翌朝の目覚めはお世辞にも早いとは言えなかった。
特にこういう時に真っ先に起き出す筈の葉月が起きて来ないのは稀有の事態と言える。
(こんなの、初めてじゃないか?)
仁はそう考えながら朝食の用意――と言っても、昨日買っておいたパンを温めて紅茶を飲みたがる葉月のために湯を沸かす位の事だが――をいそいそとしていた。
正直なところ真っ先に陸奥の様子を見に行きたいのだが、さすがに葉月がいるだけに躊躇ってしまう。
もちろん二人を起こしに行ったのだと言う位は簡単なのだが、その程度では彼女をごまかせる訳が無い。
そんな風に彼が逡巡している内に、気持ちが伝わったのか否か陸奥が一人で起き出してキッチンにやって来てくれた。
「お早う、仁」
「お早う、むっちゃん、昨日は良く眠れた?」
「ええ、起きたら葉月が横に寝ててほっとしちゃったわ」
「夢は見なかった?」
「そうね、昨夜は仁は頭を撫でてくれなかったわ♪」
「ハハハ、それは申し訳無かったね♪ 次からは言ってくれたらちゃんと撫でに行くよ」
「ふふふ、そうね、ちゃんと頼んでおかないとね」
「それにしても葉月はまだ寝てるの?」
「ええ、本当に静かに寝てるわ……ああ言うの何て言うんだったかしら?」
「すやすや――って感じ?」
「そう! そのすやすやよ、昨夜からずぅっと」
「へぇ~、葉月がそんなに良く寝てるとはね……まぁでも起きてくれないと洗濯物が片付かないし、後で起こしに行くかぁ」
「洗った服を畳むの? あたしが手伝ったら出来る?」
「量が多いっていうより問題なのは葉月の下着とかなんだ。これは僕とむっちゃんで――って訳にはいかないからねぇ」
「仁は葉月とその――長い付き合いなんでしょ? 下着を畳んであげたらダメなの?」
「それをしても不自然じゃないのは実の家族か夫婦位だよ。僕はどっちでも無いからねぇ」
(第一、そんな事したら葉月の思う壺だよ)
という言葉は口には出さずにそのまま飲み込む。
「そう言うものなの? ……でもそれじゃ仕方無いわね♪」
彼の言葉を聞いた陸奥は、どういう訳か少し嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「あら? なぁに、このとってもいい匂い!」
「昨日買っといたパンを温めてるんだよ。むっちゃんは野菜ジュースでいい?」
「野菜――なに?」
「野菜を摺ったりして絞った汁――って言ったらいいかな? 昨日の天然水やお茶に較べると大分濃い飲み物だよ」
「あたし、飲んで見たいわ」
「じゃあ僕の何時もの朝食セット、パンと野菜ジュースをどうぞ」
「うふっ、有難う♪ でも頂きますする前に葉月を起こしに行くのね?」
「そうだね、起こして来るよ……いや、やっぱり一緒に来てくれる?」
「ええ、良いわ」
二人は客間の引き戸の前に立つ。
「むっちゃん、開けて様子を見てくれる?」
少々大袈裟かも知れないと思いながらも、仁はすっかり用心深くなっている。
意図を感じ取った陸奥も、含み笑いをしながらそっと戸を開けて中の様子を覗くが、すぐに彼の方を振り返って笑いかける。
「仁、見てあげて♪」
「?」
彼女に促されて仁が部屋の中を覗くと、葉月はまだすやすや眠っていた。
しかも彼が知っている限り葉月は非常に寝相がいいはずだが、今は枕をきゅっと抱き締めて仔猫よろしく丸くなって布団に包まりスースーと寝息をたてている。
(うっ……)
予想というか用心していた方向を大きく外された彼は、少々面喰らい戸惑ってしまう。
「ねぇ仁、こういうの何て言うんだったかしら? その――ええっと――」
「……」
「――うう~んと――ねぇ、教えてよ仁」
「――か――」
「か?」
「か――か――」
「か、か?」
(ダメだ! 確かにそう言うしかないんだけど……でも言いたくない!)
