仮面ライダーだけど、俺は死ぬかもしれない。   作:下半身のセイバー(サイズ:アゾット剣)

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冷や奴は木綿派です。


♬.俺と翼ちゃんはお豆腐で一悶着あるかもしれない。

 アカンて(迫真)

 

 あの顔はまーじでダメだって。

 

 花も恥じらう十代乙女がしていい顔じゃないってアレ。見てるコッチまでもお腹痛くなっちゃうよ。アイタタタ……(震え声)

 翼ちゃんに(ギルス)の度重なる暴行を悟れぬように謝ろうと画策して、待ち伏せとまではいかないが、積極的に三年生の通行が多い廊下などで作業をしていた際、校内でチラッと見かけたことがあった。思わず衝撃を受けた。土下座とか土下寝とか言ってられないレベルの深刻さを翼ちゃんの顔は物語っていたのだ。

 修羅の国から帰ってきた野武士。我誠遺憾也。カム着火インフェルノ。オールウェイズ不破諌。近づく奴は指先一つでダウンさ。

 そんな感じがひしひしと伝わってきた。

 彼女から発せられる「私に構うな」オーラにもはや感服すらした。あれじゃあ友達はできないだろう。人との距離を測らない系女子である響ちゃんでさえ手を焼くわけだ。

 なんか仕事で嫌なことでもあったんかな? 上司に無茶な要求でもされたんかな? 俺もよくエルさんたちに「は?武器とか甘えでは?」と言われてストームフォームなのにストームハルバートの召喚を許してもらえなかったり、「ローリング回避とかヌルゲー」とか言われて全部の攻撃をパリィするとかいうゲームならトロフィー貰えそうな勢いの苦行を強いられたものよ。懐かC……それで終わった後に「Congratulations(おめでとう)!」と連呼しながら拍手されて、てへへと照れていたら「次は投げ技オンリーね」と無慈悲なお言葉をかけられてしまい、投げの鬼な大地の巨人さんプレイを一週間ぐらい強要された。その時ばかりは確かにそんな顔をしていた気がする。おかげ様できりもみシュートがやたら上手くなった。エルさんは何故かご満悦だったけど、俺はもう誰も信じないっていう感じだった。

 

 翼ちゃんも若いのに大変やね。きっと俺と同じようなクソ縛りプレイでも強要されてしまったのだろう。お互い上司のパワハラなんかに負けないように頑張ろうね。嫌な時は嫌って言いなよ。俺は嫌って言っても無駄だったけど、翼ちゃんの上司は人間なんだから話し合えば何とかなるよ。

 そう単純に考えていた時期が俺にもありました。

 いや、あの顔がデフォってマ? SAKIMORI以前に翼ちゃんは高校生だよね? 間違えてないよね? イケイケ(死語)なJK(死語)だよね? まだ十代だよね? サバ読んでないよね?

 あんなん必殺仕事人が依頼の内容を聞いてる時の顔やん。今から悪徳商人の屋敷で殺戮パーティーの目ですやん。決して若い女の子がしていい顔じゃないのは確かよ。

 

 そんなに疲れてんの? いや、疲れもするよね……。

 トップアーティストとしての仕事に加えて、うるせぇノイズたんとの終わらない仕事。それに並行して学業も修めなきゃならないし、プライベートなんてほぼ無いんだろうな。

 こりゃもう立派な社畜ですわ(確信)

 何とか救ってあげたいけど、俺も救ってほしいんだ(白目)

 でも、面と向かってお話できるなら、ワンチャン俺のコミュ力(笑)で何とかなるかもしれない。よっしゃ! もやし専用のお説教BGM垂れ流せ! ここでビシッと良いこと言うぞぉ〜カッコいいこと言っちゃうぞ〜……なんも思い浮かばねぇ(落胆) これじゃあ全国のラノベ主人公に鼻で笑われるわ。この最高のタイミングで説教できないとは転生オリ主の風上にも置けないとか言われるわ。

 いや、説教なんてできないけど。

 間違ってないもん、この子は。

 でも、心を捨てるのは覚悟キメ過ぎじゃない? 怖いよちょっと辞めようよ。捨てていい心なんて寺○心しかいないんだからさ。いや、やっぱり寺○心も捨てちゃ駄目だわ。あの子演技力すごいもん。早く子役という枠から飛び出して名俳優として頑張って欲しいですな。ほら、皆さんもご一緒に、せーの───。

 

「お豆腐なのに、スプーンねぇじゃん!(ド変顔)」

 

「…………」

 

 笑わないね、翼ちゃん。

 

 ───それで笑う奴もおかしい。

 

 奏ちゃんが辛辣なんだけど。俺の変顔って、割と全力だし、リスペクトはブゥンな神だし、もっとウケてもいいはずなんだけどなぁ。

 それにしても、なんというか、現役アイドルを餌付けするために人気のない用務員室に連れ込んでしまった。これにはGトレーラー出撃不可避。でも、ちょっと逮捕は待ってくれ。ジャッジメントタイムはやめてくれ。おいしいお豆腐を食べれば、きっと翼ちゃんもニッコリ笑ってくれるはずなんだ。なあそうだろう全肯定バーロー奏ちゃん。なんとか言えよ。ねぇ言ってよ! ヘケッソウナノダって言ってくれよ! cv.高○みなみで言ってくれよ、なぁ‼︎

 

 ───さっきからスベりまくってるからって、あたしに助けを求めんな!

