その後も、父は特に頻繁に帰って来る様になったわけではなかった。もちろん、幼い僕がはっきりと分かっていた訳ではないが、今思い出してみると、概ね半年に一度くらいの間隔で帰国していたのだろう。
記憶している限りでは、少なくとも運動会とお遊戯会に一度ずつ父は姿を見せ、クリスマスプレゼントを持って帰って来て、お正月に旅立っていったこともあったが、それらは全て、僕にとってはこの上もなく楽しい思い出だった。
母さんと父の煌めくような笑顔は全て僕に向けられ、二人とも競い合うように僕を抱き締め、甘やかしてくれた。そのさんざめく様な幸福は、まさにあの時葉月が言ったように、僕が二人を独り占めできることの素晴らしさを実感させてくれた。それが唐突に喪われる日が来るなど、あの頃の僕は欠片も思いはしなかったのだ。
それから再び季節は巡り、僕が年長さんになった夏の事だった。
夏の盛りに帰宅した父は、確かに優しい笑顔で僕にただいまを言ってくれたものの、どういう訳か、いつもの晴れやかさを感じさせなかった。とは言え、それからの数日間、父は僕らを海に連れて行ってくれたり花火に連れて行ってくれたりと、一日も休むことなく親子三人の夏を満喫させてくれた。ただ、今から思えばなのだが、母さんはいつもよりも少し余計に、父を労わる様な素振りを見せていたようにも思う。
そして一夜、僕がふと目を覚ますと布団の上には誰もおらず、居間の扉の隙間から灯りが漏れていた。ああそうだ、一応付け加えておいた方がいいだろう。父が帰宅している間、僕らは三人並んで寝るために、1階の客間に布団を敷いて寝ていたのだ。僕は少々寝惚けながらも、灯りに惹かれて扉の方に向かうと、明らかに母さんと父の話し声が聞こえて来る。
「――どうしようもない、ダメな奴なんだ――、君を裏切る事になると、分かっていながら――」
「だめよ! そんな言い方、してはだめ――」
母さんの厳しい声音というのを、僕は初めて聞いたような気がする。
扉の隙間から、二人の姿が見えるようになると、母さんは父の頭を胸に抱き締めているのが分かり、少し優しい口調でこう言ったのだ。
「あなたが無理矢理付き合わされたこと位、良くわかってるわ、そうじゃ無かったら、こんなに正直に話して、謝ってくれないでしょ?」
それに対する父の応えに、僕は驚かされる。もちろん返事の中身にではなく、父が泣いていた事にだ。
「――ごめん、ほんとにごめんよ、文花……」
そう言ってすすり泣く父を母さんは抱き締めながら、とても優しい声で呟いていた。
「あらあら、ほんとにしょうがないわね、あたしの可愛い泣き虫さんは……」
もし父が嫌いな時の僕であれば、この光景に心底腹を立てていたかも知れないが、父の評価はもう十分に(僕の中では)高くなっていたのでそうは感じなかった。かわりに、何だか見てはいけないものを見てしまった様な奇妙な感じと、説明のしようもない、父に対する微かな共感の様な感覚を覚えていた。
やがて、僕は再び眠気を感じたので、改めて布団に戻るとそのまま眠ってしまった。そしてあくる日、まるで憑き物が落ちた様に晴れやかな顔をした父は、母さんと僕に見送られて元気よく旅立って行ったのだ。
それから、再びいつも通りの僕と母さんの生活が始まり、そこには、特筆すべき変化の様なものは何も――少なくとも、幼稚園の夏休みが終わるまでは――なかった。だが、夏休みももう終わりと言う時になって、母さんはうっすらと赤い顔をして熱を出す。
「仁、ママちょっと夏風邪ひいちゃったみたい」
心配になった僕は外へ遊びにも行かず、母さんにはできるだけ寝ていてもらおうと大人しくしていたが、その甲斐あってか母さんの熱はそれほど上がらず、なんとか幼稚園の始業式は無事に迎えることが出来た。ただ、その風邪はなかなかすっきりとは治らず、母さんは、微熱とだるさがとれないと葉月の母さんにこぼしたりしながら、数日を過ごす。
そうして、幾日かが経ったある日の夕刻のことだった。母さんと一緒に買い物から帰ってきた僕は、少しでも母さんには休んで貰おうと、買ってきた食材を冷蔵庫や冷凍庫に入れたり、キッチンのあちこちにしまったりしていた。ところが、もうそれが終わるという時になって、ふと気付いたことがある。いつもなら、母さんは僕が手伝う様子をとても嬉しそうに眺めており、全て片付け終わるのを待ちかねるかのように僕を抱き締めて、