「どうしちゃったの仁? そんなに難しい言葉なの?」
「いや、そうじゃないんだけど――その……」
「じゃあ、教えてよぉ『か』何て言うの?」
「――か、か、か、――か――」
「もうっ焦れったいわね! 素直に『可愛い』ってさっさと言いなさいよ⁉」
「起きてたの、葉月⁉」
「全く! 明るいしっかりもの女子のやたらに可愛い寝相とか、ギャップ萌えするのが当たり前ってもんでしょ⁉ 何でこう素直じゃないのかしらね~」
「???」
「てか自分で言うか? 普通……」
「仁が言うべき科白ちゃんと言わないからわたしがフォローしてるんでしょ!」
「なに? 何? 今のは二人のお芝居だったの?」
「いや断じて違うからね! 葉月もむっちゃんが混乱するから口から出任せはやめろよ~」
「出任せなんかじゃないわ⁉ むっちゃんだってニュアンスは正しく理解してるわよ!」
「あぁはいはい……朝飯用意してるからさっさと来いよ」
「紅茶は?」
「貰い物のティーバッグあるしお湯も沸いてる」
「ほらね! ちゃ~んと通じ合ってるでしょ?」
「そ、そうなの?」
「むっちゃん、気にしないでいいから早くおいでよ」
朝一番から、またしても葉月のペースに乗せられてしまった。
全く油断も隙も無いとしか言い様が無いものの、常日頃ほど不愉快な気分にならないのは何故だろうか?
(むっちゃんが、何となく和んでるからなのかなぁ)
あまり深くは考えずに、彼は冷蔵庫から野菜ジュースを取り出した。
そして朝食の後、彼らはそのまま食卓で色々と気になっている事について(やっと少し落ち着いて)話し合う。
「やっぱり、むっちゃんだけが特別って考える方が無理があると思うなぁ」
「そんなの当たり前よ。でも、だとしたら他の軍艦はどうしたの? わたし達は他でもない呉周辺をウロウロしてたのよ? あの辺りで沈んだり、停泊したまま終戦を迎えたのは1隻や2隻じゃ無かった筈でしょ?」
「うーん、ひょっとしてさ、現に今沈んでる事が肝心なんじゃないかな?」
「あ……」
陸奥の反応に仁と葉月は同時に振り返る。
「どうしたのむっちゃん?」
「何か思い出したの?」
彼女は少々困った様な顔をしながらも口を開く。
「どう言えばいいのかしら……ちょっと自信が無いんだけど……多分仁の言ってる事が正しい筈……よ?」
「本当に? でも何故そう分かるの?」
「あたしもそれを説明出来たら良いんだけど……何故だか知ってるとしか言い様が無いの……」
不思議な話には違いないが仁と葉月には免疫が出来つつある様で、何となくそういうものかと受け容れてしまえる。
「他に知ってる事とか何かあるの?」
「そうね……例えば船の天国とかかしら」
「何なのそれ……何だかまたちょっと毛色の違う響きよねぇ」
「そんな怪しげな話とかじゃないわ、只寿命を全うして解体された船は天国に行けるっていう話しよ。何で知ってるんだって言うのは――同じくだけど……」
「沈んだ船は?」
「一度沈んでも、引き揚げて貰ったりすれば天国に行けるわ――って言うか多分その筈だって言う意味よ」
「つまり呉周辺で沈んだ船は、戦後に引き揚げられてるから皆天国に行ったって事?」
「ええ、もし引き揚げられたのが本当だったらそうなんじゃないかしら?」
「じゃあ、むっちゃんは――」
「引き揚げ作業が本格的に始まった時ね、これであたしも天国に行けるって思ったの。でも途中で終わってしまって……だからあたしは天国に行き損ねちゃったんだってずっと思ってたわ……」
彼女の溜め息にも似た悲しげな呟きを聞いて、仁は思わず目頭が熱くなって来る。
(一体むっちゃんに何の罪があるって言うんだ! こんな理不尽な目に合わなきゃいけないなんて)
と憤りかけたものの、その怒りは眉間に炸裂した葉月の非情なチョップで粉々になってしまう。
「な、何すんだよ!」
