込んだ。
「俺を強くしてくれ」と。
そんな俺の意志を汲んでくれたマギアルカが、こうして毎日俺の特訓に付き合ってくれていると言うわけである。
特訓と言っても、ほとんど俺が一方的にボコられているだけだが。
常は何かと俺に甘いマギアルカだが、こういう特訓の時は別だ。師匠として、容赦なく俺を扱いてくる。
今日もまた、マギアルカと共に修業をして、また何度も殴られ蹴られ投げられ吹き飛ばされた。
一見ただのスパルタのように見えて、彼女の修行はとても理に適っている。事実ボコボコにされた俺の身体には、怪我と呼べるような怪我はほとんど存在しない。
息を切らしながら、修業をつけてくれたマギアルカに深々と礼をして、俺は貸し切りになっていた訓練場を後にした。
毎度のことながら、疲れた。これまでは自分の分とマギアルカの分まで夕食を作っていたのだが、今日はそれも出来そうにない。
世界がオレンジ色に染まる黄昏時。昼間は暖かな陽光の下、絢乱に咲き誇る中庭の花々も、今はオレンジ一色に染まり果てている。
風呂に入ったらもう寝るか……、と考えながら廊下を歩いていると、窓の外に、夕陽の方を向いて佇んでいる一人の少女の姿を見つけた。
やや冷たい夕方の風に高級そうなワンピースの裾を膨らませ、夕陽を照り返して色合いを変えた亜麻色の髪を靡かせる、年若い少女。
あの日から商会の方で預かっている、ソフィー・ドラクロワだ。
いつもならそっとして通り過ぎるところだが、何故か今回は無視することが出来なかった。
自分でもよく分からない感情のままに、中庭に出て、彼女の元へと歩み寄る。
「……よう」
「あ……。一夏さん、でしたよね? こんばんは」
「……こんばんは」
ゆっくりと振り返ったソフィーは、俺の姿を認めて少し驚いたように目を見開き、すぐににっこりと笑顔を向けて挨拶をしてきた。
……その可愛らしい、まさしく花のような
まるで、そういう表情の仮面をかぶっているような……
「エレノーラさんは、どうしてる?」
「最近までずっと泣いてて、今はちょっと体調を崩してしまったので、寝ています。ヴァンフリーク商会のお医者さんのお話によれば、数日寝ていれば治るらしいです」
「そうか……」
俺の質問に答える彼女の口調は、全く平静なもので、彼女の表情は、朗らかなものだった。
だからこそ、おかしい。
「……君は?」
「はい?」
「君は、大丈夫なのか?」
「……ええ。最初は、ちょっと取り乱しちゃいましたけど、もう大丈夫です。心配してくれてありがとうございます!」
「……そんなわけないだろ」
笑顔で紡がれる彼女の言葉を、一言で切り捨てた。
俺の否定で、少女の
「え……」
「大丈夫なはずがないだろ、って言ってるんだ。まだ十三歳の子供が、たったの一週間で、父親の死を乗り越えられるはずがない。涙に暮れるエレノーラさんのためか、それとも悲しみに押し潰されないようにする自己防衛本能かは知らないが、無理してるのは目の下の隈を見れば丸分かりだ。大方、あまり寝られてないんだろう」
「あっ……」
「加えて髪の手入れもほとんどされてない。さっき振り返った時の動きも鈍かった。今も少しふらついてる。寝不足で意識がはっきりしていないことの証拠だ。ついでに言えば、履いている靴が左右で違うっていうのは、注意力が散漫になっていることを明確に示しているな」
「…………」
「それに……もしかしなくても、君、泣いてないだろ?」
俺がそう言うと、ソフィーはゆっくりと顔を別の方へと向けた。
残念ながら、もう分かってる。
「顔に涙の痕がない。髪や隈はそのままなのに、涙の痕だけ消すっていうのも変な話だ。何より今の君が、そんなところにまで気が回るとは思えない。涙ってのは人間にとって最大の感情表現で、一度外に出てしまったら、そのショックから抜け出すまで止まることはない。ってことは……君は、これまで泣いてないってことだ。違うか?」
「…………はい」
やがて、沈黙の末にソフィーは、消え入りそうな声で頷いた。
出来るだけ優しい声で、問いを重ねる。
「……どうして?」
「……だって、お父様が、言ってましたから。笑って、生きなさい、って」
「……言ってたな」
「だから、私は、笑ってなくちゃいけないんです。お父様が、心配しないように、悲しくないように。私は、笑わなきゃ、いけないんです……」
抑揚のない声で語られる言葉を聞き終えて、俺は浅く溜め息を吐いた。
薄々、予想はついていた。ついていたが、やはり実際に耳にすると、胸が締め付けられる思いだ。
自分の悲しみより、死者の安寧のために心を殺す――それは、間違っても十三歳の少女にさせていいことではない。
この少女は、賢い子だ。頭のいい子だ。優しい子だ。そして……愚かな子だ。
そんなことを続けていれば、いずれ自分の心が壊れてしまうことに気付いていない。いや、例え気付いても、やめることはないのだろう。
……仕方がない。これは最終手段だから、出来ればやりたくなかったのだが……。
もう一度溜め息を吐いて、俺は決断した。
マディウスさんからも任されていた。俺に出来ることは何でもやると約束した。
ならば――
「ソフィー。こっち向いて」
「はい……? ……ぷっ」
どこか虚ろな表情で俺の顔を見たソフィーは……その瞬間、盛大に噴き出した。
喰らえ、俺の取って置き……あのマギアルカさえ爆笑の渦に叩き込んだ渾身の変顔を!
