ハルトナツ   作:マスクドライダー

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誠にありがとうございます。
これからもコツコツ頑張るので応援のほどよろしくお願いします.

さて、恐らくは晴人の身内である最後の一人が登場する回です。
……と言いつつ、作中では既に故人ですが。
晴人が悩んだらちょいちょい出てくるとは思いますけれど。


第7話 託された願い

「失礼しました」

 

 放課後に職員室へ来るよう呼び出しを喰らった俺は、説教というより有難いお小言を貰ってから教師のたまり場を後にした。

 これだけ聞けば俺が問題行動を起こしたように聞こえるだろう。確かに、ある意味ではいじめの主犯とかで呼び出されるのよりも問題なのかも知れない。

 職員室を出る前に担任の先生から受け取った一枚の紙を手にし、俺は出先の廊下で盛大な溜息を吐いた。すると、真横から俺に声をかける人物が。

 

「問題児さん、何をやらかしたの?」

「わっ、ナツ。ごめん、待っててくれたんだね。でも、その性質の悪い冗談は勘弁してよ」

 

 先に帰ってと言っておいたせいか、居ると思っていなかったぶん驚きも大きい。俺を問題児と称するその顔は悪戯っぽく、すぐに冗談というのは理解ができた。

 きっと、俺が単体で先生に呼び出されるのがレアでからかってみたくなったのだろう。弾と数馬に巻き込まれる場合はままある。

 だけどそれを抜きにしたって問題児というのは少しどうなのだろうか。困った様子でそう返すと、ナツは軽い調子でごめんごめんと謝罪を述べた。

 

「でもホントになんの用事?」

「う~ん、ここではちょっと……。帰りながら話すよ」

 

 いつまでも職員室前でたむろするのもよくない。そういう理由もあるが、個人的にこの要件は学校で話す気にはなれなかった。

 だが逆に、誰かに相談したい案件であるというのも確か。まぁ誰かにって、ナツに聞いて欲しいと言った方が的確ではある。

 そういうことなので、廊下の先を突くようなジェスチャーを見せ、とりあえず歩こうとナツに促す。ナツの返事を待ち、それから俺たちは連れ立って歩き出した。

 昇降口で上履きから靴へと履き替えしばらく歩いて校門へ。するとそのあたりで、立て込んだ話なら買い物の後でも構わないかと聞かれた。

 ……なら俺が聞いて欲しいのはバレてるのね。さいですか。いつしかナツが理解の早い幼馴染はいいものだと皮肉交じりに言ってきたが、なんだかやり返された気分になってしまう。

 帰り道の途中にあるスーパーへと立ち寄って夕食の買い物を済ませると、ナツが持ち歩いているエコバッグを半分ずつ持ちながら再び帰路へつく。

 ナツが女の子になってからは俺が持つと言っているんだが、どうにも俺ばかりに負担はかけたくないとナツの頑固が発動して今に至る。

 ナツ曰く折衷案らしいんだけど、これはどうも周囲の視線が生暖かくて苦手だ。やっぱり止めないかって提案したらなぜかむくれるし……。

 

「ハル、そろそろ話せそう?」

「へ? あ、ああ、うん、そうだね、大丈夫、話すよ。ええと――――」

 

 気恥ずかしさが原因で悶々とした考えを浮かべていると、不意にナツが再び質問を投げかけてきた。羞恥心を振り払うかのように、どもりながらも悩みを打ち明ける。

 俺の悩みというのは、この先の進路について。つまり、どこの高校を受験するかについて悩んでいるんだ。

 先生に呼び出されたのは、進路希望の提出をいつまでも先延ばしにしていたから。もらった紙は早く提出しろという暗示なのか、もう一枚希望書をわたされたということ。

 

「悩んでるんだ? てっきり美術科のある高校一択と思ってた」

「ああ、やっぱりナツでもそう思う?」

 