 

 じゃあ、どうすれば、この子は笑ってくれるのよ⁉︎ クソ寒いギャグだって数打ちゃ当たんのに、この子は微動だにしないよ⁉︎

 

 ───うーん。前にやってた腹筋崩壊パワーは? あたし個人的にしょーもなくて好きなんだけど。

 

 ほほう、ここで脱げと申すか。マグマ式の冷や奴とかいう暑いのか寒いのかよくわからんパワーワードでやり遂げろと申すか。

 

 ───いや、ごめん。忘れて。

 

 最終的にはそれしかねぇな。

 

 ───忘れろ! 脱ぐ方向は無しでお願い! 翼に翔一の筋肉は早過ぎる!

 

「…………」

 

 ちなみに、鉄仮面な翼ちゃんは来客用のソファに座り、白い子猫さんを膝の上にのせて、ずっと撫でてます。なんだこの尊い絵面は。永久保存したいんだけど。写真撮っていい? 芸能人だからダメかい? アレだろ。撮った瞬間にニンジャが忍び寄ってきて天誅されんだろ。アイエエエされんだろ。わかるよ。わかるわかる。

 

「この猫」

 

 はい?

 

「この猫に名前はありますか」

 

「ああ。うん。その子の名前はダディっていうの。入学初日に響ちゃんが助けてね。そのまま学校側を説得して、学校猫として飼ってんの。名前の由来は響ちゃんからとった」

 

「立花から?」

 

「そう。橘から」

 

 ふにゃぁーっと小さな口を開けて欠伸をする子猫のダディさん。大物アイドルの膝の上でもこの負けず劣らずの愛らしい態度は数々の異名を欲しいがままにしてきた男の名を継ぐに相応しいと勝手に思っている。

 ちなみに対抗案としてミックが挙げられていたけど、あっちは年配の猫だからね。クワガタかネコかよくわからん近接格闘派銃ライダーの方がしっくり来るもの。ねぇ、ダディさん。ダディさん? なんで反応してくれないの……。

 

 ───あんまり気に入ってないんじゃないか、それ。

 

 え、俺の尊敬する人なのに⁉︎ 野球ボールのチソ訓練も真似るぐらいに尊敬してるのに⁉︎

 

 ───あの意味わからねぇ特訓の考案者なのかよ⁉︎ やめとけよ! 行きつけのバッティングセンターで翔一専用の数字ボールが用意されてんのも何か恥ずかしいんだよ!

 

 俺専用じゃないもん! なんか最近いろんな人がチソ訓練してくれてるみたいなんだよ、バッティングセンターの店長さんが言うには。みんな真面目に動体視力の訓練だと思ってやってるっぽいから、3って言いたいだけの俺としては複雑なんだけど。

 

 ───せめて、真面目にやれよ!

 

 だって、動体視力はこれ以上あげる必要ないんだもん。そういや、エルさんもよく言ってたなぁ……おまえはイメージトレーニングと必殺技の練習と死ぬほど筋トレしてりゃいいって。

 翼ちゃんは筋トレとかしてんのかな? 随分とスレンダーに見えるんだけど。ああ、そっか。装者は精神力が第一なんだっけ。俺とかがシンフォギア着たら絶対にクソ雑魚ナメクジ決定だね。

 

 ───一番メンタル強そうな奴が何言ってんだか……。

 

 それはそうと豆腐屋さんから貰った絹ごし豆腐の滑らかな直線美を見てよ! いやぁ〜いいもの貰ったなぁ〜! これなら翼ちゃんの肥えたお口にも合うんじゃないかな。肥えてんのか知らんけど。

 ほら、ダディさん、あなたのゴハンはこっちですよ……ゴハンの時だけスゲェ反応するな。やっぱりダディだよ、この子は。

 さて、長机の真ん中に、食べ易い大きさに切り分けた冷や奴を載せたお皿を置いてから、醤油と大根おろしに刻みネギと生姜を盛り付けた小皿を翼ちゃんの前にセッティング。みんな大好き辛味噌とキムチも用意してある。オクラもある。あとはお味噌汁と漬物とご飯。それと柳葉魚を焼きました。ん? 昼食というより朝ご飯? うるせぇ! それがいいんだよ! そもそも俺は一般的な家庭料理が大好きなんだ! お母さんなんだよ! みんなの食卓を守るお母さんの腕前なんだよ! ほら、誰か養ってくれよ! 毎日味噌汁作ってやっから養えよ!

