ぼんやりとした光と影が、次々と陸奥の周囲を通り過ぎていくが、そのどこまでも不確かで頼りない世界を独り当てもなく駆けている自分は、どうしようもなく無意味な存在に思えて仕方無かった。
(どうだって良いわ――、何もかもどうだって良い事よ――、あたしは今すぐ消えて無くなる方が良いのよ……)
なぜあの時――、全てが始まったその時に、さっさと海底の自分自身のもとに戻らなかったのだろうか。
そうしていれば、こんなことは起きなかったのに――、自分も葉月も、そして自分が存在することで、辛い思い悲しい思いをする全ての者達が心安らかでいられたのに。
(……)
その理由など、改めて問い直す必要は何もなかった。
仁の優しさが、とても嬉しかったのだ。
どうしても彼の傍に居たいと思ったし、彼が居てくれれば、右も左もわからない恐ろしいこの世界が、光と希望にあふれた素晴らしい新世界になると思ったからだ。
(それが葉月を傷つけることになるの位、分かってたはずでしょ⁉)
何が情けないと言って、それがよく分かっていたにもかかわらず、自分でそれ――仁に対する気持ち――を止めることが出来なかったことより他はない。
(なぜ、こんなに――、自分の心の筈なのに、思い通りにならないのかしら)
だが、身体も自分の思い通りになる訳では無い事も、すぐに思い知る。息切れを感じた陸奥は走るのをやめて、息を整えながら辺りを見回す。
街灯の明りに松林がぼんやりと浮かび上がり、その向こうから微かな波音が聞こえていた。これと言って目的地があるわけでもなく、何となくそちらに足を向ける。少し沖合に煌々と明るい島を抱く小さな入り江には、砂浜が広がっており、昼間であれば多くの人で賑わっていたのだろうが、すっかり夜も更けた今は誰も人影がなく、波音だけが飽きることも無く繰返し響いていた。
(この海に出れば――)
自分の船足なら、一日では無理だろうが二日あれば柱島の沖合まで行ける。そこでは今まさに、自分の船体を引き揚げているはずだし、ここに居続けて葉月を苦しめているより、余程ましなのではないかと思う。
(でも――、そんなことしたら心配掛けちゃうわよね……)
真っ先に浮かんでくるのは、どれほど葉月に口汚く罵倒されようが、やはり仁の顔だった。自分が突然いなくなれば、彼がどれほど狼狽して探し回るだろうか。そう思うと、結局そんなことができるとは思えない。
「はぁっ……」
ため息を吐いてしゃがみ込み、足元の砂をぎゅっと掴んでみたが、乾いたそれは握りしめた手指の間をさらさらと零れ落ちていき、手の中にはほとんど留まらない。二度、三度とやってみてもそれは同じで、その如何にも無心な様が、陸奥の心を少しだけ和ませてくれる。
(心が無いって、本当に素直で自然な事なのね)
こんなに辛く悲しい目に合うくらいであれば、いっそ、心の無い鉄屑として海底に横たわり続けていた方が良かったのだろうか? 一瞬そう思いはしたものの、それは仁と出会う喜びを味わうこともなく、静かに海底で朽ち果てていくことを意味するのであり、今の陸奥にとっては到底受け容れ難いことだった。
(でも――それは、葉月を傷つけてしまうのよね……)
思わず背筋が寒くなるような、冷え切った葉月の微笑を思い出し、改めて肩をすくめる。
(あんなに冷たくて怖ろしい顔、見たことないわ)
彼女にとって仁がどれほど大切な存在なのか、今度こそ身に染みて分かった気がする。それを思うと、あと数日のうちに船体の引揚げが終わるというこの状況に、少しほっとしないでもない。とにもかくにも、あとわずかで葉月の憎悪の的である自分はいなくなるのだから。
(とりあえず、このあと、どうしたらいいかしら)
さすがに、仁の家に戻れる気はしなかった。彼女と顔を合わせるなど、今は想像もつかないからだ。
さりとて、もしも黙っていなくなれば、仁がひどく心配するだろう。うっかりバッグを放り出してきてしまったために、今陸奥が持っているのはハンカチとティッシュ位なものだった。連絡を取る手段がない以上、唯一何とか出来そうなことと言えば、この足で訓練隊に向かうことくらいだろうか。海側からいきなり上陸することになるため、ちょっとした騒ぎになってしまいそうで憂鬱だが、今夜であれば中嶋も営内にとどまっているはずで、何とかなりそうにも思われる。
(仕方ないわね)
そう思って腰をあげかけた時、突然けたたましい騒音の様なものが響いて来たので振り返ると、一体どこから入って来たものか、車が一台浜辺に入り込んできていた。
