駅を出て海辺の公園目指して歩く仁の手を、追いついてきた子の日が握ったので笑顔で振り返ると、その反対の手を握った陸奥が微笑みかける。夏の気配が色濃く香る風が、軽く彼女の後れ毛をなびかせ、幼い頃に見上げた、遠い夏の日の記憶をくすぐる。
(そうだ、僕は確かに見たんだ――、子の日ちゃんが今見ているこの光景を……)
にもかかわらず、その追憶――彼が遠い日に亡くしてしまった、魂の一部そのもの――を呼び覚ましてくれるこの小さな家族は、間もなくその中心を喪おうとしているのであり、取り戻し掛けた様に感じたその何かは、再び彼のもとから飛び去ろうとしていた。
(僕の――僕の願いは……)
その時、子の日がギュッと強く手を握ってきたので思わず顔を見ると、幼いその姿には到底似つかわしく無い、愛憐と労わりとが入り混じった表情で彼を見上げていた。そして、その彼女の手を握ったまま、陸奥がすっと寄り添うように間合いを詰めてくると、同じような眼差しで見つめてくる。
(二人とも、分かってくれてるんだ――、何一つ口にしなくても)
そう思って咄嗟に振り返ろうとしたのだが、彼がその動作を終えるまでもなく、空いた片手に初春の手が触れるのを感じる。顧みると、彼女がその切れ長の瞳に温かな光を湛えて見つめ返す。
(いつの間に、こんなに支えて貰ってたのかな――)
そう思うと涙が溢れてきそうになるが、まるでそれを察したかの様に長門が声を上げる。
「仁よ、泣きたければ我慢するな。聞けばお前は、長きに渡って涙を流してこなかったと言うではないか。何もめそめそしろとは言わぬが、己の家族のために流す涙であれば、決して悪いことだとは思わんぞ」
葉月を前にしてこんなことを堂々と口にするなど、もちろん仁には出来そうにないが、それでも、彼女が何と言って突っ込むのかは大体想像がついた。
「一応申し上げておきますけど、仁はわたしの許可さえあれば自由に泣いていいんです。ですから、ちゃんとけじめさえつけてくれれば、わたしと仁の家族のために泣くのを禁じるつもりは全くありませんので、お間違えなきようお願い致します」
「これはしたり、塔原殿は、闇雲に泣くのを禁じているわけではないと言うことだな。それに、塔原殿の家族でもあるという事か――、いや、確かに思い違いをしていたようだ♪」
そう言った彼女がさも愉快気に含み笑いをすると、風がその見事な黒髪をふわりと舞い上げる。いつの間にか長門も、ごく自然にこの肩寄せ合う家族の一人になっている様だった。
「こんにちは! お待ちしてましたよ」
公園の入り口に立った斑駒が、歯切れの良い挨拶をしてくれる。
「あっ、駒ちゃん、今日はどうしたの?」
「僕がね、ご無理をお願いして、お休みのところ来てもらったんだ。斑駒さん、お手数お掛けしてすみません」
「いーえー、どう致しまして、さあこちらへどうぞ、中嶋も待ってますので」
「斑駒殿、休日であろうに、ご足労をお掛けして申し訳ない事だ」
「いえいえ、私は皆さんと一緒にいるのが楽しいので、全く苦になりませんから」
いかにも屈託ない様子で斑駒が先に立って進むと、並んだ記念碑の前で中嶋がさっと敬礼して、一行を迎えてくれる。
「こんにちは、皆さん、今日はご姉妹揃ってのお出かけは如何でしたか?」
「ご配慮いただき恐縮です。一方ならず、楽しませて頂きました」
答礼しながら、長門が全員を代表して答えると、中嶋も笑みを浮かべて仁の顔を一瞥するので、それに応じて口火を切る。
「中嶋さん、たいへんお手間をお願いしまして申し訳ありません。今日はよろしくお願いします」
「わかりました。それでは改めてになりますが、本日は、長門さんに幾つかお見せしたいものがありまして、まかり越した次第です」
