陸奥と僕のこと改   作:Y.E.H

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〔第十四章・第四節〕

 物心ついた頃の最初の記憶は、母さんのとても優しげな笑顔だった。とは言え、幼い僕にとっては、毎日のほぼ全てが母さん一色だったのだから、それもまた当たり前のことかもしれない。

僕が生まれたのはこの家ではないのだが、まだ赤ん坊の時に、この海を見下ろす丘の上の家に越してきたのだそうだ。そして間もなく、ご近所で同い年の子供がいるという縁で、葉月の家族と仲良くなった。実際、葉月の父さんも母さんもとても感じの良い人達で、今に至るまで、僕は塔原家と知り合いになれたことを感謝している。それからというもの、僕と母さんは、日々色々なことで葉月のご両親にお世話になっていたのだが、幼い僕にはそのようなことまで知る由も無かった。

ただ、あの頃、幼心に不思議に感じていたのは、どうして僕には母さんしかいないのに、葉月には母さんと父さんがいるのかということだった。成長するにつれて、言葉と言うものを少しずつ使いこなせるようになった僕は、ある日母さんにそのことを尋ねたのだが、その時、母さんは相変わらず優しい笑顔を浮かべながらこう答えたのだ。

「あらあら、仁ったら♪ 仁にだって、ちゃんとパパがいるでしょ?」

そう言われても、何のことやらさっぱり分からなかった僕は、余程不思議そうな顔をしていたのだろう。母さんはキョトンとしている僕を抱っこすると、タンスの上にあったフォトスタンドを指差し、

「ほら、あれが仁のパパよ♪ 忘れちゃったのかしら?」

と笑う。

しかし、僕は忘れているわけではなかった。写真に写っていた、母さんと二人で赤ん坊の僕を抱っこしながら、心底楽しそうに笑っているその男の人のことはちゃんと覚えているが、ただその人のことを父だと思っていなかっただけだ。とにかく、その日以来、母さんはことあるごとに父の話をする様になり、僕も何となく父がいるということを理解しはじめたのだが、それは別に嬉しいことではなかった。

それまでは、母さんは僕だけのものだと思っていたし、実際に、母さんが一番優しい笑顔を向けるのはいつも僕だけだったのに、父のことを話す時の母さんは、僕にだけ向けてくれていたはずの、その優しい笑顔をしているのだ。それが気に入らない僕は、自分に父がいることをはっきり認識するのと同時に、どんどん父のことを嫌いになっていった。

もちろん、言うまでも無いことだが、幼い僕には、そんな感情をうまく隠すような器用なことは出来なかったので、いつもそれが顔や態度に出ていたらしく、母さんはその度に、

「あら、そんな顔しないで、あたしの可愛い仁♪」

と言いながら僕を抱き締め、そして、とびきりの優しい笑顔で僕を見つめるとこう言うのだ。

「ママはね、仁のこと大好きよ、世界で一番好き。でもね、仁のパパのことも同じくらいに好きなの、仁は分かってくれるわよね♪」

母さんにそう言われた僕は、いつもその時は分かった様な気になるものの、結局は同じ場面になるたびに父のことが嫌いになると言うことを繰り返し、モヤモヤする一方だった。そんなモヤモヤを持て余した僕は、このことを葉月に尋ねて見たことがあるのだが、その余りにも彼女らしい返答は、いささか僕を面食らわせた。

「だって、パパもママもわたしのものなのよ⁉ なにがいけないの?」

つまり、葉月の父さんと母さんを両方独り占めできるのは葉月だけなのだから、それが気に入らない理由が分からないというのだ。それは何となく違うんじゃないかなと思ったものの、それを上手く言えそうに無かったので、そのまま黙っていると、如何にも仕方が無いといった風情で腰に手を当てた幼い葉月は、

「もうっ、しょうがないわね! じゃあとくべつに、仁にはわたしのこともひとりじめさせたげるわ! いい⁉ とくべつよ⁉」

と言って(今ではすっかりお馴染みになったあの)ドヤ顔スマイルを浮かべたのだ。何だか、ドンドン方向性がズレて行ってる気はしたのだが、それでも、彼女独特のやり方で僕のことを気遣ってくれたことは、ちょっぴり嬉しかったのを覚えている。

そうこうしているうちにも季節は巡り、やがて、僕らが幼稚園に入園する春がやってくる。そしてそこには、僕がはっきりと認識して以来はじめて、父がやって来たのだった。

彼は、どうやら僕が寝てしまった後で帰宅したらしく、朝目覚めるといきなり枕元に居て、ひどく驚かされる。

「おはよう仁、パパだよ」

そう言った父の声は、それこそどうしたのかと思うくらい優しく、そのうえ何が悲しいのか知らないが、うっすらと涙を浮かべていた。僕は何をどうしていいものかわからず、そのまま固まっていると、父は両手を伸ばして僕を抱き上げ、

「ちょっと会わない間に、またこんなに大きくなったんだなぁ――、元気に育ってくれてありがとう、仁……」

と言って僕を抱き締めたのだ。

それから後は、何が何だかよく分からないものの、決して不快な時間ではなかった。

母さんと父と三人でとる朝食は、母さんの輝くような笑顔と、父がしてくれる見たことも無い外国の話、これからはじめて行く幼稚園のことや、葉月一家がとても素晴らしい人達だという話題などなど、経験したことの無いような朗らかさに満ち溢れていた。

そして、三人で行った入園式は、僕にとって何やら誇らしく感じられるものであり、葉月の父さんにシャッターを押してもらった母さんと父との記念写真には、ちょっとだけ胸を張った僕が写っていたのだ。

そんな風に、とても良い意味で僕の予想を裏切る楽しい入園式(と言うよりも、事実上はじめての父と過ごす日)の帰り道、家に向かう坂の途中で、母さんが葉月のご両親とお喋りをしているごく短い時間、僕は手をつないだ父と二人きりになる。僕がその横顔を見上げていると、視線に気付いた父がこちらを向き、まるで母さんがしてくれるような優しい笑顔を浮かべて話しはじめる。

「仁――、パパはね、お前にいることすら忘れられてしまうくらい駄目なパパだけど、でも、あんな素敵なママのおかげで、こうして仁のパパでいられるんだと思ってる。だからこれからも、たとえいつも傍にはいられなくても、全力でママと仁を大事にすると誓うよ」

そこで一旦言葉を切った父は、振り返ってちらと母さんを見ると、もう一度僕の顔を見てこう言ったのだ。

「それともう一つ、パパは絶対に仁からママを取り上げたりはしないよ、ママにとっての一番は、どんな時でも仁なんだ、パパはその次――、二番目だ。これも、仁に約束するよ♪」

そう晴れやかに笑った父の顔には、嘘や胡麻化しの陰など微塵も無く、どうやら、彼が本心からそう言っている様だと僕は感じた。

そして、その日以来、僕の中で母さんを横取りしようとする悪人になりつつあった父は、その悪いイメージを払拭し、急速に評価を上げていく。

それはやがて、母さんと同じとまではいかないものの、少なくとも、母さんの次に好きな人だと思えるほどにまで上がっていったのだ。

 

そう――、

あの日が――――、

思い出したくも無い、

あの日がやってくるまでは。

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