陸奥と僕のこと改   作:Y.E.H

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〔第十五章・第四節〕

 胸の中を刻一刻と覆い尽くしていくどす黒い渦に、葉月は必死に抵抗してきた。

(こんなこと位で理性を失うなんて、心の弱い奴だけだわ!)

ところが、現実には『その位』のことのために、心が押しつぶされそうだった。

仁が下した決断は、それこそ彼にとって一世一代のものであり、保護者として、良くやったと誉めてやりたいと思ったのは事実だが、言うまでもなく葉月の本音は別にあった。これだけは、誰にも絶対に知られる訳にはいかないが、彼が陸奥への想いを断ち切って、自分のもとに戻ってくるという選択をしたことが嬉しくて仕方無かったがために、つい、多少のことは目を瞑ってやるなどと太っ腹なことを言ってしまったのだ。

ただ、少々口を滑らせてしまったとは言え、幾らなんでも、精々一、二ヶ月の間ぐらいは十分我慢出来ると踏んでいたのに、ここまで追い込まれてしまうとは、全く予想外もいいところだった。それでも、まさか自分で言い出したことを安易に覆せば、どれほど彼に依存しているのかを白状してしまう様なものであり、それは死んでも無理だと思ってしまった葉月は、とにかく堪えに堪え続けていた。

それに、兄弟姉妹のいなかった彼女にとって、突然出来た歳の離れた妹達の様な初春・子の日の気丈な振る舞いは何ともいじらしく、二人の目の前で陸奥に辛くあたる様なまねはそもそも出来なかったし、なんと言っても、陸奥とは親友になりたいとすら思っていたのだから。

しかし、どんなに言い訳を積み重ねてみたところで、目の前で仁を少しずつ奪われていくのが、これほど辛く身を切られる様な事だと分かっていたら、絶対に口を滑らせたりはしなかっただろう。いくら、陸奥(と、もちろんあのバカもだ)に悪意など欠片も無い事が分かっていても、そんなことは何の気休めにもならなかった。

(もう少し、気遣ってくれてもいいじゃない! なんで、こんな目に遭わされなきゃいけないのよ……)

幼い頃からずっと仁を見てきた葉月にとっては、彼の身に起こった様々な出来事も、全て一緒に体験してきた様なものであり、彼が女性に対して何を求めているかも知っているつもりだった。母親を喪って、一切の感情を亡くしてしまったかのような仁を支え続けたのは自分だという自負もあったし、長じて来るにつれて、自身の容姿が亡くなった彼の母親にとてもよく似ている事に気が付いてからは、髪の長さにも常に注意を払っていた。

にもかかわらず、彼が葉月の中に母の面影を見つけてくれることは無かった。どれほど姿を似せ、手料理を振る舞い、生活の隅々に至るまで世話を焼いても、その気が遠くなる程の努力が、ある日ぽっとあらわれた陸奥の存在そのものにすら敵わないなど、悪夢としか言いようがない。

夕焼けに染まった公園で、号泣する仁を優しく抱きしめる陸奥を見た時、葉月は初めて激しい憎しみを覚えた。

(そこは、あんたの場所じゃない! それは――、わたしがする筈だったのよ⁉)

飛び出して行って思い切り横面を引っ叩いてやりたくなるのを必死で堪えたものの、憎しみの後に襲ってきた屈辱には耐えられず、一人忍び泣いた。葉月の理想の中の彼は、必ずやって来るはずのいつの日かに、自分の中に母親の姿を見出して涙を流すはずであり、その時彼をしっかり抱きしめてこう宣言するつもりだった。

「あんたが失くしてしまったものは、何もかもわたしがあげるわ、だから、一生わたしの傍にいればいいの!」

だが、その夢はあっさりと奪い取られた。しかも、それはよりによって、幼かった仁との思い出が山ほども詰まった公園で起きたのだ。

どれほど彼が陸奥に魅かれていようとも、心のどこかで、自分のことも想ってくれているという期待を秘かに抱き続けてきたのに、それをいとも容易く蹂躙されてしまった今、目を背けたくなるような残酷な未来が、葉月に怒涛の如く襲い掛かってくる。