 悩みと呼び出された理由を語って聞かせると、ナツはとてつもなく意外そうだとでも言いたげな視線をこちらへ向ける。

 なんというか、周囲の人たちはどうにも俺がそういう道を進んで当たり前と思っているようだ。多分、誰に話しても似たような反応だと思う。

 それを理解が足りないとは言わない。だって俺の面倒くさいところが発動してる自覚はあるし。けど、けどなぁ……どうにも踏ん切りがつかないでいる。

 

「どんなものごとだって、一生勉強とか研鑽を続けるものだと思うんだ。それこそ俺なんてまだまだだし、そういう学校に行って経験を積みたいって考えはある」

「そんな立派な考えがあるんなら、行くだけでも価値はあるはずだよ」

「……それがさ、その先を考えてしまうんだよね。きっと、芸術家として最大のご法度をさ」

 

 踏ん切りがつかないのは単純明快、俺の臆しがちな部分がそうさせている。なにかって、現実はそこまで甘くはないってこと。

 仮に美術科のある高校ないし美術専攻の学校なんかに通って、そこからさらに美大にでも進学するとしよう。さて、その先はいったいなにが待ち受けているのだろう。

 それは社会の荒波というやつ。それでなくともお金の回りが寂しい昨今で、果たして新進気鋭の芸術家が食べていけるだろうか。

 いやいや、俺だって自分の絵をお金儲けのために描くつもりなんて毛頭ない。描きたいから描いてるだけであって、そういうのは後から着いて来るものだ。

 けど、それこそ現実は甘くないというもの。社会に出たなら何かしら職を手に付けお金を稼ぎ、自分自身で生計を立てるのも大事なことだ。

 何も美術を専攻したからといって絵関係の職に就かなければならないとも思ってはいない。しかしだ、現実的な発想が最初から浮かぶくらいなら趣味の範囲で留めていたほうがいいのではとも思う。

 爺ちゃんを見てきたからわかることだが、職にならないようなことを貫き通せるのは命を懸けているからだと感じた。

 俺には多分、そこまでの覚悟はない。だからこんな中途半端な奴がそういう道を選ぶのは、命を懸けられる人たちに失礼なんじゃないかって。

 

「あ~……それはなんというか、ハルの主張も間違ってはないかも。私としては手放しで応援してあげたいんだけどなぁ」

「ナツはさ、夢とかある? フユ姉さんに恩返しするとか以外で」

「夢? ……うん、実は最近できたんだ。どうしても、叶えたい夢ができたの」

 

 俺が悩みと自分なりの考えをそのまま伝えると、ナツは額に手を当てて俺の比じゃないくらいに難しい表情を浮かべた。

 ナツの応援したいという言葉が俺にそこはかとなくダメージを発生させるも、想ってくれているというのは嬉しく結果的には五分五分といったところか。

 悩みを聞いてもらう時に質問してみようとは思っていたが、 参考までにナツの進路について話してもらおうかとたずねてみる。

 叶えたい夢ができたのだと語るナツの目は、なんだか物理的ではない遠くを見据えていたように思う。そしてこれは、深く聞いてはならない案件らしい。

 なんとなくだが、ナツが習い事のことをはぐらかすときと同じオーラを感じたから。きっと俺に話せないそれ関係のことなんだろう。間違いなく立派な夢には違いない。

 

「そっか、応援してるよ。頑張って。力になれることがあれば――――」

「ハルは私のことより自分のことを考えなきゃダメでしょ」

「ごもっとも……」

「……そうだ。ハル、今度の休みにアトリエへ行ってみない?」

 

