……最初、何を言っているのか。提督は、分からなかった。
「……えっ?」
闇色の瞳を濁らせたまま、飛鷹は繰り返す。
「だから、戦いの舞台から身を退きましょう。私もついていくから」
つまりは、何か。彼に、海軍を辞めろと。
そう、飛鷹は言うのか。認めてくれるのか。
彼も迷っていたのだ。飛鷹を守り抜くにはどうすればいいのか。
手っ取り早い方法が、結婚を切っ掛けに、海軍を退役すること。
そして、ただの国民に戻る。役目を終えて、二人で。
戦いに明け暮れる日々に別れを告げて。戦場から去る。
それしか、方法は……ない。
「自分で言ったでしょう? 終わらない戦い、先の見えない終戦。……誰かが言ったわ。何時か、また何時かって根拠のない希望に騙されて、一体私達はどれだけ戦えばいいの? 明確は終わりは、どこ? 貴方の死ぬこと? 私の轟沈? 言い切れる終焉なんて、互いが一番嫌がる結末よ。知っているはずでしょ、貴方は。その痛みを。その苦しみを」
「…………」
父や兄が狂い、死んだきっかけ。
終わりない戦争に人生を奪われ、愛を失い、命さえも消えてしまった。
自分よりも優秀だと思う提督ですら、そういう結末しか迎えられない。
彼は、俯いた。
「死ぬなと私に言うなら、私も言うわ。……死んではダメよ提督。私は、貴方を失えば後を追うわ。間違いなく言い切れる。私は貴方を愛しすぎているもの。誰かに奪われれば、貴方のお父さんと同じ存在になる」
「それは……」
飛鷹は感情をコントロールするのが上手い。でも、愛情をコントロールできる自信はないと自分で言った。
「我慢してきたからね。私の想いを、仮に……そうね、例えばだけど人間が奪ったとしましょうか」
俯く彼の隣に座って、飛鷹は天井を見上げた。
「私は人間の敵になると思う。結局、今の私が戦う理由は、提督の為だから。その存在を奪った奴を、私は決して許さない。愛情が深くなれば、憎しみも深くなる。……裏返しの感情も、根本は同じだって知ってた?」
飛鷹に言われて、今さら気づいた。
そうか。父があんな風になったのは、それだけあの人を……艦娘を愛していたからだ。
深く、強く愛していたからこそ、殊更深海棲艦を許せなくなった。
他の全てをどうでもいいと思えるように、父を変化させてしまった。
「深海棲艦なら、もっと酷いわ。根絶やしにするまで戦う。貴方に生きろと言われても、言った貴方が死ねば、意味なんてなくなるの。残った方は、狂うしかないの。感情が、理性を振り切って、貴方との約束を果たせなくなる。自棄よ、自棄。よく言うじゃない。貴方のいない世界に、生きる理由なんてない、ってね」
「……重たい愛情だな」
なんと重い感情か。飛鷹は、こんな情けない男をそこまで愛してくれる。
闇色を湛えたまま、飛鷹はこちらに顔を向けた。
「……私は嫉妬深いし、独占欲の塊みたいな、自分勝手な艦娘だから。貴方には隠さず言うわ。私は、狂っていると自分でも思う。夢に狂い、愛に狂い、貴方に狂っている。もうここまでくると、艦娘の使命とか、どうでもいいもの。私が欲しいのは未来だからかな。誇りも、栄誉も、なんにも要らない。艦娘として誇りたいと思うものが、全部夢に食われちゃった。私はもう、艦娘としてはダメなのかもしれない。……貴方の全てを求めて、私の全てを捧げたいと思った私は、この時点でもう、艦娘失格なのよ。人間のためには戦えない。私は貴方の為にしか、もう生きる理由なんてない」
顔をあげる提督の肩に、甘えるように頭を預け、寄りかかる飛鷹。
何年もかけて、互いに何度も喧嘩もしたし、すれ違いもしたし、支えって来た。
漸く、この関係になれたのだ。
愛しい恋人。絶対に失いたくない大切な人。
だから、迷う。
彼は葛藤している。提督としての、最低限の矜持。
残った部下たちの事。皆をおいて、二人で逃げるような背徳。
……本当に、選んでいいのか。あれほど、辞めると思っていながら。
いざ、その地点に立つと、彼は迷いを感じる。
いや、迷いではないか。罪悪感か。
申し訳ないと言う、後ろめたい感情が、強く彼を引き留める。
「でもさ……良いのかな。簡単に、辞めるとか言い出して」
「口実はあるでしょ。入院していた時に言われたはずよね? 指輪渡して早く辞めろって、大本営に」
確かに、それはある。けれど、既に解決していることで。
一時おかしくなっていた関係で、彼には安否確認の連絡がよく来る。
それほど、彼の現在の立場は、心配されている。
艦娘たちの気持ちを蔑ろにした、戯けとして記録されているんだろう。
現場は、そんなのでもないが。
「そうだけど……」
口実はあるけど、それは大本営に対するものだ。
皆には、通用しない。一人を選んで、尚且つ戦い続ける。
それが、提督と言う役目の正解な気がして、やはり後ろめたい。
「貴方にだって自覚あるくせに。貴方には、戦いをこの手で終わらせる、なんて豪語する度胸はないでしょ。良いのよ、無理しないでも。私だって、無理なものは無理だと思うし。正直言って、この選択肢以外はないと思うよ?」
「……」
飛鷹は完全に捨てる気だった。
艦娘としての自分も、過去も、能力も。
それよりも夢を選び、未来を選び、恋人を選ぶ。
……こう言うとき、女々しいのは男の方らしい。誠に、情けない。
「お前は、悔いはないか?」
「ないわよ。艦娘のとしての私は、これ以上はなにも望まない。天秤にかける前から、結果は決まっていたし」
即答と来たか。しかも迷いが全く見えない。
今のこの環境には、未練など彼女は感じてないのか。
「未練はないわ。でも、みんなと離れるのは……少し、寂しいわね。でも、それだけよ?」
「飛鷹、お前なぁ……」
羨ましい。何の迷いもなく、提督を選べる彼女が。
彼はまだ、決意を決められないのに。
苦笑いをしてしまった。強いなと思う。
飛鷹には、既に選ぶ道は一つしかない。
「……俺がもっと、優秀なら。違う未来も選べたのかな?」
「どんなに優秀でも、終わりのない戦場にいる限りは、休まる未来なんて訪れないわ。それは、何処にでも今のご時世、同じだとは思うけど。でも、矢面に立つよりは、平穏に暮らせると思わない?」
身を引け、か。提督はコーヒーを一口飲む。少し冷めていた。
彼女はあくまで、戦いから離れることを勧めてくる。
それは名案だと思う自分もいる。
だけど、皆はそれで納得してくれるのか……?
