陸奥と僕のこと改   作:Y.E.H

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〔第十四章・第六節〕

 それから後のことは、僕にとって、何もかも他人事の様なものだった。

母さんがいない毎日など、何の意味も無い空っぽの器そのものであり、しばらくの間、僕は嬉しいとか悲しいとか感じることすら無くなっていた。笑うことはもちろん、泣いたり怒ったりすることも無くなり、感情の起伏と言うものをあまり感じなくなる。普通にしていても、何かしらどこかが欠けているような感じにずっと付きまとわれ、以前はとても楽しかったことや逆にとても嫌だったことなど、何をしてもあまり違いと言うか気持ちの変化を感じられなかった。

しかし、父には大きな変化があった。あの日以来、父は海外に行くどころか一転して毎日家にいる様になり、僕が小学校2年になったその1学期まで、ずっと家に居続けた。当時の僕には、それがどういうことなのか見当もつかなかったが、どうやら父は会社を休職していたらしい。

会社が優しかったからなのか父が会社にとって必要だったのか、どちらなのかは分からないが、とにかく、ある日突然に海外の赴任先を放り出して、そのまま2年間に渡って仕事を休み、その後また復帰するなどということは、並大抵の事ではなかっただろうとは思う。思いはするが、それはあくまで今の僕からすればの事であり、当時の僕は、そのことにも余り関心が湧かなかった。

ただ、これは当然のことではあるが、学校の行事だろうがなんだろうが、これまで母さんが来てくれたところには全て父がやって来る様になり、それは徹底していた。仕事に復帰してからも、父は必要とあれば平日に休みを取って学校に顔を見せ、何があっても、比較的近くに住んでいる母さんのお祖母ちゃんや、或いは葉月の母さんに代役を頼んだりは一度もしなかったのだ。

そしてそれは、僕に母さんがいないと言う事実として、すぐに知れ渡ることとなった。子供と言うものの残酷さは、それを平然とからかいに来ることでもよく分かる。僕はしばしば、クラスの男子や全く見ず知らずの子達にもからかわれたが、実のところ、それほどひどい思いをしたと言う印象ではなかった。

その頃から(それ以前からでもあるが……)、僕の周囲には常に葉月が目を光らせており、彼女がいる時はもちろんの事、そうでない時でもどこからともなく駆けつけて来て、それこそ猛然と反撃してくれたのだ。頭の回転も速く口も達者な彼女に、この年頃の男子が言い勝てる筈も無く、大抵はあっさり言い負かされて退散する羽目になるのだが、時にはすぐカッとなる短絡的な男子もいて、手を出そうとすることもあった。

ところが、葉月は恐れるどころか、待ってましたとばかりに大声で絶叫して人を呼び、やって来た教師や上級生、警官や無関係な通行人に至るまで、相手が誰であろうが関係なく、加害者達が如何に非道なことをしようとしたかを、相手が閉口するほどまくしたてるのだ。このせいで、学校に親を呼び出された男子は一人二人では済まず、その脅威は噂となって急速に広まったため、次第に僕をからかおうとするものは少なくなっていき、からかう気の無い普通の友達まで減る始末だった。

こうした彼女の振る舞いに感謝したり、或いはそこから派生する諸々の出来事に対して、ちょっとした不満を感じたりする様になった僕は、どうやらそれを切っ掛けとして、徐々にだが感情を取り戻しはじめた。そして、時たま口籠ったりなどはしながらも、少しずつ、周囲の人と普通にコミュニケーションが出来るようになっていった。

そんな僕の様子を葉月は自分のことの様に喜び、一層懇切に世話を焼く様になったが、それが行き過ぎたのか、僕達は遠足の帰路に皆とはぐれてしまい、捜索される羽目になったのだ。この時も、父は会社を早退して葉月の母さんより早く現地に駆け付け、ずっと麓の公民館の外で立ち尽くしたまま、僕らの下山を待ち続けていた。二人が無事に戻ってきた時の父の号泣振りは、周囲の関係者が思わずもらい泣きするほどで、その感動的な情景が地元紙に大きく取り上げられたほどだったが、だからといって、僕が一緒に感涙に咽んだ訳ではなかった。

そんな非常事態ですらそうなので、日常生活の中で父に話すことと言えば、学校の連絡と呼ばれた時の返事のみという有様だったが、父はそれを一切意に介さず、僕がどれほどつっけんどんにしようが、委細構わず話しかけて来るうえに、時にはひどく理不尽な文句を言ったりしても決して怒らず、笑顔すら浮かべていた。

こんな風に日々を過ごすうちに、あたり前の事ではあるが、僕もそれなりに色々な機微が分かる年齢になり、周囲の人達から、様々な情報がもたらされるようになりはじめる。曰く、父が生涯再婚する気はないと断言していること、今は息子(つまり僕のことだ)を立派に育てることしか考えていないと話していること、海外で働くことは父の夢であり、一度は母さんと生まれてくる僕のためにそれをあきらめようとしたものの、逆に母さんがそれを止めたらしいこと……等々だ。

これら諸々のことを僕の耳に入れてくれた人達の思いもそうだが、日頃の父の様子を見続けていたこともあって、次第に僕も父に対するわだかまりを解いて行き、中学生になる頃には、特に仲が良い訳ではない普通の父子程度には会話する様になっていた。

とは言っても、これらのことは僕が父を見直すことに役立ちはしたが、その反面で、さらに別の疑問を強く呼び起こさせたのも事実だ。母さんが亡くなったことに対して、父が強く責任を感じているのは、あの時帰国が遅れたせいなのだろうか、それとも、もっと別の理由があるのだろうか? 僕の脳裏でなお鮮明な、幼い時に見たあの一夜の情景は何だったのだろうか、母さんが亡くなったことと、何か関係があるのだろうか?

