仮面ライダーだけど、俺は死ぬかもしれない。   作:下半身のセイバー(サイズ:アゾット剣)

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泣いてる女の子はほっておけないよなぁオリ主くん


♫.俺はちょっとだけSAKIMORIとお話できたかもしれない。

 四月下旬。

 春の爽やかな香りが柔らかい風に乗り、陽の光に照らされた大地へ鮮やかな色彩の花を咲き誇らせる温暖な季節。長い冬眠から目覚めた蝶がふわふわと飛び、舞い落ちた桜の花弁は舗装された人工的な道路を桜色に染め上げる。

 私立リディアン音楽院高等科。

 音楽という人類が誇る芸術に力を入れた教育方針により、その学舎には耳を傾けずとも自然とうら若き乙女たちの歌声が聴こえてくる。全国の女学校の中でもこれほど優雅な時間が流れている学園はそうないだろう。まさに、婦女子の楽園である。品性のある音色が校舎を包む温かな聖域。音楽の学校。

 そんな私立リディアン音楽院高等科の朝の光景は───。

 

「翔一さん、横です! もっと横っ!」

「気をつけてください! その木はかなり朽ちているらしいので」

「なぁーに、これぐらい豚も社畜もおだてりゃ木に登るってね。どんとお任せあれって───(枝が)折れたァ⁉︎」

 

 一人の(バカ)によって騒がしくなっている今日この頃である。

 

「フラグ回収が早過ぎて目で追えません!」

 

 一回生の立花響は元気そうに言った。

 

「たまにワザとやってるんじゃないかなって思うけど、あの顔は本気なんだよね」

 

 同じく一回生の小日向未来は半ば感心しながら言った。

 

「ヒィィ、シ、シヌカトオモッタヨ(裏声)」

 

 非常勤用務員の津上翔一は青ざめた顔(白目)で言った。

 時刻は八時過ぎ。

 新人用務員の青年は出勤直後、友人である響と未来に連行されて、校門近くの枯れ木に作られた鳥の巣の救出を依頼された。聞けば、その木は伐採されることが決まっていて、少し強い雨が降れば簡単に折れてしまうほど弱り果てた朽ち木であった。落巣の危険性がある。翔一は深く考えるまでもなく登攀した。そして、(はた)から見れば何だか面白い格好になってしまった。

 

「ねぇ、未来ちゃん、今の俺の状態どうなってんの?」

「ムササビみたいです」

 

 パッと両手を広げる未来。翔一もそんな感じである。

 

「だったらまだ大丈夫だね。背筋あたりが悲鳴を上げてるけども」

「でも、その枝もさっきから変な音が……あっ」

「ひ、響ちゃん、今はどーゆー状態かな?」

「エリマキトカゲですかね」

 

 ブレザーの裾を頭の上まで持ち上げる響。翔一も奇しくもそんな感じである。

 

「どーりで視界が逆さまなわけだ。上着が重力で下にビローンってなってね。うん。やかまわしいわ。とりあえず、この救助に成功した鳥の巣を託しておこう」

「わー! 可愛い!」

「生後間もない赤ちゃんですね」

「あとで学校に許可をもらって、ちゃんとした巣箱をこの近くに作ってあげないとねって───何だ今の音」

「いま、すごい嫌な音がしましたね……うわっ」

「ええっ?」

 

 二人の驚愕の声が重なった。

 

「……念のために聞くけど、未来ちゃん、今は?」

「チンアナゴです」

「それ大丈夫じゃないね。もう落ちてるね完全に。しかも頭から地面に刺さってるよね。俺何にも見えないもん。真っ暗だもん」

「鳥さんは無事ですよ!」

「俺は無事じゃないけどね、響ちゃん」

 

 地面から人が生えているシュールな光景だった。何とか頭を抜こうと翔一は身体をくねくねさせているのでワカメみたいになっていた。

 二人はとりあえず写真と動画に収めた。

 登校中の生徒たちがとんでもない光景に出会したと物珍しそうに近づいては、その正体が気さくな用務員こと津上翔一だと知ると朝の挨拶を一方的に告げて、写真を一枚撮ると次々と去っていく。

 翔一は何の抵抗もできないので、とりあえず写真の音に合わせて足を曲げたり開いたりしてポーズだけはとっておく。

 朝の校門近くで用務員が引き起こした不慮の事故に響と未来のクラスメイトである安藤創世・板場弓実・寺島詩織の仲良し三人組が近寄って来た。

 

「津上さん、おはようございます」

「まーた津上さんが現実ではあり得ないアニメみたいなことしてる」

「なんだか百年経っても評価されなさそうな芸術っぽい態勢ですね」

「俺の芸術センスはルネサンス期の終わりと共に果てたよ」

「悲しい意味での画伯が何を言ってるんですか。世界中の芸術家に謝ってください」

「おいおい未来ちゃん。冗談はよせやい。翔一さんに苦手なことなんてないんだぜ? こう見えても音楽だってリコーダーでダース○イダーまでなら吹けるんだ。絵だって時代が合ってさえいれば評価され───おい誰だ今膝の上にミカン置いてったやつ」

「じゃあバランスのためにこっちにはレモン置いときますね!」

「ジンバーかよ響ちゃん。いやいやそうじゃなくてね、何この状況? 少なくとも朝っぱらからしていい態勢じゃないよ。なんで顔埋まって逆立ちしてるような人の膝にさ、果物をのせてんの? なんでバランスもとらなきゃいけないの? もう全体的にキツイんだけど。人類がしていいポーズじゃないよこれ」

 

 翔一の悲痛な叫びはいつものことながら何だか面白いので五人は助けを出さずにいた。

 

「わかる? チンアナゴよ? ウナギ目アナゴ科。俺は人間よ? 霊長目ヒト科。この違いわかる? アンダースタンド? そんでさっきから写メ撮ってんの誰だい? バーストしてる音聞こえてるんだからね」

 

 そう言われて未来は振り返った。登校している生徒の殆どが足を止めて、携帯電話のカメラ機能を使い、翔一の珍な格好をデータに収めようとしていた。校舎からは窓越しに写真を撮っている生徒もいる。