 

 ───あたしが食べたいって言ったら、ピザから焼売まで作ってくれるけどな。

 

 ピザはちょっと失敗しちゃったけどね。あれは焼き方を間違えた。イタリアンレストランの店長さんに教えを請うべきだったね。

 

 ───でも、美味しかったぞ。

 

 あら、ありがとう。その言葉だけで料理してる人は天に召される気分になるのよね。言葉って不思議。みんなもこれからはお母さんや奥さん、もしくは外食する時なんかでも、ご飯を作ってもらったら美味しいって言ってあげてね。翔一さんとの約束だぞ。

 

「いっただきまーす」

 

 ───いただきまーす。

 

「……いただきます」

 

 おっ、ちゃんといただきますの挨拶する子は偉いぞ。ポイント高い。

 

「───津上さん」

 

 俺が冷や奴を箸で摘んで小皿に盛るのを待っていたのか、丁度良いタイミングで翼ちゃんは口を開いた。

 

「どったの? あっ、まさかのマヨ派?」

 

「いえ、違いま───今どこから取り出したのですか、そのマヨネーズ」

 

「野生のマヨネーズは釣るものだから」

 

「答えになっていません。いや、そうではなく、大したことではないのですが───」

 

 少し戸惑いが滲む表情が過ぎる───あ、シリアスの匂いだ、これ(直感)

 

「奏の歌を聴いたと言っておられましたが……私は、本当に奏と同じように、誰かを笑顔にできるような歌を唄えているのでしょうか」

 

 多分、翼ちゃんにとって、それは大したことだったと思う。

 

「私が歌を唄っているのは、あくまで奏が復帰するまでの帳尻合わせのようなものです。私の歌は、本来、人のために唄うようなものではなく……もっと、恐ろしいものです」

 

 俯いた顔には、苦渋を含んだ小さな諦めがあった。

 人間の尊厳を容易く踏みにじる認定特異災害たるノイズへの唯一に等しい有効打であるシンフォギアに選ばれた彼女の歌は───戦うための道具に過ぎなかったのだろう。

 煌びやかなライトが照らすステージの上に立ち、華やかな衣装に身を包み、遠路遥々から集まった大勢のファンの前で麗しい歌声を披露する凛とした歌姫こそが人々の周知の偶像たる風鳴翼であった。

 しかし、それは彼女の防人として生きる道とは違っていた。

 彼女の生き方はどこまでも剣であったからだ。

 ステージはどこまでも血生臭い戦場だった。衣装は身を守る鎧だった。マイクは刀を模した凶器だった。観客は討ち滅ぼすべき(ノイズ)であった。誰かの為に歌唱しているわけではない。位相障壁によって攻撃を通さないノイズを調律するために仕方なく歌うのだ。歌手活動はその副産物に過ぎない。

 私は剣だ。

 歌姫ではない。

 だからこそ、風鳴翼の歌は───天羽奏のように優しい歌であるはずがない。あってはならないのだ。

 

「私は奏のように歌えない。あの頃のように、もう歌うことはできないのです」

 

 風鳴翼の歌は戦うためのもの───そう言いたいのだろう。

 天羽奏もまたシンフォギアに選ばれた装者であるが、風鳴翼とは大きな違いがある。聖遺物との適合率を投薬によって引き延ばし、辛うじて戦闘が可能である範囲まで適性を無理に得た()()()の天羽奏を真の装者として数えるのは不都合がある。彼女は明らかな無茶をしていた。薬剤の過剰摂取がその最たる例か。それでも生来の適合率の低さは誤魔化せない。制限時間が設けられ、聖遺物と完全な波長を合わせることもできず、天羽奏は常に死と隣り合わせの状況で戦っていた。

 実際、俺もアギトとして奏ちゃんと会った時───正直な話、虫唾が走った。

 こんな若い女の子に()()()()()()()()。あるいは、その手段をなぜ用意してしまったのか。なぜ与えてしまったのか。

 過剰な投薬によって活性を促されていた体細胞の疲弊は愚か、内臓の疾患は極めて酷なものだった。激しい戦闘行為が続けば喀血してしまうのは薬物の効能が運動による新陳代謝によって一時的に増大し、内臓の機能に負担を強いて、歌声を発する重要な気管支や肺を出血させているからだろう。……まあ、これは口から血液を溢していた奏ちゃんをパッとみて症状をテキトーに予測しただけだから他に理由があるのかもしれないけど。とにかく、とても十代の少女が患うべき体調ではないのは確かだ。

 それにあくまで一個人の見解としては、天羽奏は長生きはできないだろうと判断していた。このままの悲惨な状態で戦いを続けるというのなら、三十も超えることなく死を遂げることになるだろう。彼女は肉体を酷使し過ぎている。スポーツなんかで期待のルーキーが最盛期を迎えずして身体を壊して引退していくのとよく似ている。

 それに比べて、風鳴翼は天賦の才がある。聖遺物との適合率が高い彼女は投薬を受けずとも、時間に縛られることなく、体力の限りは戦うことができる。風鳴翼の肉体は───今こうして目の前にいる少女をまじまじと見ても極めて健康的な状態を保っていることがわかる。少し鉄分が足りてないぐらい。肉とか魚とか食べてないんだろうなってこともわかる。好き嫌いしちゃ駄目だぞ。ほら柳葉魚食えよ。カルシウムとれるぞ。いや話逸れたわ。カムバックシリアス。とにかく、戦闘のみならず私生活にすら支障を及ぼすリスクを伴う天羽奏と生まれながらの高適性によりほぼノーリスクの風鳴翼では雲泥の差がある。