「私に?」
「ええ、まずはこちらの記念碑からです」
そう言った中嶋が手を差し出した先にあるのは、『軍艦長門之碑』と刻まれ、その下には銅製と思われるレリーフがあしらわれた石碑だった。
「これは――、私の――?」
「そうです。今から40年ほど前に、嘗ての長門さんを偲ぶ有志の手で建立されたものです」
中嶋の言葉を聞いているのかいないのか、長門は碑に近付いて、在りし日の自身の姿を模したと思われるそのレリーフに手を触れるが、その手が微かに震えていることに仁は気づいた。
「やっぱり、むっちゃんよりご紋章の位置が低いんですね」
「そうだ仁、それ故度々波に洗われるので、この後の大改装の折に陸奥と同じような高さに移し替えたのだ――、お前も知っていたのか……」
そう言いながら彼女は碑の後ろにまわり込んで、そこに書かれていると思しき碑文を、眉間に軽く皺を寄せながら読み始めるが、やおら片手で顔の下半分を掴む様に隠すなり、ぷいと横を向き、居並んだ他の碑を見て廻り始める。
「長門さ――」
子の日が声をあげかけたので、仁が顔を近づけて首を軽く左右に振って見せると、彼女もそれと心づいたらしく口を噤む。全員が静かに見守る中、一頻りそれらの碑を眺めてしまった彼女は、皆に背を向けたまま深呼吸をすると、ゆっくりこちらを振り返り歩み寄ってくる。
「有難いことだ、私ごときのためにこのような大仰な碑など――。それはさておき副長殿、先ほど幾つかと言われたが、それはこの並んだ碑のことだろうか?」
「いえ、そうではありません。それでは、長門さんが宜しければ、続いてそちらにご案内しましょう」
「ええ、よろしくお願いします」
「では皆さん、こちらへどうぞ!」
明るく誘う斑駒の後に一行がついていくと、公園の一角の車寄せに、やや大きめの濃緑色のワンボックスが停車している。
「皆さん、こちらにお願いできますか?」
彼女がスライドドアを開けてくれるので、全員躊躇うことなくさっさと乗り込むが、子の日は面白がって最後尾の座席に座りたがり、仕方なく、仁も一緒にそのいささか窮屈な座席に腰掛ける。
「それでは参ります、渡来さんも少しの間辛抱してくださいね」
斑駒の声と共に車は動きだし、ほどなくゲートを通過して防衛隊の敷地内をゆっくりと走っていくが、暫くして再びゲートを抜けて一般道に出る。
「あれは、先日厄介になった病院ですな。目的地はあそこですか?」
「いえ、その隣に我々防衛隊の術科学校がありまして、そちらに向かっています」
その中嶋の言葉通りに、車は防衛隊病院の横を通過するとグラウンドに沿って走り、その先にあるコの字型の建物の横で停まる。
「ようこそお越しくださいました、ご案内いたします!」
建物の横で待ってくれていたと思しき、防衛隊の制服を着た男性が、降り立った一行に向かってきびきびと敬礼した後、建物内に先導してくれる。
「こちらが、資料室になります!」
その男性がさっと扉を開けてくれた部屋には、ガラスケースや書棚などが所狭しと並べられ、様々な品が丁寧に陳列されていた。
「旧海軍関連の資料も、豊富に保管されております! それでは、終わられましたらお声をお掛けください」
そう言い残してかの男性が退室すると、中嶋がつかつかと部屋の一角に歩を進め、とある書棚の扉を開けて、
「こちらにあるのが、長門さんにお見せしたいものです」
と言いながら長門を見る。見られた彼女はやや躊躇いながら彼のもとへ歩を進め、その他の一行も後に続く。
「これらは、長門さんや皆さんのお仲間に関する資料です、長門さんの生涯を題材にした書籍もありますよ」
「――私の、生涯……」
中嶋から本を受け取り、ページを繰って行くその手は、やはり微かに震えているようだった。やがて陸奥がつと進み出ると、その他の資料に手を伸ばす。
