〔序章・第一節〕
まるで、絵の中のような煌めく海面を切り割いて、船は東へと進んでいる。
晩春のある日、今や国内では数少なくなったクルーズ客船『鳳』は一路ホノルルに向かっていた。
低気圧に遭遇して憂鬱かつ気を抜けない一日を過ごした昨日から一転して今朝は早朝から爽やかに晴れ渡り、穏やかな波と心地よいそよ風に恵まれた絶好のクルーズとなっていた。
午前の船内巡回を終えた船長は、操舵室中央の船長席に尻を引っ掛けてコーヒーを啜っていた。
高齢の上品な乗客たちは皆大人しく、彼の心配すべきことは天候位なものであり、概ねゆったりと構えていられるのは実に有難い。
そんなことを漠然と考えていた丁度そのとき時報が鳴り、航海長がくるりとこちらに向き直ると、
「定時連絡、よろしいですか?」
と問い掛けてくる。
「よろしい」
彼は手元の液晶パネルにちらりと目をやりながらおもむろに許可を与え、これを受けた航海長は1等航海士に目配せして報告を促す。
がしかし、報告の内容は概ね予想通りであり、特に代わり映えのする話はなく操舵室内はまた静かになってしまった。
この静けさに何となく堅苦しさを感じた船長は、それを嫌うように声をあげる。
「じきにミッドウェー島近海か?」
「はい、天候に変化無ければ午後には」
気色を察した航海長がちらりと歯を見せて応じたのに少し気を良くした彼は、さらに続けて口を開こうとしたものの、その時余りにもタイミング良く船内電話が鳴りだし出鼻を挫かれてしまう。
航海長も彼の憮然とした様子に苦笑しながら電話に出たが、その表情は甚だ困惑したものになった。
「どうかしたのか?」
「それがその……」
彼の返事は歯切れが悪い。
「何処からだ?」
「後部デッキ詰所からですが、右ウイングに出て頂きたい様です」
「何なんだ一体……」
船長が腰をあげると、航海長も傍らに付き従いながら、
「どうも良くわかりません、人がどうのとか言っているのですが」
と低い声で告げる。
「誰か落ちたんじゃないだろうな?」
「そうではないようですが――」
そういいながらドアを開けてウィングに出た二人は、ほぼ同時に口を開けて言葉を失ってしまう。
どこまでも晴れやかな青空のもと、船は約18ノットで巡航している筈だが、それとほぼ等速で同航する小さな紅白の物体が眼前にあった。
「……航海長」
「あ、は、はい!」
「君にはあれが何に見える?」
「全く自信が無いのですが……人の様に見えます」
「……そうか、君にもそう見えるか……」
「もう少し付け加えますと――あ、無論ますますもって信じられないのですが――和服を着た長い黒髪の人物に見えます」
「人物とは慎重な物言いだな! 私はそう慎重な方ではないので見えたままを言ってしまうが、黒髪を棚引かせた巫女装束の女性に見えるよ」
「何か叫んでいる様ですね?」
航行中の船舶は結構な轟音をたてているものであるが、切れ切れでほとんど聞き取れないとは言えその轟音に負けない程の声を張り上げられるなど並の人間が出来ることではない。
「どうしましょう?」
「話してみるしかあるまい、我々に用があるのは明らかだ」
たった今迄気楽なクルーズの筈だったのに、よりにもよってこんな奇想天外な出来事に遭遇するとは何たることかと、苦虫を噛み潰した様な渋い表情で彼は踵を返す。
まるでそんな境遇を反映するかのように進路には薄雲が広がり始めており、否が応でも憂鬱な気分に追い打ちを掛けて来る。
背中を丸め、溜め息を吐きながら彼らが船内に引き返すと、操舵室内は俄かに慌ただしくなった。