 俺なんかでも少しくらいナツの役に立てられればと思ったんだが、確かにナツの言うとおりにまずは自分のことを優先して考えなくては。

 だがどうにも、やはり誰かに相談してなんとかなる問題でもなさそうだ。目指すにしても止めるにしても、どちらかに傾くような大きなきっかけが欲しい。

 どうしたものかと頭を悩ませていると、ナツはいいことを思いついたと新たな提案を出してくれた。持つべきものは幼馴染である。

 ナツの言うアトリエというのは、もちろんだが爺ちゃんが所有していたもので、俺は爺ちゃん亡き後の管理を任された身だ。

 どうしても集中したいときとかは使っているが、後はたまに掃除をしに行くくらいのものだ。だが、爺ちゃんの作品等はあの日のまま時が止まっている。

 ナツはきっと、爺ちゃんの作品や思い出に触れられれば掴めるものがあるかもと言いたいのだろう。

 

「……うん、そうしてみるよ。今は少しでもヒントが欲しいから」

「決まりだね。それじゃ、次の日曜日ということで」

 

 やはりナツに相談してみて良かったと思える瞬間だ。俺一人でウダウダ悩んでいたとして、アトリエに向かうなんて発想は浮かばなかっただろうから。

 ナツの提案に肯定の姿勢を見せると、なぜだかナツも一緒に来る気らしい。そうまでしてもらうのは申し訳ないような気もしたけど、否定するとまたむくれるから止めておくことにしよう。

 そうしてやってきた次の日曜日、画材一式を詰め込んだリュックサックを背負っていざ爺ちゃんのアトリエへ。

 場所はそれなりに遠いもので、自転車とかで向かえないこともないが電車のほうが楽でいい。そうして移動することしばらく、木造でどこかアーティスティックなデザインの建物を見上げる。

 その建物には大きな看板が掲げられており、アトリエ燦々と銘打っていた。これこそが俺の祖父、日向(ひむかい) 晴善(はるよし)の作品が生み出されていた場所。

 最近は来ていなかっただけに、爺ちゃんへの懐かしさを感じつつ鍵を開ける。扉をくぐると少々埃っぽいものの、息をするのもしんどいということはなさそうだ。

 

「……本当に、ここはいつ来ても寂しい気分になるね」

「……いつまでもこうしてたって、何も前に進まないのはわかってるつもりなんだけど」

 

 アトリエ内をグルリと見まわしたナツは、飾りっぱなしの爺ちゃんの作品へと近づきそう呟く。やはり時が止まっていると感じずにはいられないのだろう。

 たまにここへ来ては掃除をするとは言ったが、移動させた額なんかもキッチリ同じ位置に戻すようにしている。

 それが俺の爺ちゃんに対する未練というものを顕著に表していた。まだまだたくさん、爺ちゃんとしたいことが山ほどあったから。

 ……いけないいけない。悩みを払拭させるためにやって来たというのに、爺ちゃんのことを残念がっている暇はない。

 その解決策とするならばやはりあれか。画板に固定されたままの画用紙。そこに描かれているのは青空と太陽のみ。

 これこそが爺ちゃんの遺作であり、無念にも描きかけで終わってしまった未完の名作。そして、俺へと引き継がれた作品だ。

 

「それ、例の課題だっけ」

「うん。爺ちゃんが俺に遺した最後の課題だよ」

 

 ――――そう、未だに終えることのできない爺ちゃんの課題。

 

『爺ちゃん!』

『晴人か? ほぅ、偉いじゃないか。一人でここまで来られ――――ゲホッ! ゲホッ!』

『はぁ……はぁ……! 爺ちゃんが、病院抜け出したって聞いて、それで、絶対ここって思ったから……!』

 

 五年ほど前のあの日、自宅に病院から連絡があったのを聞いてアトリエまで飛んできた。重い病気を患っているはずの爺ちゃんの姿がないのだと言うではないか。

 アトリエへ来てみれば案の定、爺ちゃんはまるで当たり前のように画用紙へ色鉛筆を走らせている。だが無理をしているのは明白。苦しそうな咳が全てを物語っていた。

 近づいてみたらなおのこと。脂汗が浮いているし顔色も良くない。何より、爺ちゃんの色鉛筆を持つ手は小刻みに震えていて――――

 俺はなんとも情けない声を上げ、爺ちゃんに懇願するようにして安静を促す。

 