(もうっ、なんて間の悪い――)
一般人の目の前で、艦娘の特殊な能力をさらけ出すわけには行かないし、とりあえず、この場を立ち去るしかないだろう。そう思ってさっと立ち上がると、その妙な車を避けてすたすたと立ち去ろうとするが、いやらしいことに、ひときわ騒々しいエンジン音を響かせたそれが、陸奥の進路を塞ぐ様に前に出てくる。
(くっ、何よ⁉)
曰く言い難い不快感を覚え、向きを変えて車の進行方向と反対側に歩き去ろうとすると、急にばたばたとドアが開き、見るからに人品の悪そうな男達が降りてくる。
「ちょっと待てよぉ、いきなり嫌そうに逃げなくてもぃだろぉ⁉」
「そうだよ~、そんなことされたら傷ついちゃうよオレ♪」
そう言いながら、二人が行く手を邪魔する様に立ちはだかり、残りの二人が横合いから追いついてくる。仁や中嶋らを見慣れている目からすれば、比較にならないほど程度の低そうな、悪感情しか持ちようのない連中だった。
もちろん口をきく気も無いので、無言のままさらに向きを変えてその場を立ち去ろうとするが、追いついてきたどうやらリーダー格らしい男が、ぐっと手を伸ばして陸奥の肩に手を掛けてきた。
「放して⁉」
反射的に手で払いのけようとすると、その手首をぐっと掴まれ、無理やり引き戻される。
「おおっ! なんだよ、すげぇかわいいんべ⁉」
「えっ、マジマジ⁉」
急に男どもの目に下卑た色合いが浮かび、獣のような顔つきになる。ものも言わずに何とか振り切ろうとするものの、力では全くかなわないようでびくともしない。
「まぁそう暴れんなよぉ、ちょっと気持ちいいことするだけだっつーの♪」
「そうだよ~、けがとかしたくないよね~?」
反対側の腕も掴まれ、引きずられるのに必死で抵抗しようとするが、女の体では抗う事すら満足に出来ない。余計な心配などせずに、海上に出ていればよかったと後悔するが、今更どうしようもなかった。なすすべもなく車の方へと引きずられていき、恐ろしい危惧が胸中に湧き上がってくる。
(汚される!)
そう思った瞬間、脳裏に仁の顔が浮かび、彼に縋り付きたいという感情があふれ、言葉が口をついてでる。
「助けて! 仁! 助けて!」
陸奥の必死の叫びを聞いたリーダー格の男は、嘲る様な笑みを浮かべ、獲物を玩弄する肉食動物の様な顔で口を開きかける。
「無駄、むだ――」
ところが、その言葉は途中で無理やり中断されてしまった。
何が起こったのか、とっさには陸奥にも分からなかったが、黒い影の様なものが刹那閃いたように見え、同時にリーダー格の男が勢いよく弾き飛ばされると、どんと鈍い音を立てて車に叩きつけられ、そのまま目を回してしまう。
「うおっ⁉」
突然のことに、慌てふためいた男どもが手を放したと思う間もなく、間髪を入れず新たな手がぐいと陸奥の腕をつかみ、びっくりするほど強い力で一気にその連中から引き離される。
(あっ!)
夢をみているのではないかという驚きがよぎるが、それはどうやら現実に起きているらしい。
今、確かに目の前にある、自分を庇う様に男どもに対峙して立つその背中は、陸奥にとって見間違えることなどありえないものだった。
「仁!」
一瞬彼がこちらを振り返り、にっこりと笑う姿を思い描いたのだが、それはあっさり裏切られる。
「逃げろっ!」
普段の仁からは想像もつかない様な、命令口調の強い言葉が背中を向けたままの彼から発せられ、表現しようのない切なさにも似た感覚が、胸をきゅっと締め付ける。そして、それが切っ掛けになったのか、陸奥の目に映る世界のあらゆる動きが、急に緩慢になり始めた。
こちらに背を向けたままの彼は、陸奥の返事を気にするどころか、振り向きもしないまま再び真っ直ぐに男達に突進していき、浮足立ったその連中も、遅ればせながらその突撃に応戦しようと身構えはじめる。
(仁――――、あたしは――――あたしは――――)
めいめいに腕を振り上げたりする男どもと違って、彼は姿勢を低くして肘を突出し、一人の男に的を絞って体当たりしようとしていた。
(あなたのことが――――あなたが――――)
自分の中に、心と言うものがあるとはっきり意識したその日から、その奥底にずっと残り続けていた氷の様な塊りが融けてゆき、中から一つの言葉が姿を現す。だが、それは意外なほどにありきたりで、既に何度となく陸奥が反芻し続けたものだった。
(あなたが好き!)