この疑問は日を追って大きくなり続けたが、さすがに、それを祖父母に尋ねることは憚られたし、ましてや父に直接それを聞くことなど、到底できる気はしなかった。だが、やはり我慢には限界があるもので、ある日、もう十分に我慢し切ったと感じた僕は、長らく近寄ることもなかった、あの病院を訪ねたのだ。

病院というところは、患者でもなければその家族でもない相手に、ゆっくり時間を割いてくれるほど暇ではないということを、この時つくづく思い知ったのだが、それなりに覚悟はしていたので、辛抱強く待ち続けた。そして、長い長い間待たされた末に、やっと僕の前に出て来てくれたのは、紛れもなくあの時の医師だった。

髪に白いものが多くなり、おそらく遠近両用とおぼしき眼鏡をかけるようになっていた彼は、僕のことを覚えてくれていたらしく感慨深げにしていたが、少しためらった後で、

「――何もかもという訳にはいかないが――」

と言う注釈つきではあるものの、当時のことを言葉を選びながらも教えてくれた。

彼の話によれば、母さんの病名は劇症肝炎とのことで、それはB型肝炎ウィルスによって引き起こされたものであること、そのウィルスが、国内ではかなり珍しい中南米由来のものであったことなど、やや遠い目をしながら話してくれたのだ。

(中南米? それって――)

僕の頭は急速に回転し始めるが、それは表に出さずに、出来るだけ平静を保ったまま質問してみる。

「それはひょっとして――、父から感染ったものなんですか?」

にもかかわらず、彼はわずかに目を伏せた後、再び目をあげると、穏やかだがきっぱりとこう言ったのだ。

「いや、それはやはり、私の口から言うべきことではないと思う。君がどうしても知りたいと思うのであれば、是非お父さんに尋ねてみるべきだろうね」

「――わかりました、どうもありがとうございました」

そう礼を言って僕は病院を後にしたが、もちろん、父に質問する気などは無かった。医師がこんな返事をしたこと自体が、すでに事実を物語っていると思ったからだ。

帰宅して、早速ネットで検索してみたところ、答えはいとも簡単に分かった――いや、分かってしまったと言うべきなのか。B型肝炎ウィルスは、感染者の血液や粘膜との接触によって感染するとあり、感染の主な要因の一つに『性的接触』とはっきり書かれていたのだ。

今更、あの夜のことを、正確に思い出してみるまでも無かった。父は母さんに、「君を裏切ることに」と言って泣きながら詫びていた(そして母さんは、そんな父を赦していたのだ……)からだ。僕は確信した――、父は現地の女性との性的接触で感染し、更に、それとは気付かないままに母さんにも感染してしまったのだと。

その時湧き上がってきた感情を、当時は説明できなかったが、こうして今思い返してみると理解できる。僕はもっと腹が立ったり憤ったりするものと思っていたが、それよりも遥かに強く感じたのは、もっと正体の知れない、言い様もない嫌悪感だったのだ。

(結局そうだったんだ、母さんを取り上げたりしないなんて、口先だけだったんだ!)

そんな風に、強い憎しみをぶつけても見たのだが、なぜか激情が湧いてくる気配もなく、静かで強い嫌悪が胸郭の内側を満たしていくばかりだった。

だからと言うべきなのかどうなのか、それほど衝撃的な確信を抱いたにもかかわらず、僕はその夜帰宅した父にも落ち着いて(会話も少ないので、ある意味当然かもしれない)接することが出来たし、その後も一見変わりなく過ごすことさえ出来ていた。もっと父に対する激しい憎しみや怒りがあったなら、それをぶつけることもできたのだろうが、その強い感情を手にすることが出来なかった僕は、ただただ耐えがたい嫌悪ばかりを日に日に募らせていった。

(ダメだ――、このまま、ずっと一緒に暮らすなんて出来そうに無い)

そう思い始めた僕は、遠くの高校を志望して家から出ることを考えてみたものの、自分の学力その他と相談して、うまく釣合うような先を見つけることはなかなか難しかった。考えあぐねた末に行きついた結論は、もう一度父に海外赴任してもらうことだ。

(とにかく、説得してみるしかないな)

そう結論付けると、ひとまずは目の前の受験に専念することにして、一方で父をどんな風に説得するか考え続けた。そして、どうにか無事に高校受験を乗り切り、近隣の県立高校に(残念ながら、葉月ともどもだ)合格することが出来たその夜、早速その話を切り出してみた。

