〔終章・終節〕
沈黙の呪縛を打ち破ったのは長門だった。
彼女は意識してぐいと背筋を伸ばし、拳を握って涙を拭おうと腕をあげかけたものの、ふとその手を止めるとゆっくり拳を解き、改めてポケットに手を伸ばしてハンカチを取り出し顔を拭う。
そして、自らの斜め前方で啼泣する仁に歩み寄ると、突然非情とも思える声を掛ける。
「仁よ、お前も男子の端くれならば、もう泣くのはやめろ」
これを聞いた仁は、胸中に勃然と怒りが込み上げてくるのを感じたが、どういう訳かそれを抑えようという気持ちが全く湧いてこず、彼には似つかわしくなく、カッとなった勢いそのままに強く言い返す。
「長門さんだって、泣いてるじゃないか!」
「私は女だ!」
この意外な言葉はその場の全員を戸惑わせたが、当の長門自身は何事も無かったように、そのまま言葉を続ける。
「――それに、私の掛け替えのない大切な妹が、目の前で天に召されたのだ――、少しくらい泣いたとしても罰は当たるまい……」
「ずるいよ――そんなの――ずるいじゃないですか……」
彼の返答もまた、これまでの長門に対する様な礼儀正しいものではなく、どこか遠慮のない肉親に対するような口調になっていたが、彼自身が意識してそうしている様には見えない。
「まぁそう言うな、何も悲しむなと言っているのではないぞ? 私はお前に頼みごとがあるから、聞いて欲しいだけなのだ。陸奥が天上に去って、悲しく無い訳なぞあるまいが」
「そうですか……。でも、僕に出来る事なんて雑用くらいですよ――、それに、雑用だったらもう少し後にして貰えませんか? さすがに今は、そんな気分じゃ無いですから――」
「そんな言い方しちゃ駄目だよ、仁⁉」
「仁殿、子の日の申す通りにございますぞ」
泣き顔で懸命に諭す二人をかわるがわるに見た彼は、少し気色を改めて、涙を拭おうと手を上げるが、それが血塗れであることに今更気が付き、一瞬どうしたものかと逡巡する。
とは言え、既に周知の如く、彼が己の行動について自らの意思で存分に迷う余地など、ほとんど存在しないも同然だった。
サッと立ち上がった葉月が、涙で濡れたままのひどい顔でつかつかと近づき、いつもこのために持ち歩いているのだと言わんばかりに、小振りのハンドタオルを取り出して、手際よく彼の顔に手を伸ばす。
「自分でやるよ」
左手でそれを掴んだ仁は、彼女に何かしら小言をいわれるのではと軽く身構え掛けたが、今回はいともあっさりとスルーされてしまう。
彼の背後からは、いつの間にやら救急箱を手にした(これまた涙でグシャグシャの顔のままで)斑駒(娘)が近づいてきており、顔を上げた葉月は至極当然といった態でそれを受け取ると、彼の顔色には全く頓着することなく、さっさとガーゼや消毒液を取り出して手当をし始める。
その様子を見て苦笑した長門は、再び涙を軽く拭うと改めて声を掛ける。
「仁よ、ことほど左様にお前が支えられているのは、やはりお前のその人柄があればこそだと思うぞ。どれ程己を卑下しようが、やはりお前は、我が妹が――陸奥が心から愛した、この世でただ一人の男なのだ。例え片時であろうと、それを忘れて貰いたくはないな」
「――はい――忘れません、絶対に……」
「うむ――、それでは、改めて私の頼みを聞いて欲しい。今ここにいる我が
「そんな大それたことが、僕に出来るとは思えません――、お手伝い位は頼まれなくてもその――」
案の定と言った返答を彼は口に仕掛けたものの、そんなことを葉月が許しておく筈も無い。
「あんた、何言ってんのよ! 出来る出来ないじゃないわ、やるのよ⁉」
「無茶言うなよ⁉」
「まことに無茶だとお考えかの、仁殿?」
腕に手を添えた初春が、その切れ長の瞳で見据えながらそう問い掛けると、彼も思わず言葉に詰まってしまう。
「仁がしてくれなかったら、誰がしてくれるの? 陸奥さんには会いに行けないの? 子の日は、陸奥さんに会いたいよ!」
「あ――う、うん――けどさ――」
それでも煮え切らぬ様子の彼の傍らに、静かに歩み寄ってきた高雄がそっと膝をつき、優しいが有無を言わせぬ口調で話し掛ける。
「仁さんは、私達のために力を貸しては頂けないんですか? そんなことは仰らないですよね?」
「それはそうだけど――、だから、お手伝いはさせて貰うつもりだって――」
「どなたのお手伝いをなさるんですか? 仁さんが、自ら進んではやって下さらないんですか? 陸奥さんは私に、誰かのお手伝いをする仁さんを支えて欲しいと言われたんでしょうか? 私には到底そうは思えませんし、何より、それでは私、陸奥さんに顔向けができません」