全身がじーんという音を立てながら甘い痺れに満たされ、もやもやした様々な感情がことごとく飲み込まれていく。
(こういう事だったのね――――、こんなに――こんなに単純で、当たり前の事だったなんて…………)
その強い実感によって、不可思議な時の呪縛から解き放たれた陸奥は、再び周囲の世界が正常に動き始めるのを感じ取ると同時に、素早く海に向かって駆け出す。
(あたしには、あなたを護る力がある!)
そのまま波打ち際に走り込むと、体を強大な力の感覚が包み込み、何者をも恐れる必要が無くなったことを感じさせてくれる。
徐に足元の石を拾い上げ、改めて乱闘の現場を見定めると、地面に倒れ込んだ仁は、転がりながら男達の足蹴を避け続け、反撃の機会をうかがっているようだが、男達もそれを警戒しているのか、なかなか思い切った攻撃に出ないため、思うように隙が出来ない。
(でも、好都合ね)
手にした石に力を込めると、彼には当たらない様に高い弾道で擲つが、それは魔法でもかかっているかのようにしゅっと鋭い音をたてて不快な夜気を劈き、矢のように飛ぶ。
「ぎぃやぁあああっ!」
今しも、仁を思い切り蹴り飛ばそうとした男が、ひどく耳障りな悲鳴をあげると、肩を押さえて転げまわった。残る二人の男が、一体何事かとそちらを振り返ったその時、陸奥は大声を張り上げる。
「今すぐ、その人から離れなさい!」
まるで雷鳴の様なその響きに、男達は思わず縮み上がるが、それを発したのは他ならぬ、先ほど自分達が乱暴しようとした女であることを見て取ると、驚かされたことに対する下らぬ虚勢なのか、殊更に巻き舌で威嚇してみせた。
「んだとぉ⁉ このあまぁっ!」
そう野卑に呼ばわりながら一人の男が駆けて来るなり、陸奥の顔めがけて拳を繰り出してくるが、その体重の籠ったはずの一撃は、これといったやる気もなさそうに差し上げられた左手で軽々と止められてしまった。
「んなっ⁉」
何が起こっているのか理解できずにいるその男に向かって、にやりと笑って見せる。
「あらあら、どうしちゃったのかしら?」
そう言いながら、片目でもう一人の男が駆け寄ってくるのを見定めた陸奥は、目の前で固まっている男の二の腕を掴むと、紙きれか何かの様にさっと持ち上げ、駆けてきた男めがけて、これまたいとも無造作に投げつける。
「ぅおわああぁっ!」
短い叫び声だけを残して、男は仲間に向かって吹っ飛び、そのまま激突するともつれ合ったまま砂の上を二度、三度と跳ね転がっていく。
「むっちゃん!」
その声の響きが、なんと心地よく感じられることだろう! 今すぐ、彼の胸に飛び込んで抱き締められたいという欲求をおさえられずに、全身で向き直ってそちらに駈け出そうとするが、それがはたと止まる。
「仁! ――なんてひどい怪我――」
駆けてきた彼の顔は、鮮血で真っ赤に染まっていた。
「いや、大丈夫だよむっちゃん⁉」
その声はいつもの優しい彼そのものであり、それは陸奥を心底から安堵させてくれるはずなのだが、今は全くその効果があらわれない。
(よくも――、よくも、仁をこんな目に合わせてくれたわね⁉)
体の奥から、沸々と煮えたぎる様な怒りが湧き出し、全身を浸していく。
「どうしたの⁉」
思わず怪訝な声を上げる彼に向かって、出来るだけ優しい声で応えようとする――が、またも、体が膨れ上がる様な獰猛な怒りが自分を支配していき、それを止めることが出来ない。
「ちょっとだけ待っててね仁、今コイツラ始末シチャウカラ!」
自分で思っていたよりも、ずっと乱暴な声音になってしまったのに気付いてはいるが、どうにも怒りを制御できなかった。件の男どもは、其々によろよろと立ち上がっているが、全員すっかり逃げ腰であり、乗って来た車の方へと集まる気配だ。
(ちょうどイイワ、マトメテ車ごと粉々にしてヤルカラ!)