「それは、昭和二十一年当時の新聞記事をまとめたものです」
彼女が広げたそれを、仁も近づいて一緒にのぞき見るが、不自然に海軍のことを非難するような記事もあり、少々意外に感じる。
「なんだか――、好意的でない論調のものも多いんですね」
「ええ、当時の国内にはOHQによる言論統制が布かれていましたので、あからさまに占領軍に迎合するような記事を掲載することもあったようです」
「我が身可愛さゆえに、掌を反した輩もいた――、ということにござりましょうかの?」
「敗戦による無力感や喪失感もあって、平時よりも一層近視眼的、刹那的な考え方が蔓延していた影響もあるかも知れません。ですが、その占領も昭和二十七年には終わりました。これらは、それ以降の記事や雑誌などです」
中嶋が出してきた別の資料を広げると、其処での論調は明らかに異なっている。
『世界に冠たる名艦』
『日本の高い造艦技術の証明』
「姉さん、これ見て⁉」
陸奥が声を掛けたが、長門は応えをしない。
「長門さん……」
彼女は面を伏せて、震えながら本を捧げ持っていた手をおろし、それを陸奥が受け取るかわりに彼女が持っていた資料を受け取るが、そのまま顔を上げない。時が止まったように全員が静まり返って見守る中、長門は、まるで悴んでいるかのようなぎこちない手つきで資料を繰るが、暫くして、再び動きが止まってしまう。
「姉さん?」
「――ありがとう――、陸奥よ、もう良い――、もう十分だ……」
掠れた声で、痞え痞えしながらそう応えた彼女が手を下ろしたので、今度は仁がその手から資料を受け取ってみると、開いたページにはこんな言葉が踊っていた。
『我らは敗れじと言へど、ただ長門のみは勝てり』
中嶋が、静かに話しはじめる。
「戦後間もない日本は正に焼け野原で、多くの日本国民は、米国の圧倒的な戦力に破壊しつくされた『神国』の姿に、ただただ茫然とするばかりでした。特に、我が国に対して世界で唯一実戦で使用された核兵器の、その余りに暴力的で残虐な威力は、全ての国民の心を完膚なきまでに打ちのめしたものと思います。しかしながら、その様な屈辱の只中にあって、まるで公開処刑の如く実験場に引きずり出された長門さんが、毅然として核の業火に耐え抜くその姿に、多くの心ある者達は励まされ、絶望的な逆境を生き抜く勇気を貰ったのだと思います。その思いを胸に抱き続けた人々が、復興を果たして、再び世界の国々と肩を並べることが出来るようになった時、胸の内にあった長門さんへの感謝を表すために、あの碑を立てたり書籍を著したりしたのではないでしょうか」
「正に、倉廩満ちて礼節を知るというものにござりますな」
初春がそう呟くのを聞いた陸奥が、姉に寄り添い、その腕を取る。
「姉さんの戦いは、無駄ではなかったのね、たくさんの人に、勇気を与えたのね……」
長門の瞳は髪に隠れて見えなかったが、その頬をつたって涙が零れ落ちる。
「姉さん……」
陸奥が涙を浮かべて、長門の背を抱き締める。堅く拳を握り締め、歯を食いしばった長門は、それでも一切声を上げずに涙を零す。それを見ていた仁は我慢の限界を感じるが、案の定葉月がすうっと傍らに立ち、如何にもしょうがないと言った風情の低い声を出す。
「家族のためだし、特別に許可したげるわよ、わたしは寛大だから」
さすがの仁にも、葉月が許可を出すタイミングが良く分かってきたのだが、大体そういう時は、彼自身に余裕が無い時なのだった。
「なっ、何言ってんだよ、自分だって……」
あとは言葉にならず、どっと涙が溢れてきてしまうが、その様子を見ていた斑駒に(彼女も涙を零していたはずなのだが……)吹き出されてしまう。