「ありがとう仁、やっぱり、ママの大好きな仁はほんとに良い子ね♪」
といってくれるのに、なぜかこの時、キッチンに母さんの姿は無かったのだ。
一体どうしたのだろうと思いながら居間へ行くと、そこに母さんは座り込んでいた。
「ママ、どうしたの?」
どういうわけか、母さんは呼びかけに反応してくれない。不安になった僕は、傍に行って母さんの腕をつかむと、軽く揺すぶりながら、
「ママ? ねえママ? 返事してよ⁉」
と少し大きな声を出してみる。すると、焦点の定まらないぼんやりとした瞳にやっと光がやどり、視線が少し彷徨ったあとに、僕の顔にひたと向けられる。
「――じん――仁、仁よね? ああ――、ごめんね仁、ママぼーっとしちゃって――、どうしちゃったのかしら……」
そう言った母さんは、取り乱しているというより、どこかしら心ここにあらずとでも言うか、これまで余り見せたことのない様子だった。不安が募ってきた僕は、もう一度母さんの目を見て話し掛けようとしたが、ある変化に気が付き、思わずそれが口をついて出る。
「ママ、どうしたの? その目」
「えっ?」
そう言った母さんは、居間のテーブルの上に置かれていた手鏡を取りあげると、覗き込むようにして自分の顔に見入る。
「ほんとだわ――、どうしたのかしら……」
澄んで美しかった母さんの目は、黄色く濁ってしまっていた。
「ねえママ、お医者さんにいこうよ⁉ 僕、一緒に行くから!」
「だめよ、仁は幼稚園に行かなきゃいけないでしょ?」
「そのくらい、お休みしても大丈夫だよ! それよりママが心配だよ⁉」
「――わかったわ、仁がそう言うんだったらそうするわね。でも、やっぱり仁はちゃんと幼稚園に行かなきゃダメよ。ママ、ちゃんと行ってくるから、ね?」
「約束だよ?」
「ええ、約束よ」
母さんがそう言ってにっこり笑ってくれたので、ようやく僕は少し安心する。
そしてその翌日、僕は母さんに見送られながら幼稚園のバスに乗った。
幼稚園にいる間中、母さんのことが気になって仕方が無かったが、再びあの優しい笑顔と澄んだ瞳を母さんが取り戻してくれるのだと思って、じっと我慢していた。そんな僕の様子を気に掛けてくれているらしく、いつも以上にあれこれと世話を焼いてくれる葉月を、煩わしいような有難いようなどっちつかずに感じながら帰りのバスを降りたのだが、そこに母さんの姿は無かった。
「仁君、ママどうしたの? メールしても、お返事くれないのよ」
出迎えてくれた葉月の母さんのその何気ない一言に、僕は背筋が凍りつく。
「ママッ!」
ひと声叫んだ僕は、まっしぐらに家目指して駆け出す。脇目も振らず、必死に駆けて駆けて駆け尽くす。
家の前にたどり着くと、引きちぎる様に門扉を開けて玄関に駆け込むが、扉には鍵が掛かっていた。カバンの中にしまってある、一度も使ったことが無かった家の鍵を無我夢中で取り出し、鍵穴に挿そうとするがうまく入らない。
「仁君、貸してみて⁉」
追いかけて来てくれた葉月の母さんが、僕の手から鍵を取ると素早く鍵を開けてくれ、サッと扉を開けてくれる。その瞬間、僕は目の前の光景に絶叫していた。
「ママァッ!!」
母さんは、玄関の上がり框の奥で、体を折り曲げて倒れていたのだ。
「ママッママッ、しっかりしてっ⁉ ママッ、ねぇママッ、返事してよ⁉」
そう叫んで必死に揺さぶると、母さんのまぶたがぴくっと動き、本当にうっすらと目が開く。
「――だれ――?」
「僕だよ、仁だよ⁉ しっかりしてママ!」
「じん――ごめんね――まま――おいしゃさ――こうと――もったんだけど…………」
そこまで切れ切れに呟いた母さんは、それきり再び目を閉じてしまう。
「ママッ! しっかりして⁉ ねぇママ⁉ ママ⁉」
しかし、もう母さんは呼び掛けに答えてはくれず、それから幾らも経たないうちに、葉月の母さんが呼んでくれた(らしい)救急車がやってきて、僕らを病院へと運んで行ったのだ。
その前後のことを思い返すと、葉月の母さんには、どれほど感謝してもし足りないだろうと感じる。彼女は救急車を呼んでくれただけでなく、母さんの携帯のアドレスを見て、お祖父ちゃんお祖母ちゃん達にも連絡してくれた上に、父にもちゃんと連絡をしてくれた。病院の待合スペースで渡してくれた携帯電話からは、悲痛な父の声がしたのだ。
「仁、仁⁉ 大丈夫か⁉」