 不思議なことに、この私立リディアン音楽院に在校する生徒から今最も注目を浴びているのは間違いなくこの(バカ)だった。

 

「写真の方はほとんどの生徒が撮っているので、もう肖像権とか言ってられませんよ」

「マジかよ。校則に用務員はフリー素材じゃありませんって是非とも付け足してほしいね」

「翔一さん、人気だから無理だと思います」

「なんか絶妙に嬉しくないね、それ」

「あと翔一さんは気付いていないと思うんですけど、登校してきた先輩の方々が翔一さんの前に色んなお供物をして、何か危ない宗教の祭壇みたいになってます」

「待ってそれは怖いね。こんな残念な格好を崇め奉らないでほしいね。うん。どうしたんだいこの学校は。もっとおしとやかな校風だと思ったのにとんでもねぇ思想を持ったJKの巣窟だったのかい?……あと響ちゃんは合掌すんな。聞こえたんだからね。手をパンパンして拝んでんの聞こえ───ほら、なんか増えた! しかもスゲェ増えた⁉︎ ご利益なんてないからね! こんな社畜に祈っても何にも出てこないからね! 社会の闇ぐらいしか出てこないからね!」

 

 私立リディアン音楽院高等科。

 この学校には、教師よりも生徒から人気が高い用務員の青年がいた。たかが非常勤の用務員である。女生徒との接点など皆無に等しいはずが、響や未来などの知り合いがわざわざ用務員室に乗り込んできたり、校内を連れ回したり、土下座させたりと色々とやらかしてしまったが故に一般生徒ですら同じように彼と接するようになってしまった。

 たとえば、昼休みに用務員室で翔一が黙々と昼食をとっていたら、数名の生徒(たぶん一回生)によって拉致されて、テニスコートに投げ入れられる。食後の運動に付き合えということらしい。仕方ねぇと翔一は皿と兼用していたフライパンのナポリタンを口に叩き込んで意気揚々と構えた。

 

「津上さーん、テニスはフライパンでするものじゃないですよー!」

「そのふざけた幻想をぶち壊す!」

「国際的スポーツのルールをぶち壊さないでください」

 

 たとえば、授業が終わった小休憩。

 大量のゴミ袋を抱えた翔一を数名の生徒(恐らく二回生)が囲んで行手を阻み、流れるように拉致して、そのまま調理室に連れて行かれる。家庭科の授業で作ったハンバーグが上手くいかなかったらしい。翔一は一切れのハンバーグを舌の上で転がしながら頷いた。

 

「これ何か隠し味……マヨネーズとお味噌? あと赤ワインかな? うーん。ちょっとテクニカルな味にしようとしたでしょ」

「実は彼氏に美味しいハンバーグを作ってあげようと思ってて……」

「いらないいらない! 男なんて女の子が自分のために作ってくれたってだけで何でも美味しく感じるんだから! ほら、挽き肉貸して! よぉーく見てなさい! 素で美味しいハンバーグなんてお母さんの数だけ地球にはあるんだから」

 

 たとえば、放課後。

 今朝に救出した雛たちの親鳥が何のストレスもなく戻ってこれるような巣箱を木材で工作していた最中、やはりと言うべきか、翔一はまた別の生徒ら(きっと三回生)に拉致された。どうやら、合唱コンクールの課題曲の出来栄えを聴いてほしいとの用件だった。しかし、翔一は音楽に関しては全くの素人である。楽譜が多少読める程度だ。何のために音楽に精通した先生方が在籍しておられるんだと指摘しようとしたが、もしかしたら、無知な素人であるが故に、何か気付くことがあるかもしれないと思い直し、腕を組んで真剣に彼女らの歌声に耳を傾けた。

 

「どうでしたか、津上さん」

「やっぱり、風鳴翼のいるタレントコースには敵わないっていうか、なんていうか」

「はーん。さっぱり分からんけど、胸が、こう、ジーンと来たっていうか、なんかすんごい感動したね。うんうん。みんな良い声してるじゃない。もっと自信持ちなよ。ほら、もう一曲ぐらい聴かせてよ。ねっ」

 

 そう言って翔一は笑って褒めた。

 幸せそうな笑顔を見せて、少女たちの暗い表情を瞬く間に笑顔に変える。

 なぜ、新人の彼が生徒から人気があるのか。いや、生徒だけでない。教師や他の職員、老若男女問わず彼と知り合った様々な人たちから慕われている理由は何か───。

 その陽気なノリの良さは然ることながら、彼が振り撒く屈託のない笑顔に多くの人々が感化されているからであろう。醜悪なる負の感情の一切を拭い去るような笑顔は人間の心に寄り添うような優しい笑顔であった。見ている方まで自然と頬が緩むような笑顔であった。

 誰もが津上翔一という青年と簡単に打ち解けられたのは、そのような単純明快な理由だったのだろう。彼の笑顔は眩しいのではなく、自分も笑おうと言う気にさせる力があるのだ。

 津上翔一のことを嵐と例えた少女がいる。

 憂いや嘆き、悲しみさえも滅茶苦茶にして、すべてを掻っ攫ってしまう竜巻のような嵐であった。そして、最後には必ず満天の青空に七色の虹という名の笑顔を見せてくれる。そんな生き方をしている青年が津上翔一であり、みんなが笑っていられる居場所そのものであった。

 だからこそ、誰も気づくことはない。

 いつも笑っている津上翔一が仮面で隠したもう一つの顔を───。

 

「■■■■■■■───ッ‼︎」

 

 (ギルス)の咆哮が響く。

 都内から離れた国道トンネルの入り口からその終わりまで血肉に飢えた孤高の狼の遠吠えは激しく木霊する。

 深緑に染まる仰々しい筋肉がパキパキと不快な音を立てる。獰猛な呼吸が不規則にこぼれ、重心を低くした蟷螂拳のような姿勢を維持した悪魔の真紅の瞳(デモンアイズ)が鮮血のように赫灼と輝いた。

