それからの時間は、何だかとても短く感じた。
大阪迄の車窓の眺めはほとんどトンネルに遮られてはいたが、合間の景色を眺めるむっちゃんの驚きや感嘆に僕と葉月が代わるがわる応じたりしている間に時は飛ぶ様に過ぎていった。
夕暮れから夜に掛けて大阪や京都、名古屋といった大都市の華やかさや明るさにたいへんな感銘を受けたらしい彼女は、
「そうよ――戦争が始まる前は、これ程では無かったけど海から見えた街は華やかで楽しそうに見えたわ……」
としみじみとした感想を漏らしていた。
だがその辺りの記憶を最後に、僕らは何時しか眠ってしまっていた様だ。
ふと気が付いたのは熱海付近だっただろうか、見れば僕だけで無く何時の間にやらむっちゃんも葉月も静かに寝息をたてていた。
葉月は何時もの様に腕組みをして顎を衿元に埋めるようにして眠っていたが、その向こうのむっちゃんはリクライニングシートに半身をゆったり預け、僅かにこちらを向いて眠っている。
微かに口を開けたその表情はこの上も無い程邪気がなく、それでいて粗野なだらしの無さは微塵も感じられない。
その光景は僕の胸の奥に痺れる様な充足感をもたらし、深い感動にも似た何かが込み上げて来そうになったが、すぐにそんな感情を打ち消す。
(何満足してんだよ、まだ何もかも始まったばかりだろ⁉)
そうだった、全ては始まったばかり――いや、それどころか何も始まってすらいないとも言える。
そう思いなおすと、いそいそとゴミや荷物を纏めて次の行動に掛かる準備を始めた。
次に彼女に必要なものは当座の衣類だが、中でも下着となると男である僕にとっては不可能に近い難題でもあるので、ここは是非とも葉月の(積極的な)協力が欠かせない処だ。
(新横濱で全部何とかしなきゃな)
彼女の寝顔を見ながら兎に角そうしてしまおうと思う。
僕自身も含めてだが、今日は余りにも色々な事が起こり過ぎているからだ。
特にむっちゃんは今日初めて人としての活動を始めたところなのだから、本人に自覚が無くても普通に考えれば身も心もくたくたになっている筈だ。
何がなんでも買い物は一ヶ所で全部済ませてしまって、後は脇目も振らずに家に帰るべきだろう。
そんな事を考えながら二人をどのタイミングで起こしたものかと迷っていると、むっちゃんが身じろぎをして眠そうな眼を微かに開く。
「目が醒めた?」
「……あ――あの――ええっと……仁、仁よね? あたし、どうしちゃったの?」
「眠ってたんだよ」
「眠って……、これが眠るって事なの?」
「そうか、むっちゃんは眠るのも初めてだったんだね。疲れたりすると、自然にそうなるんだよ」
「そうなのね……昔は、皆夜になって死んだ様に動かなくなっちゃうのが何故だか全く理解出来なかったわ。こう言う事だったのね……」
また一つ初めての経験をした彼女は戸惑いの中にいる様だ。
「それじゃあ、あたし何時から眠ってたの? その――仁が頭を撫でてくれて何も心配しなくて大丈夫だよって言ってくれてからすぐに寝ちゃったの?」
もちろん僕はそんな事をした覚えは無いし、何より葉月も横にいると言うのにそんなことが出来る筈もない。
「ふふ、そんな事してないよ。でもそれいいなぁ、凄くしてあげたいよ」
「えっ……どういう事? あたし、何でそんなこと覚えてるの?」
「多分、むっちゃんが夢をみたんだよ」
「ユメ?」
「そうだよ、人は眠った時によく夢をみるんだよ。夢の中でみた事はよく現実に起こったことと関係してるから、今のむっちゃんみたいに記憶が混乱することも時々あるんだ」
「そうなの……あたし、眠るのも夢をみるのも初めてだから……」
「どんな感じ?」
「正直に言うけど――ちょっと恐いわ。今起こってる事は実は全部夢で、目が醒めたらまたあたしは独りで海の底にいるんじゃないかって思ったら――」
そう言う彼女の瞳に涙が滲むのを見た僕は、心臓をぎゅっと掴まれる様な切なさに襲われる。
「だ、大丈夫だよ! これは夢なんかじゃ無くて本当の事だよ。それに絶対、絶対にそんな事起こらないから! 何があってもむっちゃんを一人ぼっちにしたりしないから! だから――これからは安心して眠っていいんだよ」
「うん……有難う仁」
そう言って、彼女は涙を拭いて笑顔を見せてくれる。
「んっ――んふっ、ふあぁぁぁ――あふっ」
ちょうどその時、お世辞にも淑やかとは言えない欠伸をして葉月が目を醒ます。