「パパ――、早く帰ってきてよ……」
「パパ、全速力で帰るからな! それまで、ママを守ってておくれ仁! 頼む……」
「分かった――、待ってるからね……」
にもかかわらず、父は帰って来なかった。
幼い僕には知りようもないことだったが、母さんが倒れたその翌日、米国で未曾有の大事件が発生したからだ。米国とその周辺の空域では、一斉に民間航空機の飛行が禁止され、航空路線は事実上のマヒ状態になり、世界中の国際線は大混乱に陥っていた。父が赴任している南米の国から日本に帰るためには、米国を経由する以外の方法はほぼ皆無だったので、まさにその混乱に渦中にいたわけだが、それも当然ながら、当時の僕が理解できる様なことではなかった。
母さんが倒れたその夕刻には、母さんのお祖母ちゃん(厳密には母さんの母さんなのだが、幼い僕は頭に「ママの」とか「パパの」とかを付けて区別していた)が到着し、翌日には父のお祖父ちゃんお祖母ちゃんも駆け付けてくれたのだが、父だけはいつまで経っても戻って来なかった。
そうこうするうちに、やがて母さんも目を覚まし、どうにか話が出来る様になる。
「ママ、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ――、仁にはこわい思いさせちゃったわね……。でも、とっても偉かったわ、とっても……」
そう言って僕の頭を撫でてくれた母さんは、何だかいっぱい管がついていて、そのうえまだ少し黄色い目をしていたものの、いつもの母さんにかなり戻っていたので、少なからずホッとする。
「ママ、パパは? どうして帰ってこないの?」
僕がそう聞くと、少し悲しそうな顔をした母さんは、改めて僕の頬に手で触れ、
「パパもね、きっと、羽があったら翔んで帰りたいと思ってるはずよ――、だから、もう少しだけ、我慢して待っててあげてね?」
と優しく言ってくれたのだが、今にして思えば、この言葉は半ばまで、母さんが自分自身に言い聞かせるためだったのかも知れない。
幼児である僕にとっては、ほとんど理解できないことばかりだったが、お医者さんとお祖父ちゃんお祖母ちゃん達が話すのを、切れ切れに聞いていたのを覚えている。お医者さんは、ウイルスがどうとか非常に珍しいとか言っており、なんとかの適合性がとか、低下を止めることが出来ないとか難しい顔をしながら話すのだが、それを聞いた母さんのお祖母ちゃんは、なぜか分からないが目に涙を溜めていたのだ。
そして、父のお祖父ちゃんはとても苦しそうな顔をすると、
「あの、大馬鹿者が……」
と汚いものでも吐き捨てるように言ったが、その時はそれが誰のことなのか、僕には良く分かっていなかった。
次の日には母さんは再び眠ってしまい、呼び掛けにも応えなくなってしまう。
(ママ、返事してよ⁉ 早く目を覚ましてよ!)
眠り続ける母さんを見ながら、僕はただひたすら心の中で呼びかけ続けるが、それがそう容易く通じるわけも無く、お祖父ちゃんお祖母ちゃん達がかわるがわる抱き締めてくれるのだが、苛立ちや無力感は募る一方で、次第にそれは、いつまでも帰ってきてくれない父への不信、そして怒りに繋がっていく。
(全速力だって言ったのに)
それがやがて、母さんが目を覚まさないのは、父が帰ってこないせいなのだという思いへと変わり始めたころ、とうとう父が帰ってきた。はっきりとした日にちはやや不確かなのだが、それは多分、母さんが倒れてから7日目のはずだ。
頬がこけ、憔悴しきった姿の父が、お祖父ちゃんお祖母ちゃんと一緒に病室に現れると、母さんのお祖父ちゃんお祖母ちゃんに向かって深々と頭を下げる。
それから傍に来た彼は、膝を付いて、
「ゴメンよ仁、本当に本当にゴメンよ……」
と言いながら僕を強く抱き締めたのだが、確かに、その言葉にも態度にも何の嘘偽りも感じなかったにもかかわらず、この時の僕は既に、それを素直に喜べる心境では全くなく、終始無言のままだった。
もっとも、父がそんな僕の感情を読み取れたのかどうかは甚だ怪しく、立ち上がってよろよろと眠ったままの母さんの横に行くと、動かぬ(それに何だか薄っすらと黄色くなっている)その手をとり、そのまま石のように固まってしまった。結局、その日の夕刻に、僕がお祖父ちゃんお祖母ちゃん達に連れられて家に戻るときも、ずっとそのままで微動だにしなかったのだ。