 その瞳には獲物を狩る意志だけが宿る。

 人間ではない(ケダモノ)の心───それこそが津上翔一が抱かねばならない呪縛のような仮面であった。

 獣は走る。

 己の本能に従って、獲物を狩り尽くす。

 迫り来る邪悪な(ノイズ)の大群に臆することなく、果敢に疾走する猛獣は別格の強さを見せつけた。素早い拳打で敵の猛攻を去なして、野を駆る兎のように軽快なステップで足を運び、稲を刈る大鎌の如き薙ぎ蹴りを繰り返して群れる雑音(ノイズ)を亡き者へと変える。

 背後から迫る葡萄の果実を象る爆弾(ノイズ)の砲弾を爆発される前に一発ずつ蹴り飛ばし、セルノイズへぶつけて爆散させる。逃げ場のない窮屈な戦場(トンネル)で縦横無尽に駆けながら闘争に身を委ねる狩人にあの津上翔一の面影など残されていない。

 

 ここにいるのは血に飢えた怪物だ。

 

「───ッ⁉︎」

 

 肌に騒つく殺気。

 固い地中から巨大な芋虫を模したギガノイズが暴れ狂う(ギルス)を飲み込まんと飛び出してきた。

 

『:▼°◎gi♪€><l〒+^l¢s??!!』

 

 咄嗟に跳躍したギルスはトンネルの天井に張り付き、難なく回避する。巨大な芋虫の全貌は未だ地中深くに残っているのだろう。あの巨体が地上に出られたらトンネルが崩壊する恐れがある。戦況を見定めたギルスは腕部に寄生する生命鎧(ライヴアームズ)に残量の少ないエネルギーを喰らわせ、黄金の悪魔の鉤爪(ギルスクロウ)を成長させる。両腕から伸びた禍々しい爪を交差させ、殺戮の火花を散らさせる。

 そして、歪な残響を震わせるギガノイズの食虫植物を彷彿とさせる口腔へとギルスは落下した。

 すかさずギガノイズが喰らいつく───だが、(ギルス)の達人じみた姿勢制御は中空でも健在であった。隆々とした体躯を風に舞う花弁のように捻じらせて、ギガノイズの噛みつきを一寸の距離にも満たない瀬戸際で避けるとギガノイズの首へ悪魔の鉤爪(ギルスクロウ)の金刃を突き立てた。

 重力による自由落下の勢いがギガノイズに深々と刺さった悪魔の鉤爪(ギルスクロウ)に断頭台から振り下ろされたギロチンの如き必殺の威力を与える。そのまま円を描くようにギガノイズの首を一周───ねじ切れられた首の断面から赤い煤が鮮血のように跳ねる。

 だが、ギガノイズの怠惰な肉体は千切られた蜥蜴の尻尾のように激しく動いていた。これしきでは絶命には及ばない。ブヨブヨとしたギガノイズの怠惰な腹部を爪先で蹴り上げてギルスは距離を取るように後転しながら地面に着地。額に閃く第三の眼(ワイズマン・オーヴ)で首を失った巨大な芋虫の肉体に溢れるエネルギーの回路を読み解き、ギガノイズの構造を頭で理解する。

 その瞬間、ギガノイズが最期の抵抗として巨体を鞭のように(しな)らせて、動きを止めた(ギルス)へのしかかるように叩きつけた。

 しかし、それすら無駄に終わる。

 平手の身構から深呼吸する息を殺し───深緑の踵から伸びる必殺の刃をアスファルトに突き立てる。炎の閃光を弾かせる円を描きながらその場で半周したギルスは大地から天へ貫く紫電の如き上段の逆蹴りで迫る巨体(ギガノイズ)を迎え撃った。

 

「■■ァ───ッ‼︎」

 

 叩き込まれた豪雷の一撃は凄まじい衝撃を生み出し、ギガノイズの巨体に荒れ狂う波となって振動した。やがて、限界を迎えた水風船のように巨躯の芋虫は赤い炭素を噴水のように撒き散らし、悲鳴も上げれぬまま劈くように破裂する。

 気怠げに片足を上げたまま、ギルスは疲労した足首をぐりぐりと回した後、単なる炭素へと姿を変えて消滅を始めるギガノイズの肉体の一部を手で引き千切った。肥え太った雑音の肉を暴食の大顎(デモンズファングクラッシャー)で細やかに噛み砕きながら無心で喉に通していく。味覚は機能しない。ノイズもまた無機質な炭素の塊に過ぎないのだ。あるいは、四元素の塵から生まれた生物兵器と称するべきか。どちらにせよ、(ギルス)にとって欲するべきモノを孕んでいるのは雑音(ノイズ)の血肉と戦姫の奏でる歌(フォニックゲイン)だけなのだから。

 ぐちゅり、ぐちゅり───飢えた衝動を慰めるために災害たる雑音を貪り喰らう。

 何の為にノイズを喰らうのか。

 それはきっと(ギルス)たる津上翔一が知っている。ずっと前から我が身の生態の真実に辿り着いている。だが、それは語るべきことではない。語るわけにはいかない。何も考えてはいけない。俺は喰らうだけでいい。それだけでいい。強いて言えば、今もこうしてノイズを喰らっていることが何よりの答えであるということ。

 

『kore ga GILLS dato……?』

 

 その忌々しい不凶な声を悪魔の双角(ギルスアントラー)が拾い、ノイズの肉を飲み込んだギルスは鬱陶しそうに立ち上がった。

 遥か先に見えるトンネルの出口───陽の光が差す場所にぼんやりとした人影があった。霊長類の特徴たる四肢を持った体躯に海月を思わせる細い触手の頭髪を持った怪人が食事を済ませた(ギルス)と向かい合う。

 ロードノイズ───面倒な敵。

 とはいえ、無視はできまい。

 荒ぶる呼吸を整えてギルスは身を屈ませた。熱い血潮を握るように拳を固めて、爪先で地面を削るように姿勢を低くする。獲物へと狙いを定めた猛虎の如き構えをとって、新手の敵を狩らんと大地を蹴り上げた。

 

「■■■ッ⁉︎」

 

 その直前、張り詰めた全身から力が抜けるように激痛が走り、禍々しく伸びる悪魔の双角(ギルスアントラー)が小さく萎縮した。天牛の大顎に値する雄々しき角は今や見る影もなく雄蛾の触覚のような形だけを保ち、突然の壊死を遂げた筋肉組織が脚を(もつ)れさせる。

