それは実際には一秒にも満たない僅かな時間だった。
辺りが静寂に包まれたその次の瞬間、間髪を入れずに葉月が喋り始める。
「中嶋副長? まだ聞いておられますか?」
「ええ聞いておりますが――貴方は?」
「塔原と申します。お願いです、もう少しだけ話をさせて頂けませんか?」
「……そうですね、それでは塔原さん、もう少しだけ伺いましょう」
「有難うございます。まずは渡来が失礼な物言いをしました事をお詫びさせて下さい。本当に申し訳ありませんでした」
「分かりました。その事についてはこれで忘れることに致しましょう」
「感謝致します。ですがお詫びするのはその件に付いてだけです」
「ほう――と言われますと?」
副長の声の調子が先程と変わった事に陸奥は気付き、仁の顔を見たが彼は唇を噛んだまま俯いており、顔を上げない。
「渡来の口の利き方が失礼だったのでお詫びしましたが、言っている事自体には全く異存無いからです。もちろん謝れだとか申し上げる積もりは何も有りませんが、発言を訂正するか撤回して頂きたいと思っておりますので」
「どういう事でしょうか? 陸奥さんの身元を証明出来る何かが有るのですか?」
「そんな物がそもそも存在しない位、副長は良くご存知の筈です。にも関わらずあの様な言い方をなさったのは、嘘を吐いている相手に対する態度に他なりません。そこがまず訂正して頂かなくてはならない点です」
「成程」
「次に、本物かどうかを証明する事には実質的に意味が無いのもご存知の筈なのに、さもそれが問題であるかの様に仰った事も訂正して頂く必要があります」
「どういう意味でしょうか? 私には少々分かりかねるのですが?」
「単刀直入に申し上げますが、私と渡来はここにいる陸奥さんの言わば人智を越えた特殊な能力――例えば水面にアメンボか何かの様に両足で立ってそのまま相当なスピードで移動出来る事等を目の当たりにして知っています。この様な特殊な能力を有していること自体が、そもそも本物かどうかなどと言うより重要な事ではありませんか? そして当然ながら、そちらに保護されているであろう龍田さんも同様に特殊な能力を有していることをそちらの隊の皆さんは良くご存知なのではありませんか?」
中嶋副長はすぐには答えず、数秒間の沈黙が流れた。
「……それに付いてのコメントは差し控えましょう。ですが塔原さん? もし仮に貴方の言われる事が正しいとしてですが、それでも我々が貴方方の要望には答えられない、或いは協力出来ないと表明することに何らの障害も無くまた義務も無いと思いますが、その辺りの認識は如何ですか?」
さすがに今度は彼も顔を上げて陸奥の顔を見る。
もって回った言い方ではあるが、暗に自分達が何か知っていることを認める様な物言いなのだ。
ところが、葉月は取り澄ました様子を改める風でも無くそのまま話を続ける。
「はい、それはもちろん仰る通りです。ですから私達もその場合には諦めて自力で何とかする方法を取らなければならない――と思っています」
「ほう――と言うことは何か方法を考えておられると言う事ですか?」
「はい、余り気は進みませんが確実と思われる方法を考えてはおります」
仁と陸奥は顔を見合わせる。
言う迄も無くそんな相談はしていないし、葉月の考えを聞いたことも無い。
「そうですか――、差し支え無ければその方法をお伺い出来ますか?」
「特に難しい事ではありません。わたし達に必要なのは出来るだけ多くの人の目に触れる広い水面ですが、神奈川や東京の周辺には人出の多い海岸線や水辺はどこにでもありますので、それで困る程のことは無いでしょう」
「……それで?」
「その様な休日の水辺に出掛けて行きます。駄目元で事前にマスコミ等に連絡しておいても良いかも知れません。もし取材にでも来てくれればしめたものでしょう」
「……」
「人出が最高潮になる頃を見計らって陸奥さんの特殊な能力を群衆の前で披露します。もちろん大騒ぎになるでしょうし、多くの人が動画や写真を撮ってネット上に自由にアップするでしょう。そこでそれらを通じてこう言います。『私達は艦隊の仲間に会いたいのです! どうか皆さん私達を助けて下さい!』と。恐らくそれ程長い時間は掛からずに続々と情報がもたらされるでしょうし、本当に艦隊の仲間に会えるのも時間の問題だけだろうと思っています」
「成程……。恐らく貴方の言う通りでしょうね。でも無視出来ない弊害もありませんか?」
「はい、間違いなく私達のプライベートなど無いも同然になるでしょうし、面白半分の人達に際限なく振り回される事になるのは多分間違い無いでしょう。その点は私も甚だ気が進まないのですが」
「それでもなおそうする積もりなのですか?」
「はい、私が幾ら反対しても渡来は必ずそうする筈です」
「それは何故ですか?」
「渡来は陸奥さんに命を助けられました。命の恩人の為にはどんな事でもする積もりでいます。多分躊躇うことなく実行するでしょう。憂鬱な事ですが……」
そう言って聞こえよがしに大きな溜め息を吐いて見せる。
仁と陸奥は呆気にとられてしまい、ぽかんと口を開けて彼女を見るばかりだったが、当の本人は澄ました表情のまま至って平静なものだった。
何のことはない、葉月のやっている事は体の良い恫喝である。
協力してくれ無いならバラしちゃうぞ! と言うだけに止まらず、仁を上手に出汁にして自分達が本気であること迄念押しした上に、さり気無く連絡をするに至る経緯まで言及してその本気さ加減をアピールしている。
(ダメだ、どう考えても勝てる気がしない……)
唐突に仁の脳裏にちらついたのは、純白のウェディングドレスを纏いお得意のあの笑顔を浮かべる葉月だった。
彼がどれ程必死で抵抗しようが、ことある毎に思い知らされるのはその圧倒的な実力差であり、この未来はますます避け難いものとして迫ってくる。
しかしながら、彼がまさかそんな事を妄想して凹んでいる等とは思いもよらない陸奥は只々、
(仁ったら、一体どうしちゃったのかしら?)