 端的に表すなら、それは優劣の差だ。

 そして、この格差たる優劣に引目を感じていたのは───劣っている天羽奏ではなく、優れている風鳴翼の方だろう。

 彼女は今までに傷ついた友人をどれだけ見ていたことか。

 この世界で一番大切な人が隣で血を流していることにどれだけ耐えてきたか。

 苦痛だったのだろう。

 風鳴翼は天羽奏に戦って欲しくなんかなかったはずだ。

 愛する人が傷を負うことを許容できる者などどこにもいない。

 ツヴァイウイング───あのライブ会場の事件から二年も経つ。かつては十万にも及ぶ集客を成し遂げたツヴァイウイングの活動休止も同じく二年の月日を迎えている。普通ならファンは少なからず離れていくだろう。だが、驚くべきことに、その人気は未だ衰えずに健在である。俺の家にはテレビを置いていないから、ネットでの細やかな情報なのだが、二年も時間の歩みを止めているツヴァイウイングの活動は今でも利益を生み出しているらしい。CDや音楽データ、過去のライブ映像などが未だに飛ぶように売れている。経済に広くない俺でもその異常性は何となくわかる。

 そして、その理由も推測せずとも導き出せる。

 風鳴翼がソロ活動で支えているからだ。

 ツヴァイウイングという過去の栄光を風鳴翼は一人で永遠と叫んでいるのだ。忘れないで、と───ここで歌を奏でているのは片翼に過ぎなくて、いつか必ず、ここに両翼が揃う日が来るのだと。彼女はずっと慟哭を歌声に潜ませて、孤独に()()()()()のだ。

 翼ちゃんは奏ちゃんの居場所を今も必死に守っている。

 まるで、大切な思い出に縋るように……。

 でも、今の翼ちゃんは奏ちゃんと一緒のステージに立つ気はないと言う。

 自分が守り抜いた場所で翼ちゃんは自分の羽を休めるつもりはないのだろう。二年も活動を休止しているにもかかわらず人気の絶えないツヴァイウイングの片翼である天羽奏が二年越しに目覚め、歌手として復帰すれば、今まで通りに行くとは限らないが、歌手活動一本でも食うものに困ることはないだろう。

 そうだ。天羽奏が装者として戦わずとも、彼女が笑って生きていけるような場所を───風鳴翼は守り続けているのだ。

 そして、天羽奏の欠けた戦力の穴を風鳴翼が永遠に補い続けば万事丸く収まる。その為にはツヴァイウイングに戻りたいと願う惰弱な心を捨て去り、己を剣として磨き上げ、無心の戦士としてあらねばならない。

 二年前のあの惨劇から、風鳴翼はそうやって覚悟を決めて、天羽奏の居場所を一人で守って、ノイズの脅威に怯える民衆を一人で守って、文字通り心を捨てて独りで戦ってきたんだろう。

 

 自分の心すら騙して───か。

 

 ……そんなところかな、俺から見た翼ちゃんをまとめると。実際には聞いてみなきゃわかんないけど、そこまでするつもりはないからね。

 

 ───翼……。

 

 奏ちゃんの酷く悲しそうな声が脳裏に響く。

 しまった。余計な思考だったかもしれない。いや、必要か。向き合うべきか。それを決めるのは本人か。

 でも、あんまり真に受けないでよ? 別に俺は人の顔みて考えてることがわかる心理学者じゃないんだから。これは脳味噌の大半がお花畑のバカが翼ちゃんの顔を見て「ン〜これは重症w」って言ってるようなものだからね? だから、その、うん……元気出して。

 

 ───でも、あんなに弱虫で泣き虫だった翼が一人でステージに立って頑張ってる姿を見て、あたしは……ああ、無理してんだなって、ずっと思ってたし……でも、歌うのが楽しいって言ってくれてた翼だったから、きっと、いつかはって……。

 

 心が深い海へ沈んでいくような悲哀に満ちた音が聞こえた。

 

 ───言わないでくれよ、もう歌えないなんて。あたしは翼の歌で、自分の歌を好きになれたんだから……。

 

 泣きそうな少女の声が俺だけに響く。

 

 ───あたしだって、最初は歌なんかって思ってた。ノイズを皆殺しにする為だけの道具だった。だけど、あたしの歌を聴いて、救われたって言ってくれる人がいた。一緒に歌を唄ってくれる大切な人がいた。だから、だから……。

 

 …………かなしいね。

 

「津上さん?」

 

「ごめんごめん。ちょっと目がゴミに入っちゃって」

 

「逆ではないでしょうか」

 

「細けぇことはいいんだよ。おー、ダディさん、今、俺の顔をペロペロするのはやめてくれないか。ありがたいっちゃありがたいけど」

 

 荒ぶるダディさんを宥めてから膝の上にのせて───よしっ。

 

「翼ちゃん、指切りしよう」

 

「指切り?」

 

 訝しげに困惑する翼ちゃんは差し出された俺の小指をじっと眺める。

 

「約束。翼ちゃんの歌は、人を笑顔にできる。俺が約束する」

 

 励ますだけの言葉なら、幾らでも見繕うことはできるけど、それは無責任なものになるから。

 風鳴翼が堪えてきた苦悩や痛みを見て見ぬフリをする行為に他ならないから。

 だから、俺にできることは───この指だけなんだよね。

 

「俺じゃなくても、翼ちゃんと奏ちゃんの歌声を聴いた人なら、みーんなそう思ってくれてるんだろうけど、今ここにいるのは、しがない用務員である俺だからね。だから、恐れ多くも代表して、今はこの小指さんで我慢して」