 エネルギー切れ───バカな、まだ早い。残量の計算をしくじったか。

 大地に片膝をついて、苦痛に項垂れるギルスは未だ闘志は消えていないと何度か戦線への復帰を試みるが、神経から断絶された脚部は産まれたばかりの小鹿のように震え、手を握る力さえ筋肉の衰弱によって否応なく解かれてしまう。彼に宿る(ギルス)はこれ以上の戦闘行為を決して許す気はなかった。

 どろどろと溶け落ちるように(ギルス)を覆う悪魔の姿が変わっていく。

 黒く澱んだ皮膚は健康的な肌の色へと変化し、昆虫めいた赤い複眼は一つの虹彩に包まれて黒色の瞳孔となる。鋭利な牙は唇の下に隠れ、頭部から突き抜けていた二本の角は縮みながら頭蓋骨へと収まる。

 額に開かれた第三の眼(ワイズマン・オーヴ)がゆっくりと目蓋を閉じて───(ギルス)は津上翔一という人間に姿を変えた。

 

「おぇッ……」

 

 胃袋が消化し損なった炭素(ノイズ)の塊を嘔吐しながら翔一は鬼気迫る眼光でロードノイズを睨み続けた。

 

『b@ka Na……⇔$t±>#o◎os♯%/tr≠°°$o↓n£<\g』

 

 脅えるような素振りで身を震わせた海月(ヒドロゾア)は翔一に背中を向けてその場から立ち去ろうとした。

 その行動に途轍もない焦燥を覚えた翔一は全身に巡る焼きつくような炎症を振り切って立ち上がった。

 変身は解除されたが、変身できないわけではない。戦士(アギト)の自然から見境なく吸収する(フォース)と違って、自身のエネルギーのみを使用する(ギルス)(フォース)には浄化の必要がない。急激な体温の変化による体細胞の死滅や赤血球の壊死による溶血化といった計り知れないリスクは伴うが、強制変身解除後であろうと再変身は辛うじて可能であった。

 たとえ変身できたとしても常人なら戦えない瀕死の状態には違いないが、幾多の戦場を這いずり回った津上翔一ならロードノイズ一匹を嬲り殺す程度の余力はそれで十分であった。

 故に、今戦うことに何の恐れもない翔一にとって敵前逃亡するロードノイズは許せるものではない。

 

「待てッ‼︎ 逃げるなァ⁉︎ ぐォっ、ぁあ……ッ⁉︎」

 

 暗転するような眩惑が生じて翔一は氷上で滑るように横転した。言うことを聞かない両足が凍えるように痙攣して、急激に痩せ細った身体から血管だけが浮き出る。骨が軋んで身体の自由が奪われ、翔一は自らの異変に気づいた。

 老化現象───おかしい。後遺症までの時間は多少あったはず。こんなにすぐ来るものではない。変身後はギルスのエネルギーの余韻がまだ肉体に蓄積されて、それによって最大十分ほどの猶予が課せられていたはず。

 まさか、俺の中にあるエネルギーが枯渇しているのか。いったい、なぜ……?

 

「ワイズマン、モノリス……ッ‼︎」

 

 苦渋の表情のまま翔一は自分の胸を掴んだ。

 

「逃げるなッ‼︎ 逃げるなああああああァァァ───ッ‼︎」

 

 遠くなっていく邪悪な影へ血を吐くように叫ぶ。逃げるな。戦え。俺と戦え。喉が潰れて声が出せなくなるまで彼は叫び続ける。

 ロードノイズは自壊しない。

 それはつまり、多くの人間を殺めることができてしまうということ。

 誰かの生命が奪われるかもしれない。何の罪もない生命がまた消えてしまうかもしれない。そんな残酷な現実を前にして、どうして俺は無力を晒せるのだろうか───。

 

「くそッぉあ、ァァ……あああああああああァァァッ‼︎」

 

 拳にすらならない手を地面に乱暴に叩きつけ、(ギルス)の対価たる後遺症に蝕まれる翔一の血反吐に塗れた慟哭が暗闇(トンネル)に響き渡る。

 

 津上翔一の笑顔は人を笑顔にさせる。でも、笑顔だけが彼じゃない。誰も知らない津上翔一のもう一つの顔───いや、一人だけ。彼と共に生きる少女だけが知る真実。

 

 ───……。

 

 天羽奏だけが知るもう一つの津上翔一。

 人が幸せそうに笑っていると何だか自分も嬉しくなって、自分の不幸なんてどうでもよくなって、だから、俺は人の笑顔が大好きなんだ───そう臆面もなく笑って言い切った青年が背負った仮面。

 記憶を喪失する以前の彼がどんな人間だったのかは知らない。だが、人の笑顔を素晴らしいものなんだと言って、地獄のような戦いの日々を受け入れた彼は天羽奏の目にはどうしても正義の味方に見えた。

 だからこそ、奏は思う。

 なぜ、彼なのだろう。

 彼は戦ってはいけない人なのに。

 傷つくことを恐れず、傷つけることを恐れる───強くて優しい人なのに。

 なぜ、運命は彼に戦う力を与えてしまったのだろうか。

 

 ───翔一……。

 

 奏は何も言葉にできなかった。

 また言えなかった。

 もう()()()()()()()だなんて言えるはずがなかった。

 津上翔一が苦痛の災禍を背負って、終わりの見えない戦いに身を投じるのは紛れもなく彼の優しさだったから。一人でも多くの命を救おうと足掻く彼の優しい心そのものだったから。それを否定することなど、奏にはできなかった。

 

 そして、三十分が経過して、いつもの顔色に戻った津上翔一はフグのように頬を膨らませていた。

 

「ねぇ、奏ちゃん知ってる? クラゲって美味しいんだよ」

 

 ───なんで今このタイミングで。

 

「そりゃね。俺だって怒るときは怒るもん。あのクラゲ野郎すたこら逃げやがって。アンノウンもどきは逃げ過ぎなんだよ。原作リスペクトが足りてないぞ。いや、本家もそこそこ逃げてたっけ。だったら戦うの辞めりゃいいのに。やっぱりみんな上司が怖いのかな。世知辛いよね。でも許さんぞ。顔覚えたかんな。あのクラゲ野郎は絶対にムシャムシャする。もしくはムチャムチャにする。オーケー奏ちゃん?」

 

 ───……はいはい。つまりは、いつも通り、だろ?

