わずか数ヶ月前のことだというのに、それは、とても遠い日に起こったことの様に感じられる。
あの日、彼の前に立った陸奥は、眩い金色の陽光を背にして微笑んでいた。
そして今、目の前には再び微笑を湛えた陸奥が佇んでいるが、あの日とは異なり、彼女を縁取る金色の輝きは陸奥自身が発する光であって、しかもそれは、先程より一段と強くなっていた。
間もなく、彼女の全身はこの金色の輝きに完全に包まれ、そして、その時こそが永遠の別れになるのだと、仁は直感的に悟る。
「むっちゃん――――」
その想いが自然に口を開かせるものの、だからといって急に饒舌になれる筈もなく、それきりで言葉は品切れになってしまうが、既に陸奥にとってその位は分かり切ったことらしい。
「あのね、いまさらお礼なんて言うつもりも無いんだけど――、でも――ありがとう仁、どんなに感謝しても、し足りないくらいよ」
「そ、そんなこと言ったら僕は――それこそ、どうやって感謝すればいいのか見当もつかないよ――その――」
「うふふ♪ 言ってもいいわよ、別に」
「あ、う、うん、その――、命を助けて貰った上にさ、その上に――ずっと欠けたままだった、母さんのことだって――」
「――あたし、ほんの少しだけでも、仁がお母さんを思い出す役に立てたのかしら?」
「――――違うよ――、役に立ったとかじゃないよ……。母さんの思い出を返してくれたのは、むっちゃんなんだよ――、君がくれたんだよ、僕がずっと昔になくしてしまったものを」
その言葉を聞いた彼女は欣びに満ちた笑みを浮かべ、その拍子に瞳から大粒の涙が一粒零れると、金色の輝きを閃かせながらふわりと宙に舞う。
「嬉しいわ、仁――ほんとに嬉しい――、この世に神様がおられるのかどうかは分からないけど、もし、誰かがあたしを仁に逢わせてくださったのなら、跪いてその方に感謝したいわ……。だって、仁があたしにくれた宝物は、もう持ち切れないくらいになっちゃったもの」
「そんな――、僕は何もしてあげられなかったのに――、毎日、只々じたばたしてただけで、むっちゃんがくれたものに比べられるものなんて何もないよ」
「でもね――、あたしにとっては、心の底から安心してくつろげる家庭をくれたことも、あたし達の家族をくれたことも、あたしを何よりも大切だって言ってくれたことも、命を貰うことと同じくらいに大事なことだわ……。だからね――、仁に逢えたことが――――いいえ、仁があたしの一番大切な宝物だって、はっきり言い切れるの。だけど――、だから心配にもなるの――、あたしは、仁の一番大切な宝物になれたのかしらって……」
その眼差しにとらえられた仁は、その場から動けなくなり、改めてその潤んだ瞳を真っ直ぐに見詰めたが、そこに映し出されたのは、底知れぬ哀しみの深淵ではなく、他ならぬ彼自身の姿だった。
(むっちゃん――、君は――君は、僕のことを――、こんな、つまらない僕のことを――――)
胸の奥から強い感情が突き上げて来て、そのまま舌を押し上げ、口をこじ開ける。
「宝物だよ! 君は物なんかじゃないけど――、でも、たった一つの――僕の一生で、たった一つだけの宝物だよ!」
今こそ彼は、はっきりと見出す――
自らの言葉が、彼女の胸をうつ様を――
情けない、駄目な奴と思い続けてきた己自身が、
どれほど必要とされているかを――
何の代償も求めることなく自分を愛し、
その愛を、無上の喜びと共に受け入れてくれるその姿を――。
「――ありがとう――ほんとにありがとう…………。あたし、幸せよ――仁に出会えて、本当に幸せよ…………」
陸奥の瞳から、光り輝く金色の結晶が幾つも幾つも零れ落ちては、潮風に乗って舞い散る。
彼女の体から発する神秘的な光は、まるで彼女自身の想いに呼応するかの様に更に強まると、全身に拡がっていく。
「むっちゃん! 僕は、僕は――」
時が迫っていることを意識した瞬間、彼は生まれて初めて感じる激しい衝動に揺り動かされる。
(君が――君のことが――)
喉の奥に、その続きの言葉がせりあがってくるのを確かに感じるのだが、一方で脳裏には、小さく幼い体を震わせながら、必死に耐え忍ぶ子の日の姿がよぎった。
――嗚咽を洩らしながらも、痛切な声を絞り出す初春の姿が浮かんだ。
(そうだ――二人とも必死でこらえていたんだ――自分の気持ちを押し殺して――)
彼女達は、仁と陸奥を家族と呼んでくれた。そして、本当の家族のように彼を支えてくれていた。二人は、ただ家族のためを思って、自らの気持ちを押し殺していたのだ。
(駄目だ、今度だけは絶対に駄目だ――。もう一度、よく考えろ。何のために、僕はここにいるんだ? むっちゃんが――僕の、大切な大切なむっちゃんが、救いを得るためのはずだ。彼女達が――僕にとって同じくらいに大切な家族が、後ろ髪を引いてはいけないと耐え忍んできたのに、今ここで、僕がそれをすることだけは絶対に駄目だ!)