『ねぇ、お願いだから大人しくしようよ! 爺ちゃん、じゃないと本当に――――』

『晴人、これを見てみなさい』

 

 必死に爺ちゃんの腕を掴んでそう訴えてみるも、まるで俺の声なんて聞こえてやしないかのように振る舞われてしまう。

 爺ちゃんは俺の肩を掴むと、自分の正面に立たせて描きかけの絵を見せてくる。そこには、本物と見まごうようなタッチで描かれた太陽が大きく写されていた。

 リアルな描写は爺ちゃんの得意とするところで、細かな色分けで精密に描き、写真のような絵は日向 晴善の代名詞でもある。

 しかし、そんなことは孫である俺にはなんの新鮮味もない。なぜそんなことを今と不安な顔で爺ちゃんを見上げると、その大きな掌で俺の頭を撫でつつ爺ちゃんはこう言う。

 

『この絵は、どうか晴人に完成させてほしい』

『え、いや、あの、なんで、そんな』

『ワシはもうすぐ死――――ガッ……! グフッ!』

 

 太陽の元に照らされている何かを描き切ってしまえば完成だろうに、爺ちゃんは残りを俺に任せたいのだと言う。

 俺にはその意図が全く読めなかった。作品の残りを他人に任せようとすることそのものが理解できなかった、とでも言ったほうが正しいのかも知れない。

 そうやって爺ちゃんの意図もわからずただ画用紙を見つめていると、爺ちゃんが大きな咳とともにフローリングへと膝をつけるではないか。

 

『爺ちゃん!? 爺ちゃん、しっかり!』

『晴……人……。人を喜ばせようとして、絵なんて描くものでは……ない……ぞ……。どうか思うままに……思うとおりに……晴人の本当に描きたいものを……ゴフッ! 描く……といい……ゲッホ! ガハッ!』

『もう止めて……止めてよ爺ちゃん! 絵のことなんて今はいいから……。長生きしてくれたほうが、ずっとずっと嬉しいから! 俺だけじゃないよ、父さんや母さんや、ナツにフユ姉さんだってきっと――――』

 

 次第に爺ちゃんは息も絶え絶えの様子になっていき、呼吸をするたびコヒューと空気の抜けるような音が聞こえた。

 上手く呼吸すらできていないということは子供だった俺にもわかり、俺に何か伝えようとしているのをまともに聞いてはいられない。

 そんな悲痛な爺ちゃんの姿はいよいよ見てはいられず、俺は大粒の涙を流しながら無理をするのを止めさせようとする。

 しかし爺ちゃんも己の死がすぐそこに迫ってきているのがわかっていたのか、向こうも俺を無視するかのように伝えたいことを述べていく。

 やがて爺ちゃんの咳きこみに血が混じり始めた頃、ともかく長生きしてほしいと、気でも変わってくれたらと説得を続けるが――――

 

『だからどうか……晴人の本当に描きたいもので……ワシの作品を埋めておくれ……』

『嫌だ、俺は描かない! 爺ちゃんが自分の手で完成させれば――――』

『晴人……ワシはな……お前と一緒に絵が描けて……本当に……しあ……わ……せ……――――』

『…………爺ちゃん? 爺ちゃん。……爺ちゃん! ねぇ、爺ちゃんってば! 返事をしてよ、爺ちゃぁぁぁぁああああん!』

 

 しばらく取り乱してしまったが、すぐさま救急車を呼んだ。しかし、後に聞いた話では俺に全てを伝えきったころには既に息を引き取っていたらしい。

 爺ちゃんを看取った医師はこうも言っていた。人とは時折科学で証明されている事柄をも超えて行くと。

 どうにも爺ちゃんは歩けるような状態でもなかったようで、本当に最期の力を振り絞ってアトリエへと足を運んだんだとか。

 ……もしかすると、ここへ来れば俺がやって来るとでも考えたのだろうか。今となってはそれはわからないが、もしそうだとするならば、なおさらこれを完成させないわけにはいかない。