 

「へへっ、そゆこと。あっ、ちなみに、キクラゲって別にぷかぷか泳いでるクラゲさんじゃないからね」

 

 ───それぐらいは知ってるわ!

 

「おお、博識じゃん」

 

 ───煽ってんのか⁉︎

 

 そんな奏の声を聞いて、なぜか嬉しそうに翔一は背伸びをしてから徐に立ち上がる。

 その顔はなぜか笑顔で満ちていて、悲しみなんてもうどこにもない───いつもの津上翔一がそこにはあった。

 

「おっ、なんだ今日も良い青空じゃない。気がつかなかったなぁ」

 

 トンネルから出た翔一は駐車したバイクに乗りながら呑気な声音で言った。そして、日常という名の仕事へ戻るため、愛車に跨って戦場を走り去る。つい先程まで獣のように戦っていたとは思えない様相で、鼻歌なんかを口ずさみながら上機嫌にバイクを走らせる。

 だから、天羽奏は思う。津上翔一の居場所は戦場(ここ)ではないのだ、と。

 彼が居るべき場所はきっとあのふざけた日常が丁度いいんだ。

 みんなが笑っている陽だまりがこの青年には一番似合っている。

 

 そして、次の日───。

 立花響と小日向未来によって縄でぐるぐる巻きに縛られた翔一は大木に吊るされていた。しかも、逆さまである。

 

「いや、意味わかんねぇな、この状況」

 

 ぷらーんとぶら下がる翔一。

 彼の目の前には無言で微笑む未来がいる。ただし、その背後には不動明王というかクライシス皇帝とかバダン総統が見える。というか怒っていらっしゃる。未来激おこフェーズ3ぐらい。やばい。翔一の土下座ではどうにもならないかもしれない。

 

「あの……未来さん……?」

「なんですか、翔一さん」

「おろし」

「ダメです」

 

 有無を言わさぬ即答に翔一は黙祷した。俺は今日でさよならグッバイかもしれない。死因はなんだろう。おまえ許さん死? なにそれ怖E。俺が死んだら棺桶ダンスで見送ってくれ。ああ、でも、俺も黒人さんと踊りてぇな(現実逃避)

 彼が吊るされている木のお隣さんに位置する大木に設置された巣箱の穴から雛と親鳥が哀れむように翔一を見つめていた。よく見ていなさい。あれがバカの末路よ。そんな目であった。

 

「これは何の罰? 何の拷問? 俺は一体何を吐けばいいの?」

「最近、モテモテなご様子でしたので、お灸を据えておこうかと」

「説明されても意味わかんなかった」

 

 これが人類の相互理解を阻むババアの呪詛か。いや違うな。なんだっけ。バエルの呪詛? チョコの人が喜びそうだね。いや、そうじゃなくて、まじでなんだっけ? もうバカの呪詛でいいや(思考放棄)───翔一の残念な頭は今日も絶好調であった。

 

「とりあえず、携帯電話の連絡先は確認しておきますね」

「おきますね、じゃないでしょ。何? 俺の犯罪の証拠でも抑えたいの? 別に法は犯してないからね。ホントだかんね」

「0913……1107…………2020」

「ああ、やめて⁉︎ 俺のケータイのパスワードを当てないで! さも当然のようにロック解除しないでぇ⁉︎」

「連絡先は交換してないんですね」

「デジタルでのやり取りって苦手なんだよぉ」

「パスワードに免じて許します」

「ゆるされた。なんか知らんけど」

「でも、この前のお買い物に付き合う約束で、一時間も遅刻した件については許しません」

「許される以前に罪が多かった」

 

 お前の罪を数えろって? ひーふーみー……今さら数えきれないんだよなぁ。

 反省心は皆無に等しい翔一がいつになったら下ろしてくれんだろうとぼんやりと考えていると、校舎の方から響が何やら棒のようなものを両手に持って駆け寄ってきた。その棒は一体何に使うのだろうか。これ以上は考えたくない。

 

「み〜く〜、先生に聞いたら、なんか先っぽが妙に尖った棒しかないって」

「うーん。じゃあ、仕方ないからそれで突こっか」

「待って待って。おかしいね。なんで突くの? なんで尖ってんの? なんで先生は渡しちゃうの? ていうか、なんで俺なの⁉︎」

「自分の胸に」

「聞いてください!」

「ウワァァァアアアアアアアアアー⁉︎(絶叫)」

 

 音楽の園───私立リディアン音楽院高等科には今日も(バカ)の汚い悲鳴が響いていた。

 

 ───はははっ! 自業自得だな!

 

 そして、彼の心には少女の笑顔が咲いていた。

 

 

***

 

 

 風鳴翼はこの身を(つるぎ)と鍛え上げた戦士───そう思っていた。

 彼女の心に深い影を落としたのは二年前のあの事件から。

 ライブ会場の惨劇。

 親友である天羽奏を救うことができず、己が命を燃やし尽し、勇敢に戦い続けた真の防人たる未確認生命体第二号に救われて、今の彼女は生き恥を晒すようにして息をしていた。

 なにが剣だ。なにが防人だ。

 自責の悔恨は絶えず彼女の心を深い闇へと誘う。

 私は何者でもない。

 どこにもいけない片翼だ。

 翼は毎日のように二課の管轄下にある総合病院に通い詰めて、純白のベッドの上で安らかな寝息を立てる天羽奏の顔を見ては人知れず涙をこぼしていた。

 奏はいつも翼のことを泣き虫だと揶揄っていた。すぐに臆病になって涙を流すと───天羽奏は笑って言ってから、翼の頬を伝う雫を拭ってくれた。そんな彼女は今、穏やかな表情のまま、いつ目が覚めるか検討もつかない深い微睡みに囚われていた。

 

