陸奥と僕のこと改   作:Y.E.H

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〔第十四章・第七節〕

 話し終えたときには、あたり一面夕焼けの赤一色に染まっていた。

「ゴメンね、長々と喋っちゃって……」

「ううん、いいのよ」

その何気ない遣り取りをかわしながら、顔を上げてむっちゃんの方を向いた僕は、息が止まりそうになる。

彼女の瞳から零れた涙が、まるで大粒のルビーのように夕焼けの色を映して煌いており、その美しさにハッとさせられただけならともかく、それ以上に、その瞳に満ち溢れていた深い労わりと慈しみとが、僕の心臓をギュッと握りしめたからだ。

「あ――――、か、かあさ――――、い、いやごめん、何でもないよ……」

「別に、謝らなくたっていいわ――、それよりも、教えて――あたし、仁のお母さんに似てるのかしら?」

そう言った彼女の顔を、思わずまじまじと見つめてしまう。

「――どう?」

「あのねー―」

「なあに?」

「ほんとに、すごく不思議なんだよ――、顔も姿も全然似てないのに、なぜこんなにむっちゃんは――」

「――お母さんと、似てる?」

「――うん……」

これまで、記憶の中の母さんの姿には、うすい靄がかかったようにはっきりしない部分があったが、今は鮮明に思い出せる。だが、鮮明であればあるほど、母さんとむっちゃんは似ても似つかぬ姿であることが、余計にはっきりする。

むしろ、姿かたちが母さんによく似ているのは葉月の方だ。実際、葉月は背丈や顔立ち、黒々とした髪をポニーテールにしているところなど、ほとんどそっくりと言っても差支えないくらいによく似ていた(葉月の事なので、ひょっとするとわざと似せようとしているかも知れない)。

にもかかわらず、それでも母さんに似ていると感じたことはただの一度もなかったのに、どう言うわけか、姿形が全くと言って良いほど似ても似つかないむっちゃんは、僕の記憶の中の母さんと幾度となく重なり合う。

「そう――、そうなのね――。それなのに、何だかあたし……」

「どうしたの?」

「だって――、あたしは七十年前からずっと海の底にいて、そこから見える世界しか知らなかったのよ。でも、その間に、陸の上では仁が生まれて、この世で一番好きだったお母さんを亡くして、泣くことも笑うことも忘れて、お父さんを嫌いになって、大好きだったお母さんのことも忘れていただなんて――。あたしがずっと、海と海面の向こうの空だけを眺めてた間に……」

「でも、それはさ――」

「わかってるのよ、でも、何だか悔しいわ、あたしをこんな姿にしてくれたのが神様なんだったら、どうして、もう少しだけそれを早くしてくれなかったのかしら……。そうしたら、あたしはちっちゃな仁のところに来て、ぎゅって抱き締めてあげられたのに……。もう一度泣いたり笑ったりできるようになって、大好きなお母さんのこともちゃんと思い出せるようになって、お父さんとも一緒に暮らしていけるようになって、こんな風に大人になるまで、ずっと傍に居てあげられたのに……」

「むっちゃん……」

「馬鹿な事言ってるわよね――、ちっちゃな仁が、突然やって来た見たことも無いあたしにギュッてされて、嬉しかったり安心したりするわけないものね……。だから、そんなことできるわけないわよね……」

「……」

本当にいつものことなのだが、ここで何かを言わなければと思ってみるものの、やはり、何一つ気の利いた言葉が湧いてこない。

ただ、こんな僕にも、一つだけ確信を持てることがある。もしも、幼い僕の前にむっちゃんが現れて、抱き締めてくれたとしたら、きっと怖れたり怪しんだりする気持ちよりも、そのやさしく暖かな胸に抱かれる喜びと安らぎとの方が優ったことだろう。例え今の僕でなくとも、幼い僕にだって、彼女の純粋なやさしさと心地良い暖かさを、ちゃんと理解出来るはずだと思う。

でも、例えそうだったとしても、あの幼い日々は全て過ぎ去ったことだ。もはや取り返すことなどかなわない、遠い日に起こった出来事ばかりなのだ。

「けれど――、みんな起こってしまったことばかりなのね……。今どんなに願ってみても、どうにもならないことばかりよね……」

まるで僕の心の中を読み取ったかのように、むっちゃんが呟く。そうだ、起きてしまったことばかりだ――、僕が亡くしてしまったものはみな、今からではもう――――。

「ねえ仁?」

「うん、なに?」

「ちっちゃな仁を、ぎゅっとしてあげるのはもう出来ないから、今の仁をぎゅっとしてもいい?」

「え……?」

僕の顔を見ながらそういった彼女は、すっと立ち上がって僕の前に立つ。

 

(あっ……!)

 

少し下から見上げるむっちゃんの顔は、夕日の最後の残光に照らされて赫く染まっており、優しさと慈愛に満ちた笑みを湛えている。

それを目にした刹那、胸の深い奥底で、長い間錆びつき閉ざされていた水門が、ギシギシと音をたてて軋みはじめる。

夕焼けに染まった、この上もなく優しい笑顔は、

僕を愛してくれた――――

世界一好きだと言ってくれた――――

そして僕もまた世界一好きで――――

いや、僕にとって世界の全てであり、

世界そのものだった――――。

 

(違う! ……やめろ、勘違いするな……!)