 

(いかない、のにな……)

 

 ずっと、ずっとだ。あの日以来、頭と心の片隅に爺ちゃんの遺言が――――爺ちゃんの最期の願いがこびりついている。

 それは何度も色鉛筆を取ってなにかを描こうとはしたさ。しかし、それこそ爺ちゃんの願いが俺の邪魔をし続けた。

 俺の本当に描きたいものとは、いったいなんなのだろう。気ままに描けと爺ちゃんは言いたかったのだろうが、こんなことばかり考えてしまっていっこうに作画は進まない。

 こんな俺を爺ちゃんはどう思うだろうか。まったく仕方ない奴だと笑い飛ばしただろうか。それとも、ええい情けない奴めと叱咤しただろうか。

 ……今になっては、もう、わからない。俺には何もわからないんだ。

 

「ハル、スマイル。あっ、なんか語呂がいいかも」

 

 どうにも自分の世界に入ってしまったのか、ナツが以前のように頬を抓って無理矢理笑わせて来た。眼前にあるのはナツの微笑み。

 なんだかあれ以降、俺が考え込むとナツはこうするようになった。俺たち二人のお約束がまた増えたということ。

 相も変わらず時と場合を選ばないのは止めて欲しいが、これをやられるとなんだかこう、むず痒いとでも言ったら良いのだろうか。そんなよくわからない感覚が胸の内を過る。

 

「ねぇハル、スケッチブック見せて」

「それは構わないけど、どうする気?」

「こういう時には、共通点や相違点を捜すのも手と思ったの」

 

 未だ頬に残るナツの手の温かみを感じていると、スケッチブックを貸してくれとの要求が。素直にリュックサックから取り出して渡すと、俺の絵と額に飾られている爺ちゃんの絵を見比べ始めた。

 その表情は真剣そのもので、俺の力になれるよう頑張ろうとしてくれているのが痛いほど伝わってくる。

 ならば俺もこうはしていられない。いつまでも現実から目を背けたって、前になんか進めるはずないじゃないか。

 爺ちゃんへの想いをいったん振り払い、ナツの後ろから覗き込むようにして俺も自身と爺ちゃんの絵の見比べを始めた。

 

「なんていうか、やっぱりタッチや画風は似てるかな」

「爺ちゃんから教えてもらったり、盗んだりした技術だから」

 

 爺ちゃんは真似しようとしてできるものではないと言っていたが、俺もそれなりに日数をかければ写真のように精巧な色鉛筆画を描くことができる。

 それらのノウハウというものは爺ちゃんが惜しまず伝授してくれて、後の技法だとかはそのまま見て盗んだ。

 けどそのせいか、どうしても画風が似通ってしまったというか。俺としては意図して似せているつもりはないんだが。

 そういうふうにしばらくあーだこーだと議論してみたものの、ピンとくるような感覚はまるでない。無駄骨だったかと俺が諦めかけたその時。

 

「……ハルが描く絵、風景画とか静物画が多いよね」

「え……?」

「うん、やっぱりそうだよ。ほら、こっちの使い切ったのも」

 

 ナツが見ていたスケッチブックを一ページ目から捲り直すと、風景画や静物画ばかりだと指摘してきた。

 更には他のスケッチブックも同様で、どれだけ過去に遡っても大きな変化は見られない。そう指摘された俺は、思わず爺ちゃんの描いた作品へと詰め寄った。

 それはもちろん爺ちゃんだってそういうのもたくさん描いている。けど、俺の多さと比べてしまえば可愛いものだ。

 いったいいつからだ。俺が自らの感性に任せ、自らの世界を描かなくなったのは。俺が自分の世界を表現したつもりで描いていたのは――――

 

(ただそこにある景色だけ……)

 