たとえこのまま陸奥が去ってしまっても、もう二度と、葉月の手で母のぬくもりを返してやるということは出来なくなった。どれほど足掻いてみても、自分が手に入れられるのは、一度陸奥のものになってしまった――言わば、歯形のついた齧り掛けの――仁なのだ。

そう思うと、悔しさの余り本当に気が狂ってしまいそうになり、誰もいない仁の家のキッチンで、陸奥が使っていた食器を粉々に叩き割って(無論の事、綺麗に掃除したうえで、素知らぬ顔でそっくりなものを買っておいたが)何とか耐え凌いだ。

(いい加減にしてよ! どうしてわたしが、こんなメンヘラみたくなってるわけ⁉)

そんな悲痛な叫びが通じるどころか、まるで葉月の七転八倒を嘲笑うかの如く、陸奥は今夜、仁と唇を重ねようとした。真夏の夜、空に色鮮やかな花火が閃く海辺で二人っきりで――という、つい憧れてしまう様なシチュエーションをわざと見せつける様にだ。どうにかギリギリで未遂に終わったようだが、既にそんな些細なことは、彼女にとってどうでもよくなっていた。

(どこまで虚仮にしたら気が済むの⁉ 絶対――、絶対許さないからね!)

ここにきて葉月は完全に抵抗をやめ、全身を荒れ狂う漆黒の濁流に身を任せている。それは、これまでの死に物狂いの努力が馬鹿馬鹿しくなるほど、甘美で心地よいものだった。

(あの人間気取りの、時代遅れのガラクタめ! どうやって、思い知らせてやろうかしら?)

そんなことを考えていると、自然に陰湿な笑みが零れてくる。いっそのこと、ニコニコしながら背中から刺してやろうかとも思う。断末魔の叫びをあげ、血の海でのた打ち回る姿を見たら、どれだけ溜飲が下がるだろうか。

(フン、でも――わたしはそんな馬鹿じゃないからね)

そんなことをすれば自分は犯罪者に成り果て、両親まで破滅させてしまう上に、なんと言っても、仁を命ある限り敵に回してしまうだろう。確かに、陸奥に思い知らせてやりたいのはやまやまだが、それでもなお、仁を失うことだけはどうしても出来無かった。あんな人間もどき風情のために、そこまでの犠牲を払う価値など何もない。

(まぁ、何はともあれ、思い切り傷つけてやるぐらいはしなきゃあね♪ まずは、ぐうの音も出ない位に徹底的に罵り倒して、心をズタズタにしてやることからよねぇ)

そんなことを考えながらニヤニヤしている葉月に向かって、陸奥が話し掛けてくる。

「もうすぐ、葉月ともお別れね……」

(なにセンチメンタルになっちゃってるの、この脳足りんの泥棒猫は♪)

頭の芯までピンク色に染まっているから、全身に真っ黒な瘴気を漲らせている自分に全く気付かないのだろうか。なんとも、滑稽でお目出度い話だった。

「葉月には、なんて言ったらいいのか分からない位感謝してるの……。だから、言葉だけで済むと思ってるわけじゃないけど――、でも、ほんとにありがとう葉月」

やはり、今こそ最高のチャンスだ――そう瞬時に確信した。祭が始まる前から虎視眈々と機会をうかがっていたが、案の定、浮かれている陸奥は自分のことを全く疑っておらず、油断し切っている。このタイミングで突然掌返しをしてやれば、ただ罵声を浴びせるだけに比べたら、比較にならない位にショックを受けることだろう。この恩知らずの盗人は、そのぐらい酷い目にあっても当然なのだ。

