彼の言った通り、本当に葉月は居なくなっていた。
初春らによれば、別れ際の言葉通りに風呂を沸かし始めてくれており、二人には笑顔を見せていたそうだが、それでも何やら忙しげにしていると見る間に、荷物を抱えて二階から下りて来ると、短く暇を告げるなりさっさと出て行ってしまったらしい。
陸奥が放り出していってしまったバッグも、ちゃんと初春に預けられており、どんなことがあろうが、後々負い目になるような瑕は残さないという、彼女の強い意志が目に見える様だった。とは言え、一夜明けたその翌日に、仁が何度も連絡を取ろうとしたものの、全く梨の礫で反応が無く、今どう思っているのかは判らないが、少なくとも気易く接しようというつもりはなさそうだ。
(まぁ、それは当然よね)
おそらく、最後の週末になるであろう休日を四人で一緒に過ごしながら、陸奥は頭の片隅で、葉月と最後の別れをするのは無理なのだろうかと思っていた。
寝る時になって、子の日がどうしてもとせがむので、四人で一緒に寝られるよう、仁とともに客間に布団を敷き、初春・子の日を間に挟んで床に就いた。
夜が更けていき、静かに寝息をたてはじめた二人を挟んで、陸奥は仁と見詰め合い、互いの手を伸ばして指を絡めあう。
自分の気持ちを本当に理解できるようになって、葉月が胸中に秘めていたであろう様々なことが、やっと判り始めたような気がする。もしも、今仁と二人きりであったなら、きっと自分は彼と結ばれたいと願ったことだろう。彼の腕に強く抱き締められ、その肌の熱さと息遣いを直に感じることが出来たならと思ってしまう。
そして、そう思うことによって、葉月もまた同じ思いを抱いているだろうことも初めて理解できるし、自分がそう願うようになることを、彼女が恐れていたのであろうことも判る。
(怖くて仕方なかったのね――、葉月……)
この地上に突然現れた陸奥から見れば、彼女は自信に満ち溢れた存在だったのに、その心の奥底では、仁を奪い取られるのではないかという不安に苛まれ続けていたのだろう。自分という、人間そっくりではあるものの、得体のしれない何かが、唐突に現れたその日からずっと。
(残念だけど、加賀ちゃんの言う通りだったわ――、どう考えても、あたしは災厄そのものよね……)
「そんなことないよ」
「えっ」
知らず知らずのうちに、口に出してしまっていたのだろうか?
だが、どうもそうではなさそうで、彼は陸奥の内心を読み取っている様だ。
「ずるいわ、いつの間に仁まで使えるようになってるの? その――」
「テレパシー?」
「そうよ、それだわ」
「僕もね、知らないうちにそうなってたんだよ……。但し、むっちゃんにしか通じないけどね」
「――ううん、それがいいわ、あたしだけがいいの」
「――うん……」
再び口を噤んだ二人は、絡めあった指に力を入れる。
(神様、もしこの世におられるのなら、今この瞬間のまま、永遠に時を止めて下さい……)
そんな、叶う筈も無い願いは、いつしか微睡の中に紛れていった。
翌朝、訓練隊に到着した陸奥を、愁眉を寄せた斑駒が出迎える。
「おはようございます、陸奥さん……。実はですね――」
なんと、既に葉月がやってきており、陸奥と二人だけで話したいと言っているとのことだった。
「もちろん、陸奥さんが承諾してくれるのであればと仰ってますけど――、どうされますか?」
さすがに返答に窮して仁の顔を見ると、彼はあまり逡巡する風でもなく、卒直に応えてくれる。
「わざわざここに来てそう言ってる以上は、多分、危ない考えは持ってないだろうと思うけどね……。葉月は賢いだけじゃなくて筋の通らないことも嫌いだから、とんでもないバカなまねや非常識な事はそもそも出来ないんだよ。だから、二人きりで会っても大丈夫じゃないかと思うよ?」
「そうなのね……。じゃあ――、話してみようかしら」