「奏……また第三号と戦ったよ」

 

 翼はぽつりと呟いた。奏に語りかける声音はいつもどこか弱々しい。

 

「あの叔父さまが同等以上の実力者と認めた相手に私が敵うはずもないけれど、それでも第三号の恐ろしい姿を見ると自分でもよくわからない気持ちが込み上げてくるの」

 

 ギュッと制服のスカートの裾を握る。

 

「多分、自己嫌悪なんだと思う」

 

 彼女の独白は小さな病室に重く響いた。

 

「剣に心はいらない。でも、心を持たぬ者はただの獣に過ぎない。だから、私は第三号のようになるのが怖くて───」

 

 あの怪物───天羽奏さえ殺そうとした堕天の獣(ネフィリム)を風鳴翼は無意識の内に強くならねばならない使命感に焦らされた自分と重ねるようになってしまった。

 剣と獣。

 そこに違いはなかった。

 翼も第三号も残酷と言えるほどに同じであった。認定特異災害であるノイズを狩り、意味もないのに殺し合う。そこに人間としての心は介在していない。憎き第三号をこの手で抹殺しようと剣を振るっていた翼は己の内面に無心で暴れる獣のような狂気に気づき、やるせない気持ちと昂る戦意に挟まれて、行き場のない苛立ちを第三号に叩きつけた。

 その姿こそが獣。

 心なき獣が嗤う。おまえは血を啜る剣に過ぎないのだ、と。

 これが私が目指した剣なのか───?

 私は何がしたいんだ。私は力なき者を守るために戦っていたのではないのか。

 いや、そもそも───本当に私は誰かを守れているのだろうか。

 唯一無二の友人さえ守れなかったのに───挙句はあの黄金の戦士に命を守られて今を生きているのに。

 

 守り人を名乗る資格などないではないか。

 

「私は何になりたいんだろう」

 

 少女の迷いがそこにあった。

 この三週間───翼と第三号の戦いの結末はいつも煮え切らない終わり方をしていた。戦う覚悟さえ未だ抱けぬ半端な戦士───撃槍(ガングニール)の立花響が二人の争いを止めようと猪突猛進の勢いで乱入してきて、怒り狂った第三号が響を投げ飛ばし、翼を強引に殴り飛ばすと、癇癪を起こすように地団駄を踏んでからバイクに乗って去っていくことが多い。

 立花響は第三号のことを苦しんでいる人だと思って助けたいと主張している。

 風鳴弦十郎は第三号を悪い存在ではないと多少の願望を込めて推測している。

 櫻井了子は意見を控えているが、研究対象として興味はある様子だった。

 そして、私は───やっぱり憎い。奏を手にかけた第三号を許せない。でも、もしも第三号を殺めたとして、その先に何が待つのだろう。私の剣はその先で何を守ることが───いや、何を殺して、何を捨て、何をこの手で斬り裂けばいいのだろう。

 ただ一つだけ分かっていることがある。私はきっと戻れない。天羽奏の隣にいた風鳴翼には戻れない。それがたまらなく怖い。怖くて、嫌で嫌で仕方なくて───〝心〟なんてものがあるから。

 

 精神(こころ)なんてものが私の剣を鈍らせる───!

 

「夢を見るの。怖い夢。奏が闇に落ちていく夢。闇の底で雄叫びが聴こえて、私は手を伸ばすの。でも、届かなくて、どうしようもなくて……」

 

 そうして、気づく───闇に落ちていたのは自分でもあった。

 人でなくなる恐怖。奏を殺そうとした獣と同じになる恐怖。いつしか自分も奏を殺そうとするのではないかという得体の知れない恐怖。風鳴翼を覆い尽くす闇の正体はそれであった。

 彼女の涙は友を想う心だった。

 その心を失いたくないのに、戦士にとっては、こんなにも()()だった。

 

「ねぇ、奏は今、何の夢を見ているの?」

 

 翼の優しい声音に天羽奏は何も答えない。

 彼女が見る夢はいつだってあまりに悲しい夢だから。

 人の心を救うためならば、自分の心を簡単に捨ててしまう()()()()獣の夢だから。

 風鳴翼は知らない。

 天羽奏が見る現実(ゆめ)は悲しくて、苦しくて、それなのに笑顔が絶えない矛盾だらけの場所だということを。

 

 剣と獣───邂逅する。

 

 

***

 

 

 運命は唐突に。

 私立リディアン音楽院高等科の廊下にて───。

 

「お゛お゛ん゛⁉︎」

 

 風鳴翼の目の前で汚い悲鳴を上げる用務員がいた。

 脚立の上に登り、廊下の電灯を取り換えていたのであろう青年は足を滑らせて、脚立の足場に股間を叩きつけてしまい、その後は授業の邪魔にならないように静かに悶絶していた。

 偶然通りがかった翼は何だか見てはいけないものを見てしまった気がして、何とも居た堪れない感情のまま、ゆっくりと後退ったが、その足音に顔を上げた用務員の青年は驚愕の眼差しを翼に向けていた。

 誰もいないと思っていたのだろう。

 なんせ、今は授業中───四限目がはじまったばかりだ。

 風鳴翼は今し方、レコード会社との打ち合わせを終えて、私立リディアン音楽院へと戻ってきたのだが、午前に実施される歌の授業(カリキュラム)を受けるつもりはなかった。学校に戻ってきたのは学園の地下に構える特異災害対策機動部二課に用事があったためだ。他に理由はない。

 そもそも間が悪い。彼女が学校に着いた時点で授業開始のベルが鳴る二分前だ。教室に入ると否が応でも注目を浴びてしまう翼は極力として目立たないように心掛けてはいるが、それも超がつくほどの有名人である彼女には無理な話である。特に音楽科目において、彼女の歌声は良い意味でも悪い意味でも目立ちすぎる。

 つまり、風鳴翼がこの廊下を通ったのは全くの偶然であり、そこに恥を晒した用務員がいたのも悲しいほどに偶然だった。

 

「……どうも」

 

 木馬責めを受けているような態勢のまま、真っ青な顔で会釈する青年。翼は踵を返して一刻も早くこの場から立ち去ろうとした。

 

