その日を境に、僕達二人は、本当に離れていることが辛くなってしまう。お互いの姿が見えないだけで不安に駆られる様になり、どれだけ自分自身に言い聞かせても(もちろん長門さんや葉月に言い聞かされようともだ)止めようがなかった。
そして、そんな数日を過ごした後にそれは起こった。訓練隊での昼食が終わって、皆が寛いでお喋りなどしている最中に、突然むっちゃんが口を噤み、胸を押さえて屈みこんだのだ。
「どうなさったのですか、陸奥さん⁉」
赤城さんの大きな声は、斑駒さんと一緒に片付けを手伝っていた僕の耳にも余裕で届き、おそらく、生涯で最速だったと思われる(ひょっとすると、オリンピック男子100m決勝級だったかも知れない)猛ダッシュをさせる。
「むっちゃん!」
転がるように彼女のもとへ駆けつけると、椅子の上で体を折り曲げ、両手で胸を押さえて宙を見詰めているその傍らに跪く。
「どうしたの⁉ 大丈夫⁉」
もう一度声を掛けるが、彼女は反応を示さない。緊張したその顔はやや青白く、特に苦しげだったり痛そうにしているわけでも無さそうだが、目の前にいる僕が見えていないらしく、じっとその姿勢で固まったまま、とても長い数秒間が経過する。やがて、その緊張に満ちた時間は唐突に終わり、息を吐き出したむっちゃんの瞳に光が宿ると、その焦点が僕の顔に向かって結ばれ、唇が言葉をつむぐ。
「――仁……」
「大丈夫? 何があったの?」
「あのね――、あたしの
それを聞いた途端、周りに集まってきた艦娘達がザワッとしたのだが、僕の脳裏を支配していたのはそんなことではなかった。そう口にしたむっちゃんは、差し出した僕の手をきつく握ってきたのだが、その手は震えていたのだ。
(むっちゃん!)
もう矢も盾も堪らず、ここが何処なのかも周りに誰がいるのかも全て忘れて、その手を包み込むようにギュッと握りしめると、弱々しく肩に顔を埋めてきた彼女にもう片方の手を回してしっかり抱き寄せる。ただ、それ以上何もしてあげられないことがもどかしく、居てもたっても居られない様な思いに駆られながら暫くそうしていると、次第にむっちゃんの震えもおさまり、顔を上げて笑みを見せてくれる。
「ありがとう仁――、もう大丈夫よ」
「ほんとに? どこか痛んだりしない?」
「ええ、そんなことは無いわ」
「でも、何かしら感覚のようなものがあったのですか?」
横あいから、加賀さんが口を挟む。
「そういう、はっきりしたものじゃないわね――。でも、何となく分かったのよ――、見えるような感じ、とでも言えばいいのかしら」
「そうだったんだね――、気分とかも悪くない?」
「ええ、大丈夫みたい」
「ひとまず安心致しました、お水など持って参りましょうか?」
「ありがとう、赤城ちゃん」
彼女が改めて見せた笑顔にホッとした僕は、やっと周囲の世界のことを思い出して視線を上げると、何やら難しい顔をした長門さんと目が合う。
(えっ?)