「よろしいですか? では、ご案内しますね?」
いささか不安げにしながらも、斑駒は部屋に案内してくれ、ドアをノックして(室内にいるであろう葉月に向かって)声を掛ける。
「塔原さん? 陸奥さんをお連れしましたよ⁉」
「ありがとうございます……」
彼女の声は辛うじて聞き取れる程度で、元気と言うには程遠い。
なおも心配そうにしている斑駒に目礼して見せてから、思い切ってドアを開け、室内に入る。正面に立った彼女は、少し俯いたまま無言で、どうしようかと思ったものの、それらしい言葉が浮かんでこなかったので、やはり無言のまま後ろ手にドアを閉める。
だが、室内に二人きりになっても、葉月はつっ立ったままで動かなかった。
顔もやや俯いたままで、目を合わせることが出来ないために、何を考えているのかも皆目見当がつかない。
(どうしたのかしら、葉月……)
時間が経ち、次第にこのままでは不味いと感じ始めた陸奥は、とにかく何か声をかけてみようと思い直し、口を開きかける。
「葉月、あたしね――」
ところが、話し始めた途端、それでスイッチでも入ったかのように葉月が動き始めた。
何が始まるのかと訝る間も無く、彼女はまるで蹴飛ばすように靴を脱ぎ棄てるなり、なんとさっと床に膝をついて正座すると、そのまま一動作で手と額を床に付けてしまう。
「ちょっ! ちょっと待って⁉ 一体――」
「ごめんなさいっ!」
「えっ――」
頭の中が真っ白になってしまい、一瞬硬直する陸奥を前に、葉月は土下座したままでさらに言葉を続ける。
「あんな酷い事言って、本当に本当にごめんなさい! 許して下さいとか言うつもりはありません! でも――本当に申し訳ありませんでした!」
(葉月!)
硬直が解けた陸奥は、慌てて彼女の傍らに膝をつき、その肩に手を掛ける。
「待って葉月! そんなことしないで⁉ お願いだから頭を上げて頂戴⁉」
「だめっ!」
彼女は、額を床につけたままとは思えぬ程の強い語気で、それを遮った。
「だめって――、どうしてだめなの?」
「――――だって――――、わたしは別に――、カッとなった勢いであんなこと言った訳じゃないもの! むっちゃんが油断してる時を狙って、思い切り言ってやろうと思って、手ぐすね引いてたのよ⁉ こう言えば一番傷つくだろうって言葉まで用意して、不意打ちしたの!」
「…………」
「だから、ダメなのよ! わたしは――そんな卑怯なことした自分が許せないの! だから、こうして謝らなきゃダメなのよ! ダメなの……」
そこまで言った彼女は言葉に詰まってしまい、それでも黙ったまま、手と額を床にぎゅっと押し付けている。
力が入っているのか、手に白く筋が浮き出てぶるぶる震えていた。
(葉月――、やっぱりあなたは――あたしの一番大切な友達だわ)
ふっとため息を一つ吐くと改めて立ち上がり、彼女と同じように靴を脱いで、ちょうど頭の位置が合うように床に正座し直すと、これまた同じように手と額を床に付けて口を開く。
「これまで散々お世話になって来たのに、そんなことお構いなしに、葉月の気持ちを踏みにじる様な事ばかりして本当にごめんなさい。許してもらえるとは思わないけど、それでも謝ります。本当に申し訳ありませんでした」
そう一息に言ってしまうと、後はもうどうしていいか判らなくなったので、そのままじっとしていたが、やがて気配を感じたので顔を上げると、ちょうど葉月も顔を上げるところだった。
二人は思わず、互いの顔をまじまじと見詰めるが、暫くはそれ以外にやることが無い。
しかし、長い沈黙の末に、先に口を開いたのはやはり葉月だ。
「なんで、むっちゃんが土下座してるのよ」
「葉月に言われたこと、その通りだなって思ったからよ」
「じゃあ、仁の事はきっぱりあきらめてくれるの?」
「それは無理」