「――あのさ――」

「なんだ、仁?」

久しぶりに缶ビールをあけた父は、言うまでもなくとても上機嫌だった。いささか心苦しさを感じながらも、僕は精いっぱい何気なさそうに切り出す。

「もう、海外では働けないの?」

それを聞いた途端、父は酔いがいっぺんに吹き飛んだような顔になる。

「――いや、そんなことは無いだろうが――、なぜ、そんなことを聞くんだ?」

「決まってるだろ、父さんが我慢してるからだよ」

すっかり素面になった父は、しばらくの間黙りこくっていたが、やがて徐に話し始めた。

「仁――、我慢してないといえば嘘になる――、けどな、もうそれはあきらめてるんだ」

「母さんは、それでよろこぶのかな?」

もちろん、事前に一生懸命考えた言葉だ。

「――――仁は、喜ばないだろうと思ってるのか?」

「そうだよ――、それにさ、父さんを我慢させてるっていう気がずっとしてるんだよ」

「仁が、そんなことを気にする必要はないんだぞ? お前を立派に育てることは、父さんの責任だ」

「もう十分育てて貰ってるよ、それにさ、海外で働いてたって、生活費ぐらいはちゃんとくれるだろ?」

「そ、そんなのは当たり前だよ、でも、お前はまだ中学生だ、一人暮らしさせるなんてさすがになあ……」

「4月からは、高校生だよ」

「いや、だからと言ってもな――」

「別に、無理を言う気はないよ――、でも、母さんが望んでたことなんだろ? だったら、僕は母さんの望んだ通りにしてあげたいだけだよ」

「仁…………」

それきり、父は黙ってしまった。そのままとても長い間沈黙が続き、さすがにどうしたものかと思い始めたころ、やっと父が口を開く。

「――仁、少し時間をくれないか、父さん真面目に考えてみるから」

「わかったよ」

その日はそれで、二人の会話は終わった。

 

それから数ヶ月後、結局、父は説得をうけいれて旅立っていった。

空港に一緒に見送りに来た葉月は、僕の心の中を見透かしているのか、ターミナルの屋上から飛行機を見送りながらこう言ったのだ。

「まだ、赦してあげてなかったのね、ここまでしなくたって良かったんじゃないの?」

(ちぇっ、何だよ――、全部分かってるみたいに……)

幼い頃はともかく、この頃になると、すっかり彼女の保護者然とした振る舞いが鼻につく様になっていた僕は、ろくに口もきかずに家に帰り、食事(父が作ってくれておいたものだった)を摂りながら、ふと立ててあった母さんの写真を見る。

ところが、一体どうしたわけか、写真の中の母さんはひどく悲しそうな顔で僕を見詰めていた。

「母さん――、僕、そんなに悪いことしたのかな?」

思わず口に出してそう言ってみたが、まるで写真の中の母さんは、「そんなんじゃないわ、でもね……」とでも言っている様に見えた。そんな風に、相変わらず僕のことをひどく悲しそうに見詰めている母さんに、一言だけ正直な言い訳をした。

「ごめん、母さん――。でも、やっぱりどうしても我慢できなかったんだ――。だって父さんは僕に、絶対母さんを取り上げたりしないって約束したんだよ――、なのにさ……」

このことで父と喧嘩をすることもできなかった僕にとっては、こうするしかなかったという強い気持ちがあったのは事実だが、そんな言い訳をしたからと言って何が変わるわけでもなかった。それでも、写真の中の母さんは、僕のそんな言葉を聞いてくれたのだろうか、悲しげだったその眼差しに、さらに労わるかのような慈しみが浮かんで見えた。

(母さん……)

その夜のうちに、僕は家中の母さんの写真を集めると、箱に入れて大切にしまい込んだ。母さんのその眼差しに、毎日見詰められながら暮らす自信が無かったからだ。

やがて月日が経ち、僕は自分一人の生活に馴染み、それなりの楽しさを見つけていった。

母さんのことを忘れた訳ではなかったが、そのことを強く思い出すことも減っていき、徐々にその面影も薄れていく一方だった。母さんと父とを、切り離して考えることが出来たら良かったのかも知れないが、それは無理な相談であり、僕にとっては、母さんの辛い思い出と父に対するどうにもならない嫌悪との両方に向き合い続ける様なことは、やはり重荷に過ぎたのだと思う。

もちろん、その後も父は年に1,2回ほど帰国したし、大学進学の際には少し長めに滞在して、手続きをしてくれたりはしたものの、僕に余り歓迎されていないことは感じ取っているらしかった。

葉月は、父が帰国するたびに迎えに行くと言い張り、食事を作るからと言って家に押しかけたが、おそらくは、僕と父を出来るだけ二人きりにしないように気を遣っていたのだろう。もっとも、それを素直に有難いと感じるほど、僕は素直ではなくなっていたのだが。

そして、いつしか僕は、過去の辛い思い出を心の奥底にしまい込んで暮らすことが、ごくごく当たり前になっていった。

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