カーテンの外に出る。
消毒薬の臭い、古ぼけた小さな机、脇には薬品棚。まるで学校の保健室のようで、専門的な治療を行う病院には見えなかった。
だが、俺の目を引いたのはそんな設備などではない。
床にまで届きそうな長い紫色の髪の少女が机についていた。彼女はゆっくりと振り返り、柔らかなしかし無機質で他人行儀な笑顔をみせた。
「あ、起きられたんですね」
椅子を引いて立ち上がる。
「桜?」
「はい?」
呼びかけに不思議そうに首をかしげている。
それは、桜なのにどこか違った。
制服の上から白衣を羽織る彼女は、桜なのに桜じゃないとしか言いようがないくらい他人だった。
「ええっと、何か不具合がありましたか?」
心配そうな顔をしている少女。
「桜……なんだよな」
「はい。私は、保健室の運営を任されているNPCです。このキャラクターは冬木に実際にいた人物からモデリングされています」
NPC、ノンプレイヤーキャラ。
ムーンセルがこの世界を創ったとするのならば、アクセスした人間以外は全てムーンセルが創ったことになる。つまり、この桜はプログラミングされ規定通りに動くただのキャラクターということになる。
けれど———
「このたびは、予選通過おめでとうございます、先輩」
『先輩』
その言い方が桜そのものでドキリとした。彼女がNPCだなんて、信じられない。
「この保健室では、マスターの健康管理を行っております。もっとも、私が持っている管理者権限はそれほど上位ではないのでできることは限られていますが」
「管理者ということは、この聖杯戦争を管理している者がいるってことか?」
桜は不思議そうな顔で首をかしげた。
「はい。運営・管理するシステムがなければSE.RA.PH《セラフ》の維持や校舎やアリーナの設定、勝者の選定など行えないと思いますが?」
桜が俺を見る。
俺の内側を見透かそうとするように。
「確かに」
その視線がふいに和らいだ。
「月の戦争は地上の闘争とはその様式が大きく異なります。ですから、そのルールもまたかつて地上で行われていた聖杯戦争と違っています。詳しいことは、教会にいる上級AIに確認してください」
そう言って、桜はカーテンの向こう側へと視線をずらす。それは、アーチャーたちがいる場所だ。
「どうやら、あちらもお話し合いを終えた様子ですね。少し確認したいこともあるので、これで失礼してもよろしいですか?」
「ああ。すまなかった、引き留めてしまって。それと、ありがとう」
桜は俺の言葉を受け、小さく頭を下げる。
これ以上、ここにいても仕方ない。
俺は、セイバーを連れ立って保健室をあとにした。
※※※
保健室の外はまるで学校の廊下のようだった。
ノリウムの床に白い壁、見覚えのある各教室の名前を示す表札。現実味を帯びて存在している。だが、ここは現実ではなく虚構世界なのだと自身に言い聞かせる。
「どう考える、セイバー」
セイバーに意見を求める。
「わかりません。けれど、私が召喚されたということは少なくともここには確実に『聖杯』と呼べるモノが在るということでしょう」
セイバーは特殊な英霊だ。
彼女はまだ死んでいない。
死ぬ前に『聖杯』をつかみ取ることを契約として世界の守護者になることを約束されている。
逆説的だが、彼女を喚ぶことができるからには『聖杯』がこの『月の聖杯戦争』に存在していなければならない。
「けれど情報が不足した状況のまま迂闊に動くのは危険です」
「……セイバーは召還時に聖杯から情報を受け取っているんだろう」
俺にはこの世界が一体どんなものかわからないが、セイバーならば何かわかるだろうと期待した。
「それが……」
その期待は淡くも裏切られてしまった。
セイバーは端正な顔を曇らせ、小さく首を横に振る。
「『冬木の聖杯戦争』についての知識はきちんとあります。けれど『月の聖杯戦争』については何の知識も与えられていないんです」