そう考えながら、徐に腕を上げる。さすがに主砲など撃てば大惨事となり、彼もただでは済まなくなるので、副砲一門だけにしておこう――、いや、それでも仁に危害が及んでは全くつまらない話なので、ここは二十五粍の豆鉄砲で十分かも知れない。
そう考えていると、思いもよらないことに、振り上げたその腕をさっと仁が掴む。
「ナニヲスル⁉」
とっさのことで強い声が出てしまい、慌てて訂正する。
「アッ――、ご、ごめんね仁――、でも、危ないからこっちに来て頂戴」
「駄目だよむっちゃん――、そういう訳には行かないよ」
凛としたその声に、思わずどきりとして彼の瞳を見詰めると、それは暗がりの中にもかかわらず、光を放って煌めいていた。
「なぜ⁉ あいつらは、仁をこんなひどい目に合わせたのよ⁉ それに、あたしにも乱暴しようとしたわ⁉ どうしようもない、ろくでなしどもよ⁉ そんな奴らを庇ってやる必要なんて、どこにあるの⁉」
つい、苛烈な言葉が口をついてでてしまうのは、ひょっとすると、先程自分自身が責め立てられたことに対して、無意識のうちに反発を覚えていたのだろうか? どちらにせよ、自分を助けてくれた仁に掛けるべき言葉でないことは間違いなく、狼狽した陸奥は謝ろうとするが、彼は静かな声でそれを遮る。
「あ、あのね仁――」
「別に良いんだよ、むっちゃん。そんなことよりも、あの連中が生きてる値打ちもないやつらなのは、言う通りだと思うよ。でも、だからこそあんな奴らの腐った血で、僕の大切なむっちゃんの手を汚させるわけには断じていかないよ。お願いだから、我慢してくれる?」
先程の甘く痺れる様な感覚がまた襲ってくるのと同時に、全身に漲っていた怒りの衝動が、まるですーっと空気が抜けていくように萎んでいくのがはっきり分かった。
(嬉しいわ仁――、やっぱり――、あたしはあなたが好き! 葉月にどれだけ詰られても、結局自分に嘘は吐けないのね……)
「分かってくれたんだね、ありがとうむっちゃん」
血まみれの顔でにっこり笑う彼に今更ながら気づいた陸奥は、波打ち際から抜けてティッシュを取り出すと、彼の顔をそっと拭く。最前よりも随分しょぼくれて聞こえる、バラバラという雑音が遠ざかっていき、ひときわ大きなガゴッという音や、それに続くガリガリという耳障りな音も響いてくるが、今やそれは、何の関心も惹かない雑音になってしまっていた。
「ほんとに大丈夫だよ、額をちょっと切っただけだからね。顔の傷って、大きさの割に血がたくさん出るからさ……」
そう言いながら、彼は砂まみれになったボディバッグ(という名前だと教えてもらった)から、子の日の口元を拭くためのウェットティッシュを取り出すので、それを受け取って(というより彼の手から取り上げて)丁寧に拭いて行くと、確かにあまりひどい傷ではないようだ。
「ほらね、大丈夫でしょ?」
そう言って笑う彼は、すっかりいつもの仁に戻っていた。とは言うものの、本当にいつも通りならば彼と手を繋いで家に戻れる筈なのだが、今夜はそれが出来そうにないのだ。
「ほんとにありがとう、仁――でも、あたし――、これから訓練隊に行かなくちゃ」
「――葉月に、何を言われたの?」
「――ごめんなさい、言えないわ……。でも、分かってくれるわよね?」
「大体想像はつくよ……。だけど、悪いのはむっちゃんでも葉月でもないよ――、僕がいけなかったんだ、無神経すぎたんだよ……」
「そんな、仁の所為じゃないわ⁉ あたしが――」
「むっちゃんがそう言ってくれるのは嬉しいけどさ、でも、自分で分かってしまう事に嘘は吐けないからね……。ほんとに情けないよ、どうしてこんなにダメなやつなんだろう……」
「そんなこと言っちゃ厭よ! 仁が駄目なんだったら、あたしだって駄目なはずだわ!」
思わずそう言うと、彼はかすかな笑みを見せ、少し柔らかい声で応える。
「ありがとう――、むっちゃんがそう言ってくれるなら、もう言わないようにするよ、だから、僕のお願いも聞いてくれる? 隊に行くなんて言わないで、今は一緒に家に帰って欲しいんだ」
「そんなの無理だわ――、あたし、どんな顔して葉月に会えばいいの?」
「そんなことにはならないよ」
「どうして?」
「何となくだけど、分かるんだ――、きっともう、葉月は家に居ないよ」
「うそ――、なぜ、そんなことが分かるの?」
「これでも、幼馴染だからね!」
そう笑って見せる彼につられて、つい陸奥も笑顔になるが、今までならはっきりと判からなかった気持ちが、確かな言葉を伴って湧き出て来る。
(これはなに? あたし、葉月に嫉妬してるの?)