「それはこっちが言いたいわよ! いい加減にしなさい! 昨日からおかしいわよ⁉ 何かって言うとやたらボロ泣きして! あんたがそうやってメソメソするからむっちゃんが悲劇のヒロイン見たくなっちゃうんでしょ⁉」
「えっ――」
毒気を抜かれた態で彼が改めて陸奥を見ると、彼女は二人の顔を見ながら苦笑している。
「あれ……」
「分かった⁉ 今度から泣く時は事前にわたしの許可をとる事! いいわね⁉」
「無茶苦茶言うなよ!」
「んふふふふっ♪ もし許可が貰えなかったら泣いちゃいけないのね、仁は♪」
「むっちゃん勘弁してよー」
「でもやっぱり仁は優しいのね、有難う」
「優しい位しか取り柄が無いんだから当たり前よ!」
「あら、酷い♪」
彼女達は顔を見合わせて楽し気に笑う。
(ちぇっ、でもまぁいいか……)
仁のプライド的には全く納得行かない処だが、二人がこれ程短時間で仲良くなってくれたのは彼にとっても願ったり叶ったりだった。
「でも凄いわよね今の話! むっちゃんは船の格好してる時からそんな事考えてたって訳でしょ?」
「それも良く分からないわ……だって今のあたしはそんな風に考えられるけど、船だった時のあたしがそう思ってたのか今思い出すからそう思えるのか、どっちだか区別できないもの」
「そうかぁ、自分の身に起こった事を思い出すのは出来ても、その時の自分には意識とか感情があった訳じゃ無いからなんだね」
「何か想像もつかない状況よねぇ~、無生物から生物になる境目見たいな感じ?」
「正直に言うけど答え様が無いわ……。でも今は余り厳密に切り分け様とは思ってないの、あたし一人で答えが出せる訳じゃないし」
「それはそうね、謎解きはもちろんだけど、一体何がどうなってるのかだけでも分かるためにも、まずは同じ境遇の仲間を探し出す事が先決よね」
「闇雲に探し回る訳にも行かないし、取り敢えずはネットであれこれ検索して見る事からかなぁ」
「まぁそんなとこかしら。いきなり警察やら海上警備庁やらに電話してもイタ電扱いされるのが落ちよね」
「あたしは何をすれば良いの?」
「買い物かしらね」
「へ?」
「??」
「何そんな顔してるわけ? 昨夜のたったあれだけで当面の要るものが揃った積もりなの?」
「まぁそう言われれば確かに――」
「だからむっちゃんはあたしと一緒に買い物よ、昨日買った服と靴でね♪」
「で――まさかその――」
「頑張って検索しててね♪ 丸一日頑張れば何か手掛かりが見つかるんじゃないの?」
「一日中……」
葉月の非情な言葉に彼は酷く打ちのめされ、見兼ねた陸奥が一生懸命助け舟を出そうとする。
「仁、やっぱりあたしも何か手伝うわ?」
「無駄よむっちゃん! ネットで検索するのに手伝える事なんて何も無いから」
「そうなの?」
「残念ながらその通りだよ……はぁ~」
「ねぇ葉月、何とかしてあげられないの?」
「仕方ないわね~、ちょっと甘やかし過ぎの様な気もするけど――仁! 今日の晩御飯はオムカレーにするわよ⁉」
「!!」
「おむ――カレー? どんなカレーなの? 仁は知ってるの?」
「カレーを掛けたオムライスだよ! 葉月のは本当に最高だよむっちゃん!」
「ほらむっちゃん聞いたでしょ? 葉月は最高だなんてもう照れちゃうわ♪」
「そ、そうだったかしら? あ、あたし良く聞いてなかったから――」
「いや、何度も言うけどさらっと流していいからね、むっちゃん」
「……ええっと――あの、葉月? あたし、お出掛けの準備とか何したらいいの?」
「そうねぇ、もう暫くは仁のお手伝いでもしててくれる? わたし、ちょっと家に戻って来るから」
「葉月の家に?」
「歩いてすぐなんだよ。塔原家秘伝のルーを取って来るんだろ?」
「それもそうだけどそれ以外にも色々取って来る物があるから。一時間位で戻るからね」
「判ったわ、仁、まずは朝御飯の後片付けでいい?」
「そうだね、ささっと済ましちゃおう」
「洗い物溜めちゃダメよ!」
「はいはい分かってますよ~」
「はいは一度よ! もうっ」
「うふふふふっ♪」