「お早う、葉月」
「あらお早う仁。目覚めの一杯はどこにあるのかしら?」
「ったく……これでもよろしいですかお嬢様?」
そう言ってまだ開けていなかったお茶を恭しく差し出すと、さも当然と言った顔でそれを受け取った葉月は、一応僕の道化に少しだけ乗って見せた後でむっちゃんに向き直る。
「んっ、下がってよろしい。ねぇ、むっちゃんはお水まだある?」
「あっ、ごめんなさい、全部飲んじゃったわ」
「じゃあ一口先に飲んだら? 寝起きなんでしょ」
目の前にボトルを突き出された彼女は一瞬当惑し掛けたものの、自分を気遣ってくれているのに気が付いて笑顔を見せる。
「あら、いいの? 葉月さんが飲むんじゃないの?」
「後で貰うからいいのよ! それより、寝覚めのお茶は美味しいわよ」
「判ったわ、有難う葉月さん」
「何でもいいけど『葉月』で良いわよ?」
「えっ……でも――うん、判ったわ葉月♪」
「そうそう、それでいいの♪」
そう言って笑い合う二人の間に和やかな空気が流れるのを感じたので、僕も安心して買い物の話を切り出せる。
「もうすぐ新横濱だよ、降りたら急いでPIPIに寄ろうか」
「んっくっ、んくんっ、うんっ――そうね~余り時間無いから取り敢えず最低限要るものだけかしら?」
「XYZマートも寄った方が良いよね?」
「時間があればよ」
「???」
「むっちゃん、服選ぶの楽しみにしてたわよね?」
「ええ、とっても!」
「じゃあ、駅に着いたら脇目も振らずにわたしに付いて来てね、荷物は全部この下僕が持って来てくれるから心配ご無用よ♪」
「そ、そのごめんなさい仁……」
「もう、諦めてるよ」
「うふふ、頼んだわよ」
実際その方がずっと合理的なのは僕にも良く分かっていたし、ここは素直に葉月にリードして貰うのが一番なのだが、ちょっとがっかりしているのもまた紛れもない事実だった。
そしてその言葉通り、葉月は新横濱に到着して列車を降りるなり彼女の手を引いて小走りに行ってしまう。
むっちゃんはその間際済まなそうにこちらを見たが、もちろん僕は笑顔で見送る。
はしゃぐ彼女と一緒に服を選ぶシーンを夢想していた身としてはもちろん残念には違いないが、それ以上に時間が無い事は良く分かっていたからだ。
そんな訳で、僕は二つのスーツケースを引き摺りながら二人の後を真っ直ぐ追い掛けたりはせずに、コンビニに立ち寄って明日の朝食の調達を適当に済ませてから、改めて二人がいる筈の商業ビルに移動する。
目当てのフロア迄上がって店舗内を少し覗いてみたが、彼女らと思しき人影は見えない。
(試着でもしてるのかな?)
それは当たり前に想定内の事だったので、余り気にもせずに
(やっぱり履き物いるよなぁ)
などと考えながら靴屋の店頭を眺めていた。
むっちゃんにはどんな靴が似合うだろうか?
まぁ服と合わせて選ばなければ意味が無い事は分かっているが、どんな格好でも合わせ易いものを選ぶ手はあるだろう。
漠然とそんなことを思っていると、ふと目に留まったものがある。
それは特に目立つ訳でもない紺青のサンダル風のデッキシューズだったが、それを眼にしたその時、僕の心の奥底からある記憶が甦ってくる。
――母さんが亡くなってどれくらい経った時の事だったろうか、僕は父と二人で母さんの遺品を整理していた。
どんなタイミングだったのか細かな事は良く覚えていないが、父が母さんの靴が入っていると思しき箱を開けたところ、中には紺青のサンダル風のデッキシューズと、手の中にすっぽり隠れてしまう位小さな同じ色のデッキシューズが入っていた。
その小さな靴は言う迄もなく僕のものだったし、無論もう一つのサンダルは母さんのものだろうが、何故この二足が同じ箱から出て来たのか分からなかった。
だが父にはすぐに分かった様で、それを手に取ると何かを必死に堪えながら暫く見詰めていたが、やがて歯を食いしばったまま涙を零し始めた。
僕は漠然とした不安に駆られながらもどうしていいか分からず突っ立っていたが、父は何も言わずに僕を強く抱きしめ、そのまま啜り泣いていた。
暫しの後、彼は僕を抱いていた腕をそっと緩めると涙を拭おうともせずにこう言ったのだ。
「これは、お前が生まれて初めて立った時に、母さんとお前にお揃いで買ってあげたものだよ……」
その夜、僕はそのお揃いの靴を抱いて、それを大切にとっておいてくれた母さんに想いを巡らせていた――。