「あっ、ちょっとすいません!」

 

 だが、青年は彼女を呼び止めた。振り向くとそこには屈託のない笑顔が一つあった。どこか恥ずかしそうに彼は脚立をペチペチと叩きながら、国が誇るトップアーティストである風鳴翼へとんでもないことを言い出した。

 

「暇なら手伝ってくれません? この脚立ガタガタなんですよ」

 

 なんで私が───。

 暇というなら、確かに四限の授業が終わるまでは手持ち無沙汰だ。マネージャーの緒川慎次は先に二課本部で別件の仕事を片付けに行ってしまった。だからといって、一生徒である翼が用務員の仕事を手伝う道理はどこにもない。

 そこまで思考が整理されているのにもかかわらず、翼はなんで今、自分は脚立を抑えているのか疑問で仕方なかった。

 

「───そこでトミーは言ったんですよ。私は許そう。だが、こいつが許すかな? そしたら、突然ボビーがやってきてこう言ったんです。じゃあ一体誰がパイを焼くんだってね」

 

 用務員は意気揚々とわけのわからないトークを延々と翼に語っていた。どこの国のジョークだろうか。最初の徳川家康の脱糞話までは概要が理解できたが、アジア圏を出てからは全く話がわからない。

 

「い〜や〜、それにしても助かりますよ。先輩は別棟に行っちゃったし、二個あった脚立が何でか一個になってるし、しかも古くて定年劣化がヒドい方だし、俺の足は最近ガクガクだし……この学校ってたまに物がなくなるんですよね。不思議だなぁ〜てか怖ぇなぁ〜」

 

 脚立の上で、口と手を同時に動かしながら用務員の青年は手際良く電灯を換えていく。器用なのだろう。無駄な動きをしているのは口だけだ。

 

「この前なんて、俺と食堂のおばちゃんたちで試しに作っておいた特製おからクッキーが半分以上も無くなってたんですよ。先生方に試食してもらおうと思って、職員室に置いておいたんですけど、『おいしかったです♪』ていう置き手紙と共に行方を晦ましましてね……」

 

 翼はこの学校の地下に潜む二課本部に犯人の目星をつけた。できる女を自称する櫻井了子なら申請も出さずに学校の備品を持っていきそうだ。手紙の内容的にも彼女のような気がしてきた。

 関係者として翼はなんだか申し訳ない気持ちになってきた。

 複雑な顔をしていたであろう翼を横目で覗いた青年は突拍子もなく話題を変えた。

 

「そういえば、翼さんって友達とかいます?」

 

「はい……?」

 

「この前ちらっと見かけた時、お仕事が大変そうで、なーんかあんまり楽しそうな顔してないように見えたんで」

 

 思わず翼は失笑した。

 楽しい? そのような感情は捨てた。

 あの日───親友を守れず、恩人に救われ、何もできなかった自分。一人だけおめおめと生き(ながら)えた愚かな剣は己を律し、戦いに不要な感情を削ることで真の剣となるべく鍛え直した。心を捨てたのだ。そう、心を……。

 いや、捨てられていない。

 まだ私はみっともなく心に縋っている。いつかまた奏と一緒に歌を唄いたいと願っている。

 

「…………」

 

 沈黙する翼の哀愁が青年の瞳に虚しく映る。

 小さな呼吸が翼の耳に届いた。

 

「あー、俺の友達っていうか、この学校の一年生の子なんですけどね。なんていうか、誰とでも仲良くなれる子なんですよ。人助けが大好きっていう変わった子なんですけどね。その子は人の痛みをちゃんと分かってやれる優しい子で、もしかしたら翼さんとも仲良くなれるんじゃないのかって」

 

 淡々と告げる彼はその名前を口にした。

 

「立花響っていう子なんですけどね」

 

 知っていた人物の名前に思わず動揺した翼は脚立を支える手が震えてしまう。上の方で青年が地震でも起きたのかと目をパチクリさせる。翼は一つ咳払いをして、運命の巡り合わせというものに心の底から辟易した。

 どこまでも立花響という少女の影は風鳴翼を追い詰める。

 彼女を見ていると何故か天羽奏の笑顔が脳裏に過ぎるのだ。そして、また一緒に笑いたいなんて───甘ったれた感情が翼の中で泣き叫んで、防人としての剣を鈍らせる。

 

「立花は……悪い子では、無いとは、思います」

 

 歯切れの悪い回答だった。

 立花響という少女は誰とでも明るく接しようとする優しい人間だ。それこそ天羽奏に匹敵する(もの)がある。それを翼は否定しない。ノイズと戦闘中、自分の身すら未だ守れない半端者であるにもかかわらず、逃げ遅れた人がいないかと気にかける精神は翼も認めていないわけではない。

 ただ、彼女は戦士としての覚悟が圧倒的に足りていない。

 戦うということが何なのかをまだ半分も理解していないだろう。

 天羽奏の意志を受け継いだと認めるわけにはいかない理由はそれだった。血の滲むような努力の果てに撃槍(ガングニール)の装者となり、過酷な戦場に身を置き、時としてその命を糧に誰かの命を守ろうとした───誇り高き戦友の何を継いだと言えるのか。

 何よりも立花響は戦うべき人間ではない。

 翼と第三号の戦いを見て「悲しいから」と()()を哀れんで、自分の実力では止められないことぐらいわかっているはずなのに、危険を顧みずに戦闘を止めるべく乱入してくるほどの純朴な優しさはいつか自分を殺してしまう。

 

「あの子は優し過ぎる。危ういほどに」

 

 だから、私のような剣だけが戦えばいい。

 心のない剣が。

 心を捨てた剣が……。

 

「翼さんって優しいんですね」

 

 俯いていた顔を上げると、用務員の青年は相変わらず作業をしていた───その横顔に優しい微笑みを残したまま。

 

「心配してくれてるんですね、響ちゃんのこと」

 

「…………」

 

「あの子、本当に危なっかしい子だから、私がしっかりしなきゃって、そんな風に心配してくれてるんでしょ。顔に書いてますよ。間違いない」

 

「別に、私は」

 

「そんな謙遜なさらずに。翼さんは優しい人だと思いますよ。他人の為に本気で悩めるほど思いやりのある人なんてそういませんからね。若いのに偉いなぁ」

 

「やめてくださいっ!」

 

 優しいなどと言わないでくれ───!