「本当に、渡来さんは見てて飽きませんね♪」
それを聞いた陸奥が、長門を抱き締めていた腕を緩めて仁のほうを向き、
「仁と一緒にいると、ちっとも退屈しないのよ、ねっ♪」
と言うと、傍らの初春、子の日にも笑い掛ける。それに笑顔で応える二人をちらと見た長門は、握った拳で涙を拭うと、真っ直ぐに顔を上げ口を開く。
「副長殿、斑駒殿、私のためにお骨折り頂いた事、本当に有難うございます。仁よ、この様な機会を作ってくれたこと、本当に感謝している、有難う」
ちゃんと返事をしようとした仁だったが、例によってボロ泣きしていた彼はまともに応えることができず、これも毎度のことではあるが、女性達の少々強引なフォローに甘んじてしまう。
「いいえ、どう致しまして」
素早くその返事をしたのは陸奥だったので、さすがの長門もキョトンとしてしまい、葉月が猛然と噛み付く。
「ちょっと! 保護者を差し置いて、そういう真似は控えて欲しいわね⁉」
「あら、あたしも葉月も仁の家族だったんじゃないかしら? だから、普通にそうしただけなんだけど♪」
「何、減らず口叩いてるのよ、この図々しい戦艦女は!」
「やれやれ、お前達と来たら――、仁よ、お前も何とか言ったらどうなのだ?」
少々呆れた態で長門が口を挟むが、彼としては最も手に負えない事柄であり、なおかつ、実は不快ではなく少々嬉しくもあったので、返事に窮してしまう。
「す、すみません、そのぉ――」
「ほほ、長門殿、仁殿にとっては無理難題に過ぎましょうぞ♪ ここは、笑ってお見逃しくださりませ」
「そうだよ! それに、仁はちっとも困ってないよね♪」
子の日にまで胸のうちを見透かされてしまった彼は、ただただ苦笑するよりほか無い。
「――いや、その、全く面目次第も無いです……」
「なんとも弱ったやつだ、ハハハッ♪」
長門がカラリと笑い、全員がそれに釣られて笑い出す。中嶋までもが一緒になって楽しそうに笑うその光景は、自分の情けなさ故という点を除けば、仁にとってこれ以上無い幸福な瞬間だったかもしれない。
夕暮れの赤橙色に染められた坂道を上る一行は、何とはなしに言葉少なだったが、不意に長門が立ち止まり、仁を振り返る。
「仁よ、今日は本当に有難う。お前の心遣いに、衷心より感謝している」
「い、いえ、僕はただ中嶋さん達にお願いしただけで、何もした訳ではありませんから――」
「いや、手間の量など問題ではない。現に私は、お前のその心配りによって、とても長い長い間抱き続けていた、その――、胸の痞えが少しだけ下りた気がするのだ、仁よ」
そう言った長門は、はじめて見る晴れやかな笑顔を浮かべる。それを見た子の日と初春が、さも嬉しそうに長門の手をとりに行くと、三人は手をつないで再び坂を上り始める。
(良かった――、本当に良かった)
胸の中が暖かくなった仁が歩き始めると、ごく自然に陸奥が寄り添い、彼の手をとる。
「ありがとう、仁」
思わずその顔を見ると、彼女は滲み出るような笑顔でそれに応える。だが、見詰め合ったのはほんの一瞬で、突然、反対側の手がギュッと握られたことでビクッとしてしまう。
「なあに、まさか嬉しくないのかしら?」
「は、葉月……」
「うふふ、そんなこと無いわよね、とっても嬉しいって、顔に書いてあるわよ♪」
「ほんとに正直じゃないのよね、あんたって」
「……」
二人に掛かっては、何一つ隠しておけることなど無いことを今更ながら思い知った仁だったが、彼がホッとする時間を与えてくれるのも二人なのだ。
(ひょっとしたら、もっと違う答えがあるのかな……)
そんな答えが簡単には出てくるはずもないのだが、それでも彼は、この夕焼けに染められた坂道が少しでも長く続けば良いと、心の片隅でそう願っていた。