自分でもどんな顔になっているか分からないので、以前とあるパーティーで披露してからは封印していたのだが……致し方あるまい。
さてさて、効果の程はっと。
「ふ、ふふふっ……な、何ですか、あは、あははははははははっ、その顔……あはははっ、あはははははははっ!」
体を折り曲げ、お腹を抱えて、瞳の端に涙さえ滲ませて、大笑いしていた。
やむ様子もなく、鈴の音のような笑い声を響かせ続けているが、特に嫌な気分にはならない。
口を大きく開けて、何の屈託もなく笑う彼女は、さっきまでの仮面のような笑顔と違って、年相応に可愛らしい、少女本来のものだと確信出来たから。
「……ようやく笑ったな」
「あははっ、あはっ、あははっ…………え?」
いや、笑い過ぎだろう……、俺が声をかけてからもしばらく笑い続けていたソフィーに、思わずツッコみたくなる。
だがまあ、今はそれは置いておこう。
「マディウスさんが見たかったのは、さっきまでみたいな、偽物の笑顔じゃなくて、今の君みたいな、本物の笑顔なんじゃないのか?」
「…………あ」
俺が笑って告げると、ソフィーは自分の頬に手をやって、呆けた表情を見せた。
今の自分の表情が信じられない、そんな顔だ。
「君がマディウスさんと一緒に笑い合っていた時、君は、どんな風に笑っていた? 少なくとも、さっきまでみたいな笑顔じゃなかっただろう」
大好きな父親と一緒に笑い合う……それは彼女にとって、幸せな記憶であり、二度と手に入ることのない、悲しい情景だ。
涙って言うのは、堪えるべきものじゃない。むしろ、全て吐き出してしまうべきものだ。
溜め込んだ感情と共に、全て自分の中から出してしまう。そうしなければ、人は前へは進めない。
ソフィーの瞼の端に溜まって行く雫を見て、俺は彼女の前に回り込み、そっとその頭を抱き寄せた。
ソフィーの顔を俺の腹に押し付けて、まるで彼女の表情を隠すように。
「……ここなら、誰も、マディウスさんも、君の顔は見えない。君の涙を見ることは出来ない」
「…………ぅ」
「だから、もういいんだ。……泣いて、いいんだ」
「………………ぅ、うぅわあぁぁああぁぁぁぁああぁあぁぁあぁぁぁぁああぁぁあんっっ!!」
ソフィーは、泣いた。俺の服を両手でギュッと掴んで、縋りつくようにして、大声で泣きじゃくった。
彼女の泣き声は大きくて、多分建物中に響いているだろうけれど、気にする必要はない。
今はただ、溜め込んだものを全部吐き出すことだけ考えればいい。
『銀影旅団』の制服が濡れていくが、そんなことはどうだっていい。
「お、とうさ……うわぁぁあぁあぁぁぁああぁん、お父さまぁぁあぁぁあ、あぁぁぁぁぁああぁぁあぁあぁぁあんっ!!」
二人の隙間から零れ落ちた涙が、夕陽を受けてキラキラと輝きながら地面へと落ちていく。
思わず手を伸ばして、彼女の髪を撫でてしまう。すると一瞬だけ肩を跳ねさせて、更に強く抱きついてきた。
建物の中から何事かと人が出てくるが、俺の胸の中で泣いている少女を見てそっと口を噤んだ。
ふと、見慣れた小柄な人影が視界に入ってきた。マギアルカだ。
マギアルカはこっちを向いてニヤリと笑い、グッと親指を立ててきた。よくやった、ってところか。思わず苦笑を返す。
結局俺は、ソフィーが泣き疲れて俺に抱き締められたまま眠ってしまうまで、ずっと彼女を抱いて頭を撫で続けていたのだった。
冒頭からの落差がひどい。
今回は、一夏君の失敗談みたいな感じでした。主人公補正があっても、何でもかんでもうまくいったわけではないのです。
最後のオリヒロとの掛け合いは、「これは絶対惚れるやろ……」という一夏君をイメージしました。どうでしたかね?