「何言ってんのよ! ちっとも謝ってないじゃない⁉」
「葉月にひどいことしたから謝ってるの! 仁を好きなのは別よ⁉」
「なによ! 結局、横取りするつもりなのね⁉」
「あたし、彼のこと横取りなんかしてないし、それに独り占めだってしてないわ⁉」
「何、調子のいいこと言ってんのよ! それとも、半分ことか言うつもりなの⁉ この、図々しい戦艦女は!」
「なんて言われようが、好きなものは好きなの! 葉月だって好きなんでしょ⁉」
「当たり前でしょ⁉」
「だったら――素直にさっさとそう言いなさいよ! ――そんなとこに――下らない意地張ってるくせに――横取りだなんだって――何よ――」
「ええそうよ! どうせわたしは――下らない意地っ張りよ――全く――何偉そうに――、一人前の事言ってくれてんのよ――」
そこまで涙声で言い合った二人は、すぐにどうしようもなく泣けてきてしまい、抱き合っておいおい泣き出してしまう。
「ごめんねむっちゃん――、ほんとに、ほんとにごめんね」
「葉月が悪いんじゃないわ――、あたしがいけなかったのよ――右も左も分からないくせに――」
「それこそ、むっちゃんのせいじゃないわよ――わからなくて当たり前じゃない――」
「でも――葉月が傷つくの分かってたはずなのに――なのに――気持ちが止められなくて――」
「そんなの誰だって同じよ――理屈で止められないのは――わたしだって同じだわ」
「そうよ、それを――葉月はちゃんと分かってくれてたのに――それなのにあたし――」
「違うわよ――そもそも、あいつが一番いけないのよ――いつだって、人の気も知らないでふらふらして――」
「そうだわ――思い切り締め上げてやろうって思ってても――なんだかすまなそうな顔されると、つい赦しちゃって――」
「気の弱そうな顔して――わたし達のこと弄んでるのよ――ほんとに、女の敵よあいつは――」
この場に仁が居たなら、それこそ真っ青になっていたことだろう。確かに責任の一端があるとはいえ、いつのまにか、何もかも自分が悪いことにされているのだから!
それからどれ位経った頃だろうか、お互いの服に染みが出来るほど散々泣いた二人は、体を離すとどちらともなくハンカチを取り出して互いに涙を拭い合い、それが一頻り終わると、今度はティッシュを取り出して、みっともなく洟を垂らしたりしていないかと鼻を拭う。
それらを一通り終えてしまう頃には嗚咽もおさまり、椅子もテーブルもあるというのに、床に鳶足で座ったまま、しばし鼻をすすりながら無言の時を過ごした。
やがて、葉月がほうっと長嘆息すると、やや視線を落としながら、憑き物が落ちた後の様なさっぱりした声を出す。
「あ~あ、負けちゃったかぁ~」
「そんなのおかしいわ、負けだなんて」
「どんな風に言い換えたって、結果が変わるわけじゃないわ、負けは負けよ」
「でも――、あたし、葉月に勝ったつもりないわ?」
「だから、負けちゃったんじゃない! あーもう、油断してたなぁ~、あいつの事は何もかも分かってるつもりだったのにぃ」
「それは、間違いないんじゃないの?」
「そーゆーことよねぇ~、だからこそ油断したのよねぇ……。わたし、結構似てると思ってたんだけどなぁ」
「仁のお母さん?」
「そうよ、微かにしか覚えてないけど、素敵な女(ひと)だったのよ」
「きっとそうだったのね――、あんなに泣いてたんだもの……」
「ほんとにひどいわ♪ あれは、わたしがする筈だったのに! あそこまで見事に持ってかれると、ぐうの音も出ないわね♪」
「ほんとにごめんね、葉月……。でも――、とっても――とっても幸せだったわ……」
「――ねぇ、ほんとに、このまま終わりにしていいの?」
「――うん――、そのつもりよ……」
「本気なの? まさか、わたしに遠慮してない?」
「――ちょっと、してるかな♪」