葉月は秘かに会心の笑みを浮かべると、たっぷりとタメてから徐に口を開く。

 

 

「――――なんなの、それ?」

「えっ……?」

「聞こえなかったの? 一体、何に感謝してるのって聞いてるんだけど⁉」

「は、葉月、どうしたの?」

「別に、どうもしやしないわよ、あんたが答えられないんだったら、かわりにわたしが解説したげよっか⁉ 今日まで、手頃な男を大事に温っためといてくれてほんとにありがとう♪ お別れの前にきっちり味見していくから、残りはどうぞお好きにしてね♪ って事でしょ⁉」

「な、何言ってるの葉月――、あたし、そんな事なんか全然――」

「へぇぇ大したもんね♪ ぜ~んぜんそんな事考えて無いのにぃ、男がさぁ勝手に寄ってきちゃうのぉ♪ ってか? 何よそれ、盗人にも三分の理ってやつ⁉」

「盗むとかそんな事――、ほんとにあたし、そんなこと考えて無いわ! どうしたら信じて――」

「信じてたのを裏切ったのはあんたの方じゃない! 散々っぱら心配して貰っときながら、裏へ回ってペロッと舌出して人の男に手ぇ出しといて、一体どの口がそんなこと言うのよ、この恩知らず!」

「仁を横取りしようとか、そんなつもりだったわけじゃないわ⁉ でも――、あたしが葉月の気持ちを考えてないって言われ――」

「考えてないに決まってるでしょ⁉ 少しでも考えてたら、こんなこと出来ないわよね普通⁉ それともなに⁉ あたしぃ、まだそういう事よく分かんないからぁ♪ とか言って勘弁してもらえるつもりだったわけ⁉ 都合のいい時だけそうやって使い分けして、美味しいとこだけつまみ食いしてやろうって、下衆な魂胆見え見えなのよ!」

「そんな――魂胆だなんて……」

「じゃあなに⁉ 悪いことしてやろうって考えて無かったら、悪いことしても許されるっていうわけ⁉ ハッ! 随分と都合のいい話しよねぇ⁉ 好き放題土足で踏みにじって、食い荒らしといてから、そんなつもりじゃなかったのぉ♪ とか言ってもオッケーなんだ! 大したタマね~~、そこまで図太いってか腹黒いとさすがにひくわ~~♪ すごーい♪」

 

「――――葉月――、あたし――、なんて言ったら――、なんて謝ったらいいの……? どうすれば――」

 

くだらないことガタガタ言ってないで、とっとと消えなさいよ! 目障りだって言ってるでしょ⁉ 一秒でも早く、わたしの前から消え失せろ、この化け物! なに勘違いしてるんだか知らないけど、百年も昔の鉄屑のくせに、人間にでもなったつもりなの⁉ 調子に乗るのも大概にしなさいよ!

 

実に爽快だった。

思う存分言ってやった! という胸のすくような感じを味わった葉月は、満面に残忍な笑みを浮かべると、涙を湛えて立ちすくむ陸奥を睥睨する。

(フン、なんて芸の無いやつなの♪ ま~た性懲りもなく、お涙頂戴――――――え――、な、なによ……)

それを目の当たりにするのは、おそらく初めてだっただろう。彼から聞いたことはあっても、それが実際に見えたことは一度も無かったからだ。

(なんなのよそれ――――、なんで、そんな目してるのよ……)

陸奥の瞳の奥に見えたのは、底知れぬ、深い深い哀しみそのものだった。それこそ、今の自分の憤慨なぞどうでもいいと感じられるほどの、哀しみに閉ざされた深淵を、陸奥はその瞳の奥底に抱いていた。

(仁が言ってたのは――このことだったの……?)