それから幾日目のことだっただろうか、余りはっきりとはしないものの、おそらく3、4日後のことだったと思うが、とうとう母さんが目を覚ましたのだ。ご飯を食べてから病室に戻ってくると、母さんは少しだけ起こしたベッドに横たわったままではあったが、軽く手を上げてはっきり僕を見詰め、
「仁、あたしの仁……」
と呼びかけてくれたのだ。
「ママッ!」
駆け寄って抱きついた僕を、母さんはそっと抱き締めてくれた。ベッドの上のことでもあり、ギュッと抱きつけなかったのは残念だったが、久し振りの母さんの暖かな手の感触が、僕を心の底から安心させてくれる。
「仁、お顔を見せて、可愛いお顔を、ママによく見せて頂戴?」
その言葉に僕は顔を上げて、しっかりと母さんの顔を見詰める。母さんは少しやせて黄色い顔をしていたし、目も少し黄色いままだったが、それでも、僕の大好きな優しい笑顔だった。
「ママ、もう大丈夫? 病気治るの?」
「ええ、もう大丈夫よ――。でも、すぐには無理だから、仁はもう少し我慢できるかしら?」
「うん、できるよ! ママが治るまで待ってるからね♪」
「ありがとう仁、仁のママになれて、とっても幸せよ……」
それから僕は、母さんと色々なことをお喋りした。
病気が治ったら何をするか一つ一つ数え上げ、その楽しい未来に夢中になり、時折、母さんが顔をしかめたり黙ってしまったりするたびに、調子に乗りすぎたと反省するのだが、それでも、母さんと過ごす時間はこの上も無く楽しいものだった。
そんな僕には、父をはじめとする周囲の大人達の様子はもちろん、母さんの変化を感じ取ることなど出来よう筈も無かった。やがて、どれほどの時間が経った頃だろうか、父のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが、少しママを休ませてあげようと言って僕を促し、母さんと父の顔を見ると二人ともそっと頷いているので、少々残念に思いながらも病室を出る。
いつの間にか、窓の外は暗くなっており、普通ならば家に帰らなければいけない時間のはずだったが、今日はなぜか帰らなくても良いみたいだった。がらんとした食堂で、買って貰ったアイスクリームを食べながら、僕は二人に、母さんと話ができて楽しかったそのテンションのままに喋りかける。お祖父ちゃんは、ニコニコ笑いながらうんうんと話を聞いてくれるのだが、お祖母ちゃんは目が痛いのか、頻りに横を向いてハンカチで目を押さえており、途中で席を立って目を洗いに行ったりしていた。
それから暫くすると、僕はだんだん眠くなってくる。おなかも膨れたし、母さんと一杯おしゃべりをしたうえに、僕が普通に寝る時間も近づいていたのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが、欠伸をする僕を見た二人は、ママにおやすみを言いに行こうといって僕を立たせ、再び病室に戻ってくる。
病室に入ると、母さんと父が小さな声で話をしていたが、僕が入ってくるのを見るとスッと口を噤む。先程よりベッドの傾きは小さくなっていて、母さんはほんの少しだけ上体を起こした姿勢だったが、少し疲れているようにも見えた。
「おやすみを言いに来てくれたのね?」
「うん、明日また来るね。ママはまだ寝ない?」
「ママもね、もうちょっとしたら寝るわ……。仁はもうお家に帰る?」
僕が振り返ると、父が口を開く。
「ママの傍で寝たかったら寝てもいいよ、パパがちゃんと連れて帰ってあげるから」
父の優しい言葉を久し振りに聞いたような気がした僕は、嬉しくなって母さんの顔を見る。
「いらっしゃい仁――、あたしの可愛い仁」
そう言ってくれた母さんの胸元に顔を埋めると、暖かな手がすっと背中に回されるのを感じる。
これでまた、もう暫くのあいだ僕は頑張れると思った。
母さんの病気がちゃんと治って、家に帰ってこれるまで、一生懸命いい子にしていようと思えるくらいに、それは幸せな――、久し振りに幸せな時間だった。
「――仁?」
「なあに、ママ?」
「仁はママのこと、好き?」
「うん、好きだよ、大好きだよ!」
「ママもよ――、仁のこと大好きよ……」
顔を上げて見ると、母さんはこの上も無く優しい、僕の大好きなあの笑顔を浮かべていた。
それを見て安心した僕は、そのまま母さんの温もりの中で、幸福を感じながら――目を瞑った。