「他のみんなは……」
大丈夫か、と言い出す前に。
隣の彼女が、さらっと恐ろしい言葉を漏らした。
「あぁ、なんだそんなこと? 鈴谷を通じて、皆知ってるわよ? 近々提督を私が自分のものにしてかっさらうって。前にもう、鈴谷には言ってあるから今頃納得してるんじゃない?」
「!?」
何をアッケラカンと言ってるですか彼女は!?
聞けば、鈴谷との演習のあと、彼女に相談したんだそうだ。
飛鷹が、夢を叶える為に海軍をやめて、人間になると。
その為には、鈴谷の協力が必要不可欠。
自分の艦娘の全てを彼女に引き継ぎ、思いを託すと。
だから、前に鈴谷が夢を応援すると言っていたのか。
(あれ、飛鷹の事だったのか!?)
全然気がつかなかった。相変わらず手が早い。
流石は合法でライバルを潰した女。
争った相手さえも、自分と提督のためならば手伝ってもらうと言うのか。
ですので、そんな心配は無用。みんな、納得していると。
夢以外の、飛鷹が長年の我慢を堪えきれずに提督を連れ去り、内地で幸せになるべく、引退すると。
……彼には秘密で既に大半に知れている状況らしい。
「余計な心配はいらないって。皆に説明はしておいたから。……多少、揉めたけど」
「飛鷹さん。最後の一文はなに!?」
今多少揉めたって言った。小声で。
不穏を煽る言葉だが。飛鷹は、何やらとびきりの笑顔で、笑った。
「提督。私は、邪魔は嫌な性格なのね。で、ちょっとばかり危ない感じの娘が何人かいたから、留まらせただけよ?」
「あっ、はい……」
飛鷹の背後で、大きな鷹が翼を広げて大声で威嚇している。
いけない。聞いたら不味い。この嫁、何かヤバイことしてそう。
笑顔なのに怖いのは何でだろうか。
「そう言うわけで、みんなの事は心配無用。私が全部解決しておいたから。あとは、貴方の選択次第」
細かいことは……気にしないで、ならば提督は何を選ぶべきだろうか。
この頼りになる恋人が、迷いのもとを断ち切ってくれたおかげか、軈て。
……何分も考えた。何度も繰り返した。そして、決めた。
自分の身の丈を。彼は英雄ではない。戦い続けるのは難しい。
彼は凡才である。一人の人生しか、共に歩くことは出来ないだろう。
彼は臆病な男でしかない。一人の女を、確実に守りたいと願う。
だから、選べる選択肢は……これしか、無かった。
夢を叶えるためには、最低でも艦娘と提督と言う現状を捨てる必要があった。
確かに、後ろ髪を引かれる感情はまだある。皆との生活は、とても充実していた。
騒がしく、支えてもらって、そしてここまでこれた。
艦娘の、部下のお陰で戦えた。戦い続け、勝ってこられた。
(俺は……幸せな男だったんだな)
皆に支えられ、皆に導かれ、共に歩んだ提督としての年月。
立派な戦果は出せなかった。役に立てたかどうかも、自分じゃ分からない。
だけど。だけども、少なくとも。
みんなと共に戦えた日々は、自分の人生に、大切な時間だった。
……決めた。次の人生設計を、自分の時間を生きよう。
提督としては、そろそろ、お仕舞いにして。
一人の男として、この美しい空母を……いや、ただの女を幸せにするために。
「飛鷹。決めたよ」
提督は、自分の身の振り方を、決意した。
大切なことは、長い時間を約束すること。
何よりも、夢を叶えるために、生き続けること。
天秤にかける。今の自分と、将来の自分。
傾く方は、臆病で、小心者で、もしかしたら間違っているかもしれない選択肢。
でも、一人だけは。一番守りたい、かけがいのない一つを守る。
本当に結ばれる、ただ一つの方法。彼なりの、結論だった。
「俺、提督を引退する。んで、実家に帰ろうと思うんだ。……一緒に、来てくれるか?」
「当然よ。実家どころか、あの世にだって一緒にいってあげる」
笑顔のまま、飛鷹は優しく肯定してくれた。
この日の夜。ある鎮守府の提督と艦娘が、退役を決意した。
……自分達の、夢を叶える為に。