 反射的に声を張り上げていた。苦悶に近い声音だった。両手で耳を塞ぎ、その場に(うずくま)ってしまうような脆弱な芯を訴えかける少女の嘆きだった。

 風鳴翼の弱さ───彼女は未だに自分が赦せない。

 あの日、朽ちるべき命は私であった。

 風鳴翼と天羽奏。そして、仮面ライダー───最も精神(こころ)の弱い戦士が生き恥を晒した。

 あの事件から、どれだけ戦っても、どれだけ鍛えても、認定特異災害と孤独に戦い続けた未確認生命体二号のように強くはなれず、天羽奏のように心の強い人間として立派に成長もできず、あの頃と同じような弱いままの風鳴翼が残っていた。

 天羽奏が隣にいない戦場に立って───はじめて孤独を味わった。

 背中を預ける者がいない。自分を想ってくれる人がいない。これが第二号が見ていた景色だと思うと震えが止まらなかった。こんなに冷たいものだったのか。こんなに辛いものだったのか。

 それなのに、仮面ライダーは何の弱音も吐かずに戦っていたのか。

 心がぐしゃぐしゃになる気分だった。

 だから、心を捨てようと───天羽奏と仮面ライダーの分まで風鳴翼が剣として命尽きるまで戦おうと誓った。なのに、風鳴翼はどこまでも未熟だった。悔しいほどに弱かった。心が邪魔をする。寂しいと。辛いんだと。握る剣から弱音が聞こえてきた。

 そんな弱い心など要らない。私はあの日、生き残ってしまったのだ。天羽奏と未確認生命体第二号を差し置いて───ならば、二人の分まで心を殺して戦うべきだ。

 

「私に優しさなど必要ありません。剣に心など不要です」

 

 自分に言い聞かせるように。

 風鳴翼は心を捨てる。

 優しさなど以ての外───敵を斬り裂くだけの(つるぎ)に心があってはならない。

 その冷徹な言葉に初めて青年は難色を示した。陽の光のような表情から笑みが消えて、ゆっくりと眉が落ちて、物悲しい哀憫に染まった瞳を少女に向け───だが、それも一瞬の出来事だった。青年は懲りずに()()()()と笑って、無意識に目を伏せていた翼に語りかけた。

 

「何言ってんですか。心がないとただの獣になっちゃいますよ」

 

「……っ⁉︎」

 

 風鳴翼は驚愕を禁じ得なかった。

 争いとは無縁の笑顔を溢す青年の口から、よりにもよって〝獣〟なんて言葉が紡がれるとは思いも寄らなかった。動揺に目を見開いた翼の瞳には───どこか不憫な情緒を抱かせる慈愛の笑顔があった。

 剣と獣。

 そこに違いはなく───間違いは腐るほどにあった。

 青年はそれを誰よりも知っていた。心を置き去りにして真の剣に至ろうとする少女の目前で笑う青年こそ、心を捨てねばならない恐怖と戦う獣であったのだから。

 

「ねぇ、()()()()

 

 作業を終えて脚立から降りる。

 ほんわかとした笑顔を保つ青年はほんの少しだけ前屈みになって、苦悩する少女の視線に合わせて、彼は子を嗜める親のような温かな声音で風鳴翼に問いかける。

 

「翼ちゃんが、頑張ってるのは、どうして?」

 

「…………」

 

「何のために、頑張っているんですか?」

 

 何の為に強くなろうと足掻き、誰の為に己を捨てようとして───今まで風鳴翼は剣を振るってきたのか。

 

「私は……力を持たない人々のために……防人として……守るために……」

 

 どこか自信を損なった矮小な声をボソボソと呟く翼に───青年は力強く頷いた。

 

「それでいいじゃない」

 

 なぜか、嬉しそうに青年は笑う。

 

「どんな時でも、どんなことでも、誰かの為に頑張れるって素敵なことなんだから。その想いを忘れちゃいけないよ。翼ちゃんの歌も、奏ちゃんの歌のように、誰かを笑顔にできる素敵な歌なんだからさ」

 

「奏と……同じ……?」

 

「間違いないよ。俺、聴いたことあるもん。奏ちゃんの優しい歌を。翼ちゃんの優しい歌も。

 だから、心なんて要らないなんて言わないで。それはすっごく悲しいことだから」

 

 用務員の青年はそう語った。

 笑っているのに、泣きそうな顔をして───風鳴翼の心に響く。

 なんなんだ、この胸騒ぎは。

 なぜ、この青年の言葉はこんなにも重く響いて伝わってくるのか。

 この青年はどうして私を気にかけるのだろうか───。

 

「はい! シリアスしゅーりょー! おわりー! さてさて、おかげさまで電灯も一通り換えられたし、俺の股関節の痛み止まったし、うんうん、お待ちかねのお昼ご飯にでもしますか───そうだ! 翼ちゃん、お昼ご馳走しちゃいますよ!」

 

「は?」

 

「今朝、行きつけのお豆腐屋さんから美味しいお豆腐を頂きましてね。量が量なので困ってたんですよ。ほら、手伝ってくれた御礼。もしくはお駄賃」

 

「いえ、私は───」

 

「まあまあまあ! そう遠慮なさらずに! この時期に食べる冷奴ってのも乙なもんよぉ〜!」

 

 用務員の青年───津上翔一は楽しそうに微笑んでいた。

 その笑顔は立花響の───あるいは天羽奏の笑顔とよく似ていて、風鳴翼が守りたかったものによく似ていた。




次回、お豆腐回(茶番)
ただでさえクソ雑魚スタミナなのに更に弱体化パッチがあたったオリ主くん。おまえが悪いんや・・・おまえが強過ぎんのが悪いんや・・・ビビってラスボスが出てこれんのじゃ(←ガチ) でもSAKIMORIのケアの方が最優先だよなぁ⁉︎ 世界はおまえに厳しいけどおまえは人に優しくあり続けるんだよ!

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