 

「…………母さん…………!」

 

少々言い聞かせたぐらいでは、やはり僕の体は言うことなど聞きはしなかった。

それに、例え、言うことを聞かせられたとしても、抗える術など実は何もなかった。

彼女のいたわる様なその手が、僕の頬にそっと触れた瞬間、錆びついた水門は一気に開け放たれ、胸の奥からどっと何かが溢れ出してくる。

夕焼けの公園で、小さな両手を差し上げる僕を、この上もなく優しい眼差しで見つめ、その暖かな両手で抱き上げるとしっかりと抱き締めてくれたのは、紛れも無く母さんだった。

その温もりに包まれる安らぎは、二度と触れることのできない、久遠の彼方に喪われてしまったはずだった。

そうだ――――、たった今、この瞬間までは……。

 

「あたしは、仁のお母さんにはなってあげられないけど――、でも、今だけは、大好きだったお母さんのこと、一杯思い出してね……」

 

何もかもを包み込んでしまう、柔らかなむっちゃんの胸に抱き締められて、僕は涙を流した。

遠いあの日に流すことも出来なかった、胸の奥底に溜め込んだままだったそれは、どれほど流しても尽きることが無いほど、とめどなく溢れ続けた。

 

「あらあら、ほんとにお馬鹿さんね……。こんなに悲しかったのに、ちっちゃな仁は、じっと我慢して泣かずにいたのね……。大好きなお母さんを亡くして、辛くて悲しくて仕方なかったはずなのに…………」

 

僕を抱き締める彼女の腕の温かさは、あの日の母さんの最後の思い出そのものだった。

あの時感じた幸せは、ほんの一夜で喪われ、それきり、二度と手の届かないものとなったはずだったのに、今同じ温もりと幸福とが僕を包み込んでいる。

 

(母さん――――母さん…………)

 

涙を流しながら、僕は悟った。

母さんは、僕を愛するのと同じくらいに深く父を愛し、父もまたそれに負けないほど母さんを愛していたことを。

不器用な父は、母さんを喪った後、自分の残りの人生を全て擲ってでも、母さんと同じように僕を愛そうとしていたことを。

それらを、僕はとっくに理解していたにもかかわらず、それを素直に認めることが出来なかったことを。

だが、それら全てを認めるためには、その痛みを受け止めなければならなかったのだが、胸の奥底にいる、幼い日のままの僕にはそれが出来なかった。

その幼い僕は、いつもその痛みを拒み、叫ぶのだ。

喪ってしまった自分自身の一部は、ずっと欠けたままだと。

はち切れそうなほどの悲しみを抱えて、恨めしげな暗い瞳で、こちらをひたと見詰めている幼い僕が……。

 

(でも、君がそれをくれた――、僕があの日、母さんと一緒に亡くしてしまったものを……)

 

正直な僕も、素直でない僕も、いつも自信が無くて頼りない僕も、それら全てを分け隔てなく等しく愛してくれる――まるで母さんのように、僕の全てを無条件で受け容れてくれる――むっちゃんが、欠けたままだったそれをくれた。

長い間見つからなかった破片が、魔法のようにぴったりと接ぎ合わされるのを見るように、僕の心の最も奥深くにある何かが、満たされていくのを感じる。

胸の奥底にあの日からずっと居つづけた、悲しみに満ちた目をした幼い僕が、幸せそうに笑っているのがはっきりと見える。

 

(これが、僕の欲しかったものだったんだ――、ずっとずっと欲しかった……)

 

手垢に塗れた言葉だと思っていたが、彼女と巡り会えたことこそ、本当に奇跡そのものだと思った。

むっちゃんは僕の命を救ってくれたばかりか、遠い昔に喪ってしまった、大切な何かをも与えてくれたのだから。

「――むっちゃん――――僕は――」

泣きながら懸命に何かを言おうとしたが、名前を呼ぶことしか出来ない情け無い奴のことなど、既に彼女はお見通しなのだ。

 

「なんにも言わなくていいの……。それよりも、思い切り泣くこともできなかった、ちっちゃな仁の分まで一杯泣きなさい――、あたしの可愛い泣き虫さん……」

 

彼女の言葉は、砂漠に降る雨のように僕の全身に沁み込んでくる。

そこにはもう、素直でない僕がいる余地はなく、ただただ己を潤す温かな雨を受け止める草の様に、彼女の言うことに素直に従うことしか思いつかなかった。

何もかも、ありのままを受け容れてくれる彼女の前では、見栄も意地も必要なく、まるで、母さんと二人の日々を過ごしていたあの頃に戻った様に、ただただ無心に泣くことができたからだ。

 

その幸せに――、もう二度と手にすることはないと思っていたそれに――、尽きることのない涙を流しながら、浸り続けるばかりだった僕は、街路樹の陰から注がれる、葉月の燃える様な眼差しには、最後まで気付くことが出来なかった。

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