我に返った僕は涙が零れているのに気が付き、ハンカチを探す。
何だろう、こんなに涙を零した事など自分でも記憶に無い位で、今日は相当情緒不安定になっている様だ。
人生の中でこんな一日はもう二度とやって来ないと思えば、それも当たり前なのかも知れないが。
とその時、僕を呼ぶむっちゃんの声が響く。
「仁、仁!」
振り返ると、彼女がこちらに向かって小走りに駆けてくる。
「どうしたの仁! 何かあったの?」
僕の涙の跡を目敏く見つけた彼女は、すぐ傍迄駆け寄って来るなり本来の用事が何だったのかはともかく、それをおくびにも出さずに微かに眉をひそめて唇を軽く尖らせた(とても可愛い)あの表情で問い掛けて来た。
「別に何でも無いよ、気にしないで」
「何でもなくても涙が出る事ってあるの?」
「うん、時にはね……それより何か用があったんじゃないの?」
「それはそうだけど――仁は本当に何でも無いの?」
「うん、大丈夫だよ♪ だからむっちゃんの用事を教えてくれる?」
「判ったわ♪ あのね葉月がね、仁の処に行って靴を買って貰いなさいって言うから――」
「良かった、僕もその積もりだったよ。さあむっちゃんの気に入る靴を探そう」
「嬉しい――けどお金がたくさん出て行くのよね……あたし、お金の事なんて禄に分かって無かったから何も考えずに甘えちゃって……本当に駄目ね、今になって申し訳無くなってるだなんて」
「でもさ、むっちゃんに僕が貰ったのは命だからね。それより高いものなんて知らないよ? だから本当に気にしなくて良いんだよ」
「……ええ、良く判ったけど――でも命の恩人の話はもう言いっこ無しよ」
「ウン、それじゃあむっちゃんの好みを教えてくれる?」
「ううん――そうねぇ……」
そう言いながら、彼女は店頭に並んだ様々な履き物に視線を走らせた。
その横顔を見るとはなしに見詰めていたが、その純粋さに魅入られてしまいそうになる。
(瞳って、本当にキラキラするんだ……)
ところがその感慨に長く浸っている事は出来なかった。
「あの、仁、いい?」
「え、何?」
どうやら、彼女は意外な程早く好みの靴を見付け出したらしい。
「気に入ったやつがあったの?」
「ええ、でもおかしなのを選んでたらちゃんと教えてね?」
「もちろんだよ、で、どれ?」
「あのね――」
言いながら彼女はトコトコと歩いて行き、
「あたし、これがいいなって思ったんだけど……」
と指差して見せる。
(あっ……)
それは他でもないあの紺青のデッキシューズだった。
突然視界がぼんやりして、こちらを見つめるむっちゃんの輪郭がはっきりしなくなる。
彼女の笑顔が優しく慈愛の籠った聖母の様な笑みに変わると共に、辺りは突然夕焼けの公園になり、僕はむっちゃんを見上げていた。
小さな両手を差し上げる僕を彼女はこの上もなく優しい眼差しで見つめ、その差し上げた両手に応えるかの様に手を伸ばす。
僕の心はむっちゃんの胸に抱き締められる幻影で一杯になり、二度と触れる事の出来ないその暖かみに包まれる安らぎと、それが永遠に喪われてしまったという悲しみに支配される。
「――――仁、仁! どうしたの⁉ お願いだから泣かないで!」
我に返ると、彼女が強く腕を掴んで揺す振っていた。
「大丈夫? 何があったの⁉ 訳を聞かせて!」
むっちゃんは涙を浮かべてそう訴えるが、嘗て幼い僕が経験した筈のその幻影(いや――幻などでは無い事位良く分かっていた。これは――そう、追憶と言うべきものなんだろう……)を順を追って話してあげられる程落ち着いてはいなかったし、そんな時間が無い事もはっきりしていた。
「ごめんよ、本当にごめん。何時か話せる時が来たらきっと話すから……」
「……」
僕を見詰める彼女の濡れた瞳はとても純粋な光を放っていて、一時凌ぎの言い逃れや誤魔化しなど到底通用しないだろう。
「突然驚かせたりして本当にごめんね。でも今は時間も無いし、僕もちゃんと説明出来る自信が無いよ……だから今日だけは我慢してくれる?」
「そう…………判ったわ……でも約束よ! 何時かきっとちゃんと聞かせてね」
「うん、約束するよ」
そう言って改めて涙を拭い、サイズを合わせて貰う為に店員を呼んだ。
やって来た店員の目は、あからさまに閉店間際の店頭でいきなり痴話喧嘩を始めたおバカな男女を見る目であり、結構な屈辱だったが、どういう訳かちょっと嬉しくもあった。