 何も風景画や静物画そのものを描くことがいけないことだとは言わないが、得意気にやってきたのは模写の域を出ない。

 昔はこんなことなかったはずなんだ。爺ちゃんに連れられてアトリエを初めて訪れ、爺ちゃんの描いた世界に感動したあの頃は、もっと俺は……。

 確か、爺ちゃんが俺が子供の頃に使っていた自由帳か何かを取っておいたはず。俺はおもむろに引き出しを開ける作業を始めると、とある棚にて探し物は見つかった。

 恐る恐る中を覗いてみると、そこには拙いながらも模写に相当する絵は存在しない。……なんだ、そんなことだったのか。

 俺は、こんな簡単なこともできないでいたんだ。

 

「ナツ、悪いけど時間もらえるかな? 戻ってくれても全然構わないけど」

「ううん、いつまでも待ってるよ。絵を描いてるハルを見るの好きだし」

 

 リュックサックから俺愛用の七十二色入りの色鉛筆セットを取り出すと、おもむろに爺ちゃんの課題の隣へと置いた。

 大変失礼なことながら、今の感覚が消えないうちに手早く作業へ入りたかった。それゆえナツに目もくれず帰っても大丈夫だと提案するが、それは本人に却下されてしまう。

 ナツはかつて、絵を描く俺はなんかいいと言っていた。それがサラッと好きに昇華しているも、特に照れるでもないのは集中しているから。

 そうして俺は吟味した色鉛筆を手に取ると、長年描けないでいた爺ちゃんの課題へ、あまりにも簡単に筆を走らせ始めた。

 

(爺ちゃん、見てて)

 

 なんだかんだと描けない理由を並べてきたが、俺はやっぱり余計なことばかりを考えていたんだと思う。

 それは例えば爺ちゃんの意図。爺ちゃんが本当はこの太陽の元に何を描きたかったのか。そういうことを考えてしまっていたんだと思う。

 そんなこと生きていようが亡くなっていようが、考えるだけ初めから無駄だというのに。自分の世界も描けない俺が、他人の世界を描けるはずがない。

 そもそも、爺ちゃんの意図は爺ちゃんの中にだけあるものだ。俺がそれを代わりに描こうなどと、おこがましいにもほどがある。

 そして、かつての俺は自らの世界を描くことができていた。その確かな事実が俺を奮い立たせる。だって、こうしていると思い出すんだ。爺ちゃんとの日々を。

 そうだ、この感じだ。あの頃は、とにかくなんでも思った通りに描くのが楽しかった。これを思い出した日には俺の手が止まるようなことは一切ない。

 そして作画開始から数時間後。今までの悩みが嘘のように、長年のひっかかりであった絵は完成した。俺の、本当に描きたいものを描くことによってだ。

 

「……できた」

「よく見せて。……ハルとじっちゃん、だよね」

 

 絵が完成したと呟けば、それまで正面から俺を見守っていたナツが隣から作品を覗き込む。するとそこには、俺と爺ちゃんと認識できる人物が。

 構図としては背を向け、決して顔が見えないように配慮した。表情は見る人たちに想像してもらいたいところである。

 そして俺の姿は現在のもの、爺ちゃんの姿は元気だった頃に近い。これは俺のこういう未来があったならば、という願望的なものだ。

 それも含めて、俺が描きたかったものはこれなんだと思う。人はいずれ死ぬものであるが、爺ちゃんといつまでも楽しく絵が描けたらなって。

 

「爺……ちゃん……。描けた……描けたよ。爺ちゃんの言ってたとおりに、僕の描きたいもので、爺ちゃんの絵を……絵を……完成させることができたよ……!」

 

 ずっと苦しみやら爺ちゃんへの申し訳なさを抱いていただけに、僕の中に宿る一抹の喜びは涙となって現れた。

 ネガティブでない涙なんていつぶりに流したろうか。もはや思い出せすらもしないが、嬉しくて出る涙はこうも熱いものだったろうか。

 とめどなくあふれる涙を拭っていると、なにか温かく柔らかい感触が僕を包んだ。そしてこの、鼻腔をくすぐる甘い香りは――――

 