信じられないことだが、葉月は今初めて、彼の決意の本質を悟った。

それまでずっと、恩義や同情、正義感、それに陸奥に対する好意などが、彼を突き動かしているのだと理解していたし、それ故に、仁が随分と思い切った決断をしたことに、良くやったと誇らしさを感じていたのに、これは一体どうしたことなのか。

(ちょっと待ちなさいよ――、こんなの聞いてないわよ――、いくらなんでも、これ不味いじゃない……)

どう罵ったら陸奥が最も傷つくだろうかと考えてはいたが、この哀しみを見るまでもなく概ね想像はついたので、それをストレートにぶつけてやったのだが、それは余りにも当然ながら、彼女の抱く深い哀しみを真正面から抉りにいったことになる。

 

「――あ、あのね――」

取りあえず、少しはフォローしなければと思って口を開きかけたものの、何を言っていいのか見当もつかないうえに、それを遮る様に陸奥が喋りはじめる。

「葉月、ごめんね――――、ほんとにほんとにごめんなさい……。葉月の言う通りよね――、あたしが調子に乗ってただけだわ……。こんなに葉月の事傷つけてるのに、何にも気づかないなんて、普通の人間だったらあり得ない話よね……、ごめんね、ほんとにごめんね葉月……」

「いや、ちょっと――」

何とか声を掛けようとしたその時、彼女はさっと身を翻し、そのまま夜の暗がりの中へと駆け出して行ってしまう。

 

「――――待ってよ――、わたし、そんなつもりじゃ――――」

 

言い掛けた言葉が、喉の奥で凍りつく。

 

(何言ってるのよ――、そんなつもりだったじゃない……)

 

足元を見ると、彼女が持っていたバッグが落ちている。

自分の使い古しを家から持ってきただけなのだが、陸奥は大層喜んで何度も礼を言い、それ以来とても大切に使ってくれていたのだ。

 

「…………」

 

何か言おうと努力したのだが、突然辞書の頁が白紙になってしまった様に何も出てこず、しゃがみ込んでそのバッグを拾い上げることしかできない。

(なんで――、なんで、こんなことになっちゃうのよ……)

思わず溢れ出た悔し涙が、頬を伝って顎の先に引っ掛かっているのが、例え様もなく不愉快だった。

 

 

「いったい何が起こるって?」

「申し訳ござりませぬ、妾にも説明はしかねまする――。ただ、どうにも胸騒ぎがおさまりませぬ故……」

そう話しながら、三人は急ぎ足で坂道を登っていた。

夜が更け始めているというのに、一向に去る気配も無い炎暑の気が全身を包み込んで、汗を噴き出させる。

初春は、陸奥と葉月の間に良からぬことが起こりそうなので、一刻も早く帰宅すべきだと言うが、何がとは具体的に説明できないらしい。それでも、これまで何度となく、機転を利かせて窮地を救ってくれた彼女の勘を、仁は凡そ手放しで信じていた。

(でも――、確かに葉月なら……)

そう思うと、己の浅慮さに思わず唇を噛む。

やっぱり、自分は葉月に甘えていたのだろうか。

今更ながら、なんと無神経だったのかと悔やみ始めたその時だった。

 

「今の音は⁉」

「足音ではござりませぬか⁉」

「子の日も聞こえた!」

彼らが登っているのとはまた別の坂道の方で、タッタッタッと駆け足の様な音が確かに聞こえたのだ。

(むっちゃん!)

それこそ何の根拠もないが、稲妻の様に彼の脳裏に閃いたのは、確かに陸奥の顔だ。

「仁殿⁉」

彼の心中を察したらしい初春が、問い掛けるように上げたその声に、仁は常日頃見せたこともない様な素早い反応を返す。

ポケットからさっと家の鍵を取出し、初春の手に握らせると、

「ゴメン! 先に帰っててくれる⁉」

とそれだけを言うなり、素早く二人に背を向けて、脱兎の如く駆け出す。

「仁殿! お気をつけて!」

「頑張って、仁!」

彼女達の声援に背中を追い掛けられながら、疾走する仁は、熱く淀みきった夜の闇を切り裂いて行った。

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