一瞬の後、僕はその表情の意味を理解して、慌てて辺りをキョロキョロ見回すと――、いた――、艦娘達からは独り離れて、こちらに刺すような視線を投げ掛けている葉月が……。
(忘れてた――、ゴメン葉月……)
ほんの数ヶ月前の僕が今の僕を見たら、おそらく目を疑うことだろう。今日は葉月が一緒に来ていることを、完全に忘れ去っていたのだから。
とは言うものの、さすがにこの時点での僕はまだ、咄嗟に葉月に対して詫びなければという思いが真っ先に浮かんでくるほどには頭が回っていた。なので、わざわざ謝りに行きはしないまでも、彼女の目を真っ直ぐに見詰めることが出来たし、当の葉月も僕の心中を読み取ってくれたのか、きつく責め立てたり嫌味を口にするわけでもなく、こちらを射抜くように睨みつけただけで済ませてくれたのだ。
それはもちろん、むっちゃんのことを気遣ってくれたからなのだが、今にしてみれば、この時に文句の一つも言ってくれた方がずっと良かったのかも知れないと思う。なぜなら、とにかくむっちゃんの事だけで頭が一杯になりつつある僕は、この時より以降、葉月が懸命に気遣いそして耐え忍んでくれていることすらも、次第に気に掛けなくなっていったからだ。
それ以来、時折むっちゃんは同じような感覚に見舞われる様になり、徐々に朗らかさを見せなくなっていく。そのたびに僕は必死で彼女の手を握り肩を抱きしめるのだが、当然のことながら、彼女の傍に居ないときにもそれは起こり、そのことが二人の間の不安を更に強く引き起こさせるようになる。
やがて、僕はわずかに残っていた予定もすべてキャンセルしてしまい、とにかく、四六時中むっちゃんと一緒に行動する様になった。そうすることで、彼女も笑顔を見せてくれるようになり、再び落ち着きと朗らかさを取り戻してくれたからなのだが、何よりも、僕自身がそんな彼女の様子に安堵したからに他ならない。
そして、彼女に笑顔でいて貰うことに日々の全てを費やし始めた僕は、時として、面をそむけた葉月が唇を噛んでいるのを目にしても、
(もう少し我慢してよ葉月、今だけ、今だけだから)
などと、心の中で言い訳を呟く以上のことはせずに、簡単にスルーしてしまう様になっていった。
そんな日々が過ぎていくうちに、いつの間にか、夏はその盛りを迎えていた。
とある夕刻、日が傾き始めると共に、丘の斜面にも少し涼しい風が吹き始める中、僕はむっちゃんと二人で家路を辿っていた。幼い頃から慣れ親しんだ小さな公園の横を通りながら、むっちゃんが話し掛けてくる。
「ねえ?」
「なあに?」
「この公園だったわよね、仁が小さい時、よくお母さんと遊んだのって」
「うん、そうだよ」
僕の返事を背中で聞いた彼女は、そのまま誰もいない公園に足を踏み入れる。
「子供の頃の仁は、何をして遊んでたのかしら」
「そうだねぇ、その滑り台と砂場は好きだったなぁ。そこから滑り降りてくると、母さんが下で待っててくれて、たかいたかいをしてくれるのがすごく楽しかったなぁ」
「たかいたかいって?」
「あのね、こんな風にね――」
彼女の両脇に手をあてて、持ち上げる振りをして見せる。
「こうして手だけで、こうやって抱っこしてもらうんだよ」
「それって、結構力が要りそうじゃない? お母さんは力強かったの?」
「まさか♪ 僕が、こんなに小さかったから出来ただけだよ」
「仁がこんなに小さかったの?」
「そりゃ、子供っていうかほとんど赤ん坊の頃はみんなそうだよ~」
「それはそうなんだけど――、でもあたし、そのちっちゃなちっちゃな仁に会いたいわ♪」
「さすがに、それはちょっと無理かな~」
「うふふ、そうよね♪」
喋りながら、僕らは砂場を出てブランコの柵に腰掛けると、徐々に橙色に染まってゆく街並みを二人で眺める。
「あのね、仁?」
「うん?」
「靴屋さんの約束、覚えてる?」
「あ――、うん、覚えてるよ! そうだよね、ちゃんと話すって約束したよね」
「話してくれる?」
「今、ここでいいの?」
「ええ、ここがいいわ――、ちっちゃな仁とお母さんの思い出が一杯詰まってる――、この公園が良いわ」
「――えっと、それじゃあ、ちょっと長くなっちゃうかも知れないけど……」
「いいわよ」
「――うん」
こうして僕は、これまで意識的にも無意識にも避け続けてきた、痛みを伴う記憶――心の奥底に固く押し込め続けてきた、母さんを喪ったその経緯――を、むっちゃんに話してあげることになったのだ。