「ナ……ツ……」

「せっかく描けたのに、涙が落ちちゃったりしたら台無しでしょ?」

「……うん。ごめん、すぐに泣き止むから……。だから、今だけは……」

 

 それらの判断材料から、ナツが僕を抱きしめているというのはすぐにわかった。僕を落ち着かせるためだというのも。

 いつもなら大慌てで飛びのいているところだが、生憎今の僕にそんな余裕はなかった。せっかくなので、ナツの温もりに甘えることに。

 ナツの身長は縮んでしまって現在は僕よりも小さい。身体も華奢になってしまっている。こうして触れてみると、本当に女の子そのものだ。

 これはなんというか、まずい。中毒性でもあるのか、もう二度と離したくないような気さえ――――あたりまで考えて気恥ずかしさが勝り、僕はそっとナツから離れた。

 

「あの、えっと、本当にありがとう。なんとか落ち着いた」

「フフッ、どういたしまして」

 

 今のナツにとって俺と抱き合うのがどういう感覚かは知らないが、こんなの大したことじゃないと言わんばかりに柔和な笑みを浮かべた。

 瞬間、俺の心臓がドキリと高鳴る。そ、そうか、かつてナツに落とされた女子たちはこれを味わっていたわけだ。

 つい勢いよくそっぽを向いてしまうと、顔が赤いと心配された。どうせ熱でもあるのかと的外れなことを聞いてくるのは見えているので、俺は急いでこう切り出す。

 

「そ、それとさ! もう一つ感謝したくて。ありがとう、ナツのおかげで決心がついたよ」

「それじゃ……」

「美術科のある高校、目指してみるよ。ナツのおかげで吹っ切れたっていうか、今は自分の世界をたくさん描いていけたらなって思うんだ」

「……そっか。うん、力になれて良かった!」

 

 さっきも言ったが、ナツがアトリエに来ようと言わなければこうはならなかったはず。見えなかった道を見つけるきっかけをくれたのは間違いなくナツだ。

 本当は感謝してもしきれないくらいなのだが、ナツはどれだけ真摯にしても大したことではないと言うのだろう。

 その証拠に、俺の進路が定まったことを自分のことみたく喜んでくれている。華の咲くような笑顔を見せられ、俺の心臓がまた一つ大きな鼓動を打った。

 

「よし、それじゃ今日はお祝いだね」

「お祝いって、なんの?」

「なにって、じっちゃんの課題が終わった記念。ハルの大好物、いっぱい作るから期待しててよ」

「ア、アハハ……。まぁ、ちょっと頑張ればすぐ終わるような課題ではあったんだけども」

 

 ナツは記念だと言って張り切っているが、俺が無駄に考え過ぎていたせいで終わらなかったために大げさと感じてしまう。

 完成した俺と爺ちゃんの合作を空いた額にしまうと、自宅の仏間に飾るつもりなので大変だが持ち帰ることに。

 仏間ならば爺ちゃんが一番近くで見られる気がするし、何よりこの絵をアトリエに置いておくことはしたくなかった。

 そうしてリュックサックをかるい額を小脇に抱えると、夕食の買い物をしにスーパーへ寄ってから帰宅する流れに。

 俺はたくさん作ってくれるらしい自分の好物に想いを馳せつつ、ナツの買い物に手を貸した。そうして俺たちは、またエコバッグを半分持ち合いながら帰路につくのであった。

 

 

 

 

 




時期が偶然にも卒業シーズンと被ったわけですが……。
皆さんは夢をお持ちでしょうか?
もしお持ちの方がいらっしゃるのであれば、微力ながらも応援させてください。






ハルナツメモ その5【晴人の一人称】
今話で晴人の一人称が一部【僕】になっているが、とある理由があってのこと。
詳しくは明かせないながら、ある意味では晴人の素とでも表現できる。
昔のことを思い出している際以外の晴人が自分のことを僕呼んだ場合、それはより晴人の本音が露見しているようなものと考えていただきたい。
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