こうなっては、桜の言っていた上級AIに話を聞かなくてはならない。
「仕方ない。とりあえず、教会にいるという話の担当者に会ってみよう」
「わかりました。ですが、私も同行させていただきます」
「ああセイバー。頼りにしてる」
※※※
そうはいってみたものの、教会の場所なんてわかりはしない。
この場所は、通学している学校によく似ているがやはりどこか異なっている。
「やはり、上から俯瞰して確かめるのが最良ではないでしょうか」
というセイバーの案を受け、屋上に上がることにした。
校舎の中は、思った以上に落ち着いている。
アーチャーの話からすると、既に月の聖杯戦争は開始されているはずだ。
だというのに、争いの気配は感じられない。もっとも肌を刺すようなたくさんの視線を感じとれるから、やはり何らかの戦いに巻き込まれたことだけは確信できた。
「なんていうか、警戒されてるな」
「はい。この校舎には多くのサーヴァントの気配がします」
セイバーがひどく緊張した様子で答える。
「多く? どのくらいの数がいるんだ」
サーヴァントは同じサーヴァントを感知する能力がある。セイバーの探知範囲ならばこの校舎をカバーできるはず。
「それが……信じられないことなのですが……」
物事をはっきりさせるセイバーにしては珍しくためらいを見せるが、やがて小さく頷いて続きを告げる。
「数え切れないほど」
「は?」
思わず間の抜けた声を上げてしまった。
「十や二十ではききません、百はいてもおかしくはない」
「それじゃ、そこいらじゅうサーヴァントだらけってことじゃないか」
つい視線を周囲に投げる。
学校の生徒の姿をした人たちのうち数人が、俺の視線に気がつき慌てたように視線を逸らす。
だが、サーヴァントらしき姿はない。もっとも、サーヴァントは霊体化させておくのが常套手段だ。英霊たるサーヴァントはその伝承から弱点が知られてしまう。ゆえに正体は隠さなくてはならないからだ。
霊体化されてしまえば、自分のように未熟な魔術師ではその気配を察することも出来なくなってしまう。
「その通りです」
「なら、どうして直接的な争いが起こらないんだ?」
そこにサーヴァントがいるとわかっているのならば、戦いが始まっていてもおかしくはない。
「下手に動けば、多人数に襲われることになります。だからこそ、様子を見ているとも考えられますが……」
セイバーが言葉を濁らせたのは、考えがまとまりきっていないからだろう。
「ああ。様子を見ているにしては、なんていうか——空気が平和すぎる」
まるで戦場の中立地帯に立っているようだ。いつ戦場の火の粉が降りかかるかもしれないが、とりあえずの安全だけは確保されている。そんな空気。
「これ以上、憶測を重ねても仕方ないな」
階段の手すりに手をかける。
一階から三階まで特に何事もなく上がってくることが出来た。
そして、最上階にみえる鉄の扉。あの向こう側が屋上のはずだ。
「どうしたんですか?」
足を止めた俺を不思議そうにセイバーが見ている。
「ああ、いや。なんていうか、聖杯戦争で屋上というと、遠坂がいるような気がしてさ」
屋上の給水塔を風よけにして昼食を取りながらの密談。つい先ほどまでの日常だが、この異世界であっても、日常の延長線上に今があるような気がしてならない。それは、ここがまるでもといた学校の校舎によく似ているからだろう。
重い鉄の扉を押し開くと、冷たい外の空気が流れてくる。
赤く染まった夕焼けの空が目に飛び込んできた。暮れゆく世界、太陽はどこにも見えないのに空だけがただ赤く、世界を鮮やかに染めあげる。息をのむほどに綺麗すぎる戯画のような景色。
アーチャーの言葉を信じるのならば、この美しい夕焼けさえもデーターということになる。触れる世界には現実感がありすぎる。けれど、ひとたび感覚を開けば立つことすらおぼつかないほどの薄氷のような世界に早変わりする。
その不確かな世界の中で
いつも通り『遠坂凛』がそこにいた。