そんな風に、あくまでも冷静に自分を観察したつもりだったが、どういうわけか体は言うことを聞いてくれず、思いもよらない言葉が口を衝いて出てしまう。
「――そんなのずるいわ――、あたしだって、仁の幼馴染になりたかったわ⁉」
これまた意識したわけではないのに、口を尖らせて上目遣いに軽く睨んでしまうが、それを見た仁は、困ったようなそれでいてどこか少し嬉しそうな顔をすると、いつもの彼そのものと言った調子で言い繕う。
「いや、幾らなんでもそれは無理だよ~、お願いだからそんなこと言わないでさ、帰ろうよ、むっちゃんの家に」
「――ほんとに? ほんとに、あたしの家?」
彼の優しい言葉を聞きたくて、(これは自分の意志で)もう少しだけ拗ねてみせた。
「そうだよ! たとえむっちゃんがどこに行こうが、あそこはむっちゃんの家だよ」
(好きよ仁――、あたし、その笑顔が大好き……)
嬉しさやもどかしさが綯い交ぜになった様な、曰く言い難い感情が湧き出てきて、それが自然に陸奥を頷かせる。
「――――うん」
「よかった――、さぁ、きっと初春ちゃんと子の日ちゃんも心配してるから、急いで帰ろう♪」
そう晴れやかに笑う彼を、不意に困らせてみたくなり、いきなりその手をつかんで波打ち際に引き寄せる。
「えっ⁉ ちょ、ちょっとむっちゃん、なに⁉」
慌てる彼に有無を言わせず、さっと力ずくで抱っこしてしまう。
「うわっ! まっ、待ってよ、何する気なの⁉」
「うふふ、このままお家に帰るのよ♪」
「いや、そんな無茶な! そんなこと出来ないよ⁉」
「あら、そう無茶でも無いわよ? 川を遡って行けば、坂の下位までは行けるわ♪」
そう言いながら、懐かしいあの日と同じ様に仁を抱いたまま、夜の海へと進路をとる。
「あ、あのっ、あのさむっちゃん? お願いだから勘弁してよ! もし、誰かに見られたら不味いからね⁉」
「こんなに真っ暗なんだから大丈夫よ、きっと!」
「っていうかさ――、すっごく恥ずかしいんだけど……」
「あらあら♪ そんなこと気にしてたのね、仁ったら」
「き、気にするよ!」
愉しげに笑った陸奥だったが、それとは裏腹に――いや、今この瞬間が愉しければ愉しいほど余計に――手の付け様の無い寂しさが胸中に溢れてくる。
(やっぱり、あたしはあなたの傍にはいられないのね、仁……。こんなにも、こんなにも、あなたのことが好きなのに……)
涙が零れ落ち、風に乗ってはらはらと散っていく。
「むっちゃん……」
彼女の様子に気付いた仁も、何かを言いかけてそのまま口を噤む。
このまま、彼と一緒に大海原の彼方に行ってしまいたい。
そして、誰も知らない小さな島で二人で暮らせたなら、どれほど幸せだろうか。
許されない事である位は良く分かっているが、それでも、そう思わずにはいられなかった。