 

 しばらくの間、翼ちゃんは俺の指を見つめて硬直していた。ゆっくりと自分の小指を立てて、その指先を睨みつけて、俺の指と見比べるように視線を忙しく動かしてから、俺の気持ち悪くニヤニヤしているであろう顔を一瞥する。

 あら、目が合ったわね。そして、すぐに目を逸らしたわね。……そんなに俺と指切りするのが嫌なのかい? まあ、JKからしたら俺はおっさんだもんな。普通は嫌だろうね。どうりで最近、響ちゃんと未来ちゃんの視線が刺々しいワケだ。とくに響ちゃんは何か物陰からじっと監視されてる感じがして歯痒いんだよね。未来ちゃんは相変わらずラスボスチックな笑顔が怖い。他の生徒の子と話してたら特に。みんな、俺を三流階級のおっさんなんだと思って「いいから働けや給料泥棒!」とか心の中で罵倒してんだろうな。実際はド底辺の畜生なんだけどね。泣けりゅ。

 と、内心そこそこにショックを受けていたら、翼ちゃんは慣れない手の動きで何度も躊躇を挟みつつも俺の小指にそっと自分の小指を重ねてくれた。

 きれいな指だった。

 数え切れないほど剣を握り締めてきた防人の指とは思えないほどに、細くてしなやかで、目を離したらポッキリ折れてしまいそうな儚さがある───どこにでもいる少女の指だった。

 翼ちゃんの温もりが小指からしっかりと伝わってくる。彼女がどれだけ本気で誰かを守りたいと願って、今までずっと頑張ってきたか、俺は何となくわかってしまった。

 きれいな心───捨てるにはちょっともったない。

 子指を優しく絡ませる。指切りげんまんって由来はそこそこにダークなんだけど、知らない人の方が多いし、不変の心を誓うという意味では都合が良いからね。そういうことにしておこう。

 

「…………」

 

 やがて、翼ちゃんの指も遠慮がちに俺の小指に絡んで、がっちりと結ばれる。現役アイドルとの握手会ならぬ、指切会である。なんかヤクザの組の名前みたいで嫌だな。どれだけエンコ詰める気なんだろう。ヘマし過ぎだろ。いや、また話逸れたわ。

 とにかく、今、俺は翼ちゃんと小指で繋がってるわけなんですよ。興奮しない? 俺はしない。指フェチじゃないもん。じゃあ、何フェチって言われたら、それはそれで困るけどね。ここにフェチズムを感じるんだよって言える部位が無いというか、なんかエロスに鈍感になってきてるというか、うーん、何でだろうね。俺は何か大切なものを失くしてんのかな……またまた話逸れたわ。

 

「さてと」

 

 フッ、かかったな、風鳴翼───いや、SAKIMORIよ!

 

「よっしゃ、これで翼ちゃんは逃げられんからな!(小指に力を入れる)」

 

「はい?」

 

「俺も約束したんだから、翼ちゃんも約束だぜ⁉︎ 翼ちゃんは()()()()()心を込めて、翼ちゃんの歌を待ってくれている人たちに、翼ちゃんの歌を届けてあげるんだよ!」

 

 ガハハハ、まんまと騙されやがったな! これは約束というよりも誓約なんだぜェ⁉︎ なーにが帳尻合わせだ! そんなん許さんからな。奏ちゃんだって、翼ちゃんと歌いたくてウズウズしてんだから、一人だけ引退なんてさせんからな!

 奏ちゃんの歌と私の歌は違うとか、音楽の知識に疎い俺にはそんなん分からんけど───きっと、その答えは奏ちゃんが持ってるから。

 いつか奏ちゃんから直接、その答えを聞かなきゃダメだ。

 つまりは人任せよ! あとは奏ちゃんに託した! 俺は仕事を放り投げるぜ! 俺は何にもしない! やったぜ! 一人だけ楽してやる! イーチ抜ーけた! 俺ァ百合の間に挟まるような無粋な男じゃないんでね! 二人で一生イチャイチャしてろ!

 

 ───翔一……?

 

「奏ちゃんが起きるまでじゃないよ。奏ちゃんがキチンと目覚めたら、それからはさ、またツヴァイウイングとして、ずっと一緒に歌いなよ。片翼でもお空は飛べるかもしれないけど、両翼そろって飛んでる青空の方が気持ち良いに決まってる」

 

「…………っ!」

 

 見ろよ、天下のSAKIMORIが豆鉄砲食らった鳩みたいな顔してるぜ。でも、今さら気づいたところで、時すでにお寿司! この指切りは契約の証! 翼ちゃんの社畜人生を決定してしまうものなのよ! 逃げられると思うなよ! でも、安心しな! そこには奏ちゃんもいるんだからよォ⁉︎ 二人仲良く社畜の世界へウェルカムだZE! 俺の苦しみの片鱗を味わえ! ちなみにその時になったら俺は退職に成功してる予定だから! 肩の荷が下りた俺は静かな場所で高みの見物って寸法よ! ガハハハ、辛くても辞めさせてやらんからな! ずっと二人で支え合いながら歌い続けるんだよ! 俺はそれを死ぬほど楽しみにしているからな!