自身にそう強く言い聞かせた彼は、これまで幾度となく勝手な振る舞いを続けてきたその体を、それこそ鋼のような意志の力で引き留める。
肉体は必死で抵抗しようとし、そのために唇は震え、全身の筋肉は強張り、両目からは涙があふれ出すが、それでも、とうとう初めて、彼は己の体を従わせることに成功した。
「――――――僕も――僕も、むっちゃんと――会えて、本当に幸せだよ……。大切な思い出を――、一杯ありがとう――、いつまでも、忘れないよ……」
「仁…………」
たった今まで、幸福を溢れさせていた陸奥の顔からその笑みが消え、何処かしら寂しげな表情に変わってしまう。
彼が必死で押さえこんだその言葉を、彼女は待っていてくれたのだと分かったが、それでもなお、彼は自分自身の手綱を力一杯引き絞って、耐え忍ぼうとする。
(我慢しろ――、これで良いんだ! これでむっちゃんは――むっちゃんは、哀しみから解放されるんだ……。それこそが、望みだったはずだろ――)
人は、人生を過ごす間にどれほどの過ちを犯すのだろうか。
その数は定かでないものの、その中には少なからず、別の誰かから指摘されれば避け得ることもあるに違いないが、現実にその機会を得られる者は、おそらく余りに少ないのだろう。
にもかかわらず、ひょっとすると、仁はその例外的な存在だと言えるかも知れない。
なぜなら、彼が過ちを犯しそうになる度に、正しい答えを知っている女達によって、それは無理矢理修正されてしまうのだから。
急速に沈んでしまいそうな、その場の空気を激しく突き破るように、葉月の強い叱声が大気を切り裂いて飛ぶ。
「ダメよ仁っ! 言いなさい! 一生後悔したいのっ⁉」
「えっ――」
思わず顔を上げた仁に、陸奥が微笑みかける。
「仁、聞かせて――あたし、聞きたいわ……」
恐る恐る振り返ると、葉月が涙に濡れた瞳で、彼をにらみ付ける。
(――分かったよ――今度こそ、良く分かったよ……。
結局――、いつもそうなんだ――、
いつでも正解なのは、むっちゃんと葉月の方なんだって)
溢れだした涙を振り払うように拭い、しっかりと彼女の瞳を見詰める。
そこには確かに、遠いあの日、彼が見詰めた優しい光が――
幼い彼が目にしたはずの、愛に満ちた輝きがあった。
その輝きに応えるために、彼が用意できる言葉は一つしかなかった。
「君が好きだっ! 大好きだっ!」
「あたしもよ――、仁のこと大好きよ……」
彼女の体から漏れ出す光ではなく、
仁の言葉そのものがもたらした喜びによって、
陸奥の
まるで融けた黄金が流れ出すように、
瞳から煌く大粒の涙が幾筋と無く流れ落ちる。
仁は悟った。
今こそが、二人の上に起こった奇跡を完結させるべき時であることを。
この奇跡の瞬間のために、己自身が生まれてきたことを。
遠く幼いあの日に、彼にとって世界の全てであった大切なものを喪ったことも、
それを再び取り戻す、この刹那のためであったことを。
愛するものを力の限りに抱き締め、その甘い唇に触れる聖なる瞬間のために、
彼の命という供物が用意されていたことを。
その、魂が震える様な一瞬のために、
彼ら二人を取り巻く世界の全ては息を潜め、
二人を隔てるものは、潮風や波音すらもその場所を明け渡す。
彼らの腕は、互いを迎え入れるように差し伸べられ、