「何言ってるの⁉ そんなこと、絶対しちゃダメよ⁉」
「それは分かってるつもりなんだけど――でも、それだけじゃないから」
「なんでそう、揃いも揃って頑固なのかしらねぇ~、言っとくけど、本当に好きな人のためだったら、例え一生棒に振っても当人はそれで幸せなものよ⁉」
「そういうものなのかも知れないけど――でもね、あたしにはもう一つ選択肢があっただけなの、仁も一緒にそう願ってくれてる選択肢が――だから、それを選んだだけよ♪」
「――わかったわよ――後悔したって知らないわよ⁉ わたし――、取り返しちゃうからね⁉」
「もし、天国から邪魔できそうだったら、してみようかしら♪」
「うわ、性格悪っ!」
「うふふふっ♪」
「うふふふっ♪」
「――そろそろ、仁が心配してるかしら?」
「そろそろどころか、最初っからずっと心配してるわよ♪ しても無駄なんだけど、あいつの場合」
「ほんとにそうよね♪」
さばさばと笑った二人は、立ち上がって軽く汚れを払うと、靴を履いて部屋を出るが、なんと、少し離れたところで斑駒が一生懸命に目元を拭っている。
「いやだ、駒ちゃんたら!」
「すみません――、ほんとに立ち聞きするつもりは無かったんですけど――でも、女同士って良いなぁって思って――それでつい――」
「斑駒さんからも言ってやってくださいよ、この頑固者に!」
「そうですよ、陸奥さん――、お願いですから、たった一言だけ『いや』って言ってください! そしたらわたし、首を覚悟で司令と副長に直談判しますから! っていうか、多分副長だったら、その場で幕僚監部に電話してくださると思いますよ⁉」
「ありがとう駒ちゃん♪ でもあたし、二人で選んだ結末を見てみたいわ」
「――ほんとに良いんですね? 渡来さん、きっとまた見苦しく大泣きしちゃいますよ? いいんですか?」
「いや、駒ちゃん――」
「なんで、そこでサラッとディスります?」
「えっ⁉ あら、そうでしたか⁉ いやついつい――」
「――まぁ、敵が少なくて有難いっちゃあ有難いんですけどね……」
そう言いながら歩いてきた三人の姿を、目ざとく見つけた仁がサッと立ち上がるが、和やかな様子を観て取り、ほっとしたような笑顔を浮かべる。
「あら、ナニ安心したような顔してるわけ?」
「えっ……」
「そうよ、あたし達、結局仁が一番悪いって結論に達したの」
「えぇ――なんで、そんなことになってるの……?」
「いちいち、細かい事言わないの! 家帰ってから、きっちり詫びいれて貰うからね⁉」
「――はいはい、わかりましたよ――」
「は・い・は・い・ち・ど!」
「――――はい」
陸奥と葉月にハモられては、仁に反論するすべなどあるはずもなく、何だか分からない非を認めさせられてしまう。
だが、二人のとても明るい笑顔と引き換えならば、そう悪い取引でも無いとつい思ってしまうのもまた彼だった。
ただ、ここまでで終わっていれば良かったのだが、やはりひと其々に思惑があるもので、高雄が甘く蕩けるような笑顔で近づいてくると、そっと優しく彼の手をとる。
「大丈夫ですよ仁さん、もう少しの辛抱ですからね♪ そうしたら、高雄が一杯よしよししてあげますから」
「――良く分かったわね、葉月?」
「そうね、まずは全力を挙げて叩き潰すことにするわ」
「まぁ、こわい♪ やっぱり、仁さんには包み込むような優しさが必要なんですね?」
「ちょっと! いい加減にしなさいよ⁉」
途方にくれる仁を放ったらかしたまま、なおも言い争いは続くが、それは心和むような暖かさと、一抹の寂しさを感じさせるもので、取り巻く艦娘達も、それを壊したくないというどこか切ない思いを共有していた。
そんな光景を遠くから見た中嶋は、小さく溜息を吐くと、チラリと長門と視線を交わしてから、後ほど改めて出直すべく踵を返した。