 奏ちゃんも覚悟しろよ! この指は奏ちゃんの指でもあるんだからな! 苦悩に満ちた社畜人生を這いながら、それでも翼ちゃんと生きていく契約を今ここでしてもらうからな!

 

 ───いや、勝手に決めるなよ……。

 

 嫌かい?

 

 ───……全然。むしろドンと来いって感じだ。

 

 それは良かった、本当に。

 

「ゆーび、きった!」

 

 勝った(確信) 敗北を知りたい。

 

「──────」

 

 翼ちゃんがなんか複雑そうな顔してる。

 いや、ゴメンて。ほんまゴメンて。重たい空気っていうか、シリアス苦手やねん。

 やがて、項垂れるように俯いて、肩をわなわなと震わせる翼ちゃん。悪い大人に騙されたのがそんなに悔しかったのかな? それともこんな冴えないおっさんと小指と小指の濃厚接触をしてしまったのかがショックだったのかな? ……手ェ洗うかい? アルコール除菌ならここにあるよ。でも、せめて、俺が見てない時にしてね。心にグサってくるから。それで死ねる自信があるから。おっさんの心は硝子なんだから。

 でも、女の子の心はもっと繊細だもんね。

 時間は何にだって必要だもの。

 とりあえず、今、俺にできることはないだろうし、膝の上で寝転がるダディさんでも撫でて気を紛らわせておこう。オーヨシヨシーキョウモキャワイイナオマエハー(ワシャワシャ) アーッ⁉︎ 噛まれた⁉︎ 痛くないけど! ハッ(閃き) これが所謂アマガミってやつか。スク水に目覚めるなぁ。七咲に先輩と言われたい人生だった。そういやゲーム自体をギルスになってから長らくやってねぇな。寝る前にエルさんたちとカタンやってた頃が懐かしい。あの天使たちアナログゲームとかにハマってたもんなぁ。毎回キレてたけど。地のエルさんと火のエルさんが喧嘩してたけど。

 そんなどうでもいいことを考えていると、小さな呼吸の音が聞こえた。どうやら、自分なりの答えが出せたらしい。ほれ、ダディさんよ、ゴハンの途中だったんでしょ? 食べに戻んなさい。

 しばらくして、翼ちゃんはゆっくりと顔を上げた。その凛々しい表情は少しだけ晴れやかになって───静かに微笑んでいた。

 

「津上さんは本当にお優しい方です」

 

「そうでもないけど」

 

「いえ、それこそ謙遜です。立花がなぜ、あんなにいつも楽しそうに笑っているのか、わかった気がします」

 

「俺のせいじゃないよ。あの子は元からそういう子だよ」

 

 原作でもあんな感じだったしね。俺が居ても居なくても───っと、こいつはどうでもいい話だ。

 

「ありがとうございます」

 

 ペコリ、と綺麗な一礼をする。

 

「津上さんのおかげで、何か大切なものを思い出せた気がします」

 

 翼ちゃんはそう言って、もう解いてしまった小指を嬉しそうに眺めた。

 

「私は逃げていただけなのかもしれません。自分の心の弱さから目を背けて、奏からも合わせる顔がないと逃げ続けて、何かも捨て去ろうとして───でも、それは風鳴翼が目指した剣ではありません。私は……風鳴翼は、大切な人の笑顔と明日に生きる人々の笑顔を守れるような、そんな剣に私はなりたい」

 

 少女の真っ直ぐな瞳の奥に迷いなき光が輝いている。

 

「やさしい剣だね」

 

 翼ちゃんはちょっとだけ恥ずかしそうに頷いた。

 風鳴翼は剣であったとしても、風鳴翼の歌は剣ではない。

 彼女の歌は多くの人に夢と希望を抱かせ、明日へと進む勇気を与えてくれる。誰だって辛い時はある。誰だって苦しい時もある。そんな挫折に心が打ち負かされた時に、大空を自由に羽ばたく翼のような歌が、荒んだ心を優しく包み込んで、明日の空へと一緒に飛んでくれる。それが両翼そろったツヴァイウイングの歌───そうなんでしょ、奏ちゃん?

 

 ───……ああ。そうだ。そうなんだよ。それが、あたしと翼の、自慢のツヴァイウイングなんだ!

 

 奏ちゃんの弾むような温かな声が聞こえる。

 翼ちゃんにこの声は届かなくても、きっと、どこかで二人は今も繋がってるんだろうな。そういうのを絆って言うんだろうな。良いなそういうの……おっと、気を抜いたらまたダディさんが俺から水分摂取しにやって来るから気を付けろ。

 暑いんだよ、この部屋。あとは翼ちゃんと奏ちゃんの愛が熱いんだ。挟まれてる俺が汗かいちゃうのは仕方ないでしょ。ふぅ……。

 

「もう一度、風鳴翼として、ツヴァイウイングの片翼として頑張ってみます」

 

 優しい声音で決意するような口調が少女の凍てついた心を溶かしていく。

 

「いつか奏と一緒に、ツヴァイウイングとして笑って歌えるように」

 

 そう言って、翼ちゃんは()()()

 

 ……はっきり言って、無茶苦茶に可愛い笑顔だった。

 

「救急車呼んでくれ」

 

「え?」

 

「いや、なんでもないなんでもないHAHAHA」

 