まるで触れれば泡と消えてしまうかのように、優しく閉じられようとしていた。
「愛してるわ……」
「愛してる――君を愛してる……」
しかし――
仁の唇に触れたのは――
優しい――
この上もなく優しい――
潮風だけだった。
彼女を抱き締めるはずだった――
幼いあの日に喪ってしまった、
彼に惜しみなく与えられるべき愛をもう一度取り戻すはずだった――
その腕は、虚しく空を切り、
自身の腕にぶつかってその行き場を失ってしまう。
金色に、光り輝く姿へと、化身した陸奥は、そのまま、彼の腕を、すり抜けていってしまった。
怖ろしい喪失感と絶望が、荒波のように打ちつけ、立っていられなくなった仁は、自らの両腕を掴んだまま、甲板にがっくりと膝を付く。
(お願い――悲しまないで、仁)
その心の中に、慈愛に満ちた声が響き、はっとした彼は上を見上げる。
其処には、金色の光そのものによって形づくられた、女神さながらの姿をした陸奥が猶予うかのごとく浮かび、愛しむ様な眼差しを注いでいた。
(いつか、きっと――また、会えるから)
胸の奥から、激しい感情が噴き上げてきて、それは言葉となって口を押し開いたのだが、それでもやはり、どうにか彼が口にすることが出来たのは、自らの魂の一部になる筈だった、その愛しい名だけだった。
「陸奥ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅーっ!」
血を吐くような絶叫は、居並ぶ者達の耳を劈いただけでなく、上空の曇天にまるで鋭利な刃で切り裂いたような裂け目をも生じさせる。
その雲間から、眩い光の柱がそそり立ち、陸奥の姿とぶつかり合うと、目を開けていられないほどの強烈な光の爆発を引き起こす。
だが、それは一瞬で終わってしまい、一同が再び目を開けたときには、陸奥の姿も光の柱も、最早そこには無かった。
立ち尽くす艦娘達の頭上からは、金色の光の粒がまるで雪の様に降り注ぎ、彼女達の髪や体に触れては消えていったが、既に仁はその光景を見てはいなかった。
甲板に手を突き、激しく嗚咽を漏らしながら涙を滴らせ、拳に握った右手で何度も何度も甲板を殴りつける。
彼の悔恨なのか――、それとも、襲ってくる絶望に必死に抗い続ける姿なのか――、何度も何度も――、拳に血が滲むのも構わず――、果てしなく叩き続けられる。
それは、彼の命が尽きるまで続くのではないかと思われたが、龍田の両脇から離れた初春と子の日が傍らに跪き、そっと手を添えることでようやく止む。
そのまますすり泣き続ける三人に、葉月が近づき手を添えようとするが、果たせずにそのまま膝を突き、顔を覆って泣き崩れる。
最後までただ一人、気丈に帽振れを続けていた中嶋の手が下がり、がっくりと肩を落とすと、唇を強く噛み締めて俯く。
彼の手から甲板に落ちた帽子がころころと転がり、加賀の足に当たって停まる。
涙に霞む目でそれを見て取った彼女は、身を屈めて帽子を拾い上げると、大事そうに胸に抱き締めて、涙を堪えるかのようにぎゅっと瞼を閉じるものの、なおそれをこじ開けて涙が溢れ続ける。
風の音と、すすり泣く声だけに支配された船上には、無心に、愚直に、動き続ける機械達のたてる物音だけが、静かに響いていた。