「……」
そう畳み掛けられて黙ってしまった仁に、中嶋が歩み寄ろうとすると、それに心づいた加賀がすっと寄り添い、帽子を差し出す。
何も言わずに受け取った彼は、それを規則通りにきちんと被りなおし、その間に顔を拭ってくれる彼女を、拒むことも無く素直に受け容れる。
「ありがとう」
「いいえ……」
たったそれだけの遣り取りだったが、それは言わば、加賀の気持ちに対する彼の答えであったのかも知れない。
「仁君、差し出がましいことを言うようだが、聞いて欲しい」
「あ、はい……」
中嶋の口調は初めて耳にするもので、仁の脳裏にはどうしたことか一瞬父の顔が過り、僅かに戸惑う。
「私は長らく、過ちを犯すことを恐れ、傷つくことを恐れ、それらをいつも未然に回避してきたつもりだった。だが、所詮私は只の人間だったし、その簡単なことに気付くのにも誰かの助けを必要とした。どれほど頑張ってみても、一人の人間がなし得ることなどその程度なんだと改めて思う。君は、そんな大それた事をと言うが、もし君一人でそれを為すつもりでいるのであれば、それこそ大それたことでは無いだろうか。我々がこのちっぽけな頭と体で、限られた人生の中で、なし得る事などいかばかりのものか考えるまでも無い。君がどうしても厭だと言うのならともかく、そうでないのなら我々と共に成し遂げよう。ましてや、彼女達が支えてくれると言うのに、断る法はないだろう」
「そうですよ、渡来さん! ここで肚を据えなきゃ、男が廃るというものですよ⁉」
斑駒が両手を握りしめて呼びかけると、船長は少々居心地の悪そうな笑みを浮かべる。やはり、どんなに嫌ってみても、斑駒父娘は親子なのだった。
暫しの沈黙が流れ、雲の切れ間から陽光が降り注ぎ始めると、濃い潮の香りを帯びた風が一同の髪や袖をはためかせる。
その風に背中を押されたかの様に、膝をついていた仁が立ち上がり、同じく立とうとする初春と子の日の手をとって支える。
「仁!」
「仁殿」
見詰める二人に頷き返した彼は、改めて顔を上げると長門を顧みる。
「わかりました、長門さん――、どれほどのことが出来るのかわかりませんが、僕が出来ることは、全てやってみようと思います」
「そうか! ありがとう――、心から礼を言うぞ、仁よ」
穏やかな笑みを浮かべた長門と視線を合わせた彼は、少しだけ口元に微笑を見せ、再び口を開く。
「ですが、一つだけ、僕のお願いも聞いて頂きたいんです」
「ほう、どんな願いなのだ? 私にできることなら、何でも言ってくれ」
「はい、それじゃあ――」
視線を前方に戻した仁は、今や、大半が海上に現れつつある陸奥の船体を見詰めながら、こう応える。
「――それが、一体いつになるのかは分かりませんが――、でも、もし最後の一人がこの地上を去るときに、まだ僕が生きていたなら、その時は――――その時は、僕も連れて行って欲しいんです。――皆さんと一緒に……」
むせ返るほどの濃い潮の香りを孕んだ風が、彼のその言葉を長門の――そしてもちろん、その場にいる全員の――耳へと運ぶ。
一瞬、時がその場で凍りついてしまったかのように、言葉に詰まった長門だったが、やがて力を込めて腕を組むと、静かだが強い声を出す。
「わかった――、この長門、我が名にかけて必ず約しよう」
彼女がそう言い切るのと同時に、仁の手を握った初春と子の日の手に、ぎゅっと力が籠もる。
傍に立っていた高雄が、何か言おうとして口を動かし掛けるが、にわかに両手で口元を覆い、感情が溢れそうになるのをこらえる。
視線を感じて振り返った彼を、葉月が強いまなざしで見詰め返してきたが、不思議にプレッシャーを感じなかったので、(たいへん珍しいことだが)微笑み返すと、少し上目づかいになった彼女は、声を出さずに口だけを動かして見せた。
(ごめん――――葉月)
上空では更に雲間が広がり、青空が見え始めていた。
(こんな時、本当に青空の向こうに顔が浮かんだりするのかな)
だが、それもまた当然のことながら、青空に陸奥の笑顔が浮かんだりはしなかった。
(でも、見ててくれるよね――僕に一体何ができるのか……)
そう思ったその時、
濃厚な潮風が瞬きするほどの間ふっと途絶え、
優しく懐かしい潮の香りにふわりと包み込まれるのを、
彼ははっきりと感じた。
「陸奥と僕のこと改」、これにてひとまず完結します。
長らくのお付き合い、ありがとうございました。
Y.E.H