と訝しがるだけだ。
そんな彼らを余所に、電話の向こうの中嶋が再び喋り始める。
「……いや良く分かりました――と言うより正直に言いますが塔原さん、貴方には参りました」
中嶋の声の調子は最初とは全く違うものになっていた。
柔らかく、温かみを感じさせると共に誠実さをも漂わせている。
(ちょっと、仁に似てるわ)
先程陸奥に冷たい言葉を浴びせたのが同一人物とは思えなかった。
葉月が指摘した通り、わざと厳めしい態度を取っていたのだろうか。
「恐れ入ります。それでは私達の疑問に答えて頂けるのでしょうか?」
「さすがにこの場での即答は出来かねますが、でも何とか出来る様に取り計らう積もりです。ですから少し時間を貰えますか?」
「分かりました」
「それよりも小官にはしなければならない事も有りますしね」
「と言いますと?」
「済みません、陸奥さんはまだそこにいらっしゃいますか?」
「あ、はい」
「陸奥さん、先程は貴方を侮辱する様な事をしてしまい、たいへん申し訳ありませんでした。電話で済みませんがお詫びさせて下さい」
「い、いえ、そんな――私はもう気にしておりませんから」
「有難うございます。小官にも少しだけ釈明させて頂けませんか?」
「もちろんです! どうか仰って下さい」
「実は、この数日間に興味本位の問い合わせが数十件、自分或いは知人が軍艦だと言う電話も十件以上架かって来ています。昨夜架かって来たのは自分は超戦艦スサノオだと名乗る男性でしたね。架空戦記の読み過ぎとしか思えなかったですが」
「そんな戦艦聞いた事も有りません。それに男性ですか――」
「ええ、ですから貴方々のお電話もまたか! と思ってしまったのは事実です。もっとも渡来さんが本気で怒り出した時はさすがにおやっと思いましたが」
「仁は――いえ、渡来さんは私を庇おうとしてくれたんです。決して副長を愚弄しようとした訳ではありません。それは分かって頂けませんか」
「もちろんです、先程申し上げた通りそれはもう忘れております。ただ、それはそれとして渡来さんにもお聞きしたい事が有りますので――済みません渡来さん? 改めて貴方とお話し出来ますか?」
「中嶋副長――さっきはつい頭に血が上ってしまって……本当に申し訳ありませんでした」
「いいえ、それよりも陸奥さんへの小官のお詫びは十分だったでしょうか?」
「彼女が良いと言うのであれば、私から注文を付ける積もりはありません」
「それはホッとしました、一つお聞きしても良いですか?」
「ええ、どうぞ」
「貴方は陸奥さんに命を助けられたと伺いましたが本当ですか?」
「はい、私は数日前に柱島沖でフェリーから海に落ちてそのまま命を落とす処でした。でも陸奥さんが私を助け上げて海岸迄運んでくれたんです。今の私の命は彼女から貰ったものです」
「そうでしたか――、いや納得しました、貴方が本気で腹を立てたのももっともなことです。本当に失礼をしてしまいました」
「い、いえ、先程のお話でご事情は良く分かりましたし――。それに私は陸奥さんが艦隊の仲間と再会出来さえすればそれで良いんです。どうかよろしくお願い致します」
「分かりました。小官から改めて連絡しますので、出来れば携帯の番号を教えて頂けますか?」
「はい、よろしいですか? ――」
彼が番号の遣り取りをしているのを、陸奥は不思議な気持ちで見詰めていた。
彼女にとって、仁と葉月以外の誰かとの本格的な意志疎通は初めてだったが、それは緊張、困惑、激情、安堵といった感情に目まぐるしく振り回される体験だった。
(人間って、思ってたのよりずっと複雑なものなのね)
彼女が知っていた海軍の男達もこうだったのだろうか?
「――何時迄にとは確約出来ませんが出来るだけ早く連絡します。それ迄待っていて下さい」
「よろしくお願いします」
仁と葉月が声を揃えたので、陸奥も慌てて声を合わせる。
「それでは、一旦失礼します」
カチャリという音の後に小さなプツッという音が続き、それから後はツーッ、ツーッという音が三人の間に鳴り響いていた。
(どうやって止めるのかしら)
陸奥がそう思っていると、横から葉月がそっと手を伸ばして、赤い絵の付いた小さなボタンを爪の先で深く押し込んだ。