 あ、あわわわ。なんてこったい。そ、想像以上に可愛い笑顔でビックリしちゃった。ちょっと胸がキュンってしたわ。危ねぇ危ねぇ。あと十年若かったら恋してた。ハート射抜かれてた。なんだこの破壊力やべぇよ。SAKIMORIやべぇよ。あんなサムライみたいにキリッとしてんのにいざ笑うとほにゃりって感じになんのかよ。萌えたわ。悔しいけどスゲェ萌えたわ。

 

 ───あ、あれは翼の激レアな警戒心0の笑顔⁉︎ あたしの前でも数えるほどしか見せたことないのに……⁉︎ ははーん。やっぱり翔一ってタラシなんだろ?(冷たい声)

 

 ンン〜? その結論には異議を唱えずにはいられませんぞ。俺が女の子をあの手この手でバンバンシューティングしていくラノベ出身の主人公ならこんなに働いていねぇもん! 絶対に女の子に養ってもらってるもん! え? クズだって? うるせぇ! 俺は伝説のヒモになるんだよォ! 誰か! はやく養ってくれ!

 まっ、それは極めてインポッシブルな話なんだけどね。そもそも俺はモテないし、友達としては百点あげられるけど恋人だったら二十点ぐらいかなって人によく言われるし……むしろお母さんって言われるし……うん。響ちゃんも未来ちゃんも俺を異性として見てないんだろうな。俺も大概だけど。

 

 なんか悲しくなってきた。あったけぇお味噌汁すすろ……冷めてるな、これ。

 

「さて、お味噌汁、温め直しますか」

 

「あっ、申し訳ありません。私のつまらない話のせいで───」

 

「まあまあまあ。ご飯だって、笑って食べた方が美味しいですから」

 

 何はともあれ、翼ちゃんも少しは元気になったみたいで良かったぜ。正直な話、どのタイミングでアクロバティックな土下座をかまして翼ちゃんに今までの暴行を謝ろうかと見計らっていたけど、シリアスの空気が許してくれなかったから結局は出来なかったよ。ごめんね、翼ちゃん。いつか必ず土下座するから。靴も舐めるから。椅子として座ってもいいからね。流石にお馬さんごっこはやめて欲しいけど、翼ちゃんがやりたいと言うなら、俺も恥を忍んで馬になるよ。

 

 ───気持ち悪い覚悟を勝手に決めんな! 翼だって願い下げだろ!

 

 なんと。奏ちゃんだったら惜しげもなく俺の土下座の上に座るくせに。

 

 ───当たり前だ。でも、馬になれとは言わないからな? なんだ、その腹立つ笑い方。あたしが復活したら翼に洗いざらい暴露してやるからな。

 

 …………楽しみにしておくね。

 

「改めて、いっただきまーす」

 

 ───いただきまーす。

 

「いただきます」

 

 ほーら、奏ちゃん、この冷や奴、食べてみな。そうそう。お醤油と刻みネギをのせてね。パクリと……どうだい? まろやかな大豆の味が口の中に広がって溶けていくだろう? これが絹ごしならではの味わいなんだよ。木綿はもっとガッチリとしているからね。ちなみに二つの豆腐の違いはね、製造過程で一度固めた豆腐の水分を───。

 

 ポチャン。

 

 その音がすべての始まりだった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 ───…………。

 

 長机の真ん中に置かれた大皿には冷水に浸された絹の冷や奴が並んでいる。俺が包丁で食べやすいサイズに切った冷や奴だ。豆腐と豆腐が重ならないように並べて冷水につけていたため、皿の上では整列された冷や奴による滑らかな地平線が生まれていたはずだった。

 だが、今はどうだろう。

 ぐちゃぐちゃになった哀れな冷や奴が一匹、力無く横たわっているではないか。

 虚空を摘む箸が宙で静止して、潰れてしまった冷や奴を無心で見つめる防人は何かを訴えるような目であった。違う。これは何かの間違いだ。豆腐が勝手に箸から落ちていったのだ───。

 

「翼ちゃん、もしかして、不器用?」

 

 俺の内なるナチュラル畜生が考えるよりも先に口にした。

 ピクッと翼ちゃんの眉が剣呑に動いた。「不器用……?」と小さな声で呟き、虚無を掴み続ける箸の先を睨みつける。何か触れてはいけないものに触れてしまったような反応であった。怖いよ。なんか怖い。

 

 ───あー、いま思い出したんだけど。

 

 なんだい奏ちゃん。

 

 ───あたしもよく翼のことを不器用って揶揄ってんだけどさ、そのたびに翼ってムキになるんだよ。ちょっと面白いぐらいに。

 

 Oh……Yeah……(悟り)

 

「そんなことはありません」

 

 バンッと箸を勢い良く机に置いて、手を握ったり開いたりして、よくわからんウォーミングアップで状態を整える翼ちゃん。その目は闘志に燃えている。さながら合戦前の武者のようだ。……いや、なんだそのやる気は。冷や奴だぞ。たかが豆腐だぞ。

 

「今のは少し手が滑っただけです。豆腐の一つや二つ、箸で掴めずして何が防人ですか」

 

 そう言ってから、翼ちゃんの再挑戦が始まった。

 箸の持ち方はスゲェ綺麗なのに、なぜかプルプルと箸の先が揺れている。翼ちゃんのゴクリと息を呑む声すら聞こえてきて、見てるこっちまで何だか緊張してきた。

 途轍もない集中力で慎重にお豆腐の魅惑のボディを箸で挟み、形を崩さぬようにゆーっくりと持ち上げる。

 だが、無情にも絹ごし豆腐は箸からするりと滑り落ちて、皿の上でぐしゃっと崩れた。しばらくの沈黙の後、それでも負けじと翼ちゃんはトライする。絹ごし豆腐をお箸で持ち上げて、つるんと皿に落とす。今度は気持ち強めにお箸でガチガチに挟んでしまい、そのまま真っ二つにもする。それでも諦めない。ネバーギブアップ。冷や奴が箸から解き放たれるたびに翼ちゃんが「あっ」と可哀想な声を漏らすけど、流石はOTONAを輩出することで有名な風鳴一族の末裔と言うべきか、不屈の精神はしっかりと継がれているらしい。

 ポチャン。ポチャン。

 しかし、現実は非情である。彼女の諦めない心とは裏腹に、豆腐はその箸を拒み続けた。なんか磁石でもついてんのかって思うぐらいに翼ちゃんの箸から滑り落ちていった。

 悲しき戦いであった。

 何度も、何度も、何度も───皿の上には冷や奴の屍の山が築かれ、豆腐の悲鳴が聞こえてきそうだった。ちょっと涙ぐんでる防人にバレないように、ズタボロなプライドを傷つけないように、こっそり潰れた冷や奴を小皿にのせて俺は黙々と食べる。おいちい。冷や奴おいちい(無)

 そして、ついに───。

 幾多の豆腐の屍を踏み越えて、十分ぐらいの激闘の末に翼ちゃんはささやかな奇跡を起こした。

 止まっている。箸に挟まったまま止まっている! 絹ごし豆腐がこれ以上ないくらいにぷるぷる震えながら、辛うじて翼ちゃんの箸に留まっているではないか!

 

 俺は思わず歓喜に目を潤わせた。しかし、翼ちゃんは一言も喋らずに首を横に振った。まだだ。まだ喜ぶには早い。

 

 冷や奴とは、醤油につけて食べるまでが、冷や奴だ!

 

「あっ」

 

 ぼとり、と───太陽に想いを馳せたイカロスの如く、翼ちゃんの冷や奴は箸からツルッと滑り落ち、白い肌に包まれた正方形のボディを冷たい机の上に叩きつけられて、見るも無残に食品としてのその生命を終えてしまった。南無三。

 カンカンカンカーン。試合終了のゴングが鳴る。

 翼ちゃんは力尽きたかのようにガックリと項垂れた。勝者などいない。争いの虚しさを感じさせるような戦いであった。友よ、どうか安らかに眠れ。願わくば、次こそは我が胃の中で……。

 いや、なんだこの状況。氷川誠が目の前にいるんだけど。ちょっと感動したわ。あと奏ちゃんはゲラゲラ笑い過ぎね。過呼吸なってんじゃん。

 

「ダメですよ。無駄に力いれたら」

 

「無駄な……力……?」

 

 そんな生まれて初めて聞く言葉みたいに言われても困るんだけど。

 

「まあまあまあ。元気出してください。これは絹ごしですから。木綿だったらいけてましたよ」

 

 嘘である。あの手付きなら木綿豆腐もたぶん無理である。

 

「木綿……そうですか。段階を踏むべきでしたか」

 

 普通は踏まなくてもいいです。

 

「でも、参ったなぁ……今、スプーンないんですよね」

 

 こんなものはスプーンで掬えばいい話だ!───あの迷言が頭を過ぎる。

 もしかして、翼ちゃんなら言ってくれるかなって期待してたけど、この子はどちらかっていうと、意地になったら同じ方法でずっと突き進んでいくタイプだった。まあ、どのみちスプーン無いんだけど。

 二日前ぐらいだったかな。両手にスプーン持って鼻の穴にビニールテープ突っ込んで、ポケ○ンのユン○ラーの物真似してたら失くしちゃったんだよね。響ちゃんに幼気な声で「何で進化しないんですか?」って聞かれて、なんか悲しくなって、途方に暮れていたらスプーン消えちゃったの。……あの発言はレアコ○ルの物真似してる時に言って欲しかったなぁ。いや、そういう話じゃねぇよ悪いの俺じゃねぇか。

 とにかく、ないものはない。仕方ないから俺が冷や奴をお箸で摘んであげようか。氷川さんじゃないから翼ちゃんはキレないだろうしね。ほら、お皿を貸してみな。俺は原作の津上翔一のように煽りはしないからね。たまに内なるナチュラル畜生が出てくるけど、基本は制御しているから、安心して冷や奴を食べな(フラグ)

 

「そういえば、津上さん」

 

「なんだい、翼ちゃん」

 

「立花は、絹ごし豆腐を箸で掴めますか」

 

「うん。そりゃ、もちろん。普通の人間だったら絹ごしぐらいは───あっ」

 

 第二ラウンドのゴングが鳴った。(※その後、スタッフが美味しくいただきました)

 




もともとは次の話と繋げて一話に収めようとしてたんですが二万文字超えるのはなんか嫌だったので分割しました。
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